第15章 多氏とはどういう氏族か?
第15章 多氏とはどういう氏族か?
☆多氏の起源について
大和朝廷の古参の臣下である多氏は、時に太氏とか大(野)氏
などとも表記されるが、元来その”オオ“とは如何なる意味を
持つのか、即ちオオという氏名の由来は何か詳らかにはされて
来なかった。
中には、
>> 太安万侶の太(おお、おほ)という名は、多氏、意富氏
>>等と同様、新羅系の帰化人で「おほ氏」と呼ばれる一族
>>だろうとされる。「王」氏かもしれない。
>>同じ帰化人の秦氏の流れとも言う。
などと言う人も居る。しかし新羅系の帰化人には、臣の姓は
与えられないのが常識であり、また秦氏も新羅系では無い。
(秦氏も、羽田氏と同じとするなら一応その首長の姓は臣で
あって連ではない。もっとも秦氏は渡来系なので、基本的
には村主(勝)や直などの姓になっている場合が多い。秦氏は
直接には弁韓の出自?かと思われる。)
一方で、記紀や各地の風土記によって、多氏が上古において
極めて重要な役割を果たして来た廷臣である事はよく知られ
たところである。
平安朝以降の後世においては多氏は僅かに、宮廷や四天王寺
の楽部の楽人になってしまい、これは何と現代にまで至って
いる。
多氏の中で、歴史上の最著名の人物は、大海人皇子の参謀的
な人物としての多品治と、古事記の編纂者である太安万侶の
二人である。
先ず多品治だが、彼が美濃において東国の兵を集めて居なけ
れば、大海人が壬申の乱で勝利を得る事は出来なかっただろう。
考えようによっては、天武朝成立の最大の功労者といっても
良い。さりながら、多品治はその後、天武朝宮廷で大臣に就く
事もなく小錦下(令制の従五位下)の忠実な臣下として没して
いる。(死後、持統によって上に贈位された形跡はあるが。)
太安万侶はその品治の子であるとされる。彼は従四位まで
進んだようである。
安萬侶の墓とその墓碑が出土した田原の里(奈良市田原)は、
後世まで多氏の大和に於ける本貫地とされた。近くには大野町
の地名も残っている。
また多治部という名代が置かれたとの記述が記紀にあり、これ
は反正天皇(多遅比瑞歯別)に因む命名であるとされるが、この
大王は河内の丹比に宮居したのでそれに因んだ諡号である。
しかし、延喜式では、丹比郡 十一座(大三座・小八座)の中
に、丹比神社 タチビノ ジンジャがあり、現在そこの住所
は「大阪府堺市美原区多治井 」となっている。丹比が多治井と
転訛したのか、その逆か?は不明だが、反正の諡号からしても
元来の表記は多治比(多遅比)で、そこに置かれた名代が多治部
だった事が推理される。(後世に、備中国に多治部氏という
地侍がいて尼子氏に臣従した事が知られている。)
この事からすれば、反正天皇が都したから多治比になったので
なく、地名が先にあってそれが大王名になったと考えるべきで
あろう。
これらから推測するに、そこは多氏と何らかの関わりがあった
のかも知れない。後世の多氏の本貫とされた田原の里も、田原
とは多原であるかもしれないからだ。そしてそちらには大野町
の地名も残っているので、紛れもなく多氏に縁の地である。
田原が多原なら多治井が多氏の縁りありとの推理も飛躍では
なかろうと思える。
この伝で、多治見市もまた多氏に縁があるかも知れない。
というのも、近隣の美濃には大野町や美濃太田などの地名が
あり、揖斐川や木曽川を遡上して、多氏の水軍が来着したと
いう可能性が指摘されるからである。実際上、多品治はここに
あった安八郡の湯沐の官であった。
だとすると、木曽三川下流域つまり尾張の海部もまた多水軍と
の関連性ありとも考えられる。安八郡隣接の大垣もまた多氏に
関わるのではないか検証する必要があろう。
この可能性は、越前大野とか豊後大野も同様である。また常陸
太田も可能性がある。
壬申の乱において多品治が集結させた兵は尾張美濃の勢だけで
なく、山越えして長良川を下って来た越前大野の兵もあった
かも知れない。
応神の東征に従軍して近畿に移住した多氏水軍が拠点にしたの
が、紀ノ川の河口に近い加太であったと思われる。
そこを拠点にして、多水軍は、南紀の太地→伊勢湾から尾張・
美濃と東国平定の拠点を伸ばした。渥美半島(それ自体が阿曇
族に由来の地名だが)の付け根の田原なども三河に進出した
多氏の拠点だったろう。
そしてこの東征の舟先は、次いで遠江に及ぶ。遠江の命名の
由来となった浅羽潟の一部である大之浦こそが、多氏水軍の
船溜りであっただろう。古代の大之浦には太田川が流入して
いるし、後の遠江の国府である磐田近辺にその太田の地名も
ある。更に古天竜川は、三方ヶ原の北部で三つに分流し、
その東の支流はやはり大之浦に注いでいた。この三流分岐の
土地が昔鹿島村といったところであり、鹿島は肥前鹿島と
常陸鹿島を含めて多氏に縁の地名である。(私は、阿曇族の
祀る志賀海神社のある博多の志賀島も実は鹿の島つまり鹿島
であって、多氏の進出先にある鹿島はこの志賀島に由来する
のではないかと睨んでいるのである。)
そして、皇極朝に不穏の新興宗教団として鎮圧された大生部多
もまたその名からして多氏の配下のシャーマンであり、その頃
までは富士川から伊豆にかけても(つまり駿河湾までも)多水軍
の勢力下にあったと考えている。
その後更に東征軍は東海道沿岸を伸びて、小田原から相模湾・
大磯?大船?→そして常総へと進軍した。鹿島灘から古霞ヶ浦
に入りそこに一大拠点(那珂郡)を築き、ここを拠点に磐城方面
へと征服の兵を繰り出した。一時はそこが蝦夷攻略の太平洋岸
の最前線だったと思われる。
だがこの過程で、富士川畔で大生部多らの騒擾事変が起きて、
これを秦河勝が鎮圧し、その子孫である秦久能などが残留した
事から、大井川から富士川までの範囲は秦氏の勢力圏になる。
この為、多氏系の勢力は、中遠地区(掛川以西)から常総まで分断
された形勢となった。相模も西部地域は秦野の地名が残り、
また中世には波多野氏が足柄にまで勢力圏を伸ばしたのである。
◆多氏の名前の由来
一説には大加羅から天孫族に従って来た旧臣であり、大加羅から
来た氏族という意味だとも。しかしだとすれば多氏は大加羅
の王族であり、結局天孫族の元“族長”氏族=王族でなければ
ならなくなるが、天武擁立の功績があっても中級の貴族のまま
である。しかし姓が臣なので、天孫族の直臣には違いない。
私は、多氏はいわゆる大生部の伴造であり、大生に由来すると
考える。これについて、順を追って説明していこう。
多氏は意富氏とも書かれるように、オオoo ではなくオフohu
である。上古音ではha行はphaもしくはpaになるので、多は
実はopuだったと思われる。朝鮮語でのopは、日本語の負フ
に相当する。大生(oou)もoohuと発音する事があるように、
これは負フに由来する言葉である。
大生部は後世に壬生部となったように、生はm音の後の連濁
でbuにもなるので、原音はhuである。
つまりこの“負フ”というのは、王子を背負って生育する事
(傅育)を意味している。
後世、多品治が大海人皇子の湯沐の役にあったように、多氏
は俗に云う皇室の湯坐yue 人であった。また龠人yuebito で
あり、内廷の諸役と楽人そして卜占の役でもあった。
広い意味での湯坐には、乳母(ちおも)、湯母(ゆおも;乳児
に湯を飲ませる役の女性)、及び飯嚼(いいかみ)・湯坐
(ゆえびと)までの一連の王子生育の業務が含まれる。
(「乳母、湯母及び飯嚼・湯坐としたまふ/日本書紀 神代下
訓」)
生育での王子を背に負う事は、時にその身を護る役割でも
あり後世の近衛の兵でもあったのだろう。(この延長が、
征夷の尖兵として起用されることにつながる。)
また壬生が“生育を任せる”という意味であるように、王家の
絶対の信頼が無ければ成り立たない職掌であった。
(壬生の語源を乳部だとする説もある。)
天武は大海人皇子であり、その壬生は凡海氏であったという。
凡海は大海人であり、多(氏)海人である。湯沐が美濃の安八郡
だったとされるが、そこが成育の地だったとは限らない。
湯沐邑は名代子代であり、そこからの税をその名を負う皇子の
生育の資にするというだけである。大海人の生育地は、畿内の
凡海氏の居宅であったろう。私は、そこは総國(上総下総)の
多氏系の海人族(海上郡司)の中央での拠点だったと見ている。
凡海氏は、壬生の役割を担っていて、天武の葬儀でシノビゴト
は(恐らく乳兄弟だったらしい)凡海荒鎌がしている。
しかし凡海氏は連であり、和族の直臣ではない。だから凡海氏
は多氏の配下の陪臣であったと考えられるのだ。中臣氏が多氏
配下の卜部であった為に姓は連であり、藤原になる時にやっと
臣になったのと相似である。
ところで、負ふという語は、opに由縁があると思われるように、
大陸渡来の語彙である。
縄文以来の倭語では、或いは出雲族に依る語彙かも知れないが、
背負う事は「被く(担く)kaduku 」だった。今も越後や出雲
では背負う(seohu →syohu ;和語)ことを、カズクという。
kaduku →kadku →katku →karku と転訛して、カル或いは
カルウというのが肥後以南の九州で使われている背負う事の
語彙である。エッジ&エリア(周縁)論で言うようにこのカズク
を使っていた弥生時代に、天孫族が韓半島からオフという語彙
を持ち込んだと解釈される。和族の東進でこれが標準化した。
そして多氏のオフもまたその時に、その職掌を携えて天孫族に
従臣して渡来したのだと思う。
因みに、背負う事を負ぶうというのは、このオフがオフスと
なり、オブウやオブサルと変化したものである。負んぶという
のはその幼児語?と思われる。
ところが、背負う事を津軽ではオブルombru というが、これ
は負フが訛ったものなので、縄文語系のカズクではない!
和語が北達転訛したものである。
また畿内にはセオタル(“背負ってる”の転化か?)で背負う事を
表現する語彙も残っているようである。これもオフ系と言って
よいだろう。
◆九州王朝での多氏の活躍
めざましい活躍は、景行朝の(豊後地域の後の豊後竹田に当たる
地域での)ネギノの戦いである。この戦闘は、その地の土蜘蛛を
退治したというものだが、(この土蜘蛛は宇佐の秦氏の中での
反乱分子だった可能性があるが、)この戦闘は多氏が豊後に勢力
を広げ定着する契機となったらしいことと、従軍占師として
(後世に中臣氏に成る)卜部を伴ったこと(それによって、継体朝
以降にまで継続する多氏と中臣氏の関係が確固たるものに
なったらしいこと)の、二つの点で、極めて重要な事件で
あった。
その後、多氏の一族は豊後に広く勢力を拡大した。大分や
豊後大野など、全て多氏に所縁のある地名である。
更に多氏は阿蘇にまで勢力を伸ばした。阿蘇君も多氏同族で
あり、後世の阿蘇氏はその後裔だと称した。(太安萬侶が
多品治の子息だという説は、実は中世の阿蘇氏の主張なので
ある。)
一方で、多氏は肥前にも大きく勢力を伸ばした。肥前鹿島は
その植民の地だとされる。(そこにも大野郷がある。)
後の太宰府が置かれた地は、筑後の大野郷だとされる。
この肥前の大野は、筑後の大野郷からの西方進出なのか?
それとも阿蘇から降りて来た豊後の多氏か、日田方面から
筑後川を下って来た水軍系多氏が有明海の制海権を掌握して、
その拠点を肥前鹿島に設けたのだったのか?
ここらは今ひとつ明らかではない。
しかし九州王朝に於いて、多氏の軍団が豊後(大分)・阿蘇・
筑後・肥前という中九州地区を横断的に勢力下に置いていた
事は瞠目的な事象だと言えるだろう。
恐らく上古の和族の中で、最も勢威のあった氏族の一つだと
考えられるのだ。
◆多氏と海人族の関わり
多氏と春日氏は同族だと言われ、春日氏は和邇氏の本宗だ
とも言われる。
和邇とは和族の禰=禰宜という意味合いであり、春日氏は
多氏と共に仲ツ臣だとされて来た。仲ツ臣というのは、
後世中臣氏が主張したように、神と大王を仲立ちする禰宜
(神官)だと言うのだが、これは後世中務省の職掌になった
内廷の職務を果たす氏族だというのが正確な認識だろう。
令制の中宮職が担った職責(即ち天皇と皇族の身辺の世話)と
内廷の神事を司る神祇職を併せ持った氏族が仲ツ臣なのだ。
和邇氏は息長氏(や大臣の氏族)同様に、皇妃を出す使命を
持つ氏族である。(この中に例外的に連の尾張氏が含まれる
のは、彼らも海人族系であるからだろう。)
記紀神話でも、天孫邇邇芸や日向三代などは、大王家と
海人族の婚姻関係が強調されている。
一方多氏は、卜部を配下にして太占を行う、また宮中楽部を
担うなど、和族の禰宜(奈義・龢)としての職掌を持つが、
皇妃を出す高級氏族ではない。
和邇と多氏が同族で海人系だとするなら、多もまた和多
であり、それが和多阿曇=綿津見であるのかもと思えてくる。
従来、綿津見のワタは朝鮮語のパタリ=渡りから来ていると
して、渡海技能を持つ海人集団だとされて来た。
しかし天孫族の九州各地の平定や応神の東征、そして東海道筋
沿岸への征服などでの水軍の活用を見れば、多氏が実は韓半島
から九州への天孫族の渡来を仕切った和多阿曇=綿津見でも
あったのではないかと思えてくるのである。
(ここで強調しておきたいのは和邇と和多であって、決して
倭邇や倭多ではない事である。つまり、彼らは和族=天孫族
であって、いわゆる倭族とは一線を画す存在なのだ。)
対馬の卜部が多氏に従属して中臣になったのだが、壱岐の
卜部はどうなったのか?
もしや壱岐奈義で、息長氏になって行ったのか?
或いは隠岐の龢が息長なのか?
これは飛躍しすぎた。かつて天孫族は月氏龢族の時代、女王を
戴いていた。その女王は最高神女=巫女(カンナギ)だった。
神の声を聴く“お聴き巫”(オキキナギ)なので、それがオキナギ
→オキナガとなったのかも知れない。というのも、琉球王国で
の最高神女は聞得大王(キコエノオオキミ)というからである。
(三卜部の他の一つ、伊豆の卜部は多氏東征の過程で設置された
と考えられる。伊豆の卜部もまた亀卜の民であろう。)
多氏こそ、その実態を研究する事で、天孫族の謎の幾つかが
解明されるだろうと、私は考えている。
そしてそのような一種のミッシングリンクのもう一つが息長氏
である。