第11章 応神は葱韮族!
第11章 応神は葱韮族!
☆書紀の日向髪長媛の挿話について
応神即位11年、日向国の諸県君牛諸井の娘に髪長媛という
国色之秀者(かおすぐれたるひと)がいるという奏上が
あった。天皇は喜び、この娘を娶りたいと思った。
即位13年3月、日向に使者が派遣され髪長媛は畿内へ召される
こととなった。9月、髪長媛が日向から到着したので桑津邑に
留まらせていたところ、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)が髪長媛を
見る機会があり、大鷦鷯尊はたちまちその美しさに感動して
見染めてしまった。それを知った天皇は初めて髪長媛を呼び
寄せた宴席に、大鷦鷯尊も参加させ、髪長媛を指差して歌を
詠んだ、という。その御歌、
「いざ吾君 野に蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道に 香細し 花橘
下枝らは 人皆取り 上つ枝は 鳥居枯らし 三栗の 中つ枝の
含隱り 赤れる孃子 いざさかば 良な」
これは、大鷦鷯に「三栗の 中つ枝の 含隱り 赤れる孃子
いざさかば 良な」→「花の盛りに向かう媛であるなら、
そなたが手にとっても良いぞ」という意味で、
髪長媛を譲った歌として有名である。
このエピソードで分かるのは、応神朝では、皇族も一緒に
「野に蒜摘みに」行く事が一般化していた事である。
これは、天孫族=和族が葱韮族だったからの証左である。
元々「草摘み」とは、臭い植物(にほふ木、葱韮類)を摘みに
行く事であり、それに対して普通の野草を採りに行くのは
「菜摘み」と言った。菜は食す為の植物の称である。
万葉集にも「草摘み」の話題はしばしば出てくる。
皇族が草摘みに出なくなったのは、恐らく平城京時代以降で
あろう。持統朝(藤原京時代)あたりまでは行われていた様で
ある。聖武朝の仏教興隆の影響が考えられる。
草摘みの話からは、次の話題を連想する。
--------------------------------------------
◇蘭とは何か?---------令和元号の出典に関して
“新元号は令和”と決定した時、
出典は『万葉集』巻五「梅花謌卅二首并序」で
「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」
と当時の菅官房長官が発表した。
この時、出典の根拠である「初春令月、氣淑風和」の詩句に
脚光が集中する中、「梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」は余り
注目されなかった。単なる修飾句だと解釈されたからである。
意味は、“梅は開いて馥郁と香りを漂わすが、これは高貴な
女性が鏡を開いてお白粉を塗る時に梅香(練り香)が匂い出す
のに似ている、一方それは秋に貴人の太刀佩く後に匂い袋に
入れた蘭の香りがほのかに漂うのと対象である(それは春と秋
との対になる風流に他ならない)。従って今ここ大宰帥の館
に集う官人達も、風流を求めて歌を詠み合おうではないか“
という気持ちを表そうとしたものとなる。
(それは一応の上面で、本当は「蘭薫珮後之香」を漂わして
いた貴人、即ち長屋王は今は亡き人であることを暗示している
のである。
この蘭の匂い袋を持つ貴人は、奈良朝では皇族の暗喩であり、
都で権力を掌握していた藤原氏や、大伴氏などの貴族の一族
などでは無い筈だからである。)
さて、この蘭香の蘭というのは何だったか?この時代には、
いわゆる蘭は、未だ中国の花であり、日本へ渡来したのは、
平安朝に入ってからの遣唐使によってである。
ただ公卿たちは、学識で中国には蘭という華やか、かつ香りの
良い花草が存在することは知っていた。
ところで、これにつき以下のような解釈をネット上に寄せた
人が居た。矢原徹一:九州大学大学院理学研究院教授である。
-------------------------------------------
せっかくこの文章から元号が制定されたのですから、その
文意をしっかり理解しておきたいと思います。しかし、
新聞紙上での解説には、梅についての言及はあっても、
「蘭」について触れたものがないようです。そこで久しぶりに
記事を書いて、「蘭」とは何かについて解説してみることに
しました。
「蘭」とはフジバカマ
梅の花が咲く初春には、いわゆる蘭の花は咲きません。
東洋蘭の代表であるシュンラン(春蘭)の花は4月、カンラン
(寒蘭)の花は10月に咲きます。和書にシュンランの記録が
現れるのは江戸時代のことであり、カンランの栽培が盛んに
なったのは明治以後です。
万葉集に登場する「蘭」(あららぎ)とは、秋の七草のひとつ
である藤袴(フジバカマ)だと考えられます。フジバカマの
中国名は佩蘭であり、蘭草とも呼ばれます。「蘭」とは、
フジバカマや東洋蘭のように、香の良い植物を指す総称なの
です。
--------------------------------------------
ここまでは、私も概ね肯定できる解釈である。
ところで、辞書で蘭(アララギ)を引くと次の様になっている。
--------------------------------------------
精選版 日本国語大辞典の解説
あららぎ【蘭】
〘名〙
① 植物「のびる(野蒜)」の古名。
※書紀(720)允恭二年二月(図書寮本訓)
「圧乞(いで)、戸母(とじ)、其の蘭(アララキ)一茎(ひともと)」
② 植物「ふじばかま(藤袴)」の異名。《季・秋》
※至宝抄(寛永一一年本)(1634)
「はつ秋〈略〉蘭(アララキ)」
③ 植物「いちい(一位)」の異名。《季・春》
▼あららぎの実《季・秋》
らに【蘭】
〘名〙
① 植物「ふじばかま(藤袴)」の古名。《季・秋》
※躬恒集(924頃)「らに あき風にかをのみそふる花なれば
にほふからにぞ ひとにつまるる」
② 「らん(蘭)①」の変化した語。
--------------------------------------------
上記の「あららぎ【蘭】」の①の例が、かの有名な允恭天皇の
皇后になった忍坂大中姫の幼時のエピソードの事である。
ところが、藤袴の葉の干した物を細かくして匂い袋に入れて
貴人が付ける習慣は、平安朝になると恐らく臣下でも摂関家
のような高級貴族にまで拡大したと見えて、この習慣はあの
源氏物語にも登場する。匂宮とか薫大将のような名前は、
藤袴の匂い袋を常用していた事から付けられた名前なのだと
いうのである。
この為、一部の人の中には、允恭紀の大中姫の母の屋敷の菜園
で育てられていたアララギもまた藤袴の事だろうと言う向きも
あるのだが、これは誤解である。
何故なら、藤袴はたしかに大陸原産の植物ではあるが、この
時代には既に、日本列島中に広がっていた野草であった。
だから誰にも目に付く秋の七草とされたのであり、わざわざ
皇族の庭園で育てる様な物ではなかったからである。
(恐らく縄文海進より前に、大陸と列島が地続きだった頃に
既に朝鮮陸橋を通って列島に侵入していた植物であろう。)
但し、和歌を読む風習が行き渡った奈良朝などでは、風流の
為に、庭に秋の七草を植えて置く事も出て来たようである。
上記の矢原徹一教授の、先の文章の後には、次の様な紹介も
ある。
--------------------------------------------
フジバカマの花。
万葉集には、「蘭」を題材にした歌がいくつかあります。
そのうちのひとつに、女性天皇のひとり、孝謙天皇が詠んだ
次の歌があります。
「この里は 継ぎて霜や置く夏の野に 我が見し草は
もみちたりけり」
(この里には年中霜が降りるのだろうか。夏の野原なのに、
私が見た草は、もみじのように色づいていた)
この歌には、「天皇大后共に大納言藤原家に幸す日にもみてる
澤蘭一株抜き取り内侍佐々貴山君に持たしめ大納言藤原卿と
陪従の大夫等とに遣し賜ふ御歌一首」という前書きが記されて
います。「澤蘭」(サワアララギ)とは、「野生の蘭」
という意味であり、フジバカマの近縁種であるヒヨドリバナ
のことだと考えられます。
--------------------------------------------
孝謙は女帝だから、藤袴の匂い袋を付ける事は無いと思われ、
さすれば矢原氏の言うが如く、ここの澤蘭は、藤袴かその近縁
の草花で、枯れ始めていて匂い袋に入れる頃合いになっていた
という事であるのかもしれない。それを男性公卿複数名に下賜
したとの話だろう。相当大きな一株だった様だ!
(このエピソードはまた、この頃孝謙女帝には天孫族が葱韮族
であるとの自覚は失せている様に思える。仏教の五葷を忌避
する事の影響だろう!)
しかしながら、古来より藤袴の名称があり、後に蘭(ラン)が
帰化してからは、区別のためにラニといったという植物を
何故、紛らわしい;本来は野蒜の名であったアララギと呼ぶ
事が生じたのか?
この事については、誰も言及していない。
勿論、蘭の字は、本物の?蘭(ラン)が輸入されるまでは、香草
一般を指す言葉では無かったか?という推理もあるだろう。
野蒜も藤袴も香草だからと言うのである。だが、食する草の
野蒜と、匂い袋に入れたハーブの藤袴は同じカテゴリーには
括れないと、ちょっと考えても、思えてしまう。
しかし私にはこの事は意外では無い。
皇族=天孫族と葱韮類の関係は、先述の允恭紀に載る例だけ
ではない。“天孫族の畿内王朝の開始者である”応神朝にも
既述の如く「諸県君牛諸井の娘の髪長媛」が後の仁徳に
見初められた話があるからだ。
(大方は髪長媛の父親の居所を“日向の諸県”としているが、
この応神の時代には、日向には未だ牛の蓄養は行われては
いなかったので、牛諸井の名は、日向の諸県のものでは無い
はずだ。この話は今はさて置く。)
“このエピソードで分かるのは、応神朝では、皇族も一緒に
「野に蒜摘みに」行く事が一般化していた事である。
これは、天孫族=和族が葱韮族だったからの証左である。”
と先述した。
さて、この様にネギ族は、ネギや韮類を、珍重し薬食いする
習慣があった。允恭紀の記載の様に、これは天孫族に特有の
ものであり、朝臣でも非天孫族系氏族にはこの習慣がない。
(どうも秦氏だけは例外で、葱を育て食していたようだ。)
この葱韮類の内、いわゆる葱ではなく、韮や野蒜などを
アララギと呼んだのである。
アララギとは荒羅木であり、これはスメラギ(皇木)即ち葱に
対しての呼称であると思われる。(統めら木=鎮められた木、
つまりニギ(和)木=ネギなのだ。)
これは、神を荒魂と和魂の二つの概念に分けて捉えるニギ族
の観念に倣った区類であると私は考えている。
つまり韮(野蒜)は野生に近い荒魂の木であり、葱はニギ族の
ニギタマ(和魂:葱宝珠)の木なのだ。
応神天皇の母はかの神功皇后で、実名?は息長足日媛といい、
近江の息長氏の姫だと言う。息長とは不思議な氏名である。
一説では、息長氏は海人阿曇系なので、玄界灘方面の海郎の
如く、潜水泳法に秀でていて、息が長い種族なので、ここから
息長の氏族名が付いたというが、ちょっと馬鹿馬鹿しい。
私は息長氏という氏族名も、実は“息ネギ氏”であり、息が
ネギ臭い氏族という意味では無いのかとも一時考えていた。
つまり、天孫族同様にマギ=巫を出す氏族だと言う事だ。
もっとも最近では、息長氏は海人族系とも言われるので、
単に沖凪(もしくは沖龢)で、海洋の好天を占うマギ(巫覡)
だったのかとも考える様になった。巫女のことをキネとも
ネキとも言った様なので、沖ネキ・沖禰宜が息長なのかも
しれないのだが。いずれにせよ“長”の由来はニギであろう。
恐らく息長氏は、黄牛族に派出されてそのまま一部族化した
葱韮族の一派だったのではないか?(近江の息長氏の居住地
に隣接して黄牛谷というところがあり、ここは息長氏が宗教
儀式の供犠に黄牛を使った所=キルサイトだという。ここの
息長氏が、当初は崇神系王朝の巫=マギだったからだろう。)
息長氏だけではなく、天孫族は誰しもネギやニラの匂いを
漂わせていた。特にアララギ(野蒜などの韮類)の体臭があり
これを緩和する為に、男子皇族が藤袴の匂い袋を使う習慣が
(恐らく継体朝以降に)出来たのではないか?
この“アララギの匂い和らげの草”が、またアララギと呼ばれる
結果になったと、私は考えているのである。
類例として、私が故郷の古老から聞いた遠州の川根での話を
紹介する。古来大井川筋では、杉の間伐材の杉葉を挽いて
杉粉を作っていた。支流に掛けた水車を使って杉葉を輾いた
のである。大井川筋は杉の美林が多く、江戸初期には、紀文
が幕府から請け負って、その杉材を大量に移出して寛永寺を
造成したのは有名である。また、この地方は川根茶の特産地
であり、茶箱を杉材で作るために用いたので、杉葉が多量に
出た。杉粉は、京大阪に上質の蚊遣りとして出荷されたので
ある。
庶民は、杉葉をそのまま火鉢や陶器の火桶に入れて燻して、
蚊遣りに用いたが、これは煙が大量に上がり、商家や公家の
屋敷には不向きである。代わりに、蚊遣り徳利という、大徳利
に似た形状の筒状陶器の中に、炭火や熾火を入れてそこに杉粉
をくべて煙を出して蚊を追い払った。明治になり、除虫菊が
輸入されて蚊取り線香が出来るまでは、杉粉製の蚊遣りは、
どこでも必需品であった。(今でも、合成薬品の加えられた
蚊取り線香や除虫菊の副作用を嫌う人によって、杉粉の蚊遣り
や杉粉を原料にした杉線香が、自然薬品として使われている。
九州八女の“水車杉粉”とか、北関東の杉林から取られる杉葉を
用いたその名も“杉並木”などという商品がある。)
この為、川根では「蚊の事を“お杉”と言った」というのだ。
お杉では杉粉の事になってしまうが、その杉粉の蚊遣りで退治
する対象が、“杉粉の相手”を略してか? “お杉”と言ったのだ
そうだ。(今ならさしづめ“ピーコ”だろうか。)
「お」が付いていることから、いわゆる京都の女房言葉の類
か?と思われるのである。
“アララギ(野蒜)の匂い消し”の“藤袴”、それを簡略?化して
“アララギ”と呼んだのであろうと考える。
ヤクザとは、元来賽の目で八九三の目が出た事をいうのだが、
八九三は足して1の位が0になってしまうので約物にならない
ので、役に立たない→役立たずの者=ヤクザとなったのだ。
こういう具合に暗喩的な表現で、本来の意味とは反対の物、
異なる物を指す事が、日本語ではしばしば生じる。
アララギはその例であろう。
しかし、応神紀の記事も含めて、天孫族が月氏ネギ族であり
和族であった事を知らなければ、こういう解釈は出てこない。
蘭→藤袴という風に短絡してしまったのは、蘭(アララギ)=
野蒜が、皇族(天孫族)にとって特別な意味のある草本である
事が知られていない為である。
葱韮類の後世云う強精植物は、仏教の盛んになった時代には
「五葷を避ける」という中国伝来の風習が広まり、韮類食を
控える様になって行った。このためアララギも、単に藤袴を
表す語として残り、匂い袋も純粋に?薫香を娯しむ為の物と
なったのだろう。
ところが宮中では、江戸時代まで密やかに韮類食が継続して
いた。この為に女房言葉にも、一文字(=葱)、二文字(=大蒜、
野蒜)という表現があった位である。宮中も江戸期には完全に
仏教化した世界であったが、古代の葱韮族以来の習慣が残存
していたらしいのは興味深い。
民間でもいわゆる“薬食い”として、ニラ(韮)やニンニク(大蒜)
の養生摂取が行われたが、仏教教団の勢力の強かった地域では
相当に五葷忌避が励行されたのである。
曹洞宗の盛んになった遠州の大井川筋などでは、「ニンニクは
日本人の食うものではない!」などと、人種的偏見も交えた
禁忌があった。全くの誤解によるものだ。
むしろ朝鮮半島のニンニク食は、葱韮族がかつて三韓に居た事
の遺物だろう。
「朝鮮の辛い物好き」などと揶揄する馬鹿がいるが、唐辛子
を朝鮮に持ち込んだのは、南蛮貿易で唐辛子を輸入して普及
させた秀吉の朝鮮侵略軍の将兵だったことも想起すべきだ。