補遺15 安曇磯良とエビス神
「天孫族考」補遺15 恵比須についての考察、
〜〜安曇磯良がエビスであるとの根拠〜〜
☆エビスの概念
日本の古代人にとってエビスは4つの意味を共有していた。
①一つは伊奘諾・伊奘冉の両神の最初の子である蛭児である。
『古事記』の国産みの神話では、イザナキとイザナミとの間に生まれた最初の子神。だが子作りの際に、女神イザナミが先に男神イザナキに声をかけた為に、不具の子に生まれたため、葦船に入れて流されてしまう。
西宮神社は、十日戎で有名な神社である。
こちらの祭神こそは伊奘諾・伊奘冉の両神の最初の子である蛭児だ。
葦舟に乗せて流したがこの浜に漂着したので、ここ西宮神社で祀っているというのが神社の由来である。(貴種流離譚の一種か? また一旦海という聖界に行って来た物は、逆転して福神となるという信仰なのだろうか?)
但しこの由来譚が確定したのは中世後期だとする学者もある。
エビスの語源は、イビツ(歪)か?-----欠陥のある(不具の)子、
異毘須-----異形の者、異渺(貌)子。
不具の子は、非人に落とされてしまうので、嬰児の時に捨てられたり或いは出産直後に産婆によって間引かれて、流産の扱いとされた。
古来、研究者によって、「産婆と三途の川に居る奪衣婆=葬途河婆(しょう塚婆)は生と死を支配するという仏教上の観念により、いわば鏡の裏表の様なものだ」と指摘されてきた。
つまり産婆は生殺与奪権を持っていたからである。
また産婆には往々にして海人族の婦人(海女)が当たった。俗に出産は潮の満ち干に関係があるとされていたからだ。王家の壬生が多氏によって担われていたが、多氏は海人族の統領権を有する氏族でもあった。
蛭子児の間引きを産婆の海女がするというのは、海人族の風習に関わりがあるとも言える。間引いたイビツ児を川や海に流してしまうのもそうだろう。
そして、海から海難死した夷人が流れ着く時は、逆にこれを戎神として祀り、除禍を祈った。
②二つ目は、その「海民が漂着した夷人を祀った、海辺のエビス塚や小祠」である。
「戎」の文字を使用するのは、東夷南蛮西戎北狄の西戎の観念だ。
つまり西から来る異形の者の意味である。
唐人(夷人)の水死体を、海民は引き揚げて集落の外縁に葬った。
この塚を当初は「塞の神」と呼んだが、仏教の影響で、無縁仏の供養は功徳になるとして、それが幸神と意識される様になり、大黒天と並ぶ恵比須という福神になって行く。
(だから海民には土左衛門を拾うと大漁になるという迷信を産んだ。)
③神仏習合で事代主の本地が恵比須天とされた。大黒天が大国主の本地であるとされた事で、(国譲り神話に出る大国主の)子神・事代主の本地が対称的に恵比須とされたのである。
そして恵比須・大黒は七福神の数に入り、共に宝船に乗っている。
しかし、仏教の本来には、大黒天はいても、恵比須天などという天部の仏神は存在しない。全くの中世の日本人が作り上げた神なので
ある。大国主の子神なので、美保神社の祭神となり、海人族のエビスと習合しているので、あたかも出雲の土着の神のように信じられるようになっていく。しかし事代主は本来は畿内で祀られていた神なのだという。事代主を祭神とする神社は、畿内に多いのだ。三輪王朝で祀られていた神なのであろう。
恵比須が福神となってからは恵比須顔とは、醜い屍人の顔ではなく、福々しい幸神の顔へと変化していった。
④四つ目が、神功皇后の三韓征略の伝承に出てくる安曇磯良である。
磯良は、①の観念の派生したものである。①は水平異界、海上他界の観念であるが、これが垂直異界、水中他界に変わったのが磯良の説話なのだ。様々な変形があるが、標準?的なストーリーを概述する。
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神功皇后は三韓出兵の際に海路の安全を祈り作戦の成功を議するために、我が国の神々を筑紫の浜に招いた。
ところが、肝心の筑紫の志賀島の海中に住む安曇磯良は、顔に鮑や牡蠣の貝殻に藻がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。
ここに翁の神(住吉神である)が「細男の舞をすれば、安曇磯良が出てきて、干珠・満珠を授けるであろう」と宣した。神功皇后が住吉神に頼むと、住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む細男舞を奏して誘い出す。それに応じ貝殻・藻のついた醜い顔を白布で隠した磯良が海上に現れた。皇后が磯良に協力を求める。磯良は沈んで龍宮に行き、潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠を借り受けて皇后に献上し、磯良も皇后を庇護して出兵に加わった。そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したというのだ。
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安曇磯良伝説と記紀の記事との前後関係
先述の磯良と神功皇后の伝説は、当然ながら神功皇后の記紀に載る三韓征略の記事を元に創作された話である。
但しここで一つ留意しなければならないのは、記紀を都の大貴族や学者以外の(下級貴族や、僧侶などの中の)一般知識人が読めるようになったのは、鎌倉時代以降だという点である。
記紀を読めるようになって、五山の禅僧や南都北嶺の僧侶などの学生がこれを基に、様々な古代の幻想を持った。
いわば古代史ブームとも言えるものであった。
平安初期には、上・中級貴族には、日本書紀を講義する会が公催された。この模様は貴族の日記の類にも言及されている。これを、「日本紀講筵」と(日本紀講書とも)言った。
弘仁3年(812年)がその最初である。
最初は(弘仁・承和の頃は)中級官吏が受講者だったが、次の元慶からは関白基経を始めとして公卿が受講した。
弘仁の回は多人長が執講しているが、元慶の会は従三位文章博士の菅原清公(キヨトモ、道真の祖父)が講師を務めている。
多人長は古事記や書紀の編纂に関与した太安万侶の子孫だというので解釈の参照に古事記の一部も披瀝されたかも知れない。
ともかく、それまでは(奈良朝から平安初頭までは)記紀は、文章博士とか名経博士などの大学寮の教官や公卿などの上級貴族しか閲覧すら出来なかったのである。日本書紀は国の成り立ちの基本の歴史だとして、文章博士が侍講として天皇にその要旨を伝えるしきたりがあり、この為文章博士は、“紀伝道の博士”(紀伝博士)とも呼ばれたのである。
その最初の講書である弘仁期以来、受講生が講義内容を書き留めて、そこに講師の意見や受講者自身の見解を書き込んだ、現代で云う処の学習ノートが多数作られて残された。これらを一括「日本紀私記」と呼ぶ。この「日本紀私記」の写本が、平安後期になると、受講者以外の貴族や、その子弟出身の叡山や南都大寺の高僧達にも伝播する。
そして、それが鎌倉時代になって、南都北嶺の学僧にも伝習されて広まり、更に学問好きの五山の禅僧にも伝わって、中世の古代史に関する知識欲に目覚めた知識人のブームとなったのである。
日本書紀の(古代史)ブームは、当時盛行した神仏習合論を背景に多様に古代史が解釈される事になった。
この中世的な書紀の解釈を「中世日本紀」と称するのである。
エビスについての信仰や解釈も、ここでリバイバルしたと思える。
誰が纏めたのか分からないが、Wikipediaの中世日本紀の解説の件りには次のような一項がある。簡にして妙である。
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えびす信仰
『太平記』によるとヒルコは西宮大明神であるという。
この説は代々『日本書紀』の解釈を家業とした卜部氏の卜部兼員が語ったものだとされている。また、『平家物語』、『源平盛衰記』、『古今和歌集序聞書三流抄』、『神道集』などでは、摂津国に流れ寄り「夷三郎殿」となった、天照大神により西宮を与えられたなど、ヒルコ=えびす説が広がりを持って語られている。
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中世日本紀のブームの中で、安曇磯良と神功皇后の伝説も増幅されて行く。先に引いた④についての伝説もこの時代に生まれたものだ。
但し、安曇磯良が神功皇后伝説に取り込まれたからといえ、安曇磯良が、この時代に新たに創造された神格だとは断定できない。
古代に於いても、志賀島の神=安曇磯良という観念が成立していて、それが中世になって、同じ地域での活動の伝説のある神功皇后と結び付けられたという事なのかもしれないからだ。
とはいえ、こういう時代的な背景から見れば、エビスの④の観念が、最も後に誕生して来たとは推測できよう。
☆ 「塞の神」の延長には海山伏が関与
ところで、②でいう「塞の神」であるが、これは集落のウチとソトの世界を区切る境目でもあった。ソトは異界である。
集落の外縁の「塞の神」(異界との境目)の塚が、恵比須の祠に変わるのは中世の事である。
---------これには、海山伏の関与が考えられる。
海浜や海崖に神社を建立して活動の拠点にしたのは、土着した海山伏の仕業である。ここに依りながら加持祈祷を活計(たつき)の種とした。葬式に関わるのは禁止されていたので、海山伏はお祓いや呪い事を中心にした。
(修験は一般に黒不浄=葬儀を忌避した。)
この海山伏が活躍したのは、海辺であり、都から離れた周縁部の事である。しかし都や地方の中核的な都市では、エビスは、もっといわばソフィストケートされたものになっていく。
☆神事の舞に於ける細男舞
中世になると、各地の神事で、細男舞というものが演じられるようになる。細男というが、これは神話に於ける神功皇后と安曇磯良の話を元にした舞があり、この中に登場する磯良を演じる役割の仕手を細男というのである。いわば神事の舞の中に磯良が昇華されたのが細男だといっても良いかと思われる。細男は海底の岩場に住むので顔面が岩の如く爛れていて髪や鼻や耳に海藻がこびり付いているという想定になっている。つまり醜いのである。その為細男は顔を隠す白布で覆面
をして演じられる。(実際は、覆面の中に鬼面を付けていたりはしない。覆面の中は素面である。)
歴史的には、東大寺の手向山八幡宮に奉納されたものが古いと考えられる。その記録絵では、細男だけでなく、楽士も覆面をしている様に見える。この段階で既に覆面しているが、細男=エビスの観念が成立しているかどうかは分からない。細男には才男であり、舞の才のある男というのが原義であるとの説もあるからだ。だがそれなら何故才男は覆面しなければならないのか?これは能面と同じで、現実の人間を感じさせない為、つまり才男は精霊なのだからという。
その後、中世半ばには、春日神社の神人や社僧らによって、(藤原氏の氏寺となった春日社の本宮の祭礼と別に、どうやら元祖春日氏時代の本来の祭神を頂いたと思しき)若宮の祭礼が行われ、そこで細男舞が演じられるようになった。春日氏は勿論和邇氏であり海人族の総管領であったから、海神である細男を祀るのは必然性があるのだ。)
春日若宮の祭礼で細男を演じるのは、(元は4家あったらしいが)今は広瀬と上司の2家であるが、その広瀬家に伝わる詞章では、
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(本舞)~~頭略~~
せいなうの舞、この舞を、おは幸ありゃ、 おは幸ありゃ、
~~中略~~
あなう昔のこの舞や、あなう昔のこの舞や、おは幸ありや、
おほ幸ありや、吾この宝ほかにはやらじ。
(豊姫)
たれしの神にてさむらふ。名のらせさむらへ、
聞かまほしくさむらふ。
(磯良)
あはれ、吾は御心筑紫の志珂の嶋に坐す神、名は安曇の磯良にて候。
さ宣はす神の御名こそ聞かまほしくさむらへ、名のらせさむらへ。
(豊姫) 吾は豊の真耀くあかの御許のいただきに坐す神、
名は豊姫の神なり。
(磯良)あなかしこ、しか貴き神とは知らずてさむらふ、
いやなき業、許しさむらへ、
あか照るこの御宝は綿津見の神の御宝にてさむらふ、
すなはち姫神に参らせむにてさむらふ、いざ納めさむらへ。
(末舞) 潮満つる珠潮干る珠、みつゑこの珠、
この珠は白金黄金日耀く宝の国を須ろはす、みつゑこの珠みつゑ珠、
おは幸ありや、おは幸ありや、~~後略~~
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この春日若宮の舞の詞章では、磯良の相手は、神功皇后ではなく、豊姫、つまり龍宮の豊玉姫になっている。
(日向神話では豊玉姫は鸕鷀草葺不合尊の母であり、神武の母の玉依姫の姉神とされている。)
無論、記紀の神功皇后の伝承が先にあり、その後磯良が龍宮に“潮満つる珠潮干つる珠”を貰いに行ったという挿話から、豊玉姫とのやりとりが創作されたのだろう。ここでは、珠を貸し与えたのは、綿津見の神=龍宮の主(豊玉彦か)なので、その姫神である豊玉姫に珠をお返しする、と言っているのだ。そうなると、磯良は綿津見の神自身では無くなってしまう。更に珠を返すというのは、神功皇后の帰国後の出来事になって来る。
つまり、この段階では、磯良はエビスかも知れないが綿津見の神ではなく、単なる志珂の嶋に坐す神という解釈になっている。
☆細男舞の発祥地についての2説
実際上の細男舞がいつどこで生じたかについては、二つの意見が対立している。
九州発祥説と畿内発祥説である。
九州発祥説は、かの折口信夫大人も支持した説で、細男の役柄=磯良が海神であるからという理由に強く影響を受けて、細男舞は、九州の何処かの神社の神事舞として発祥したのではという考えの説である。
実際に、宇佐八幡宮の放生会の細男舞がつとに有名であり、また北九州でも安曇族の本拠地と目されてきた志賀島の志賀海神社国土祭に“磯良の舞”があるからだ。
一方で、畿内発祥説の方は、記紀ほかの古書の記述に想を得て、畿内の主要な社寺の神事の舞として、才男舞が考案され、それが逆に九州の志賀や宇佐に伝わったのだ、という説である。
この考え方に立てば、神功皇后という人皇と、豊玉姫という神が、同じ説話に登場していても不思議がないのである。磯良はその両者を繋ぐ、禰宜役の土地神であり、安曇族という海人の身近な神だとも言える。
畿内からこういう伝承や解釈を伝えたのは、都から地方の末寺に下る山伏や、海から訪れた海山伏であったと思われる。神楽が山陰地方から九州に伝来するのは、近世になってからと思われるが、中世後期には九州は、畿内や中部地域と並ぶ修験道の盛行地であった。
九州の山岳地帯を縦横に抜ける山伏道として、九州縦渡と横渡があり神楽はこの道を通って、九州各地に伝わったのである。
この頃には、記紀の神話や伝承も、山伏=大寺にあっては少壮の学僧や雑掌を勤める大衆(宗徒)のレベルにまで、広く知られるようになっていた。
これら修験の僧が、記紀や延喜式に載る古代の王族などの活躍伝承の地を想定して、様々な神社を作って行く。極めてローカルなレベルの社祠から、布教の拠点となっている;地域の寺院を包含する有名神社などが、次々と創作されていったのである。
式内社が不明になっている場合は、想定で復元もした。
(本来は、ヤマトタケルの行った筈のない中部〜関東に、記紀の伝承に基く活躍地として、日本武尊を祭神とする多数の神社が、地域の僧や修験達の談合によって建立されて行ったのもそれである。)
上述の豊玉姫との折衝の説話が、海山伏に広く伝播し、結果的に、豊玉姫を祭神とする各地の神社に安曇磯良も合祀されるようになった
と思われる。対馬仁位の和多津見神社はまさにそのケースである。
◯磯良の別名
1)阿度部磯良
《太平記》巻三十九によれば前掲の伝説、神功皇后と磯良の出会いでは安曇磯良ではなく、“阿度部磯良”として登場する。これは、何故か?
安曇部はアドベと読む。近江の安曇川の地名はアドガワと読むのと同じである。つまり阿度部磯良とは、安曇部磯良というのと同じになる。厳密には、安曇磯良と安曇部磯良では同一ではない。前者は伴造であり、安曇部磯良というには配下の部民としての名称だからである。このニュアンスでは、安曇部磯良は、志賀に坐す綿津見大神とはい言いにくい。
2)磯良をイソラではなくシラと読む説。
表記も安曇白良の様に書く事がある。
南紀の白浜にある浜辺自体は白良浜という。この白良浜が縮まったのが、海民の移住地に多い「白浜」の由来だという。
天孫族だけでなく、月氏の天山三族に共通するのが、白に対する憧憬また白き物に対する崇敬の心性である。白雪や白砂、白き岩などは神の寄るもしくは拠る物だという観念がある。
白浜は呪術的意味を持っていたと考えられる。これは潜水漁の海女や海人にとっては、海底が見易いという実利性もあったからだろう。
白水郎は男性の潜水漁士=海士である。安曇の白水郎→白良とも考えられなくもない。
但し、新羅の古名である斯羅がこの観念の延長下にあるかは未解明である。だが新羅人もまた白を神聖視していたと説く人は多い。
(※最近、シラはソラボルで後のソウルと同じとする説を見た。しかし斯羅國は辰韓の一国であったが、慶州が新羅と改名した後の首府になったので、そこをソラボルと言ったのであり、シラ=ソラボルではない。統一戦争を起こすまでは、あくまでも斯羅國は辰韓の一国ではあるが、必ずしも最有力国だったかどうかは疑わしいからだ。)
3)阿知女磯良だという説がある。
これには複数の解釈が並立している。
一つは、磯良は嫗だとする説である。伝承を読む限り、我々は一般には、安曇磯良は男神だと感じて来た。しかし安曇磯良ではなく、本当は阿知女磯良であり、宗像三女神の様に女神だというのである。
そして、この解釈も分かれて、阿知女磯良とは安曇女磯良という海女の神だというのが一つの説。
もう一つは阿知女とは、宇豆女であり天宇受売=天鈿女と同義だとする説である。
本来の宇豆女は宇佐の神山である宇豆峰の神に仕える巫女である。
しかしながら、岩戸神話によって、宇受売は芸能の始源神とされた。
伝説の一説には、住吉神の舞に応じて出現した磯良が答礼に宇受売の舞を舞ったというものもあるからだ。但し、この説に従った時には必ずしも磯良が女神だとする必要はない。男神がただ宇受売の舞と呼ばれる神楽を舞ったとする考え方もできるからだ。白水郎は男性の海士であると述べた。一般に白水郎は中国の沿海の海士を指す言葉であるが、彼らは鯨面文身をしていた。目の周りに大きく隈取りしたのを、阿知目というのかも知れない。
この宇豆女の舞が、先述の浄衣・白覆面で舞われる畿内の諸神社の細男舞の事だという説もあるのである。
もう一つは、宮廷神楽の「阿知女作法(アチメノワザ)」に因むという説。この「阿知女作法」(アジメノサホウ、アチメノサホウとも)を世界大百科事典(第2版)の解説で見てみる。
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あじめのさほう【阿知女作法】
御神楽(みかぐら)で,儀式の始まる前その他重要なふしめふしめに唱えられる呪文のような歌詞の曲。
〈本方(もとかた),末方(すえかた)の歌人各1人が
〈あぢめ おおおお〉〈おけ〉を交互に唱え、
笏拍子(しやくびようし)を打ち和琴が伴奏する。
〈阿知女〉を呼び出しそれに答える形というが、〈阿知女〉は意味不明。海底の神 阿度部磯良、天宇受売等の諸説がある。
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オケというのは、「汙氣」で、竹で作られた胴(筌:セン)に革張りした古楽器。竹太鼓ともいう。
笏拍子を打つのは、汙氣が入手できぬ時代となり、代わりに
その類似の打音を立てるためである。恐らく元来は本方の声には琴、末方のオケに合わせて笏拍子、という伴奏法なのであろう。
この阿知女作法の後に、細男の舞が舞われるので、舞も阿知女の舞と呼ばれる事になった、というのである。
但し、この阿知女は何の事か依然として不明である。
さらにここから一見トンデモ説ともいうべき見解も派生する。
アチとは半島語で朝(もしくは朝日)の事である。つまり阿知女とは、朝女の意味になる。だが、それでも何の事か分からない。それは次のような解釈になる。
海民の夫婦は、夜の間に悪霊が来ているかも知れないので、朝は“精進落とし”をする。つまり朝ボボをするというのである。ボボとは半島語で性行為を意味するらしい。
(葬儀や通夜の後に精進落としと言って、男女が交わるのと同じで除霊の行為だという。)出漁前に必要な除災行為なのである。
この時、海女の上げるアクメの叫び(タケビ、オビ)声が、“おおおお”であり、オケは太鼓の音を模して海士が突く様である。海女の叫びが高い声である程、悪霊が払われるという迷信?である。これをして「阿知女の叫び」もしくは「阿知女のワザ」と言ったのだ、という説である。
(※但し早まってアクメ→阿知女か!などと考えてはならない。欧州語系言語でのアクメは、ギリシャ語で絶頂を意味するakme が原語であるからだ。)
この説の影響で、江戸期には錦絵の春画も描かれたという。
神功皇后が、安曇磯良の不埒な舞をご覧になる図らしい。
岩戸の前の天宇受売の舞の男版という処であろうか!
◯潮満つ珠について
神功皇后と磯良の伝説に登場する潮盈珠・潮乾珠は、日向神話にも登場する。それは彦火火出見尊(山彦)が、兄から借りた釣り針を失い竜宮を訪ねた時に、豊玉姫からこの霊珠を与えられ、地上に戻って海彦との戦いでそれを用いて、海彦の率いる隼人の軍勢を溺れ死にさせてしまうという、かの有名な伝説である。
しかし、この潮盈珠・潮乾珠というのは、如何なる物に淵源があるのだろうか?
私は、これは海女の持つ道具の一つである切り貝(キリガイ、アテガイともいう)がヒントになったのだと考えている。
鮑のオナゴ貝の貝殻を丸く整えて持ち手や紐を付けてあり、それを海女が腰紐に結んで潜る。長く潜っていて息継ぎがキツクなったり、或いは満潮になって来て危険になったと思われる時に、これを獲物のある岩場の近くに落としておくのである。貝殻はよく磨いてあるので海中でもキラキラと反射して輝いて見えるので、次に潜った時の目印となるのである。一般に鮑の貝殻を切って作られているので切り貝と呼ばれるのだが、丸い形状から、“アワビ珠”とも呼ばれた。
これを模した伝説上の霊具が潮盈珠・潮乾珠なのであると思う。
◯安曇磯良と名舟のご陣乗太鼓について
補遺14では、輪島東方にある漁村に残る名舟村のご陣乗太鼓の故事について論じた。
そこでも述べたが、名舟漁民は、加賀藩によって輪島に筑前から宗像鐘崎の海民が呼び寄せられる前には、舳倉島のアワビ漁を独占していた。そして舳倉島にも名舟の村落内にも奥津媛神社を祀っていた。奥津媛とは宗像三女神の一つ田心姫命に他ならない。というのは、もしかすると名舟の漁民の原郷が宗像であった事を想像させる。
私は、天孫族考と一連の補遺の中で、魏志倭人伝に載る“不弥”の国というのは宗像だというのが通説になっているが、何故そうなったのかといえば、不弥というのは浮袮=舟の音訳であり、宗像とは舟方の事だという解釈を仮説として提示して来た。
名舟とは、文字通りその舟の名を冠する宗像=舟方から来た海人族ではないのだろうか?
そして名舟のご陣乗太鼓の演者の扮装が幽鬼の態だとされて来たが、私はこれこそ実は伝説の安曇磯良の扮装ではないのか?と考えるのである。恐ろしげな醜い顔つき(の面を被り)と、あたかも海藻のようなモジャモジャの毛を纏って太鼓を打つ。これは磯良の宇豆女舞から連想されたものではないだろうか?
→この連想は、今のところ私しか思いついていないようではあるが。
◯ 楽曲「安曇磯良」について
いずれにせよ海人の頭らしき安曇磯良は、様々な幻想をかき立てる。
昨今でも、その名を冠した楽曲が作られている。これが実に荘厳でかつ幻想的な曲調である。
吹奏楽 「安曇磯良」 作曲/樽屋 雅徳(たるや まさのり、
1978年 〜。日本の作曲家・編曲家。武蔵野音大卒。
「ちはやぶる」など王朝のイメージの楽曲を複数作っている。)
https://m.youtube.com/watch?v=fA1bSwX9rOo&feature=youtu.be
◯淮人と濊族と倭と越
古代朝鮮半島に移り住んできた海人は、淮河以南のいわゆる呉越の民族だった。ワイ人とはこの淮人の意味だった筈だが(もう一つ、矮人=倭人であるとの鳥越憲三郎説もある)、呉越の民は鯨面文身している事から、その同種なので“濊族”との表記になったと考えられる。
中国人が、倭人を呉の太白の後裔だと想定したのも、我が国の海人に同様の刺青の習俗があるとの伝聞がもたらされていたからであろう。
鳥越氏は、越は日本人の理解するエツではなくwoで、倭もまたwo と発音されていたので、中原の漢人からは同種と看做されたのだろうと考えておられたようだ。
◯海人族の4態
今ここでは、この分析には深くは立ち入らないが、我が国へ渡来した
海人族は、次の4つの系統があったと考えられる。
1、原海人族
最初に弥生文化をもたらした海人である。
2、出雲系海人族
辰韓地域から、隠岐を経由して出雲地域と、
九州の伊都国に渡来した黄牛族の支配下にあった海人
(濊族)が、その出雲族の渡来に前後して、出雲族支配地域 沿海に伴住したもの。
3、秦氏系海人族
宇佐を中心に、弁韓地域の海人が、白馬族(秦氏)の渡来に 伴って移住して来たもの。
4、天孫族系海人族
天孫族=和族の渡来に伴って、北九州や日本海側に移住し て来たもの。
やがてこれらの海人は、天孫族の海人の管領となった多氏や和邇氏によって統合されていく。南海ルート沿い(宇和〜土佐〜阿波)の海人もこのカテゴリーであろう。その後和族の東征によって、南紀〜伊勢〜東海〜伊豆〜常陸へと広がって行ったのである。