「天孫族考」補遺12 「博多から伊方まで」

「天孫族考」補遺12  「博多から伊方まで」

(博多、宗像、直方、浦方、伯方、波方、

伊方---------地名◯方は何を表すのか?)

☆博多とは何か?

先に、補遺10で、以下の如く書いた。

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「ここで奴国について考察しておこう。奴国の奴とは那の津の那と同じであろう。

この“ナ”というのは、波際=ナギサ(渚、汀)であり、寄せる波の破端の事であろう。

だから、奴国とは渚にある国という事であり、その意味では特殊な部族を示唆する言葉では無い。一応の解釈としては、博多湾を根拠地とした海人族の建てた国という事になっている。

※ここでその“博多”という語の由来についても定説はない。

伯方島という島が芸予諸島の大三島の東側にあり、この伯方は博多と同じだとされる。伯太という書き方の神社も畿内にあり、この伯太も同じだとされる。というのも博多神社とか伯太神社とかの祭神には共通性があるからだ。大抵は神功皇后と応神帝そして武内宿禰や仲哀天皇を合祀する所が多い。八幡宮の別の祭祀形態かと思われる。(ハカタとヤハタの音の近さも!)」

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だが、この考察は甘かった。

先ず、畿内にある伯太神社は、偶々読みがハカタであった為「博多神社」と書かれたが、八幡宮との共通の祭神は、明治の合祀令によって他の神社との合祀になってそちらの祭神が一緒に由緒書に表示される様になったのであるらしい。

(これこそ、補遺11で警鐘を鳴らした;合祀された神社の祭神や由緒を信用してはならない!とした事案であったのだ。)

伯太神社の本来の祭神は、伯太彦と伯太姫(伯太比古命、伯太比咩命)であった。

そしてこの伯太とは伯太首という百済系渡来人で、後に田辺史(タナベノフヒト)になった氏族らしい。田辺史はその有力者であった田辺大隅が、藤原鎌足の長子を養育した事で有力氏族になった。よってその鎌足の息子も藤原不比等の名で呼ばれた。

大宝律令や日本書紀は、その不比等の指揮の下で田辺史氏が中心になって纏めたものだという。

田辺史氏は、河内国安宿郷の田辺の地(現在の大阪府柏原市国分町田辺)を本拠地としたが、ここの地名からの氏族名である。(但し田辺大隅が不比等を養育したのは山科だった。)

『日本書紀』巻第十四には、雄略天皇時代の話として、

誉田山古墳(応神天皇陵)にまつわる幻想的な物語が取りあげられている。いわゆる“赤馬伝説”である。

河内国飛鳥戸部の住人であった田辺史伯孫が、応神天皇の陵の前を騎馬で通りかかり、(天皇の霊らしき)貴人の乗る赤馬と競走して負けてしまう。それでその馬を得たいと望む。貴人は馬を替える事を承知する。伯孫は望みを叶えられて喜んだが、翌朝目覚めて見ると、赤馬は土製の埴輪馬に変わっていた。伯孫が驚いて、昨夜通った道を返すと、天皇の陵の埴輪の列に自分の馬が繋がれているのを発見する。

この伯孫とは、田辺史氏が先祖とする伯尊(これが伯太命の別名らしい)の名からして、孫に当たる人という名付けであろうか。いや音(読み)が共にハクソンなので、同一人だとする説もある。また百尊という書き方もあるらしい。

しかしこの雄略朝の話は、田辺史氏の来歴を古く見せるための創作だという学者が多いようだ。田辺史氏が来日したのはもっと遅く、皇極朝の事だともいう説もあるからである。

また住吉神社近くにも田辺の地名があり、ここに支族がいたのか?それとも住吉から河内飛鳥の田辺に移り住んだのか?

もし後者なら、伯太は波方や灘と同じで海に近い地を意味する名になるのだが? 一方、河内飛鳥の田辺の方なら、海から離れているので、伯太=波方は成立しない。

いずれにせよ、河内伯太は筑紫の博多とは関係が薄い事が判明した。伯は百済の事かもしれない。それだと百尊にも通じる。

そして芸予諸島の方の伯方島の方であるが、こちらの伯方は間違いなく博多と同じである、とされている。

というのは、天武2年(673年)に博多(福岡県)の筥崎宮から勧請されたと伝わる島最古の神社・喜多浦八幡宮がありこれが島名=伯方島←博多の由来と言われて来たからだ。

だが、この伝承も、よく考えてみると不思議な点がある。

何故なら、八幡宮が有名になったのは、聖武朝に、東大寺大仏造立に関わって、宇佐から八幡社を境内に勧請した=手向山八幡が出来てからだというのだ。それより数代前の天武朝に、都にではなくても伯方島へ、しかも宇佐からではなく筥崎宮から八幡社をわざわざ勧請するというのは有り得ぬ事ではないか、との疑いが生じるからだ。

という事は、むしろ伯方島の名が先にあり、その伯方に因んで音の同じ博多の筥崎八幡が勧請されたのではないか?

そう考える方が自然だからである。だから結果的には、確かに博多→伯方島という風な関係がある様に見えているのだ。

そこで、元々の?筑前の博多の地名の由来は何なのか。

これには、実は決定的な説は無い。

「ハカタ」の語源は、

①「土地博く人・物産多し」という言葉から「博多」、

②大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」、

③大陸へ出る船の停泊する潟から「泊潟」、

④射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」(鶴の墓は太宰府市の榎社にあるという)、

⑤切り倒された大樹(銀杏か?)の葉が舞い落ちたので「葉形」

⑥広い潟だったので「博潟」

などの説がある。

この当時の「博多」というのは現在の博多湾に面する一帯を指すものであった。つまり後日の城下町福岡をも含んだ広域名であったという事か。

古くは「那ノ津」「荒津」「灘津(なだつ)」「筑紫大津」と呼ばれていた博多湾は、797年(延暦16年)の『続日本紀』においては既に「博多大津(博多津)」と記されているのが見出されるというのだ。

※中世初期の用語として、冷泉津という博多の別名があるが、これは1222年に博多湾で人魚が捕獲され、勅使・冷泉中納言が検分に来たからだという言われる。だが、藤原定家の孫の為相が冷泉家を名乗ったのは遥か後(冷泉為相は1263年生まれ)だから、この人魚話は眉唾なのだ。

中世の博多津は、平安末の1161年に平清盛により日本初の人工港「袖の湊」が建設された事により充実する。住吉神社蔵「博多古図」によると、当時の博多津は大きく「草香江」、「冷泉津」、(聖福寺や櫛田神社などがある博多中心部とそこから橋で繋がれた)「沖の浜」と言う出島により分けられていた。当時、比恵川(現在の御笠川・石堂川)は西に流れ住吉神社の北側で海に注いでおり、博多中心部はそれより北の部分に当たる。冷泉津は住吉神社の西方、今の天神地区になる。つまり、清盛の埋め立て事業の後既に冷泉津の名がある事からも冷泉中納言説が虚構だと分かる。(もっとも、この時の人魚の皮のミイラ?だという物を保持しているという寺社があるらしいというのも奇怪である。)

 ともあれ、そこ博多が古代の那の津と同じ所であるなら、両者には同じ意味合いがあって当然と考える。

先に、奴国の命名由来を考えた時に、

「この“ナ”というのは、波際=ナギサ(渚、汀)であり、寄せる波端の事だろう」としたのだが、博多も実は波方なのではないかと考えるのである。「灘津(なだつ)」も畿内の難波津と同じ意味であり、博多は難波方・浪方=波方ではないか。

伊予の伯方島も波方島であり、いずれも海に臨む地という事なのであろう。

だから、伊予の四国本土側にも波方半島という地名があるのだ。

これらはどこかに起源があっての地名伝播ではなく、別個に成立したものであるが、同義だというわけである。

ところで、博多=波方だとすると、九州北部には、他にも◯方という地名が複数ある事に気付く。

先に、“魏志倭人伝の不弥の国の不弥は舟の事では無いか?よって宗像も実は舟方だろう”という考えを述べた。

更に、唐津の呼子半島の名護屋には浦方という港津の地名がある。ここを発祥の地とする浦方姓の人々がいる。浦方自体は、中世には、浦に住む人の意味で、漁師一般を指した言葉でもあった。

浦方は非有名地名であるが、超有名な◯方が北九州にある。言わずと知れた直方である。

☆直方とは何か?

直方の地名由来を考察してみよう。

直方市の公式HPでは、

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直方の中心部は、かつて、鞍手郡倉久村(現 宮若市倉久)に所在する内山寺の末寺である東蓮寺があったことから東蓮寺村と呼ばれていました。元和9年(西暦1623年)初代福岡藩主の黒田長政が亡くなりました。その遺言で、四男高政に4万石を与え、この地に支藩を作ることになりました。藩主の館がこの東蓮寺村におかれたので、この藩は東蓮寺藩となりました。

延宝3年(西暦1675年)、東蓮寺藩は直方藩と改名しました。

「東蓮寺」を改名するにあたり、儒学者貝原益軒の兄で、当時本藩である福岡藩から出向いていた貝原元端が「直方」と命名しました。これは、藩内の小村「直方(能方)村」(現直方市中泉)の読みを取り、中国の古典『易経』から縁起の良い「直方」の字を当てたといわれています。

また、命名にあたっては南北朝時代にこの地方が、勤皇方

(きんのうがた)であり、懐良親王(かねながしんのう)方、つまり王方(のうがた)であったことにちなみ、そう呼ばれていたとも伝えられています。

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この王方→能方説については、次のようにより詳細に触れている人もいる。“筑豊ロマン”というブログである。

URL: https://chikuhoroman.com/2020/06/15/name-nogata/

南北朝時代に遠賀川を隔て、東側に幕府方、西側に天皇方が対峙し合戦へと発展した。この「天皇方」、「てんのうがた」と読み、それが転じて「のおがた」と呼ぶようになったという。

もっとも漢字では「能方」と記す場合もあるようだ。(ちなみにこの「能方」という地名が指す場所は、現在の直方市中泉あたりという。)

この他にも説はいくつかあるが、「直方」という地名が史実にはじめて登場するのは、江戸時代に福岡藩の支藩である直方藩(東蓮寺藩)の誕生にある。このころには確実に「直方」と人々から呼ばれていたことは間違いない。

現在の直方市街地の中心を遠賀川が流れているが、その流路はカーブが少なく、直線的になっている。このことからすれば、先の干潟が一直線にのびる様子を想像できる。

一方、直方市と隣の福智町にまたがる山城、鷹取城の歴史の中に、応永六(1399)年南朝方の武将であった菊池武宗(肥後、現在の熊本県菊池地方を拠点とした)に攻略され落城したという記録がある。このほかにも戦乱の記録がここ鷹取城にあるが、南北朝時代の戦乱の舞台の一つだったことは間違いないようだ。中世にも「のおがた」という言い方が、この地に定着したのかもしれない。

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だが同じブログでは、次のような別説も述べられている。

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このサイトのコンテンツで縄文時代の筑豊について取り上げたものがある。ここで「古遠賀湾」についてお話ししているが、直方市域の平野部がすっぽりと海の一部、直線的に内陸部へと入り組んだ入江となっていた。そんな地形の特徴、遠浅の干潟がまっずぐに広がっていたという事にちなみ「真っ直ぐな潟」が「のおがた」へと転じた。こんな説がひとつある。(※つまり「直潟」だという説。)

干潟にはさまざまな生き物が生息し、魚や貝なども豊富で、当時の縄文時代の人々にとっては、食糧庫や栄養源として活用された。その証が直方市や鞍手町に今も確認できる貝塚である。

この当時「のおがた」と呼ばれていたかは定かでないが、地名の由来としては説得力がある。

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(※つまりは直潟で、越後の直江と同様な発想か?と思われる。)

そこに出てきた古遠賀湾については、天孫族考本文の水巻の宮について述べた時に言及したとおりである。

私は、“親王という時に王をノウと読むというのは、shin の末尾のn音が王oho の頭音oに連濁してno になるからで、単独の王はno ではない。だから王方→能方→直方説は無理な付会だ”と思える。逆に、直方が先にあってそれが nao-kata という音韻の連続が、発音軽便化の原理で、強音のka の前の二重母音ao が弱音のoh になり、その結果k →g となって、nohgata の読みになったと考えられる。(むしろ直潟が語源なら、その発音が元に戻った、とも言えるかもしれない。)

という事で考えれば、やはり直方もまた宗像=舟方、博多=波方、浦方と同様に、西日本に多い“◯方”の地名の一つだと、私は思うのである。

しかも博多・宗像・直方は隣接した筑前の地名なのだ。

☆元来は地名ではない◯方も

地名では無い◯方は、ある種の職能集団の人々を指す用語法であった。

古代の、陶方、土方、野方、田方、山方、船方---------というほかに、

中世では、馬方、牛方、駕輿丁方、御祝方、埦飯方、---------

舞方、笛方、太鼓方などは神楽の専門分野、---------

地方、シテ方、囃子方などの能楽の職分名、

近世では

浄瑠璃方、大道具方、表方・裏方の舞台関係技能者、

また、幕府や大名家の職分職制である

町方、勘定方、寺社方、道中方、林方、天文方、地方--------

というような具合である。

更に、日方という氏名(ウジナ)がある。

これは何らかの形で、斎日(太陽神祭祀)に関わる集団に因むと従来考えていた。即ち、春日部、日置部、日下部、日奉部などかと。しかし、よくよく調べると、これは紀伊海南市の地名の日方に因むものだったと分かった。日方川なる河川の下流の町の名である。職能に関わるものではないようだ。そして、日方とは、日の差す方(方角)=南から吹く風の事である。これは季語にもなっている。紀州でいう南方であり、南九州では“南風”というものだ。建御名方神は実は建南方ではないかと思っていたので、これはいつか考察する機会を持ちたい。

考えてみると、浦方・博多・宗像・直方・波方・伯方の中にも、浦方や宗像(舟方であるとして)は職能集団に因むものがあると言えなくもない。

その延長で考えた時には、波方も単なる場所を示すだけの地名ではなくて、波方という職能集団即ち綿津見族を示す言葉かもしれないのだ。だとするなら波方は舟方でもあり得る。

もしそう考えられるなら、伯方島の伯方も、波方という外に“泊方”で港津の役方の意味合いがあるのかもしれないのである。

一方、直方にはそういう職能集団を示唆する物は、今のところ思いつかない。

更に、西日本以外には、この◯方という地名は殆ど見当たらない。唯一、関東の霞ヶ浦地域に行方の地名が残る。これも従来は波方と同様にナミカタでそれがナメカタと転じたという事になっている。しかし、この地が、多氏水軍の進出した鹿島隣接の地であり、多氏もまた綿津見族であったとするなら、行方もまた、北九州の海人族に因む地名なのかも知れない。

茨城県行方市のHPには、地名の由来として、

「ヤマトタケルノミコトが本市の水辺と台地の入り組んだ様子を“行細し(なめくわし)”という表現をしたことが始まりといわれています。」と載っている。行は人の列(ヒトナミ)を表す文字なのだが、転じて“何かの並ぶ列”を示す言葉にも使われた。

ではこの行方台地において、並んでいるものは何か?

複数の入江が歯列の様な形状で細く入り組んでいる様だから(リアス式?)というのが、市の地名由来譚であるが、架空の倭建命を持ち出しての伝承は、中世の修験者あたりの創作であろう。

それよりも、私が想像したのは、もしかすると、行方市の市樹になっている銀杏の列ではないかというものだ。

銀杏は水巻宮伝承では、建内宿禰が伝えたものだという事になっている。建内宿禰が日之下建と同一人である事は、「天孫族考」本文で詳しく論考した。

こういう伝承を下敷きに、先の行方市HPに載る伝説が生じたものではないか。

そして、もう少し◯方地名を探してみると、他に3っつばかり該当するものが見つかる。三方、宗方、伊方である。

三方は若狭のいわゆる三方五湖のある地域の地名である。

三方五湖とは、若狭湾沿いの余り高くない山々の谷に点在する三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖の5つの湖だが、その内、三方湖、水月湖、菅湖は相互に繋がっている。この3湖が、かつて三潟と呼ばれていて、それが三方になった。久々子湖、日向湖は独立した湖水である。

(最近では三方五湖レインボーラインの展望台からの久々子湖、日向湖と若狭湾を一緒に眺望する景色が有名になり、あたかも五湖の代表が久々子湖、日向湖だと誤解している人が多い。)

だから、この三方はいわば直方と同列の造語かもしれない。無論ある種の職能集団を示唆する意味合いは全く無いだろう。

次に宗方だが、これは大山祇神社のある大三島の南岸にある。

ここは、中世に大山祇神社を支配していた天台宗の熊野水軍系の海山伏が、宗像三女神を勧請したものであり、宗方=宗像である。

そして最後に伊方について論考する。

☆伊方とは何を表す地名なのか?

実は伊方は3箇所に存在する。

a)先述伯方島の西岸にある伊方、

b)伊予の佐田岬半島付け根の伊方、

この二つは共に海辺の地名だが、

c)筑豊の内陸部・田川地域に伊方(田川郡福智町伊方)がある。

この伊方の地名は特別な意味を持つ物である可能性があるので詳しく分析してみる。

そも伊方とは何を意味する言葉なのか?

これを考えた先人がいたようで、次のように書いている。

といっても、伊方という姓名について由来を考究したものだ。

先ず、簡単な方、「方」という文字のカタの意味から。

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“方”の由来や意味

(かた。むき。方向。まさに。手立て。方法。)

左右に柄の張り出た鋤を描いたもので、←→のように左右に直線状に伸びる意を含み、東←→西、南←→北のような方向の意となる。また、方向や筋道のことから“方法”の意を生じた。

文字の種類=象形文字

“方”は象形文字という種類の文字。 象形文字とは、漢字分類の用語としては、目に見えるものの形をかたどったり、描かれた絵をもとに作られた漢字で、表語文字の一種。

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つまり方角を意味する言葉である事に違いはない。

方角は、陰陽道とか道教では、それぞれ特別な意味があり、吉凶を占う時に“方違え”などの風習も生じた。また方士という職能がある。これは古代の神仙術者であり、その術法を方術と呼んだ。これが発展して道士となるのである。

秦の始皇帝によって不老不死の薬を求めて東海に派遣されたという徐福も方士である。

という事は、古代においては方(方角)は、単なる無味の方角では無く、有意な観念だったという事である。

で戻って“伊”の事である。

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“伊”の由来や意味

伊豆の伊。

「尹」は「丨」と「又」を組み合わせた漢字で「右手で杖を持っている」様子を表現している。これに人を表す「亻(にんべん)」を合わせて「杖を使って神様を呼び寄せる聖職者」を指すように。転じて「人を導く」意味もある。

尹(イン)は、手で「丨」印を持った様をあらわす会意文字で、天地の間を調和する様を示す。伊は「人+音符尹イン」で、万事を調和する人物を示す。

文字の種類=会意兼形声文字

“伊”は会意兼形声文字という種類の文字。 会意兼形声文字とは、二字以上の漢字の字形・意味を合わせて作られた会意文字と、音を表す字と意味を表す字を合わせた形声文字の特徴を併せ持つもの。

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という事である。つまり「伊」は単なるイという音声以上に深い意味を持つというのだ。

私は、かつて日本語の語素の一つとしてのイは、イシ(石)とかイワ(岩、磐)やイワオ(巌)の様に、「岩石を表示するもの」という説を信じていた。そこで磯や伊勢、伊豆、伊予などもまた岩場の多い海岸や土地(例:伊賀)であり、伊の文字自体は借音にしか過ぎないと思っていたのだ。だがこうして「伊」には極めて濃厚な呪術的なニュアンスがあると分かれば、発音上の磯や石などは兎も角、伊の漢字をもって表す伊勢・伊豆・伊予・伊賀にも呪術的な意味合いがあるのだと思える。

紀伊も国名二文字表記の方針に従って、紀を末尾の音韻(母音)イを付して強調したのだというのが従来の解釈だったが、それだけなのか?やはり熊野大神の坐す国のニュアンスがあっての紀+伊ではあるまいか。紀井や紀彙とか紀維ではなく紀伊!なのだから。

伊勢は全くの神の国となったし、伊豆は忌部の出身地の一つであり、更に三島神社のある国だ。水巻宮を取り巻く神社に、厳神社と伊豆神社の二つがあるがこれは異字同義であろう事を述べた。更に伊予こそ、大三島の大山祇の坐す国である。

そうすると「伊方」もまた、何か呪術的な意味のある地名ではないか?と予感する。

先ず、内陸の伊方(筑豊の田川)から考察してみよう。

この伊方は、遠賀川支流の彦山川右岸の台地=伊方台地の地名である。そこには田川地区最大の円墳(径30メートル級)である伊方古墳のある所だ。この古墳からは、6世紀後半の物と見られ、早くから開口して(盗掘?されて)いるため、埋葬状態や副葬品は不明な部分が多いのだが、出土品に須恵器、土師器と呼ばれる土器類があり、金銅装(金メッキ)の馬具や金銅装の馬具のような豪華な副葬品も見られることから、この地方の権力者の墓と考えられている。

そこで地名の由来としては幾つかの可能性が考えられる。

①方田(保田、宝田)のあった所ではないか?→ここは台地上であるので、水田適地ではないから保田であった可能性は低いと思われる。(陸稲の保田はあまり聞かない。)

②ここの台地上に、斎日壇である日下があって、日下壇=日下田だった可能性。カガタ→ヒカタ→シカタ→イカタと訛化したというもの。斎日壇だったから伊方と伊の文字が使われた。

 (田には水田の他に区画された土地の意味がある。)

③彦山川の対岸には金田という地名があり、左岸側は低湿地であったから、ここに保田(保牟田)があって、伊方は台地上からその金田を望む位置にある。保田を望む丘という意味か?

④ここの台地上に、遠賀川中流域を支配する葛城氏の出城があり、そこは祭政一致のマツリゴトの地であった可能性。

 これは、この伊方の別名が“方城”というからである。

遠賀川の支流である桂川が桂木(葛城)氏の支配地だろうと、天孫族考本文で述べたが、桂川には6世紀の装飾古墳として有名な王塚古墳や、また隣接する若宮には竹原古墳がある。

古墳は墓所であるので、その辺りを彦山川沿いから見て伊方と呼んだ、というもの。

これらはいずれも、伊方は厳方、斎方の意味合いだという事になる。

この解釈を踏まえれば、海岸の伊方二つも解読し易い。

先ず、伯方島の西岸にある小湾の浦辺の伊方だが、これはその小湾が、隣の大三島の南西方向に開いており、伊方は大三島の大山祇神社を遥拝する浦辺なのだ。今の大山祇神社は、大三島中央の谷間に移転したが、古代にはもっと南の海岸に鎮座していて、すぐ北にある鷲ヶ頭山が神体山だったのだ。伯方島西岸の伊方はこれを望む所である。

つまり、伊の方角を示す土地の意味になる。

そして最後に残るのが、南予の佐田岬半島の付け根の北岸にある伊方である。この伊方が最も著名な伊方である。

伊方には立神岩という海中に孤立する巨岩があり、中世には海山伏の修練場でもあった。

伊方は近世には伊方杜氏の出身地として、伊予や四国各地に杜氏を送り出していて、独特の習俗を持っていた地域である。

この特別な奇岩である立神岩と、松山の西北の岬である白石鼻の先の海中に構築された人工の石組である“三ツ石”を結ぶと、その三ツ石で興居島にある磐神神社からの線が直角に交わる事が知られている。磐神(岩神)神社は島にある径30メートルもの巨大な自然石の磐座を神体とし、これは海神大山祇の長女媛である磐長姫を祀っている。かつて伊予灘を行く船は、海神の娘に敬意を表する為この興居島に差し掛かると緩行し、御神酒を捧げたり、御幣を海に投げ込んだりして道中の無事を祈ったという。

三ツ石については、私の別稿「磐長姫幻想」では、次の様に言及してある。

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ここ十年ほど前から郷土史家によって、三ツ石は自然物の岩礁ではなく、人工物だとして、ドルメンの一種ではないかと言われる様になりました。そして伊の国=磐の国だから、伊予にも九州山地や吉備地方同様に巨石文化があったのではないか?として、「伊予巨石群遺跡研究会」が組織されて活動しているとのこと。

その伊予巨石群遺跡研究会の調査によれば、三ツ石は下部の左右の巨岩の間の空洞が、ほぼ東西を向いており、この為春分・秋分の上がり日・入日が空洞に差し込むとの事で、やはりこれは自然物であり得ず、太陽崇拝と関係のある人工の巨石構造物だという話になって来ました。

※この「磐長姫幻想」は、テレビ番組の企画として纏めた物で目下は某テレビ番組制作会社に預けて、番組化を委託中だ。実現には、今のコロナ禍もあって、恐らく2年くらいはかかるとの事なので、私の存命中に見る事が果たして可能か分らないのである。

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わざわざ海中に人工の石組を構築したのは、この位置が伊予にとって特別な聖線を形作るからである。

即ち、三ツ石に延ばして見た立神岩からのラインの北東には、松山市の伊予北条地区海岸の沖に浮かぶ鹿島(北条鹿島)の山頂がある。鹿島は多氏海人の活動した拠点に命名される特別な地名である事は、天孫族考本文で詳述した。

しかも、この北条鹿島は、更に神秘の場所である。今辿った松山の三ツ石からのラインを北東に更に延長すると(実際には鹿島山頂から北東を望む行為になるのだが)そこには北条地区の北東に聳える新城山という山の上にある巨大な磐座とも見える自然石の岩壁にぶち当たる。

この巌は上がV字状に二つに裂けていて、これを巨大な女陰とみなしてこれこそ伊予媛の岩壁と呼ぶのである。

伊予媛とは、大山祇の息女二人の姉=兄媛である磐長姫にほかならない。妹は天孫邇邇芸の正妃となった木花咲耶姫である。この兄姫こそが県名の愛媛の由来である。

(実は更にこの聖線を北東に延長して行くと、何と大三島の大山祇神社の参道入り口=一の鳥居の、やや西南の海岸にある阿奈波神社の神体山・御串山に突き当たる。そしてその麓の阿奈波神社も磐長姫を祀る神社なのである。磐長姫の別名は髪長媛なので、御串山も御髪山ミクシヤマかもと思う。)

とこうして見ると、立神岩のある伊方は、従来は“岩の多い海岸(岩礁海岸)なので磐潟と呼ばれていたのが伊方になった”というのが通説であるが、実は“伊”なる方角を望む地だから伊方だったのだ!と気付かされるのである。伊の方角とは、無論神秘性のある方角という一般的な解釈の上に、むしろ伊予姫の居る方角だからなのかも知れない。

そういう海神の神秘の土地である伊予の伊方に、原発などを造ってしまったのは、世が世であれば大層罰当たりな事になるのではないだろうか?

熊本震災の時に盛んに言われた様に、阿蘇から大分佐伯そして佐田岬半島は、中央構造線に載っている。何時この構造線の活動が(恐らく南海トラフの震災に刺激されたりして)復活しないとも限らない。そういう伊方の地でもある。(伊方原発に事故ある時、その先の佐田岬半島の漁民は避難の道が無い!と懸念されている。)

その時、我々は、磐長姫と大山祇の怒りの報いを知ることになるだろう。

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