補遺13 日本海の海人族〜輪島〜
新規投稿ブログ 2021/08/30
「天孫族考」補遺13 日本海の海人族〜輪島について〜
本考の補遺8で、籠神社と丹波の海人族を考究した。
だが、山陰側の海人族:和邇氏等は丹波〜若狭にかけての事績伝承はあるものの、それより北つまり北陸地方以遠の沿岸には、濃厚な移住伝承が伝えられていない。(唯一、例外が信州の安曇野である。)
能登以東の海人族の形跡
令制の分国;越前、加賀、能登、越中、越後は古代には一括して「越」と呼ばれた。この越への先住移民は恐らく出雲族の一派であろうと想像されてきた。これは越の奴奈川姫と大国主の婚姻伝承もあるからである。
※もっとも、この地域には能登半島先端の真脇遺跡や糸魚川の寺地遺跡などの縄文時代の遺跡があり、真脇などは農耕はせずほとんどの食料を海産物に依存していたと考えられている。だがこの先住民がどのように弥生期に移住して来た出雲族系と推定される民と、共生もしくは服従関係になったのか?などは未解明である。
糸魚川市の観光ガイドは、次のような記述を載せている。
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「奴奈川姫」は『古事記』『出雲風土記』などの古代文献に登場する高志国(福井県から新潟県)の姫であると言われています。『古事記』では出雲国の大国主命が沼河比売(= ぬなかわひめ?)に求婚に来たとあり、また、『出雲風土記』では天の下造らしし大神(大国主命)が奴奈宜波比売(=ぬなかわひめ?)の命と結婚して 御穂須々美(みほすすみ)命を生み、この神が美保に鎮座している、と記されています。
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そしてこのガイドでは、これに続いて、奴奈川姫に関わる伝承の数々を紹介しているが、その中で注目したのは次の記述である。
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根知村字梶山の駒ヶ嶽は、ひし(絶壁)の所に駒に似た白い瘤があるから付いた名だ。---------
一説。奴奈川姫が駒ヶ嶽の麓に居られた時、大国主命が
尋ねて来た。門口に男と女の声がした。男は土地の神であった。二人は賭をし、大国主は牛、土地の神は白い駒に乗りとんだ。土地の神は早かったが、駒は動かず石に化してしまった。それで大国主の牛が先に洞穴へついた。
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ここでは、大国主が出雲族のトーテムである牛に乗った事にされている。
(私の天孫族説では出雲族は黄牛族である。白い駒は白馬族=秦氏の事だろう。)
こういう伝承は、上古に出雲族が高志(越)にまで進出して来たと言うことを示唆するものだと考えられる。
さりながら、越中の糸魚川〜白馬〜安曇野はその名の如く阿曇族が移住して来た事を示している。その地域の“エッジ”である上高地には穂高見命祭祀が伝承されて来た。穂高見命は、阿曇の内(宇佐系か?)豊玉彦命の子神だという。
また糸魚川で日本海に流入する姫川は、奴奈川姫が大国主から逃れて帰り、追っ手に追い詰められて入水したので
姫川の名になったという伝説がある。そうすると、姫川の流域を根拠地にしていた部族の神であろうから、海人族との関係があるかもしれない。もっとも、
>> 青海町黒姫山の東麓に「福来口(ふくがくち)」と
>>いう大鍾乳洞がある。ここに大昔、奴奈川姫が住んで
>>おり、機を織っては、洞穴から流れ出る川でその布を
>>さらした。それでこの川を「布川」という。
という西頸城郡の伝承があり、更に『天津神社並奴奈川神社』の伝承では、機を織っていたのは、奴奈川姫の母親の黒姫命(黒姫明神)だという。
機織は秦氏の関わる職掌なので、姫川流域に住んでいたのは秦氏系の部族だったのか?姫川上流は翡翠の産地でもあり、玉造部も出雲族に隷属した秦系部族の職掌である。
もっとも、宇佐の秦氏のように、海人系秦氏も居たと考えられるので、安曇野に遡上したのも、秦氏系の海人だったとしてもおかしくないのかもしれない。実際琵琶湖の北東部では、古代には安曇氏と秦氏はほぼ混在している様にも見えるのである。
そうすると、丹後籠神社〜越前/加賀〜糸魚川ではいささか跳び過ぎているので、必ずしやその中間にも海人族の事績が残っている筈である。
そのミッシングリンクが能登半島の輪島ではないかと推測した。(また奴奈川神社の伝承では、大国主と婚して暫く能登にいた奴奈川姫は、能登から姫川流域に逃げ帰った事になっている。)
輪島について
だが、そも輪島という地名の由来は何なのだろうか?
種々の説があると言われながら、実際にその幾つかの異説に辿り着くことはできない。多くの書やガイドが「輪島とは倭の島の事だ」としており、これが最有力説という事になっている。
能登には西岸(能登外浦という)に福良湊があり、そこには渤海使の迎賓館である能登客館があったという。渤海使や、また古代に高志に大陸から渡来する人は、季節風によって能登を目指して来日するので、最初に視界に入る能登の北部にある輪島を「倭の島」だと言い、これが輪島の地名の元になったというのである。
さりながらこの説はいささかならず不可思議である。渤海使から見れば、確かに倭の島だろうが、それを日本側から見ての名にするというのはおかしい。しかも能登近辺に来着するといっても必ずしも輪島の村落に近い海岸に着くとは限らない。むしろ福良のある西岸に着くという方が自然である。だから福良側に倭島の名があるのであるならともかく、何故今ある輪島が倭島なのか。倭の島の代表になるような何かが輪島にあったのか?
強いて考えれば、輪島の北洋には海上50 キロに舳倉島が、そして輪島〜舳倉島の丁度中間の七ツ島(今は無人)があり、古代の海人には、一つの航海目標となっていたという可能性はある事だ。
古来舳倉島には、輪島の東にある名舟村が出漁しており、名舟村ー七ツ島ー舳倉島には、宗像三女神が祀られている。丁度、宗像の辺津宮ー仲津宮ー沖の宮の関係に相当するのだ。(実際には名舟には奥津姫神社がある。)
だから、もし渤海使なり大陸からの渡来人の視点で見れば、最初に視界に入る舳倉島こそが倭島でなければならない。またそうなら、舳倉島が倭島であって、その島その物を遥拝するのが(輪島の町の中心にある)重蔵神社で、この重蔵というのは実はヘグラの言い換えなので、舳倉=倭島:重蔵=輪島という図式なのであろうか?
だがこれは少し穿ち過ぎだろう。
輪島=倭島説を離れれば、他にどんな解釈があるのだろうか?
第一の仮説は、和邇の島:丸邇島→(丸は輪なので)輪島というものである。能登半島には志賀とか鹿島の地名が残る。これらは共に和邇及び多氏の和族系の海人族の居住地の地名である。だから古代において、和邇氏系の海人族が、(恐らく先住していた出雲族系を駆逐して)能登に進出していたのは想像に難くない。
和邇を丸邇とも書くのは、丸が輪でもあるからだとも、また丸は太の変字だともいい、和邇氏は太氏(多氏)の同族である。
和邇及び多氏は別稿でも見たように、綿津見族でもある。
綿津見とは渡津見であるが、もしかすると丸太津見=輪太津見かもしれないのだ。
(だから私は出羽もまた実は出輪で、丸邇族の出端の意味ではないかとも考えている。)
第二の仮説は、素直に輪島=輪中の島と考えるものだ。輪島の旧い町域は、西に流れる鳳至川(河原田川)と東に流れる塚田川に挟まれているが、古くは、河原田川が輪島の南で二つに分かれ、右側の流れは塚田川の途中に合流していたと思われる。つまり輪島は河原田川の中洲に作られた輪中の地=文字通り川中島だったのだ。
輪中は天孫族考の補遺で触れたように、多氏水軍と秦氏系川人の二つの氏族が関わるところで行われる治水技法なのである。
能登は先述のように、和邇系海人の痕跡があり、また秦氏系川人が居た可能性がある。輪島の産土神という重蔵神社は、中世前期には河井寺社群という天台系の神仏習合の拠点寺院であった。
その頃は重蔵神社は重蔵宮と呼ばれた。この河井寺群を開創したのは、白山信仰を広めた泰澄上人だが、泰澄は越の秦氏系川人部の出身である。河井寺という通称こそ河合であり、中洲島である輪島にふさわしい呼称である。(河井寺院は4カ寺で構成されていたが、総称を正しくは何と言ったのか? 戦国末期に前田勢による能登侵攻で、河井寺社群が焼き討ちされて文献が残らぬ為判明しない。本寺は中能登の石道寺だが、こちらもその時の闘いで焼かれた所が多く、末寺の輪島河井寺についての記録は残っていない。)
河井寺が開創されたのも中世前期であるが、その頃既に輪島港は北行商船の寄港地として、日本海側海運の中心港津の一つになっていた。この中世に三津七湊と言われた港の一つが輪島であったのだ。しかし江戸初期には、加賀藩が(後述の理由で、輪島を圧迫するため) 北前船の能登外浦での寄港地を曽々木と指定した事で、一時は港津機能が弱体化したという。(さりながら、曽々木より輪島港の方が、輪島崎の半島があって西風を避けられる為に)北前船の船頭達が輪島寄港を求めたので、加賀藩もやむを得ずこれを容認したのである。もっとも外圧だけでなく、江戸中期に生産量の増えた輪島素麺(リントウソウメン)と輪島塗り漆器類の移出の為の船積みの必要性が増したという内的な理由もあったのである。
漁業は専ら名舟村の漁民の舳倉島や七ツ島まで含む中遠海操業が中心であった。そも名舟の村名も、宗像=舟方に因むという説もある。宗像女神の信仰を共有することから見て、彼らのルーツが北九州にあった事が推理される。
また輪島近辺には舟木の地名もあって、そこは造船氏族である舟木部(秦氏系員弁〈イナベ〉族)の居住地だったとの伝承もある。また能登二宮神社の神職は船木氏である。
輪島といえば朝市が有名だが、この輪島の市は、既に古代から開かれていたようで、当時越中守だった大伴家持が、能登視察の途上に泊まった「大市の駅」というのが輪島であったと言われる。
何を商う市なのか?は明らかでは無いが、中世に入ると、素麺が中心取引商品になって行った。朝市商人の祀る市姫神社が朝市の通りの海側にあるが、この祭神は(宗像女神の)市杵島媛であるが、その祭壇には御神体の磐の代わりに石臼が使われている。素麺の材料である小麦を粉に挽く為の道具が石臼である事から、輪島の市の主たる商品が素麺だった事を示している。
(また輪島は、他の大都邑と隔絶している為に人買い商人の市場としても有名であった。)
平安時代には、輪島周辺は大家荘という荘園であり、一時は上皇領になったり青蓮寺門跡領になったりしたが、鎌倉時代には、平家追討に功のあった遠江長村(?)の御家人であったという長谷部氏が地頭に任じられて能登に入り、鎌倉時代を通じて国人化した。大家荘は、輪島港の交易の運上と名舟の漁獲を有するという点で旨みのある荘園であった。(長谷部氏は、長谷川氏や服部氏同様に秦氏系の武士だったので、何か能登に封じられる曰くがあったのだろう。)
鎌倉時代の日本海は津軽から若狭までが、津軽の十三湊を母港とした安東水軍の制海権下にあった。安東氏は、北条得宗家の被官となり、強大な権勢を有した。一時は、対岸の沿海州方面との交易もしていたようである。だが、この安東水軍は、十三湖周辺の天台宗諸寺院の衆徒;いわゆる“海山伏”が中心を担っていた。
児島ー塩飽水軍や、大三島の河野水軍(後世の村上水軍の祖)などほとんどの水軍は熊野水軍系の海山伏のネットワークで結ばれていた。鎌倉ご家人であった長谷部氏が地頭をする輪島は、若狭と北國路を結ぶ丁度良い位置にあり、北条氏系安東水軍の良好な寄港地としても機能していたものと思われる。
(※「海山伏」については研究論文が乏しいので、詳しく知りたいなら、私のホームページを参照してほしい。
URL は、 https://bit.ly/3jn43X2 である。)
しかし南北朝時代から室町時代に入ると、領主の交替による激動に巻き込まれて、輪島の運命は逆転する。
輪島の海士町・舳倉島の海民
各種のTVドキュメンタリー番組などで、輪島の海民の村落である海士(アマ)町とそこの村民の夏の出稼ぎ地としての舳倉島の生活習俗を見たことのある人は、“海士町の民は九州宗像の鐘ヶ崎漁民が移住して来たものだ”という知識を持っていると思う。
そして、この宗像の漁民の移住がある以上、古代からの海人族の活躍の証左だと考えたであろう。恥ずかしながら私も、最近までそういう風に考えていた。
「輪島は古代からずっと九州海民の発展地だったと。」
だがこれは全くの誤解だったのだ。
鐘ヶ崎海民が移住して来たのは漸く近世になってからの事なのである。しかもそれは領主・金沢藩前田家の政策によってなのだ。
戦国末期、織田方の能登侵攻のお先手となった前田利家が、輪島やその東側にある名舟村に手痛い抵抗を受けた。輪島や名舟村は輪島の領主であった国人の温井氏の配下として、上杉方に立って戦ったのだ。この為、七尾城に封じられ能登の国主になった利家と、その後加賀をも領有して本邦一の大藩となった金沢藩からは、”輪島仕置き“という冷遇をされたのだが、今はその事は石川県ではタブーとなっているようだ。
輪島仕置きの経緯を見るにつけ、加賀藩前田家累代の輪島虐めは、何か執念というか怨念を感じてしまう。
前田家の輪島仕置き
輪島仕置きの目に見える内容は、
一つには、前田軍の輪島侵攻に抵抗した武力の一つの中核だった河井寺社群の僧兵の抵抗に対しての措置;利家は河井寺社群の内、重蔵神社を除く全寺院を焼き滅したのであり、以後この河井寺院は幕末まで復活する事は無かったのである。(これによって河井寺に蓄積されていたと思われる古代以来中世迄の文献は焼尽してしまった。河井寺は座主観音寺・別当神林寺・西園寺・仏体寺の4寺院からなり、白山を開いた泰澄上人の開基である。)
河井寺院群が抵抗したのは、単に輪島領主の温井氏に忠義立てをしたというだけではない。河井寺社は中能登にある石動山天台寺(石動寺)の末寺であったが、石動寺の衆徒は上杉方に与して前田軍に敵対したからである。本山の比叡山が反信長であった為だ。
二つ目が、輪島の領主温井氏に味方した名舟村への冷遇である。
その具体的な対応として、慶安2年(1649年)筑前宗像の鐘ヶ崎漁民に、輪島西部の鳳至川の西側にある天地地区に千坪もの住地を無償で与え、同時に(従来は、名舟漁民の漁場であった)舳倉島の漁業権をその新移民である鐘ヶ崎海民に一方的に与えた事だ。
一見、鐘ヶ崎海民が自主的に能登へ来たかの様だが、出稼ぎというには大人数の百人規模の移住だった。本来、筑前国の民なのだから、こんな多数の移住は福岡藩主黒田家の了解無しには実現されない。前田と黒田は周知の如く秀吉の宿将同士だった。
江戸城の詰め所も、前田は御三家同格の大廊下詰、黒田は同じく大廊下の松の間詰であり、城内でも身近な関係であった。恐らく前田家が黒田家当主に直接談判した結果であろう。この時、前田は4代目光高が若死にし、5代綱紀が元服前だったので、隠居をして小松に居た3代目利常が後見し参勤に江戸城にも出ていた。
利常から黒田側に働き掛けたと思われる。黒田側は、長政の子・2代目の忠之である。(この利常・忠之は外様大名ながら、共に妻と母が徳川家の姫である共通点もあり、格別親しかったと思われる。)
この乱暴な漁業権についての争議は、名舟側が藩庁に江戸期に3回も提訴したが、藩は全て尽く却下したのである。
江戸中期以降は、名舟側は沈黙していたが、明治になって加賀藩が廃されると、早速名舟村は、島の所有権と漁業権の回復を、新政府の金沢地裁に訴え出るのであった。名舟から見れば実に200年以上もの怨念だったのだ。
この舳倉島への鐘ヶ崎海民の導入策に先立ち、藩政初期には、名舟村への年貢高が何と七公三民という異常な高率で設定されたという経過を辿る。幕府天領では四公六民であり、どんなに苛斂誅求という藩でもせいぜい六公四民だったから、七割も藩が課税するというのは、名舟虐めというほかない。だが、未だこの頃は名舟は舳倉島の鮑漁を独占しており、また舳倉島への半分の海路にある七ツ島岩礁での鮑漁やそこに群れるトド漁での稼ぎがありその七割もの課税を何とか負担し得たのである。それが、慶安2年の鐘ヶ崎海民の移住という政策で、漁業の利益の多くが喪失してしまったのである。(ところが、一方で、明治の裁判で、七割の税を舳倉島の面積にまで課税された事の書類が、皮肉にも舳倉島は歴史的には名舟村の所有地だった事の証拠となったのである。
明治13年の判決では島の帰属・土地所有権は名舟村となり、輪島海士町の住民の夏の出稼ぎ漁時の舳倉島の小屋の地上権は海士町海民の物という両成敗的な形になった。この為、海士町・舳倉島住民は名舟村へ舳倉島の地代を払わねばならなくなったのだ。そこで、海士町は県庁に仲介して貰い、明治34年舳倉島の土地所有権を名舟から買い取る事にしたのである。海士町海民もまた、結果的に為政者の失敗のツケを払わされたのだ。)
輪島の統治の為に加賀藩は、七尾にある所口奉行所の配下の代官として輪島小代官を置いた。扶持40俵という軽輩の身分であったが(他藩なら、小人目付あたりに相当する身分か?)、その特異さは、輪島小代官は3人もが在地のまま併任された事だ。
小代官(幕府職制では手付に当たる)は、とかく現地の町衆や村役人などの有力者と癒着し易いものだ。加賀藩は3人を相互監視牽制させる事で、絶対に輪島の民と癒着しないようにしたのである。
幕府でも長崎奉行などは二人を同時に任じたが、この場合は、内一人が現地の長崎奉行所に赴任し、もう一人は江戸在府して、現地との連絡に当たらせ、二年程で現地赴任と在府を交代させたのであるから、輪島の3人制とは全く性質が異なる。
加賀藩では、輪島小代官ー所口奉行ー能登仕置担当年寄(宿老)という構造で能登を統制したのであるが、この能登を担務した宿老は、室町時代までは能登守護畠山氏の重臣として温井氏と昔年の抗争を繰り返した長氏だった。長氏は元長谷部氏といい、鎌倉御家人として大家荘(輪島)地頭を務めた家柄である。
長氏と温井氏の輪島領有及び能登支配を巡る闘争
長谷部氏は畠山七人衆と言われた重臣だった。室町時代の初期に、畠山氏が隣国越中守護をしていた桃井氏と戦闘し、それを滅亡に追い込んだのだが、温井氏はその桃井氏の一族だった。
しかも桃井氏を討ち取った主力は長谷部氏だったから、両者の怨讐はそこから始まる。実に200年余両者数代に亘る抗争である。
畠山氏は南北朝時代以来、足利氏に臣従して各地に転戦するが、長谷部氏もそれに従って、九州にまで転戦した。
そういう関係から、長谷部氏は足利将軍家との直の関係ができ、畠山氏家臣でもありながら、将軍家の奉公衆に取り立てられる。
奉公衆なので足利氏に近侍しなければならず、長谷部氏は奉公衆としては長氏の名で京都に滞在していた。
この間隙を縫って、温井氏が大家荘(輪島)の領主職を横領してしまうのである。足利氏の凋落で長氏は能登に戻るが、輪島地域は温井氏の支配下にガッチリ組み込まれてしまっていた。長氏は畠山家の家老格で穴水城主となった。こういう経緯から能登島の管理問題では、長氏と温井氏は意見対立した。
畠山氏の勢力が弱まって、東から既に越中を併合していた上杉謙信が、足利将軍の命を受けて、織田信長を背後から牽制する為に、能登に侵入するのである。柴田勝家の与力として加賀に居た前田利家が信長軍の先鋒として、西から能登を目指す。ここで旧畠山家臣団は二つに別れる。織田方=前田利家に付く事を主張したのが長氏であり、上杉方に付く事を選んだのは温井氏や遊佐氏であった。
遂に長氏と温井氏の間柄は、全くの敵対関係になったのである。
穴水や鹿島郡から七尾あたりにかけては長氏の勢力範囲となり、北側に孤立したのが温井氏の輪島領である。
この戦いは、飛騨側から攻め寄せた織田方の佐久間盛政の支援もあり、最終的には前田利家の勝利になる。温井氏は長氏によって滅亡し、利家は信長から恩賞として能登一国の大名とされ、七尾城を居城としたのである。現地事情に詳しい長氏が重んじられたのは当然である。
長氏は、温井氏に従った旧領民たる輪島や名舟村の民衆を許せなかった。また輪島平定に苦労した利家も全く同感だった。これにより、“輪島を赦さず”は、前田家の家訓のひとつとなったのだ。
この後、前田家が加越能三国の太守となり、金沢城に拠点を移すと、長氏も金沢居住となり、前田の重臣加賀八家の一つとなり、従来通り能登鹿島郡ほかを知行地とし、何と3万3千石の大身となったのである。だから能登政策は、長氏が取り仕切った。
(明治になっても、大身の長氏は、陪臣ながら男爵として華族に列した。陸軍の長勇少将はその末裔である。)
輪島の無形文化財になっている“名舟のご陣乗太鼓”という習俗がある。村人が死者や狂人や幽鬼の扮装をして、大太鼓を打ち、踊り狂う祭りである。この異様な風体の謂れは、一応現在の輪島では、次の様にされている。
「珠洲の三崎町に上陸した上杉勢は、各地を平定し、天正5年、破竹の勢いで名舟村へ押し寄せてきた。武器らしいものがない村人達は、鍬や鎌まで持ち出して上杉勢を迎撃する準備を進めたが、あまりにも無力であることは明白であった。しかし郷土防衛の一念に燃え立った村人達は、村の知恵者といわれる古老の指図に従い、樹の皮で仮面を作り、海藻を頭髪とし、太鼓を打ち鳴らしながら寝静まる上杉勢に夜襲をかけた。上杉勢は思いもよらぬ陣太鼓と奇怪きわまる怪物の夜襲に驚愕し、戦わずして退散した、と伝えられている。村人達は名舟沖にある舳倉島の奥津姫神の御神徳によるものとし、毎年奥津姫神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)に仮面をつけて、太鼓を打ち鳴らしながら神輿渡御の先駆をつとめ、氏神への感謝を捧げる習わしとなって現在に至っている。」
だが、これはおかしい。というのは、天正4〜5年にかけての上杉勢の能登侵攻の記録はあるが、この頃は、名舟を領有していた温井氏は上杉方に内応していたから、名舟の村民が異様な風体で上杉方に夜襲をかける必要は無いからだ。
もし、この時点で名舟村民が抵抗したとしたら、織田方の前田勢か、その先鋒になった長氏の手勢に対してであろうと考える。
だから戦後、前田領になった時に、名舟村への過酷な処置が次々と下されたのだろう。もし本当に上杉勢への抵抗をしたのならば戦後前田方から褒賞を受けこそすれ、虐めに遭う筈は無かろう。
だから、この名舟村の抵抗はやはり織田方・前田勢に対してであったのだろう。その後、金沢藩前田家の領民となった以上、藩主前田への反抗をした経緯は隠蔽されなければならないのだ。
だがこのご陣乗太鼓の祭りを継続したのは、実際には、前田による平定後の名舟村への過酷な処置を忘れない為に、密かに村人だけに祭りの真相が伝来されたのではないか。舳倉島の奥津姫神の神輿を担ぐのも、舳倉島は実は名舟村の物だという主張の表現だったのでは?と疑うのである。
古代史を論ずる「天孫族考」なのに、中世〜近世の輪島の話が主になってしまった。しかし、これは “何故古代の輪島の歴史が伝来しなかったのか”を説明するためなのである。
このような中世から藩政時代に特殊な事情があれば、古代を推理する為の文献資料が喪失してしまう事が往々にしてあるものなのだ。
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追記
明治以降にも、加賀藩の輪島冷遇は隠蔽されて来た。
これは、金沢では、県庁や地元新聞社等でも、幹部・役員のほとんどが加賀藩士族によって占められていた事で、隠蔽する意識が働いていたのだろう。
第二次大戦後も、石川県は観光の主眼を“百万石の金沢”に絞って来た事から、加賀藩の負の歴史は言及を避けられて来たという事情がある。
だが、負の歴史にこそ教訓がある。
人新世が言われる今日、考えれば“人類の歴史は必ず負の遺産を抱えて来た”。人類以外の動物には負の歴史はあり得ない。
※今回は古代史の研究なので、中世以降の問題は考究を残した。
①輪島の素麺座発生の歴史的な経過もよくは分からない。
うどんや素麺が仏家に好まれた事から、輪島隣村の門前に曹洞宗本山の總持寺が開創されたのが契機だろうとする人がいる。だが、一般の人達には手打ちと手延べの麺製法の違いが分かっていない。
禅宗でも素麺もうどんも食すが、うどんは自寺の典座が手打ちするが、素麺は檀家からの寄進である。
素麺は家内手工業製品であるからだ。専門の職人が必要である。中世初期に大和三輪素麺が開始され、それが瀬戸内〜九州〜日本海沿岸に広まった。
輪島素麺は、越中に伝わり氷見うどんや大門素麺になった事は確認されている。
これが出羽に伝わったのが稲庭うどんである。
稲庭の場合は羽黒修験などの介在が言われて来た。
だが、輪島の場合は、何処から伝来したかが分からない。多分焼かれてしまった河井寺関係資料にあったのだろう。
(私個人は、揖保素麺が山陰側から能登に伝わったのではという仮説を持っているのだが。)
②無主の地が少なくなった近世においてさえ、一部の特別技能職種だけが、入山入地の自由を容認された。木地師や竹細工職等である。それらに加え、海民の出稼ぎ漁が挙げられる。筑前海民のいわゆる “海士歩き(アマアルキ)”がそれである。基本的には、彼らは遠地に番小屋を建てて、夏などの好漁期だけ出掛けて就労する形態だった。
近世には、紀州加太海人の難民が、旧毛利領の瀬戸内沿岸に移住。(信長ー秀吉の弾圧を逃れる為だった。)
彼らの場合は、ある母村から出稼ぎ地に枝村を作って分住した。
この影響下、筑前海民も日本海各地に枝村を設ける。
能登に於いても、加賀藩による慶安の大量移住要請の以前に、鐘ヶ崎海民の移住が少なくとも3回確認されている。
即ち
永禄12年(1569) 筑前鐘ヶ崎より,羽咋郡千ヶ浦に海士又兵衛ら13人上陸。1574年までのあいだ,夏は能登、冬は筑前の移動生活を送る。
(志賀町の西海地域千ヶ浦に海士崎という岬がある辺りかと思う)
文禄3年(1594) 鵜入に借家をして定住。
元和3年(1617) 光浦に14戸を建てて定住。
羽咋千ヶ浦→鵜入→光浦と西側から時計回りに輪島崎南部の里山の西方向から輪島に近づいていたようだ。それだけ輪島沖〜七ツ島が好漁場だったという事であろうか。
それが、加賀藩の目に留まり、慶安2年の大量呼び寄せとなるのである。