補遺10 我が国の階級の起源について
「天孫族考」補遺10 我が国の階級の起源について
今の憲法下では、階級とか身分差はなくなった。しかし江戸
時代までは、“天皇公家〜武士〜庶民(百姓商工民)〜奴婢”と
いう階級が存在した。明治は過渡期であった。
この起源は上古にまで遡る。
だが、縄文時代から弥生時代の前半頃までは、わが国土には
階級差というほどの身分の違いはなかったという事が、遺跡
発掘の成果から推定されている。階級が登場したのは一般的に
は古墳時代以降と考えられている。
しかし、私が日本の階級の起源を考察したいと考えたのは、
単に古代ヤマト王権の成立に関わる要素があるからだと考えた
だけではない。「後漢書」に載る九州の奴国の王が、“生口”を
貢物にしたというのだが、この生口は奴隷なのかどうか?
それによって奴国の発展段階や、奴国王の出自の推理ができる
のではないか?と思い付いたからである。
もし生口が奴隷の事だとすれば、倭の奴国や邪馬台国は既に
階級社会に入りつつあると考えねばならない。
著しい身分差が推理されるのは、ヤマトの纏向遺跡や、肥前の
吉野ヶ里遺跡辺りからであろう。
そこには支配者がいた!と思われる特別な区画の痕跡がある。
学校教育での“階級の始まり”
そこで先ず、階級とはどの様に生じるものかを考察してみる。
階級の起源について、今の学校教育では、次のように教わる。
先ず一例として、
学研教育情報資料センター「社会 学習相談」
小/社会/6年/日本の歴史/弥生時代/理解シート
を挙げてみよう。次のように記述されている。
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弥生時代には、なぜ身分の差ができたの?
→米づくりの発展が、富の差を生み、それが身分の差になって
いったのだよ。
●米づくりの発展が、富の差を生んだ
弥生時代には、木製のくわ、鉄製のかま、石ぼうちょうなどの
農機具がつくられて、米の生産量が増えました。その生産量が、
1年間食べるのに必要な量をこえ、 余分な量を貯えておく
ことができるようになると、米づくりを手広く行って、
たくさんの米を貯えることができる人々が現れました。むら人
の間に、富の差が生まれたのです。これらの人々は、貯えた米
の一部を、中国や朝鮮半島から船で運ばれてきた青銅器と交換
し、それを自分の墓にうめるような有力者(豪族)になっていき
ました。
●有力者が支配者になっていった
有力者は、米などの生産物の取りあつかいや、お祭りの指導、
戦いの指揮などを通じて、ますます力をつけ、大きな住居や墓
をつくるようになりました。弥生時代の終わりごろには、
有力者の住居・墓と、一般の人々の集落・墓が分かれてきま
した。有力者は、自分の大きな住居や墳丘墓(土や小石を積み
上げた墓)をつくるときに、その地域の住民をかり出して働か
せることができるほどの、力をもちまし た。こうして、支配
する人と、支配される人という、たがいに対立する関係、
つま り、身分の差(階級)ができたのです。
“古墳は、昔その土地に強い豪族が
いたことを示しているのよ。”
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生産力の発展→余剰生産物の蓄積→貧富の差=有力者の発生
→祭祀や戦闘の指揮従属関係→支配者階級の発生
これはマルクス主義経済史論の原始的蓄積論(即ち商業資本が
富を貨幣に代えて蓄積し、その手腕や自然的な機会の差異に
より、成功者から資本家階級を生んだという仮説)を原始時代
=古代に翻案適用したものである。
この考え方の延長で、日本の弥生時代における緩い階層の存在
が、上古に於ける階級制に発展したという説になり、その契機
は米作に置かれることになったのである。
さりながら、この考え方は私の見解では間違いである。我が国
の場合、そも階級差を持った部族が、大陸から渡来し支配者と
なったのが、階級の存在の主な理由だと考えるからである。
古来、階級の起源については色々な説が混在した。
マルクス主義者の「階級」概念
それらの中で、最も目立つのはマルキスト達の見解である。
マルクス主義者は階級の打倒を標榜して来た。だから階級を
どう捉えるかは、必須の学問的ベースになるからだ。
参考文献を見てみよう。ある識者は次の様に言う。
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「マルクスの性と階級」
『資本論』のなかに印象的な一節がある。「富の一部は資本
として機能し、他の部分は非資本または消費財源として機能
する。そして、ここでは、固定的か流動的かのどちらかである
ということが、その資本にとっても免れられない必然として
現われる。ちょうど、雌雄どちらかであることが哺乳動物に
とり自然的必然であるように。」(「資本論」 )
一句の口吻を借りて言えば、男女どちらかであることは人間に
とって自然的必然である。この次元での性的分断、つまり
「男女どちらかであること」は人間相互の関係にとって純粋に
生理的な必然でしかない。
このような「純粋に生理的な基礎」の上に自然発生的な分業が
発展する。自然的な基礎の上で歴史が経過する。
「一つの家族のなかで、さらに発展しては一つの種族のなか
で、性の区別や年齢の相違から、つまり純粋に生理的な基礎の
上で、自然発生的な分業が発生し、それは、共同体の拡大や
人口の増加につれて、またことに異種族間の紛争や一種族に
よる他種族の征服につれて、その材料を拡大する。」(「資本論」)
こうした歴史的な基礎のうえに最初の現実的な社会的男女関係
が形成される。男性および女性の現存の社会的地位はこうした
重層的な構造のなかで成り立っているのである。こうした重層
性の認識を欠いたとき、「思弁的で浅薄な無知」は「歴史的
現実」を認識することを止め、「自分自身のめめしい諦めを
おおいかくすために女性崇拝を説く」 ようになる。
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この見解では、男女差による分業の延長下に階級が発生すると
している。
だが、今の多様性の認識の時代には、それはいささか決め付け
過ぎの論述との非難を免れぬであろう。
次は、少しイデオロギー色を薄めた?見解である。しかし
“階級は貧富差によって発生する”という点は共通である。
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「まとめない世界史」
貧富の発生
文明が発展する段階で、宗教と交易の中心である都市が発生し
ます。宗教や交易があるということは、食料生産者で無い者が
いるということです。
どういうことかと言うと、宗教があるということは指導者が
いるはずです。指導者も食料生産活動をするとは思いますが、
それだけやっていたら宗教指導者にはなれません。
宗教指導者の役割は、人々に心の安らぎを与えることだから
です。
つまり、人々に心の安らぎを与える代わりに、食料を農民や
牧畜民から分けてもらうわけです。
さらに、交易があるということは分けてもいい食料があると
いうことです。つまり、これらは余剰生産品なのです。
狩猟採集生活を送っていたら必要な分だけ採集すれば十分。
多少の蓄えもあったかも知れませんが、狩猟採集の対象は
動物の肉や木の実ですから、長期間の保存は出来ません。
もちろん、保存する技術もありません。
さらに食料を求めて移動を余儀なくされますから、たくさん
蓄えたとしても持っていけません。
狩猟生活では基本的に、生肉や生の果実や木の実となります
ので、腐りやすい。ところが、生産するとなると話が変わって
きます。生産しているものは穀物ですから、そんなにすぐには
腐らない。
たくさん作って、万が一の場合に備えるために、たくわえる
ことが出来る。たくわえとは、すなわち富です。現代で言えば
お金と同じです。
その余剰生産物で人をたくさん養うことも出来ますし、欲しい
ものはたくわえた作物と交換して手に入れることが出来ます。
これが貧富の差です。人類が生産を始めたからこそ貧富の差が
生まれたのです。
狩猟採集生活の段階では貧富に差はありません。
リーダーであろうと、年老いていようと、みんな狩りには
出かけます。その日にみんなで必要なものをとって食べる。
こういう生活です。
階級の発生、そして歴史時代へ
そして貧富の差が生まれると、これが階級へと発展します。
食料をたくさん作り出し、たくさんの人を養えるようになる人
も出てきます。
たくさんの人を養えるということはすなわち富を持つものと
いうことです。
そうすると、その富を求めてもっとたくさんの人が集まって
きます。
こうして、人を使って食料を生産するという支配者階級が誕生
します。
初期の段階での階級は、貴族(神官)・平民・奴隷、という
階級です。貴族や富裕層、そして神官。これらが支配者階級
です。
さらに、交易や支配には記録が必要となります。
交易では、何をどの程度売買したのか?どのくらい儲かって
いるのか?を記録する必要があります。
支配するためには、政治の記録や被支配階級の状況を把握する
ため、記録をつけるのです。
その為に文字が発明され、人類史は歴史時代へと突入するの
です。
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どうも、この見解もまた、背景にマルクス主義的な思想がある
と思えるのである。
“余剰生産物の有無→貧富の差→階級の発生”という論。
しかも宗教指導者や交易従事者は非生産者だろうとしている。
だが、中国の少数民族などでは、宗教指導者(シャーマン)も
また普段は農耕に従事して自給自足出来ている。商人なども
出稼ぎに行かぬ間は生産活動に携わっている。成る程絹の道を
長期間交易に従事するなら、その間は家族が生産活動を行い、
食料の確保に努める。しかし交易者は当然ながら、交換により
必要財を入手するのだから、非生産者ではない。
以下は、考古学的な実績を基にした階級発生論、
これもまた教育用の資料である。T=教師、S=生徒
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T つぎにウルク期に進もう。銅製斧、釣針、さじ、短剣
などは何を意味しますか、銅製のピンや数珠玉と比較
してみよう。
S 金属が装飾的なものからようやく生産用具に使用される
ようになった。
T その通りです。そこには文字の使用とありますが、文字
は何の目的で使用されたと考えられますか。
S 王が自分の業績を後世に残すため。
S 宗教に使用された。
T 現在発見されている最古の文書は、ほとんどが家畜・
穀物・土地に関する経済文書ばかりです。神殿を中心と
する支配者(神官)が、財産管理や会計事務のために
発明したものであると考えられています。つまり文字は
支配者が貢物などを記録するために生み出されたもので
あると考えられている。
つぎの女性の装身具、鏡、化粧道具からなにがわかり
ますか。
S 女性の地位が向上したこと。
S 貴族の女性だと思われるから、身分制が現れてきた
こと。
T ところで、なぜ男性が化粧をしないのか。女性が化粧を
するというのは何のためですか。
S 男性を喜ばせるため。
T これは、女性が生産労働から遊離して、男性に隷属して
いくようになった証拠だと考えられている。
(この時期では、神殿の役割がさらに拡大したこと。支配者=
神官が、政治的・経済的にも力を備えるようになったこと。
分業や所有権がさらに発展したこと。道路や広場にみられる
都市の機能が確立したこと。文字が使用されたこと。以上の
ように都市国家の条件がそろったことを確認し、各自まとめに
記入させる。)
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これも冷静に吟味すれば、何か先入観に支配された論としか
思えないところがある。
※ウルク期はメソポタミア南部の古代文明シュメールの
首都で、前4000年紀から3000年以上に亘って栄えた
ウルクの最盛期の事。ギルガメッシュ王叙事詩の時代。
(非コミュニストの階級論は、歴史社会学や文化人類学の分野
だが、これらは一般に、古代社会の階級の存在や様態を認識は
するものの、静態観察的な見解が多く、発生過程の動的な解釈
をしているものには、寡聞にして、出会えていない。むしろ、
そこにもマルキスト的な見解の影響が見て取れる。)
更に、次の様な論文もある。これは「階級の発生は歴史的には
東洋に於いて始まる」とするもので、いわゆる「アジア的生産
様式」に関わる言説である。マルキストの典型的な見解である。
これは、良く言うなら“いささかアカデミック過ぎる”言説で、
読むのにやや骨が折れる、というか翻訳の所為もあるのか?
難解である。(私の頭が悪いせいなのかも知れないが。)
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「最古の階級諸社会の性格の問題によせて」
ゲ ・ア ・メリキシビリ 渡辺金一 ・松木栄三訳
(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/10/3-4/10_3-4_49/_pdf)
周知のように、最古の階級諸社会は東洋に発生した。これらの
社会の 性格に関する問題 は20年代末から30年代初めにかけて
起ったアジア的生産様式論争の期間にソビエトの科学の中で
はじめて鋭くうかびあがった。論争の結果、アジア的生産様式
とは奴隷制や封建制と区別された独自の社会経済的構成体を
意味し得ないと言う見解が勝利をおさめた。この見解を擁護
する専門家たちの意見によれば、東洋にそのような構成体の
存在を認めることは、人類発展の単一法則性の否定、東洋諸
社会独自の発展コースと東洋における≪永久奴隷制≫ ないし
≪永久封建制≫ の存在の容認につながるものであった。 しかし
当然のことながら問題が生じた。即ちもし東洋には何ら特殊
アジア的構成体が存在していなかったとするなら、これら古代
東洋諸社会をいかに性格づけるべきなのかという問題がそれで
ある。
この問題の解決に著しい役割を果したのは、多くの具体的資料
(古代バビロニアの経済文書)の 研究に基いてアカデミー会員
ヴェ・ヴェ・ストルーヴェが出した結論である。それによる
と、ウル第三王朝期に広く普及していた王室ラティフンディア
の要員はまる一年中その中での労働に従事しており、従って
彼らは自らの生産手段を奪われた労働者から成っていたという
のであって、ストルーヴェは彼らを奴隷の範疇に入れている。
かくして、事実関係資料の研究をおこなえば、他の古代東方
諸国においても、他の諸時代においてもおそらく生産における
奴隷労働の主導的役割が検証されるであろうと言う見通しに
たって精密な作業がはじめられた。 これとの関連で特に研究者
たちの注目をひきはじめたのが、捕虜の獲得とその奴隷化に
関する古代東洋諸史料の数多い記事、同じく古代東洋の法律
文書(古代バビロニアの王ハンムラビの法典、ヒッタイト法等々)
にみる自由人と奴隷との間の鋭い区別である。かくて、古代
東洋には奴隷制的構成が存在していたという意見が形成された。
もっとも当時すでに一連の研究者は東洋の奴隷制がその発展に
おいて古代ギリシャやローマほどの高い水準に達しなかった
ことを強調していた。
その原因として認められたのは、東洋における共同体的土地
所有制の根づよい存続などであった。東洋奴隷制の特殊性と
しては、通常、K.マルクス及びF.エンゲルスが東洋諸社会、
およびアジア的生産様式にとって特徴的であると指摘した点が
すべて列挙せられた。古代東洋には奴隷制的構成が存在したと
いう見解の賛成者たちはまた、ヴ ェ・イ・レー ニンの有名な
講義≪国家について≫(1929年初版)の中でのべられている
いくつかの見解に依拠していたが、そこでは奴隷制が最初の
搾取形態とされ、奴隷制に基礎をおく社会が最初の階級社会で
あるとされていた。
古代東洋社会及び最初の階級社会一般が奴隷制的性格である
ことについての確信は1938年、≪ 全ソ連邦共産党(ボリシエ
ヴィキ)小史≫出版後決定的に強められた。そこでは、社会経済
的構成体が次のような順序であげられていた。即ち、原始共同
体的、奴隷制的、封建的、資本主義的,、社会主義的の順であり
アジア的生産様式については少 しも言及されていなかった。
戦後のソビエト歴史学においては、古代東洋社会は通常≪ 初期
奴隷制的≫ないし≪共同体奴隷制的≫と呼ばれ、古代ギリシャ・
ローマの奴隷制とははっきり区別された。その特徴としては、
とくに、奴隷所有の発達が微弱であったこと、奴隷労働の生産
への利用がかなり制約されていたこと、が認められる。物質的
財貨の生産者の基幹をなすものは共同体の一般成員であると
みなされている。古代東洋諸社会の性格が奴隷制的 (初期奴隷
制的)で あるということが非常に広く認められるようになった
ために、そのことの立証が必要なゆえんを理解する人はすでに
僅かになっているほどである。
それでもやはり、かかる見解を支持する研究者たちは、奴隷の
数が少く、奴隷労働の利用範囲が非常に制約されているような
社会(通常、農業において、即ちこの基本的な生産部門において、
支配的だったのは自由な共同体員の労働であった)をなぜ
奴隷制的と認めるのかについて、しばしば釈明を余儀なくされ
たことも事実である。一部の研究者 はあれこれの社会の生産
様式の性格規定において ≪ 量的規準≫ を採用することに鋭く
反対し、この問題は所有形態及び搾取方法にもとづいて解決
すべ きであるとした。その場合しば しば、所与の時点でより
大きな勢力をなしてはいるがしかし発展していない社会層を
ではなく、たとえその時点では優位を獲得していなくとも現に
発展しつつあり将来を握 っているような社会層を対象にすべき
だ、というイ・ヴェ・スターリンの言葉(しかも別の問題に関し
て、全く別の局面でのべられた言葉)が引用された 「世界史」
の中では、奴隷に比較して自由な住民大衆の数の方が多かった
事実を、古代東洋での自由民大衆はまだ奴隷には転化していない
が奴隷所有者貴族階級に従属している人々であったという
ことで説明されている。また別の著作では、東洋の奴隷制は
≪主導的な、そして進歩的なウクラードであったものの、幾千年
もの間、直接的には経済の基礎を構成しなかった≫と記され
ている。最後に、幾人かの研究者の意見では正当にも、社会の
支配的諸グル ープの経営内において奴隷労働の搾取が大きな
地位を占めていたのであるから古代東洋社会は奴隷制的で
ある、とされている。
※ウル第三王朝は、シュメールの都市ウルの司令官だったウル・
ナンムが独立して出来た王朝。(いわゆるハンムラビ王の
バビロニアに先行した)。巨岩遺跡のジグラットが作られた時代。
「ラティフンディア」とは本来は、ローマの元老院貴族などが
営んだ奴隷制大農園だが、ここではウル第三王朝の王族所有の
大農園を意味させている。
※ ウクラードуклад/uklad ロシア語
特定の歴史的社会の経済的土台内部に存在する異なった類型
の生産関係をさすロシア語。ロシア語文献では、社会経済的
ウクラードまたは経済的ウクラードと記されることが多く、
日本では普通、経済制度と訳されているが、経済構造体とか
経済システムと言った方が分かりがよい。
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あのスターリンが、かくも真面目な議論に参画していたとした
ら、それこそ意外な感がする。という冗談はさておき、
この旧ソ連の学者に代表される見解ではともかくも「東洋では
奴隷という被搾取者が階級社会の始源となった」と言いたい
らしい。一方で、西洋古代においても奴隷の存在を認めながら
“古代ギリシャ・ローマの奴隷制とははっきり区別された“と
言い、ではその“進歩した”世界の奴隷制とは、根本的にどう
違うのかが明確には述べられない。
優れた発展を(後世)遂げるべき西洋と、いつまでも遅れた制度
を残した東洋とは自ずと異なる、と言わんばかりである。
だがギリシャ・ローマはひとまず置くにしても、ゲルマンや、
バルカンあたりのスラブ人の世界ではどうだったのか?
遅れた東洋に近い世界では、そちらの影響を受けていたとでも
いうのだろうか?“タタールのくびき”に縛られていたロシアや
カフカス諸国の出身者の多かったロシアの学者が、東洋を低く
観る目線には、苦笑を禁じ得ない。
コミュニストは、どうしても「搾取」の有無で階級を定義付け
たがるのだ。
科学的社会主義とは、それ自体一種の宗教近似のイデオロギー
であって、実はあまり科学的ではない。
科学は広汎なエビデンスを証拠にして成立するのだ。
中国史書に於ける倭からの生口貢納
それはともあれ、私が何故奴隷制にこだわるかといえば、
我が国の古代について記す中国の史書の中に「生口」の存在が
あるからだ。
中国の史書の中で、最初に倭の国の生口について記したのは
「後漢書」である。
『後漢書』(後漢永初元年- 107年)に当時の倭国王・帥升らが
後漢の安帝へ、生口160人を献じたと記す。
またその後、『魏志倭人伝』では、倭女王卑弥呼が(魏の景初
2年-239年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、更に
(魏正始4年-243年)に魏少帝へ生口を献じ、またその後継者
とされる台与も248年に、生口30人を魏へ献じたことが記され
ているのである。
(生口を貢納するから倭(=奴隷)なのだと言う学者もあった。)
この事は、仮に奴隷制が階級制の始源だとするなら、倭の奴国
や邪馬台国では既に階級制が始まっていた事の証拠になる。
(一方この生口は、奴隷ではなく、国内の部族間戦闘での捕虜で
あったと解釈して、いわゆる階級としての奴隷階級では無かっ
たとする識者もある。)
「縄文時代から弥生時代の前半頃までは、わが国土には階級差
というほどの身分の違いはなかったという」考古学的な推定の
立場からすれば、倭の奴国や邪馬台国は弥生時代の部族とは
質的に異なるものになっていた!という事になって来よう。
だが、奴国や邪馬台国の生口は、内戦捕虜なのか奴隷なのか?
これを決定出来る資料は、目下は無い。
また魏志倭人ノ条には、邪馬台国の構成国の恐らく伊都国での
見聞として、身分差が存在する事が言及されている。これは
最早、階級なのだろうか?
先ず、魏志倭人の条では、邪馬台国と狗奴国の内戦を示唆する
記事があるので、そこから戦争捕虜が発生していても不思議
では無い。
捕虜とはいえど、同じ民族なのに奴隷化して、まして中国への
生口として貢納物にするのだろうか?
これには、近似例がある。
高句麗の広開土王碑に、396年、百済が高句麗に大敗したため
生口を高句麗へ献じたことが見えるが、百済の献じた生口は
どこで得たものか?恐らく新羅との戦争捕虜だったのではない
だろうか?
我々の現代の感覚では、新羅も百済も同一民族ではないか?と
思えてしまうが、そうでは無いのだ。実際、両国は言語も違う
と中国側は認識している。
これは、倭種の世界でも同様だろう。海人の国らしい奴国と、
(私の見解では、辰韓の斯羅國とは異なる都市国家である伊西国
か牛頭方国の分国らしい)伊都国では、相互に別の国だとの意識
があったと思われる。それが卑弥呼を盟主として大倭連合=
ヤマト大倭(ヤマタヰ)を組んでいたとしてでも、である。
まして大倭と敵対する狗奴国は、別の国であった。
だから、そこに戦さが勃発していれば、当然捕虜も出ただろう
と思われる。
邪馬台国の記事では卑弥呼の死後、内戦状態が生じたと思わせる
箇所がある。
(私の勝手な想像では、奴国は海人族の国であり、狗奴国〜九州
王朝に臣従した和族系の海人族である和邇氏や多氏と血縁関係
にあったので、奴国が戦争したとするなら、西隣の伊都国では
なかったかと思う。というのも、狗奴国=日下国が北九州統一
する前に、伊都国が奴国を征服し、奴国の残党は香椎の周辺と
那珂川上流地区などに追いやられていたと考えられるからだ。)
だから先述の生口が内戦の捕虜であったのなら、生口を献じた
奴国や邪馬台国が、未だ階級制は未発達だったと想定すること
も可能である。
さりながら、既に緩い身分差ではなく、階級制が開始されて
おり、王や貴族・兵士・平民のほかに奴隷がいたと考えるなら
それは、①倭の中での原始的蓄積〜階級の発生という段階が
あったのか、②倭人先住民族の所に、半島から階級を持った
黄牛族(出雲族)が渡来して、大倭を連合させ、その後三輪王朝
に発展したのか、その①②いずれかであったと考えるべきで
あろう。---------私は②の方だと考えている。
私説の天孫族考では、狗奴国は月氏和族の子孫だとしたが、
三輪王朝の方は出雲系といわれ、祖先は大陸にあった時には、
同じく月氏黄牛族系であり、共に階級制を経験している部族
だったので、緩い身分差しか無かった弥生末期の列島に渡来
した時には既に階級制を有していたと考えるのである。
奴国の考察、綿津見と阿曇
ここで奴国について考察しておこう。奴国の奴とは那の津の那
と同じであろう。この“ナ”というのは、波際=ナギサ(渚、汀)
であり、寄せる波の事であろう。
だから、奴国とは渚にある国という事だから、その意味では
特殊な部族を示唆する言葉では無い。一応の解釈としては、
博多湾を根拠地とした海人族の建てた国という事になって
いる。
※ここでその“博多”という語の由来についても定説はない。
伯方島という島が芸予諸島の大三島の東側にあり、この伯方は
博多と同じだとされる。伯太という書き方の神社も畿内にあり
この伯太も同じだとされる。というのも博多神社とか伯太神社
とかの祭神には共通性があるからだ。大抵は神功皇后と応神帝
そして武内宿禰や仲哀天皇を合祀する所が多い。八幡宮の別の
祭祀形態かと思われる。(ハカタとヤハタの音の近さも!)
で、奴国の海人族の産土神は志賀島に祀られる志賀海神社の
摂社今宮神社の祭神= 「宇都志日金拆命(ウツシヒカナサク)」だ
とされる。宇都志日金拆命は綿津見神の子神だとか。
主祭神は綿津見三神(「表津綿津見神」、「底津綿津見神」、「仲津
綿津見神」)だというが、本来はヒガネノサクの方であろう。
ウツシは筑紫、日金拆は志賀に坐すで、筑紫の志賀島に居る神
という意味かと解している。(だが日金と金属を示唆する名が
入っているので、冶金もする海人族だという説もある様だ。)
奴国が、倭種の国(都邑国家)の内で、最も早く中国王朝に貢献
しているのは、綿津見族として渡海に長けた部族だったからだ
と思われる。
奴国の隣には不弥の国があったという。これは通説では宗像
だとされてきた。宗像は宗像三女神の胸に飾られた首飾りに
因むという。
奴国と不弥が争ったという伝承は無い。
宗像三女神もまた綿津見の神だからである。
宗像だとされる不弥の国は、従来の読み方でのフミではなく
フネ(舟)ではないか?
胸形から宗像になったというのではなく、舟方ではないのか。
志賀海神社は阿曇族の祀る神だとも言う。阿曇と綿津見は実は
全く同一ではない。私は阿曇族の祭神は大山祇だと考える。
(一見、大山積と同じかと錯覚されるが、大山積は山口神社の
祭神でこちらは山の神である。)
大山祇は大伊予海人曇で、OoIyoAmadumi→Ooyamadumi
ではないか?と考えている。
つまり一般的な海民・阿曇の神の大山祇と、航海民の神である
綿津見とには微妙な違いがある。
この後、神功皇后のヤマト攻略前後の海人族の向背を見ると、
多氏と和邇氏の率いる和族系の水軍の動向からして、両氏族は
東征の主戦力となっている。
この事から綿津見族は多氏と和邇氏であって、また両氏が、
仲ツ臣と言われ宮中祭祀にも携わる以上、九州王家である狗奴
=日下国の王クガチ彦とは同族であったと推理される。
だから両氏の姓は臣であるが、阿曇氏は陪臣である連なのだ。
また宗像氏の姓は君(キミ)で、多氏同族という火君・阿蘇君・
大分君と同様である。だからやはり和族系海人なのだろう。
この推理の様に、奴国が和族であれば、韓半島から階級制を
持ち込んでいた可能性があり、それならば奴国王が後漢に貢納
した生口とは、(内戦捕虜でなくとも)“奴隷”であった可能性が
ある。
奴国の王は伊都国(出雲族)に敗れた後に、同族の狗奴国に救援
を求め、これを受けて狗奴国が東側と南側の両方向から伊都国
を攻めて、大帯日子(景行天皇)かその子である小稚帯日子=
小碓命(=日下建命) の時代には、伊都国は狗奴国に征服されて
しまい、一大率の地位は、日下建の長子である葛城襲津彦に
なっていたと想像される。
東征後の応神朝で、葛城襲津彦が新羅戦派遣軍の大将軍に任じ
られた時、支配下にあった伊都国の住民が従軍し、新羅により
滅ぼされた旧本貫地の伊西国の兵として慶州にまで攻め上がる
大活躍に繋がった。
私説では、和族は月氏禰宜族(バラモン)であり、配下に戦士層
(クシャトリヤ)と商工民(バイシャ)及び奴婢(スードラ)を持って
いたと考えている。
月氏の階級制は、経済(マルキストの言う下部構造)からでは
なく、主に宗教上の理由から発生したもの、つまり上部構造
から形作られたものだと言えるのだ。
そういう意味から、発生過程論で見ればアジア的生産様式に
基づく階級の始源ではないと考えられる。
むしろ、階級制を持つ部族が渡来して、先住民族をバイシャと
スードラに組み込み、更にその中から兵士を徴用して、結果的
に、アジア的生産様式を現出させたというのが、我が国の古代
の容態ではなかったろうか。
※アジア的生産様式とは、第二次大戦前後で大きな論争主題と
なったが、その後完璧な意味での結論が出ていない。その主な
理由は、論争にスターリンが加わっていた為、スターリン批判
以降は彼の支持した理論に同意する事が憚られるようになった
からだとも言える。
世界史事典 三訂版(旺文社)では「大体の結論としては、
人類社会の発展に認められる一時期として、奴隷制社会の端初
的形態で、共同体的土地所有が維持されたまま、全体として
専制君主に隷属する生産形態とされている。」としており、
またブリタニカでは、「この言葉にはさまざまな解釈が行われ
てきたが,今日では一般に灌漑農業を主体とするアジアに特有
の奴隷所有的、共同体的生産関係をさす」となっている。
正しく、古墳時代から藤原朝時代あたりまでの日本の政治経済
システムに該当すると思える。律令制の施行により、階級制度
は確定する。天皇皇族・太夫(公卿)&官人・良民・賎民という
階級は、バラモン・クシャトリヤ・バイシャ・スードラという
カーストに相応するものである。