補遺14 海民の習俗に見る海人族の痕跡
「天孫族考」補遺14 海民の習俗に見る海人族の痕跡
補遺13で輪島について述べた時に、加賀藩の政策で輪島の海士町及び舳倉島には筑前鐘ヶ崎の漁民が呼び寄せられた事の背景を考察した。
鐘ヶ崎の海民
そこで宗像鐘ヶ崎の海民について調べた。
鐘ヶ崎といえば、海女の潜水漁で有名である。
またアマアルキと呼ばれる出稼ぎ漁やその一時滞在先に
住み着いてしまう(分村であるいわゆる)枝村を作って、
日本海岸各地に活動範囲を拡大した事でも知られている。
だから、彼ら(彼女たち)は日本各地の海女の本村の一つだとされて来た。
他に、阿波の海女が紀州白浜や伊豆白浜、そして安房の白浜などへ分住した事が知られている。
更に海女漁の本場の一つという志摩があるが、ここはどこから来た者達か、
或いはここもまた本村であったのかは分からない。
(分からないというのは、私が深く調べた事がないだけで、専門の学者には、志摩の海民の原郷を推定している人もあるだろう。)
ともかくも、日本海側の海女とそれを含む海士村の習俗には相当程度類似性があるのは、その様な本村枝村の関係があり、元来は同系の海人部族だったからであろう。
海民の習俗に、海女の“頭被り”という頭部に巻きつける布があり、これで頭髪が海中で乱れて視界を妨げない様にしたりするのだが、そこに糸で縫い付けたり、墨書きしたりした”大の字“を描くというものがある。
これをそれぞれの当地ではほぼ同様に、「龍神様の御呪ない」とか「恵比寿様の呪符」だと言って、いうところの鱶除け・水難避けだと言い伝えてきた。
私は、これは魏志倭人伝や中国の史書の呉越の漁民の習俗である鯨面文身の名残りだろうくらいに考えてきた。
しかし、この度、過去に出版された「玄界灘の島々」
(叢書「海と列島文化」第3巻)の伊藤彰氏の執筆された「鐘崎と海人文化」の章を読んで、ハッとさせられた。
私は、以前、海女の習俗に接してその頭布の大の字を見た時に、そうか「海人族だから、龍神=綿津見大神や大山祇の部族としてそれらの一字を書く事で、海難を除ける習俗なのか」と考えたものであった。
然るにこの大の字は、アタマカブリに付けるだけでなく、潜水の用具である鮑鑿(アワビガネ)の柄に書いたり、また海人の乗り組んだ舟の舷にも書き、更に海士舟に掲げる小旗にも書かれるというのだ。また旗に書かれる文字は、大の変形で太とか大一(縦書きで)とか、太一とかもあり、太一などは後世の能島の水軍の旗にも描かれたという。
うろ覚えながら、どこかの八幡船(バハンセン)に「太一大将軍菩薩」などという幡を掲げた水軍もあったかに思う。
それで気付いたのは、この大もしくは太の字は、まさしく和族の水軍でもあった多氏や和邇氏の事ではないか!という点である。
(一時は太一は北辰(北極星)でもあるので妙見信仰かと考えたのだが、今はやはり太氏オホノシ(多氏)を指していると思う。)
海女達が頭被りに大の字を書くのは、自分たちは多・和邇氏系の海人である事を明示しているのではないだろうか。出稼ぎ地で、別の土地から出張って来ている海人と、海面や水中で出逢った時に頭の大の字を見て、同族だと判定しあったのではないか。
更に鐘崎系海民の習俗で注目すべき点が二つあった。
一つは、彼ら彼女達は、枝村を作って移住しても、決して自分達の本村の氏神を勧請することなく、移住先に始めからあった(先住者の祭っていた)神社の氏子に加えて貰い祭事の負担をする様にしていたというのである。
※そういえば、輪島に加賀藩の招請で移住して来た海士町の住民も出稼ぎ漁場である舳倉島に以前から祀られていた奥津比咩神社を陸側の海士町でも島側でも祭っている。
これは鐘崎からの移住者の前に舳倉島を漁場としていた名舟村の漁民が祭っていた神社を、そのまま維持継続したものである。
これは本村の鐘ヶ崎でも同じで、村のはずれにある「織豊神社」を海人達も氏神として、周辺の農民とともに祭事にも参加しているのだが、これは海人が何処かから(つまり鐘崎以前の居住地から)持ち込んだものではないのだという。(織豊神社の祭神は武内宿禰なのだそうだ。武内宿禰の妻は砧姫と豊姫の姉妹である。)
もう一つは、鐘崎海民は自分達は宗像地域よりもっと西から来たという伝承を有するという。
鐘崎海民は広域的には宗像地域に属するので、宗像の大祭事にも参加するようだが、自分の集落に宗像女神を勧請してはいない。
代わりに、集落の各地域ごとにエビス神の祠を持ち、また海士町の縁に竜神の祠を共祭している。これが彼らの本来の村社・郷社なのである。ではこのエビスとはどういう祭神なのか。
一般には恵比寿神は事代主とされているが、北九州ではエビス神は、西から来る訪問神=戎(夷)なのである。
宗像より西から来て、太氏に縁があるとなれば、志賀島あたりが根源としか思えない。
(一方で、対馬の和多都美神社には、神功皇后の三韓征略に与した安曇磯良(アズミノイソラ)の諡号が“戎比古命”だとの伝承がある事を、FB古代史研究会で大須賀あきら氏が紹介されている。当地では磯良恵比須と呼んでいるようだ。
和多都美神社は式内社である。
しかし、対馬は中世後期には海山伏の活躍の盛んだった所であり近世にはそれら山伏が里修験化して居つき、神社の祭儀を行って“供僧”(グソウ)という身分になっていた。
この島内各集落に居た供僧たちが、神社の由来や由緒書をかなり都合よく書き換えたという節があるので、「磯良= 戎比古命」説も、必ずしもそのまま信じるわけにはいかない。対馬は神話の神々の宝庫であるというのも、この濃密な供僧(里修験)が、自分の存在意義を認めさせる為に;悪く言えば商売の為に、様々な神々を対馬の山野に勧請したのかも知れないからだ。とはいえ、対馬仁位にあるその和多都美神社の神域の厳かさは、華美な厳島神社を凌ぐ雰囲気があり、こここそ綿津見の本拠ではないか?と思わせるものだ。)
鐘ヶ崎海民は出稼ぎに、西は松浦方面、西彼杵(長崎)、更に五島まで脚を伸ばしている。北西は壱岐や対馬までもである。博多に近い所は玄海灘の小呂島だけである。
そして福津(宮地嶽)〜香椎〜志賀島〜博多湾〜糸島半島の範囲は何故か飛ばしている。
実はこの範囲に彼らのタブーとすべき禁漁の海域があったのではないかとの疑いを持つのである。(つまりそこが原郷なのかもと。)
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実際に「続日本紀」に拠れば、天平時代、宗像神社の神職も兼ねる宗像郡大領(郡司)である宗形朝臣深津(ハルノリ)が、天平神護3年(767)僧寿応のすすめで金埼の船積(船泊まりを保護する港の石積み:防波堤か?)をつくった功績により、改元後の神護景雲元年(767年)外従六位下から外従五位下に昇叙された事が記載されている。
この水底の船積工事の為、潜水に長けた海民を呼び集め、また以後そこへ居住させて海防団や海難救助に従事させたと言う。これが鐘崎海民の始めと伝わる。どこから呼集したかは続日本紀にも載らない。
さりながらこの挿話で分かるのは、鐘ヶ崎に呼ばれて住み着いた海民は単なる漁師ではなく、海防の知識も持っていたという事だ。
だが、この金の岬(=鐘崎)の岩礁帯が操船の難所だとは有名だった様で、万葉集にも、博多津へ向かう舟(官船?)について、
ちはやふる金の岬を過ぎぬとも
われは忘れじ志賀乃すめ神
と歌われている。地域からすれば、宗像神社が崇敬されるべき筈なのに、祈りを捧げる神は志賀島の綿津見神なのである。これは古来、鐘崎海民は志賀島海人の出だと思われていたからであろうと考えられる。
先述の安曇磯良は志賀大神と同じだとも言われて来た。
因みに、鐘崎というのは、上古に朝鮮使船が、仏教普及の為に梵鐘を載せて来たが、この岬で難破して鐘が海に沈んだ。そして海の荒れる日には、その鐘が海底の岩場を転がって、鐘の響きを辺りに轟かすのだという伝説があるからだ。それでこの玄界灘と岬で分けられた海域を「響灘」と呼ぶという名称由来伝承でもある。
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更にもう1点。鐘崎の海女の腰下前後の隠しになる“一丁ベコ”という(男物でいうフンドシに似た)布があるが、そこに海星形の五角形が描かれる。これもまた竜神のお守りだという。
※ヘコは漢字では褌で、フンドシの漢字表現でもある。
そしてこの海星形の代わりに、舟の小旗には星(☆)印が描かれる場合もある。いわゆる五芒星である。
日本ユダヤ同祖論者が聞けば喜びそうな話だが、無論古代のユダヤに潜水漁の海女など存在しない。
この☆は能島水軍の旗差しにも使われた。
これは、大の字の字画の頂点を結んだ図形であり、大の字の変形に過ぎないのである。
そして、志摩の海女のルーツは不明だと言ったが、鳥羽や志摩の海女の頭被りやカネや舟小旗に付ける印は星形である。という事は、淵源が太氏系海人だったことを暗示している。
また九字格子といって、縦4本線に横5本線の格子印も使われたようだが、これは古代道教などの影響だろうか。
(能島水軍では、他に叶の文字や、叶を口と十字に分解して、口の下に十を書いた印なども旗印に用いた。叶は可能で能島の暗喩であろうが、九字格子は海民の魔除けにも使われている。)
ところで、海人族といっても身分階層があったと思われる。
これは別項の「わが国の階級の起源」で述べた様に、階級の観念は和族が渡来時に持ち込んだものである。弥生初期の倭人時代には緩い階層しかなかった。
海人系では、和邇(春日)氏が和族のバラモン階級で、多氏は和邇の同族だがクシャトリヤ階級である。海民は海部であり恐らく太氏系のバイシャ階級に当たる。バイシャは基本的には生産階級であり、庶民である。但しバイシャは商工民が上級化して行くと、農漁民は下層になる。(インドなどでは、農民はスードラに落ちてしまった。もっともスードラでも、上層氏族に隷従して行動の自由がない階層と、移住などの自由がある階層等に細分化していくのだが。)
海部が太氏の部民化したのは何時からか? 恐らくは和族が未だ伽耶にいた頃、弁韓周辺の海人族(濊族)を征服して部民としたのであろう。明治になっても、済州島の海民と北九州の海民相互には、古代に同族であったという意識があった様だから、そも古代には、朝鮮海峡の両岸の海民は同族意識を持っていたのだろう。
だから、和族が渡来しても、渡来以前の海民を部民化していたという認識がそのまま北九州の海民にも伝来したと考えられる。
つまり、太氏は海民の保護者であり、海民は太氏に従属するのだという意識である。これが海女が頭被りに大の字を書きつける事に繋がっているのだろう。
奈良の文字
更に、これは単に思い付いた仮説だが、奈良という地名に由来する奈良坂の事だ。奈良というのは、平らす(ならす)という半島語との関わりがある語彙だと言われて来た。
春日野の延長にある平地が後に平城京になる地であり、奈良である。だからこの奈良に山城から抜ける坂が奈良坂なのである。
この春日野を守備していたのは、春日氏つまり和邇氏である。
奈良盆地の和邇氏の拠点になったのが櫟本東方の和邇町の地である。
この地域の南の桜井や天理の地は元は三輪王朝の拠点である。和族がヤマトを征服後、三輪王朝の北方にある平野部を和邇氏が守衛したものと考えられる。一種の封じ込めであろうが。(盆地中央部は大伴氏や安倍氏という武力集団が配された。西側の河内や西紀の方面は、武内宿禰の直系氏族がずらっと押さえている。)
北東部の平らな地域をナラ(平ラ)と呼ぶのは分かるが、では何故そこに“奈良”の漢字表記を用いたのか?
那羅や名蘿などではないのだ(大和南部の御所には名柄の名や、また近くには伊賀の名張などの地名もある。だが奈の字は付近の他の地名には無い。)
私はこの「奈」の字に呪術的な意味合いがあると考えた。
これは、「大の字を示す」という行為を暗示するのではないかと。つまり大の字は、多氏や和邇氏を表す印である。ナラザカを通過して北からヤマト盆地に入るには、関守・和邇氏に“大の字を示した上で良しと了解してもらう”行為が必要になるという事。
大の字は和族海人の同族認識の符牒の様なものではないか。
これは考え過ぎの幻想なのかも知れないが、「天孫族考」本文で触れたように、多氏は和族の王家の壬生であるだけでなく仲ツ臣、内廷諸事の従事者であり、また禁衛軍でもあると考えているからだ。
海民と和布(ワカメ)
さて海民の習俗の話に戻そう。
対馬の海民の拠点の一つである曲浦(ここもまた鐘ヶ崎海民の分村であるが)ここには、正月に行われる「初和布海松御用」の祭事がある。関門海峡の両側で行われる和布刈神事は全国的にも有名だ。この対馬の祭事もまた正月に和布の文字通り若布を取って神に捧げるものだ。
本村である鐘崎でもまた長門の大浦(筑前大島の枝村という)などでも海女の「入り初め」で、祝儀用の若布を取る。
若布には、成長の象徴としての呪術的な意味があった、と考えられる。
農村でも海人系と思われる浦を持ち農業漁業を兼業する対馬などの村では、吊るした米俵に若布や(場所により)他の海藻(ホンダワラとかネズミ藻とか天草など)を飾り付ける祭儀も存在する。
(正月に鏡餅の下に昆布を引いたりするのも、同類の呪術的な行為なのであろう。所によってはホンダワラを三方の左右に垂らす。)
正月ではなく、初田植えの時に畦道や水口に田の神の依代と思しき小枝を立てそこに和布や海藻を掛ける呪ないの見られる所もある。
これは、農事の中でも特に稲作が、海的な物に特別な霊力を得ようとする呪術行為だとして注目される。
前掲「鐘崎と海人文化」の中で伊藤彰氏が以下の如く述べている。
実に含蓄のある説であるので、些か長くなるが引用する。
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海と稲作
それでは、いったいなにゆえに水稲は、その成長の節目ごとに海潮の香りを求めるのであろうか。
心性に属するこの問題は、わが国への稲作の伝来者が海的霊力を祀る海人であり、海辺低地における栽培の当初から技術システムの一環として内在していた、少なくとも国内的には、そこにさかのぼるのではないだろうか。考古学は、縄文時代晩期のころ、朝鮮半島南岸と九州西北部をつなぐ海上ルートに乗って、最初の稲作がもたらされたとする。伝来者が九州の海人であるのか、それとも半島の高身長の海人であるのか、どちらが先か後か、どちらが主流かなどの問題は別として、海藻を祀る習俗は、彼我いずれにも存在していたのではないかと思われる。さらに、ハレの日の魚貝食やのちの竜神信仰を含む稲作の祭りの根幹部分についても、当初から海人社会に習俗として内在していたと考えてそれほど不自然ではなかろう。
稲作は海人集団自身の移動や縄文系集団の受容によって広まっていくが、海辺からかなり離れた内陸にいたっても、技術システムに組み込まれた海的原理は、長く保守された。
今日、内陸盆地からはるばる峠を越えて特定海岸に出、そこの満潮を若竹に汲み、同時に海藻を刈りとる行事が知られる。これは「潮汲み」と呼ばれるが、田植え終了後に行われることが多い。
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海人族こそが韓半島で稲作を行う文化を持ち、それが我が国に渡来して、先住民たる縄文人に稲作を伝えた。
この渡来海人族が稲作をもたらして先住民と混住したのが弥生時代だと、私も考えて来た。
更にその海人は、韓半島に移る前は、中国大陸の淮河から南いわゆる呉越の地に住んで農業も漁労も生業としていた民、つまりそれが越人(=倭人)と呼ばれた諸部族に違いない。彼らが中国の戦乱を避けて黄海を渡って韓半島に来てからは、濊族とも呼ばれた。淮河の民の意味であろう。
これは「天孫族考」の本文でも繰り返し述べた事だ。
ところで、先の対馬の「初和布海松御用」の祭事だが、
海松はミルと読む。だがこの海松は普通いう水松(ミル、水苔)という藻の事では無く、和布の新芽である若布をそう呼ぶのである。
以前、「天孫族考」第13章で、九州王朝の祖は、後世の漢風諡号で孝昭天皇と命名された“観松彦香殖稲”(ミマツヒコカエシネ)で、この観松彦とは、稚松彦であろうとの推理を展開した。
和布の瑞々しい様を海松というのは、稚に若いという読みとともにかつてミルイという読みがあったからだろうとした。このミルイを若いとか未熟なとかの意味で使うのは、駿州の焼津の方言だが、対馬の“初和布海松”にも全く同じニュアンスが感じられるというのは興味深い。何故なら焼津もまた海人族の開拓した漁民の集落であったからだ。
観松彦香殖稲という名は、若松彦であり、洞海湾の岡江の宮にいた王で、岡江耳なので、天忍穂耳を連想させるとも言った。
だが、原義的には「海松の香の呪力を借りて稲の初田植えをする」というニュアンスでもあるので、海人系稲作部族に傅かれている和族の王者には、ますます相応しい名である。岡江宮つまり後の岡田宮では田植えに若布を飾る神事が行われていたのだろうか。
和邇氏の祖神は、この観松彦香殖稲の子神である(つまり皇統譜では孝昭天皇の皇子)天足彦国押人命だとされているのである。孝昭の跡は孝安天皇(日本足彦国押人命)で、天足彦はその兄だとの伝承がある。天足彦は海足彦なのかも知れない。
(神話では弟の山彦が王統を継ぎ、兄の海彦は臣下となった。)
和邇氏の本宗が後に春日氏と呼ばれ、仲ツ臣として宮中の祭儀を取り仕切る氏族にもなるのだが、だからこそ和族の禰宜(バラモン)であるからして和邇なのだと考えるのだ。(そも和族は龢族だが。)
藤原氏に横領される前は春日神社は春日氏が斎く冬至の日昇を拝する聖所だった。冬至の日は若草山から昇るのである。 (また春日神社の真東に春日山があり、春分の日はそちらから昇る。)
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付、長野正孝氏の著「古代の謎は海路で解ける」について
長野氏のいう水路の内、能登半島の羽咋から七尾へのルートや古宍道湖を通る根島の水路などは、私の「江」に関する小論でも書いた通りである。
だが、丹後半島を縦に短絡するルートについては些か疑問がある。竹野川を遡及して大宮賣神社の山を10キロ越えて、阿蘇海に注ぐ野田川上流に出る陸引き道の想定では距離があり過ぎる。同じ竹野川上流の別の谷からなら、野田川の谷筋へ僅か2キロしかない。これは実現性がある。
その竹野川支流の谷には大山祇神社があるので、海人の痕跡を認められる可能性もあるからだ。
だが、これらの神社は全て、中世に籠神社を支配下に置いていた成相寺の修験の活動領域なので、文献資料のある籠神社を除き、大宮賣神社の祭神も含めて、後付けである可能性も高いのだ。
更に、長野氏が想定するこの竹野川〜野田川への丹後半島の江はあくまでも“丹後半島を、古代の手漕ぎ舟で周回するには、安全な寄港地が無かった”という事が前提だが、これはそんな事はない。
北丹後海岸には、間人とか浦島とか舟艇が寄って休める漁村は転々としてあり、実際この辺りは東北の突端である経ヶ岬まで中世には海山伏の行場にもなっていた。
また長野氏は、能登半島についても福浦から北の能登外浦は珠洲の狼煙岬までずっと木造の手漕ぎ舟では寄港できぬ急峻な岩場の連続であったとしているが、実際は違う。外浦には舟が寄れる小浦はかなり多く、皆月など陸路からは行くに困難ないわゆる“陸の孤島”もあったが、海路では容易に繋がっていた。黒島や皆月などは江戸期には北前船の寄港地にもなっている様な良港である。北前船は中型の帆船だから当然だと思うかも知れぬが、名舟や珠洲に近い大谷などの集落でも、江戸時代までは皆月とか黒島などと嫁取り、婿取りしており、それらの海岸集落相互ではお盆など好天の季節には手漕ぎ舟で往復していたと言っている。
江戸時代になって急に能登沖を通る対馬海流が弱くなったので無い限り、古代に於いても、和邇氏の水軍の手漕ぎ舟で、珠洲側から外浦経由で、途中輪島で休泊して、福浦まで、海流に逆らっての航行も可能だったと思える。実際に名舟も近世初期までは、海流に逆らう方向の舳倉島や七ツ島に出漁しているからだ。
話では、輪島の海士町〜舳倉島の新漁民(筑前鐘ヶ崎から移住)は舳倉島までは帆のある舟を使っていたという。しかし外浦の近海漁の漁師は、普通は帆のない手漕舟だったとの事だ。
勿論私も、羽咋川〜川尻川経由七尾湾という横江の存在はあっただろうと考えているが、それは七尾から羽咋への便利な緩行路であり、それなりの役割を持っていたとは思う。
だが、この経路ではそんなに大きな舟の通行は難しかっただろう。ましてや曽々木や名舟・輪島の漁民が、わざわざ七尾に出てこの迂回路を通ったとするのは、非現実的である。
☆志摩の漁民(漁師と海女)の竹島出漁
明治20年代のこと。
志摩の海女の多数を占めた出稼ぎ漁団が、なんと延々北西日本海の竹島まで行っている。
記録では、沿海の海民集落に立ち寄りつつ水・菜の補給を受けて、
志摩→潮岬→淡路島→瀬戸内海→関門海峡→山陰海岸→島根→隠岐→竹島、
という航路で往復した。
(この行程は要確認;瀬戸内海はどういう航路を取ったか?)
海女の多い手漕ぎ舟数隻で40人以上で出漁した。食糧や着替、七輪や鍋や椀ものも持参。それで脱落者無しに往復出来た。男は一隻に二人ほどで後は女性ばかりだった。
一説では、近くの鬱陵島までも足を伸ばし、計3回の渡航をしたという。海女の腕力は男勝りというので、十人で漕げば4馬力程のパワーがあったろう。昭和初頭に焼玉エンジンが普及したが、初期の1気筒のポンポンでは4〜5馬力程度だったという。緩い海流なら焼玉船で逆進できたので、志摩の海女舟も相当の推進力があったと思う。片道数百キロの行程だが約1月で行っている。
平均1日20キロ以上の距離を稼いだという事だ。
また、元禄期にも、米子の漁民が竹島ほかに出漁しているが、これは朝鮮側官憲の禁止するところとなったという。
志摩の海女が行った頃は、明治になってからなので、李朝末であり朝鮮の王府の統制が緩んでいたのである。
また別の志摩の漁民は土佐経由で種子島などにも出漁していた。いわゆる南海ルートである。
更に竹島には、九州の天草から出稼漁に加わった漁師もいた。勿論、島根や隠岐の漁師も出漁している。これらも、往復のどちらかで対馬海流や黒潮に逆進している。
瀬戸内海についていえば村上水軍や塩飽衆なども手漕ぎ和船で移動している。能地の漁民なども移動は手漕舟である。
但しいわゆる家舟には簡易ながら帆があったらしい。
※対馬の和多都美神社には、舟ゲロー(競櫓?)祭という、沖縄のハーリーの様な手漕ぎ和船の競走祭事が伝承されている。
この舟もどうやら十人漕ぎ舟であるらしい。今の祭事では、地元の豊玉高校の男女生徒が漕ぎ手を務めている。
だから、潮の流れの情報を得ていれば、日本沿海を海民が往復する事は決して稀な事では無かった。但し淡路島両側の瀬戸については、潮が急流になるので、迂回路として、近世まで“小鳴門の江”が使われていたのだ。