補遺15 続)海人族について
「天孫族考」補遺15 続)海人族について
☆安曇磯良のもう一つの別名
安曇磯良には、複数の別名がある事に言及して来たが、
先日ある人が「安曇磯良は安曇武良である」という説を
唱えているのに気付いた。
その説は「安曇磯良とは、出雲族の五十猛の事で、磯武良なのだ」と言うのだ。
成る程、安曇族は、磯良が神功皇后の出兵を扶けたりまた後世には、天皇家の食材を提供し宮廷の厨房を担当する
など、和族(天孫族)によく臣従しているのだが、その姓は臣ではなく連である。
連は和族の直臣ではなく、陪臣かもしくは“服属した和族以外の氏族(出雲族の物部氏などや、白馬族=秦氏や、海人族系)”に与えられる姓である。一般に姓を持って表示する時は阿曇連と書く。
もし五十猛=磯武良なのだとしたら、安曇磯良の一族は、伊都国の海人だった事になる。
志賀島に祀られるのが和邇氏・多氏(凡海氏)系の海洋神だとすれば、磯良はそこに従属する(事になった)安曇部なのかも知れぬと思い至った。磯良舞は服属儀礼だという説がかねてから唱えられて来た。
この場合、磯武良→磯良と縮約されたという可能性と、
磯武良を音で読みイソプラとした場合、武良(プラ)→ピラという音韻転訛から、武良→比羅となるので、百済救援軍の海将の一人である阿曇比羅夫の名が連想される。
古来この比羅夫とは何をイメージした名なのか? 謎であった。
比良貝という貝があるとして、海に因んで比良夫→比羅夫というのではないか?というような説もあった。(これは
苦しい。)
しかし比羅夫←武良夫なのであれば、安曇部の頭領の名前に相応しいとも言えるだろう。
そこまでイメージすると、もう一人の有名な比羅夫がいる事にすぐにも気づく。
日本海を平定して蝦夷地にまで舟足を伸ばし、蝦夷地では粛慎族とも闘って勝ち、それを捕虜にして凱旋した皇極朝の海将・阿倍比羅夫の事である。
しかも阿倍比羅夫もまた百済救援軍として派遣され、白村江の海戦で負けている。阿曇比羅夫も白村江派遣軍の海将であり、活躍の時代が重なっているので、実は阿倍比羅夫と阿曇比羅夫は同一人ではないかという人もいるようだ。
しかし、阿倍比羅夫は、白村江の敗戦後も、唐からの侵攻に備える為太宰帥に任じられているし、その子孫には(孫だが)遣唐使の一員として渡唐し、玄宗皇帝に気に入られて官僚となり出世した阿倍仲麻呂もいるので、その実在性は疑いようもない。
但し阿倍比羅夫は元来は阿倍氏の本宗ではなく、阿倍引田臣という複姓なのであり、越前の阿倍氏支族の出だと言われる。この時代に阿倍氏の本宗家が衰えて、比羅夫の活躍がめざましかったので、宗家を継承したのだと考えられている。(この引田はヒケタらしい。また越前は任地で本貫は讃岐だとの説もある。)
でその阿倍氏とは、元来は一体何か?
私はかつて「天孫族考」の中で、阿倍氏は阿部であり阿蘇部であって阿蘇君の一族ではないか?と述べた。
阿蘇君・火君・大分君は中九州の豪族だが、全て多氏同族であるとされて来た。
多氏は必ずしも海人族オンリーではなく、海人族はその
配下に持ち、同様に海人族を統括する和邇氏の同族でもある。(和邇は丸邇とも書かれ、丸は凡であり太でもある。)
だから、阿蘇氏にも海人系の同族がいて、この阿蘇部→
阿倍となったのだとすれば、阿倍氏に海人族の性格があるのは不思議ではない。
実際、謡曲高砂に出てくる阿蘇神社の神主は、住吉神を祖神であると主張している。住吉神は綿津見のほぼデュープである。
しかし、もし阿倍比羅夫=阿曇比羅夫なら、阿倍氏は安曇部氏だという事になって来る。(そうだとするなら引田連となる筈だ。)
だが、比羅夫の名が、海人族に崇められる名武良であるとするなら、たまたま阿倍臣と阿曇連の両方の海人族系氏族で命名されたのかも知れない。
阿曇比羅夫自体の伝記も比較的詳しく伝わっているので、やはり偶然同じ比羅夫の名の海人族の将が白村江戦に出征したと考えるべきであろう。
阿曇比羅夫の方は、阿曇山背連という複姓なので、山背国に本貫があると思われるが、山背は内陸国なので海人の居住は疑問である。もしかすると、淀川水系の海人の長であったのかもと想像される。だとすると秦氏の河勝の配下にでも入っていたのだろうか?
コトバンクで調べてみた。
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阿曇比羅夫(読み)あずみのひらふ
日本大百科全書(ニッポニカ)「阿曇比羅夫」の解説
生没年不詳。7世紀の中期に対朝鮮半島関係に活躍した外交官、将軍。阿(安)曇山背連(やましろのむらじ)比良夫ともいう。山背に本貫があったのだろう。舒明天皇の末年に百済への使節となり、舒明天皇の崩御を聞いて百済からの弔使を伴って帰朝、その応接にあたり、また百済の国情を報告した。また百済義慈王の王子翹岐(ぎょうぎ)らが王に放逐されて来朝したとき、その家に預かっている。
661年(斉明天皇7)に百済が唐と新羅(しらぎ)の連合軍に攻められ危急に陥ったとき、救援軍の前将軍に任ぜられ、後将軍阿倍引田(ひけた)比羅夫らとともに軍を率いて渡韓することになり、662年百済王子豊璋(ほうしょう)を170艘の軍船を率いて送って行き王位につかせた。その効なく、翌年白村江に日本は大敗し、百済は滅んだ。
[横田健一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
また同様に、
朝日日本歴史人物事典「阿曇比羅夫」の解説
阿曇比羅夫
生年:生没年不詳
7世紀中ごろの官人。阿曇氏が海部の伴造氏族であることから、外交と外征に活躍した。阿曇山背比良夫とも記す。大仁の冠位で百済国使を務めていたが、皇極1(642)年
舒明天皇の死去に対して派遣された百済の弔使を伴い帰国し、百済の国情の乱れを報告した。このときに追放された百済王子翹岐は彼の家で安全に保護された。斉明7(661)年
百済救援の前将軍に任じられた。翌天智1(662)年外征軍の大将軍として船170隻を率いて出征し、百済王子余豊璋を本国に送還して即位させた。のち大錦中の冠位を授けられた。
(今泉隆雄)
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となっており、生没年不詳はともかく、その活躍の状況はかなり詳しく伝わっているのである。だから、百済救援軍の将軍任命に際し同じ比羅夫だからと、いわば面白がって二人の海将が任じられたのではないだろうか。
そこで、五十猛=磯武良という説に拠れば、五十猛は辰韓伊西国の末裔であり、伊都国が和族の狗奴国の日下建命=武内宿禰に征服された時に服属して、武内宿禰の子である“葛城?彦(嘉彦)”の配下に入り実際には和族の海人族管領である和邇氏の従臣になったと考えられるのである。だから伊都国の王が任じられていた一大率の地位を奪って
葛城率彦(襲津彦)となり、その後応神朝に朝鮮へ出兵するに当たって葛城襲津彦が大将軍として出征すると、旧伊都国の軍兵もこれに従い参戦する。そして、旧本国であった伊西国を滅ぼした斯羅國と戦い、深く首府慶州まで攻め上がる事になったのである。この伊西国人が慶州を攻めた話は朝鮮の史書に出てくる。しかし、これは伊西国の旧民即ち倭の伊都国(漢委奴国)の方の亡民だった。
☆ 安曇白良
ところで、安曇磯良には安曇白良の別名がある事を既に言及したが、このシラとは、磯の字にシの読みがあるからである。
例えば、ヤマトの中心地域(三輪初瀬+磐余)はかつて磯城郡であったのだが、この磯城はシキと読まれた事が明白であるからだ。磯城は別表記で志貴とか志木とか書かれて、磯の音はシであるというのが知られている。
この事から連想するなら、志摩もまた磯磨であろうと思われる。実際に、国名としての志摩の前に伊都国の小地域名に志摩があった。
須磨の地名の由来もこの延長上にあるのかも知れない。
須磨も磯磨と同じだろうと思われる。
また伊勢の方は、磯瀬あたりが語源かもと想像される。伊の字が付くのは、伊方の地名を検証した時に述べたように、祭祀に関わるからであろう。
伊勢は、そも皇家の祖廟のある国とされているが、元は出雲系海人族の居住地だったかもしれない。建御名方や伊勢津彦など、南紀〜伊勢は出雲王朝系の人物の伝説が色濃く残るからである。
更に、もし安曇磯良=五十猛で、阿曇族が当初は出雲系の海人だとしたら、五十猛(素戔嗚の子神)は木の国に行ったという伝承があるので、阿波や南紀の海人の中に出雲系の
海人がいた可能性も出て来る。
☆志賀島弘浦は鐘崎枝村か?
志賀島の西岸に“弘”という漁村がある。古の弘浦である。ここ弘浦も“かつて鐘崎海民が移住して来て出来た”という伝承を持っていた。
さりながら、「弘浦には海女がいなくて男の海士が潜水漁をしているので、海女漁が鐘崎海民の共通の特徴とされるから、弘は鐘崎の枝村だとの伝承は疑わしい」とされていた。
しかし戦後の文献調査で、江戸期までは潜水漁は海女が行っていた事が判明したというのだ。
(楠本正「玄海の漁撈と民俗」:海鳥社刊)
先に「鐘崎海民の移住先に志賀島から糸島までの範囲が見当たらないので、逆にこの範囲に鐘崎海民の原郷があったのではないか」と私は書いた。しかしこれは訂正しなければならない。
結果的に「鐘崎海民が移住先にしていないのは、博多湾内から糸島及び唐津地区までだ」としなければならない。弘からは博多湾外の玄海島は指呼の間に見える。
こうなるといよいよ、鐘崎海民の原郷は糸島つまり古代の伊都国の地域であろうと考えられる。そうなると、五十猛=安曇磯良となり、もし磯良がエビスの原像なら鐘崎海民がエビス神を固有の村社としている事にも符合する。
そういえば志賀島弘浦にも、村寺の香音寺(臨済宗東福寺派)の不動堂の左隣に恵比寿神社があり、これが弘の村社である。
地図は楠本正氏「玄海の漁撈と民俗」(海鳥社刊)より引用
☆様々な海人族の系統とその祭祀する海神について
そも、先に様々な海人族の系統について触れた。
即ち、一応、海人族の4態として括った。
1)原海人族(出雲系渡来前の移住)
2)出雲系海人族
3)秦氏系海人族
4)天孫族系海人族
これらは、やがて統合されていく。
1と2が概ね阿曇族になり、3は大概4の配下となる。
前者が阿曇連に統括され、4は和邇氏と多氏系(凡海及び阿倍も?)である。
※だがもし阿曇族が2の出雲系海人族であって伊都国つまり糸島を拠点とした海人だったとした場合、更にそれ以前に出雲系渡来人の須佐男族や五十猛族が、それぞれの故地である馬韓牛頭方国や辰韓伊西国に居住していた頃、どういう経緯で韓半島の海人族である濊族との関係が出来たのか?これはよく分からない。牛頭方や伊西国はどちらかと言えば、内陸国だと思われるからだ。或いは、覇権を握る
行動を起こした斯羅國への脅威を同感した同士の“脱韓半島の動勢”下での提携でもあったのだろうか?
ところで各地の海人はそれぞれ固有の祖神崇拝をしていた。それが王朝の指導で次第に統合されて行くのだが、
それでも海人族の多様性を反映して、複数の海神が並列する事になった。
☆多様な海神---------海人族の斎く神の系譜
「古代文学の周辺」(桜楓社、1964年)の中で、西田長男氏は、志賀海神社の祭神の成立年代について、「安曇磯良がもっとも古く、次に綿積豊玉彦神が発生し、最後に綿津見三神が成立したのではないか」としている。
また川添昭二氏は、最後の三神は阿曇氏が「海人之宰(みこともち)」(応神紀記載)として、諸海人系の神々を統合したもので、阿曇連稲敷が、天武朝に修史事業に参画した過程で、書紀に取り入れられたものだと、「宗像氏の対外貿易と志賀島の海人」(海と列島文化叢書の第三巻「玄界灘の島々」所載の論文)の中で推定している。
綿津見三神と宗像三神、住吉三神の三種の三柱の神々、及び大山祇とその子姫神二神(磐長姫と木花咲耶姫)など、海人系の神は多い。
大山祇は地方では三島神として勧請された。
これに龍宮系を加えれば、“豊玉姫と玉依姫”(兄姫、弟姫=乙姫)も海神出身の女神である。
しかも、玉依姫が和船では船玉神の祭神だとされる。
対馬の和多津見神社のように豊玉姫を祭神としながら、
安曇磯良の墓所伝説地を境内に持つところもある。
ある意味で神功皇后も海人の崇拝を受け、その子たる応神天皇と母子神として八幡宮に祀られるが、八幡宮もまた
海人の崇敬神社としての性格も有する。
更にエビス神と事代主命。
先述の如く、安曇磯良=実は五十猛なら、阿曇族は出雲系海人となり、その海人が祀るエビスが、大国主の神話系統に収斂して事代主と習合した心理過程も理解できよう。
(海人族の起源が中国呉越(華南)地方であるとしても、道教の海神の媽祖などが、古代九州には入っていない所から考えれば、北方起源の道教が華南に広まる前に、朝鮮半島に移住した海民が、日本の海人族の祖先だったのだろうと
推察される。すると、その移動は、中国の春秋時代以前となるだろうか?)
少彦名と淡島神。
加太の淡島神社の祭神は、少彦名命と大己貴命、それにその両神に導かれて無事友ヶ島へ着いたという神功皇后。
淡島神社は元その友ヶ島にあったのを、仁徳天皇が加太へ移したという伝承になっている。(本来は出雲族系の神なのだが?)
少彦名が粟の穂の跳ね返りによって常世に行ったというので、「粟島神社」とも書かれる。加太は、実は多氏水軍の拠点である。だが加太は中世には葛城修験の活動地になったので、淡島神を少彦名に擬するという発想は、中世以降のものかも知れない。
更に近世の北前船航路沿いでは、商売の神である稲荷が、同時に海路の安全を願う神として、航海神にもなった。(もっとも、稲荷は円仁の時代には荼枳尼天と習合しており、円仁の唐から新羅船での帰国を扶けた神でもあるので、航海神の性格もあったのだろうか?)
また中世以降、海山伏の山立てを反映してか、白山神も日本海の航海神のように北前船航路の津々に勧請された。
弁財天と金毘羅。こちらは仏教での航海神である。
弁財天は宗像女神の市杵島姫とも習合している。
また市杵島姫は、海人が魚介の売り店を出す市場の神でもある。この場合、漁場の神は奥津島姫(田心姫命)になる。
◯宗像三女神と大山祇の息女媛二柱について
宗像三女神を辺津宮、大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮の 何れに配当するかは、記紀の一書によって違いがある。
だが、神仏習合時に弁財天が本地とされた市杵島媛こそが、最も美しいとされ、三女神の代表だとされた。
その別名として狭依毘売(さよりびめ)がある。
宗像氏が、海人族の主要な氏族であるとは古来信じられて
来た事なのだが、阿曇族や綿津見族(和邇氏=春日氏、多氏)と、どういう関係があるのかは実は明らかではない。
大山祇神社の総本宮のある大三島には、宗方神社があり、
大山祇系と宗像系が同じ島内の近所に共存している。
一方で、大山祇には二柱の息女媛があり、兄(姉)姫が磐長姫、弟(妹)媛が木花咲耶姫である。
その内、大三島に手厚く祀られているのは磐長姫であり、
伊予各地にも磐長姫を祭神とする神社が多い。だから愛媛とは、磐長姫だとされてきた。
宗像三女神は天照大神から神勅を受けて、天孫の大八洲国への渡海を手助けしたので、道主貴の異名を有する。
その内市杵島媛は神勅後、最初に宇佐の御許山に降臨し
その後に宗像の島に遷座されたとある。
(書紀第三の「一書」)
宇佐神宮では本殿二之御殿に祀られ、この書紀の記述を
神社年表の始まりとしている。八幡神の一つ比売大神が
これである。
またこの比売大神は息長大媛とも呼ばれるので、やはり
海人族系といわれる息長系にも関わりがあると言われて
来た。
更に息長帯媛(神功皇后)にも繋がってくる。神功皇后の
東征を支援した水軍は和邇氏と多氏である。阿曇氏は和邇氏・多氏に統括されてその配下で働いたと思われる。宇佐の海人もまた多氏水軍に動員されたであろう。
※比売大神= 息長大媛説は、八幡神が応神天皇の化身とする伝説が生じた後で、母神たる息長帯媛を合祀する事になり、そこから息長大媛=息長帯媛という習合となったのかも知れないのだが。
神統譜上では、宗像三女神は、天照の子神なので、神等級
からは、天忍穂彌彌と姉妹神に当たるので、天孫邇邇芸の
伯母神となる。だが、ウガヤフキアエズの様に叔母神である玉依媛を娶して五瀬命や神武(狭野命)をもうけた神話もあり、邇邇芸の妃の木花咲耶姫が実は市杵島媛と同体だった可能性もあろう。
そうすると、磐長姫に比定されるのは、多伎都比売であろうか。伝承上、多伎都比売は出雲大神とされる大己貴神と婚して事代主を生んだ事になっているが、磐長姫もまた出雲系の八十島梟師との婚姻伝説を持つからである。
すると沖の島に祀られる田心姫命に相当する神が、大山祇の娘神には見当たらなくなってしまう。大三島に関わりながら二女神になってしまう。だが大三島には瀬織津姫伝説もある。
或いは忍穂彌彌の妻である瀬織津姫が田心姫か?
(瀬織津姫の父神は高皇産霊でこれは高霊加羅の神なので、沖ノ島はその遥拝地とも言えなくはないからだ。)
何故宗像女神は三柱なのか? これは、宗像海人の斎く神が、辺津宮(陸地)、中津宮(宗像大島)、沖津宮(沖ノ島)と
丁度三つの拠点に構想されたからであろう。この三宮は
朝鮮への航路でもあった。
博多津を整備して日宋貿易を盛んにしたのは平清盛だが、宗像氏はその平家の意向を受けて宋との貿易に携わったと見られる。宗像の宝物館には重盛から寄進されたものもあると言う。
また宗像氏は(地元豪族でもあり宗像神社の大宮司でもあったが)平安末に二代に亘り、博多在住の宋人商人の王氏・張氏の女を嫁にしている。つまり以後の宗像氏は中国系和人でもある。
この頃は博多には宋人商人が多数居住しており、恐らくそこでは後世の長崎でのように、道教系の媽祖もまた海神に加わったであろう。
多様な海神は、藤原朝時代に阿曇稲敷が修史事業に参画して行く過程で整理されたのだという川添昭二氏の説は、次の事を指す。
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天武十年(六八一)三月に、天皇が大極殿に臨御、川島皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王ら皇族と共に、
上毛野君三千、忌部連首 、阿曇連稲敷、難波連大形、
中臣連大島、平郡臣子首らに命じて、
帝紀および上古の諸事を記し定めさせたが、大島、子首は、筆を取って記録した。
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と記されている。
この時、総合された海神が綿津見神だというのである。
海人族の祭祀に関わる氏族には卜部がある。
☆卜部について 卜占師は何故ウラベと呼ばれる事になったか?
卜占(ボクセン)は訓では熟語を形成する2字ともウラナイである。
ウラナイという語は、ウラ+ナイで、ナイは商いとか
行い・呪い(マジナイ)とかの「行為を表す接尾語素」なので、日本語のウラナイとは“ウラを為す”という事になる。
このウラとは即ち浦で、海人が磯辺で行う吉凶の占が、そのウラナイという行為であり、それが卜占そのものの同義語になったのである。
占は漢字的には笘で、中国では筮竹で占う事を言った。
竹の産地ではない北方の狩猟民族では鹿占をした。鹿骨を炙ってその罅割れ(ヒビワレ)の形状から吉凶や未来や因縁を判定した。
鹿や馬の肩甲骨を用いるのだが、予めそれを取り出して乾燥させて短冊状の小片(これを鬐甲=キコウといった)を作りこれを卜占の際に使った。鹿卜ともいう。
海民の占いは亀卜である。海亀を捕らえて甲羅を剥ぎ、その小片を加工して占い用の亀甲を作った。亀甲を炙るが、卜占の罅(ヒビ)は、亀甲の内側に生じたものを見るのである。いわゆる六角の亀甲形の(つまり背中)側に生じる傷を見るのではない。
海亀を捕らえるのは、銛を打ち込み格闘して亀甲を傷つけないように注意しなければならない。非常に体力を要する業である。だから、優男では務まらない。勇男=勇魚獲り(捕鯨人)からの転身者も多い。
だから海民なら誰でも務まるものではない。無論審神者(サニワ)としての判定をする智慧も必須である。
卜部は浦部である。浦部の卜占の行いだからウラナイというのだ。
板子一枚下は地獄。海人=浦人にとって卜占は命に直結する。そこで、浦人(浦部)の中から専門家となる。これが
卜部である。
多氏の九州平定戦争に加わり、また多氏が鹿島に駐在して北伐するのに同行して、卜占の任に当たりながらも、戦闘能力を活かして実際の征服戦争にも貢献した。こうして
卜部から中臣氏になると、朝鮮派遣軍の将軍にまでなる者も現れた。壬申の乱での近江朝で最後まで抵抗したのは、中臣金であった。(金=クガネは大友皇子の下での右大臣。)
このような中臣氏の戦闘性は、藤原氏になってからも、
不比等の息子である藤原四兄弟の時代まで顕著に維持された。藤原氏が中央貴族として、戦闘の体力を失うのは平安期からである。
とはいえ、地方に赴任した藤原氏の一族から武士藤原が生まれるのもDNAの成せるものか?(藤原秀郷などである。)
王家の卜占は、浦部から選び抜かれた卜部が任じられた。
朝廷での卜部は神祇官(長官は神祇伯)の下僚である少副(ショウフ)の官位にまで昇任できた。
※神祇官は伯の下に[大少権]副(フ)、[大少]佑(ジョウ)、[大少]史(サカン)があり、更にこれに任じられる
神部と卜部が属するという構成である。これに特別役として御巫(ミカンナギ=女性)と戸座(ヘザ=7歳以上の童男=オグナ;少年)が属した。
これら神祇官の卜部を「三国の卜部」という。対馬・壱岐・伊豆の三国から徴用された。定員20人だが、一応の
振り分けは、対馬が上県5人・下県5人の計10人、壱岐が5人、伊豆が5人。伊豆は多氏の北伐時に見出された(養成された)という。後世には山城の在京の卜部も神祇官に任用されたが、その時はその者の出自(対馬・壱岐・伊豆)のいずれかの定員に算定される建前になっていた。
卜部の内、卜占に特に秀でた者は宮主(ミヤジ)という職位を賜り、帝の宮主のほか中宮や東宮に置かれて、それぞれの要請による用件を占ったのである。
山仕事人にも吉凶の卜占や縁起担ぎはあった筈だが、それ専門の独立したシャーマンや呪い師が上古には居た筈なのだが専門化しては残らなかった。これは中世からは修験者によって祈祷卜占が担われる所が多かった為ではないかと推察している。
マタギなどはシカリ(猟の頭人)が祈りの音頭取りを務めた。シカリはそれこそ“然る”べき熟練者の猟師だが、誰でも成れるものではなく、シカリの家(血統)というものがあり、そこの中から猟の第一人者となった者がシカリを務めた。シカリの家には、代々伝えられた「山達根本之巻」
などという巻物があった。これは、マタギの由来と権威を記した秘伝書で、昔は狩りで山に入るときは必ず身につけたものだ、という。
一見、海人の卜部と山人のマタギとでは差異が大きく思える。だが対馬や壱岐でも、都に上った卜部はほぼ帰らず、中世にはやはり卜占も含めた呪い事は、修験者(海山伏や、対馬壱岐では彦山修験)が担うようになって行く。これが対馬では特に神仏習合で、神社の神主役も務めた供僧(グソウ)と呼ばれる里修験である。また壱岐では卜占や呪い事を行う(信州の梓巫女や市子と類似の)イチジョー=市女
が卜占も担うようになって行く。
☆息長氏について 本当に海人族なのか?
過去にも、息長氏は海人族であるとの通説に従って、色々推理を働かせて来た。宇佐の息長大媛や、息長帯媛つまり神功皇后の伝説は、海人との関わりが深いからだ。
しかし、ここに来て考え直すと、神功皇后が和邇氏や多氏の水軍によって戦い、また阿曇族がこれに従った!という事績と、息長帯媛自身が海人族であるかないかには、よく考えると違いがある。
息長帯媛が巫女でもある事は記紀の伝承から明らかだが、彼女が三韓への出兵と東征の途上で水軍の世話になった事は分かるものの、そのほかに彼女もしくは息長氏自体が
海人族系だという事は出ては来ないのである。九州で安曇磯良を使役したり、また凱旋後住吉神を勧請したりして、海人との関係を有していたからといえ、それは息長帯媛が海人だという事にはならないからだ。
息長帯媛は、一応近江の息長氏の出身という事になっていて、その為仲哀天皇の熊襲征伐に同行するのに、遅れて
近江から出発、若狭経由で水軍を率いて、氷上の水界を
抜けて加古川に出て瀬戸内を行き長門で仲哀と合流したという事になっている。
また、仲哀の死後に三韓出兵と、ヤマト側の香坂王や忍熊王との対決に水軍を用いたという話から、我々は「彼女が水軍を指揮するくらいだから当然海人族だろう」と、従来決めてかかっていただけの事ではないだろうか?
私は、元々息長帯媛は近江の息長氏の姫ではなく、宇佐の息長媛ではないか?と疑っている。出発地=近江〜若狭〜氷上〜加古川〜瀬戸内というのは、神功皇后軍の東征の際に、若狭丹後の和邇系海人が取った経路である事をこれまでも主張して来た。
皇后の東征の中央軍は、洞海湾〜備後鞆〜加古川沖〜加太という航路を取ったであろうが、出発地は北九州の岡田宮だと考えているのだ。
記紀の記述では近畿の息長(気長)氏の出だとされている。
「オキナガタラシヒメノミコト。父は開化天皇の曾孫,母は新羅から但馬に来住したという天之日矛の玄孫タカヌカヒメ。」これはブリタニカ百科の記載の一部である。
だが古事記と日本書紀では多少ニュアンスが違っている。
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『日本書紀』によると、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で名を気長足姫尊(息長足姫命)という。父は開化天皇の曽孫
・気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅の王子、天之日矛の五世の孫にあたるという。
『塚口義信著『神功皇后伝説の研究』(1980・創元社)
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そも高顙(額)媛が葛城氏だとされる根拠が不明である。
藤原朝時代の文献資料では、息長氏の本貫地は、近江(の坂田郡)とされるのだが、山城の綴喜郡にも息長氏が居て、息長帯媛の伝承はこの山城の息長氏の提出した資料に依るという説もある。そして、近江の根拠地は応神天皇の世に、その孫に与えられた封地だという説もあるのだ。
仲哀との婚姻の話は、記紀の虚構であり、実際は仲哀に擬せられた(三輪王朝の)垂仁天皇の孫皇子の誰かが、一大率に任じられて博多に来た時に、宇佐の息長氏から香椎宮に派出された大巫女媛が居て、それが本来なら一大率(=擬称仲哀)の娶せ女だった筈なのを、既に伊都国を併合していた武内宿禰(実は日下建命)が、仲哀を弑して息長帯媛を自らの妻にした、というのが真相ではないか?と想像している。
もっとも私は三輪王朝側の、箸姫こそは近江の息長氏の媛ではないかと言って来た。箸姫=記紀の倭迹迹日百襲姫命である。
百襲媛は孝霊天皇の息女だとされるが、三輪王朝で宮廷の最高巫女を務めていた。(琉球王朝の聞得大君と相似である。) だから彼女こそは、卑弥呼ではないかと言われても来た。卑弥呼であるかどうかはさておき、親族皇女が宮廷祭祀を司っていた政体が三輪王朝である。
無論、百襲媛が海人族系だと想像させるものはどこにも無い。
百襲媛はその祭祀する三輪山の神である大物主と神婚した、後世の斎宮のような存在と、最高神官として託宣を下して政治の方向性を決めさせるような存在だったのであろう。
私は、このような特別な身分が息長氏の血脈に伝承されていたと考えるのだ。従来の息長氏海人系説では、息長=
沖龢あたりで、航海の無事安全を祈願する祭祀氏族と考えられて来たのだが、私は従来のこの考え方を捨てて、息長= 燠龢という仮説を提唱したい。
実は天山三族にとって王家の女系血脈を保持する一族があり、それが燠龢(置き巫)なのではないか? との着想である。燠とは燠炭の語のように、火種を保って置くために灰の中などに火のついたまま入れられている消し炭の類の事である。
小月氏の(私の分類では中月氏の)末裔である蘇毗ソンパ=東女国では女王(甲とする)の他に親族から出された副王(女性乙)が居て、仮に甲が崩御した場合、例え甲に女子丙がいても、王位は丙が継がず、副王だった乙が即位する。そして、丙もしくは元女王だった家系の女性丁が新たな副王となる仕組みだった。このような女王を維持する丁のような王族の家系が正副の女王の一族以外にも置かれていた。
これを燠王家と言ったのではないか?というのが私の仮説である。
東女国の王位継承の仕組みは、交流のあった武則天時代の唐(武周)の記述に出てくるが、そういうリザーブされた王家の呼称などは無論出ていない。
小月氏の東遷で遼陽の辰国→三韓→倭国となっても、この王家の血脈を維持する仕組みはずっと保持されて来たのではないか?と考えた。
近江の息長氏は出雲族の置き龢で、宇佐の息長大姫の巫女は白馬族(秦氏)の置き龢。では肝腎の和族の置き龢は何処に居たのか?
可能性は宗像か肥前神埼(吉野ヶ里)あたりか。それとも、宇佐の息長の媛が和族の置き龢を兼ねていたのか?だから大媛なのか?
息長氏の姫は、神話の天照と同じく織女でもある。織姫とか砧姫の名が出てくる。しかし、武内宿禰の配偶者は豊姫というのだが、豊の国(宇佐)の出身の可能性が高い。そして豊姫は息長帯媛(神功皇后)の妹媛だともいう。だとすると、息長帯媛も宇佐の巫女だった可能性があると考える。秦氏は織布氏族でもある。武内宿禰の別の妻が水巻宮に居たという砧媛だが、これも都から来た姫だという。
都はヤマトの事ではなく、豊国の京都(ミヤコ)郡のことではないだろうか?
砧媛が豊姫の姉妹だとすれば、砧媛は息長帯媛でもあろうか?(それとも、豊姫が息長帯媛で砧媛はその妹媛か?)
倭族や蝦夷との征服戦争で神功皇后以外に活躍した人物は乏しいのに、新たな姓の真人が出来ると、息長は真っ先に真人になっている。他の真人もまた殆どが皇家の出身者である。息長氏は準皇族の扱いになっているのである。
息長氏が準皇族のように扱われたのは、一般的には、
(ⅰ)先ず応神王朝を創始したのが息長帯媛であったこと、
(ⅱ)応神妃の一人にも息長氏(息長真若中比売)が入っていたこと ---------これは古事記の記載。書記では別の姫の名。
(ⅲ)またその妃との皇子・稚野毛二派皇子(ワカヌケフタマタノミコ)が、息長真若中比売の妹の百師木伊呂弁(別名を弟日売真若比売命)を娶り七子をもうけたが
その大郎子(又の名を意富富杼王=三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君等の祖)
が近江に封じられて、子孫から後に継体天皇が出た事
などから、“息長氏は皇統の女系の祖先である”と認識されたからであろう、と解釈されて来た。
更に稚野毛二派皇子の娘はあの忍坂大中姫であり、允恭天皇の皇后でもある。継体天皇皇后の手白髪郎女(手白香皇女)は仁賢天皇の皇女で、武烈天皇の同母姉である。(つまり継体と皇后は四世従兄弟)。
こうして夫婦の両系が応神に帰する形になっている。そして両系の合一が両者の皇子である欽明天皇なのである。
しかし私説のように、息長が置き龢だとするなら、また別の解釈が成立すると思うのである。
ある時点からこの置き龢を保持する考え方を日本の皇室は捨て去ったと思えるのだが、代わって、皇家の血筋を保持するために宮家を多数作って置くという方法論は、江戸時代までならず第二次大戦前まで続いたのである。
欧州の王国の様に、王家の血筋が絶えた場合、外国の王家から新たな王統を迎えるという思想は我が国には考えられない。
それは、我が国の天皇は、葱茈族の最高バラモンの子孫でなければならないからなのだ。
※古市晃氏は近著で、「周縁王族論」という説を提示している。皇統の維持を目的として、畿内には、かつての大王の皇子を祖とする複数の王族の血統があり、これを周縁王族と呼ぶべしというのである。
このデンで言うなら、息長氏はその周縁王族の最たるものであろう。
付、和邇や多氏は何処で海人統御の術を身に付けたか?
私は、「天孫族考」で、和邇氏や意富(多)氏は中ツ臣で、和族の王家の伝世の従臣だったと述べた。王家を頂点とする月氏のバラモン層の中で、次位相当が和邇(春日)氏で、中下級のバラモンが多氏だろうと考えられるとも言って来た。
匈奴の侵略で月氏はタリム盆地から逃散し、崑崙山脈から青海湖方面に行き、先住の羌族に混住したのが小月氏である。
その中の和族=葱茈族(曽布留族)が黄河を下り遼陽〜韓半島〜大八洲へと大移動をするのにも、終始王家の供をしたのが和邇・意富両氏であったろうとも考えた。
しかし、黄河を下るにも、渤海湾〜遼陽の地の辰国に於いても、更に三韓から大八洲列島へ渡海するにも、舟人や海人を統御しなければなし得ない事である。更に、神功皇后の東征に於いてや、応神朝の朝鮮干渉や蝦夷の北伐への多氏水軍の常陸進出などに於いておや!である。
和邇・意富両氏は一体いつ何処でそういう能力を身に付けたのか?
私は、それは小月氏が辰国や三韓を建てる以前、即ち既に月氏として西域にあった時からだと考える。
月氏は、これまでの論考で度々述べて来たように、パミール高原(ウズベク語?)=曽布留高原(月氏語)=葱嶺(漢語)を中心に民族を成しその後南西側の低地や東側の高地(ヒンズークシと崑崙山脈の間の高地=チベット高原や今のアクサイチン)へ伸張し、更に今いうタリム盆地にも分住して、恐らく各所で原初的な地域国家を作っていたと考えるのである。
実は、タリム盆地とかアクサイチンなどは、隋唐時代辺から北方より進出して来た(今の新疆ウィグル族に繋がる)チュルク系民族の呼称であり、月氏が支配していた時代に(月氏語で)何と言ったのか?今の処分かっていない。
パミール高原より南西の低地に押し出した部族が建てたその地域国家がガンダーラで、それが月氏語の名だという事は古くから知られており、上古にはアケメネス朝ペルシャの属国になっていた。その頃からガンダーラの月氏部族は黄牛をトーテムとしていたらしい事も、ペルセポリスのペルシャへの朝貢国を表す宮殿レリーフから判明している。つまりガンダーラは(後世にはクシャン朝の主要都市になり、カニシカ王などの作らせた仏教遺物で有名なのだが)月氏のクシャトリヤの国であったと推理される。
クシャトリヤは小月氏では黄牛羌と呼ばれていた。タリム盆地の(後に天山南路と言われた北西地域から中央部にあった)楼蘭や高昌などはクシャトリヤのつまり黄牛族の都市国家だったと思われる。
黄牛族は単に牛をトーテムとするのではなく、黄牛を祭祀の供犠にしていただろう事が推定されている。
ガンダーラの語源はよく分からないようだが、私は中国流に解せば、「牛頭陀羅」ではなかったか?と、今は想像している。
※陀羅は、地方名の◯◯タン(坦)よりもう少し狭い地域を示す接尾語だろうと思われる。チベットのポダラ(甫陀羅)宮の甫陀羅は、日本の仏教での補陀落渡海の補陀落と同じで、やはり陀羅(ダーラ)の変形であろう。モヘンジョダロのダロも同様か?アフガンのカンダハーラはガンダーラの転訛というので、××ハーラのハーラや ××バラという
地名も同類かと思われる。従ってガンダーラは“ガン地域”の意味合いなのだろう。
楼蘭やガンダーラで通用していた月氏語を記述したカローシュティー文字文書が各地で発見されているので、その研究がもう少し進めば、ガンダーラの地名の由来や、タリム盆地の月氏時代の呼称なども次第に分かってくるのではないかと期待している。
しかし、月氏が日本民族の祖先だという構想が一般化していない為にカローシュティー文字の研究をする日本人学者が殆どいないようなのが甚だ残念である。解明は欧米や中国の学者の成果を経由しなければならないからだ。
さて、話題の中心を元に戻そう。
「和邇・意富両氏は一体何処でそういう海民統御の能力を身に付けたのか?」というテーマである。
一見、現在のタリム盆地の現状、それはタクラマカン砂漠として知られている地域なので、とてもそこで漁民や水軍の統御能力を得る事は不可能だと思われてしまう。
しかし、桜蘭王国とロプノール湖の、所謂“消えた湖”の故事の如く、タリム盆地が砂漠化したのはAD4世紀以降なのである。
Facebookの古代史研究会サークルで(ムーサフルさんが)「太古にはタリム盆地は、カスピ海やアラル海などの様にタリム海という内陸海であって、この3海は(古アムダリヤ川?などの)複数の河川で結ばれていたのではないか」という仮説を提唱されている。
これは先史時代というよりも、地質時代の事であり、恐らく1億年とかのオーダーでの時代区分の昔の事であろう。
実際、ヒマラヤ山脈やチベット高原は、更なる太古代には海底だったという事はよく知られている。この為、ヒマラヤ北側やアクサイチンの湖沼群は、殆どが海底に堆積した塩分の溶解で、かなり濃い塩湖であるのも有名である。
さりながら、月氏が高原から降りて来た時代の、(今言う)タリム盆地は、間氷期の温暖な気候の下で、大河川と湖沼に富む緑の楽園だったと考えられている。南の崑崙山脈と北の天山山脈の雪解け水が何本もの大きな河川となって流入し、盆地の中央部分には、複数の湖沼が形成されていた。豊富な水分によって、川岸には胡楊などが繁茂し
湖岸の草地は、葦などが群生しており、少し高い丘は草地となっていて、羊や牛馬の飼育には困らない豊かな土地だった。
少なくとも月氏が匈奴に追われる紀元前2世紀頃まではそういう環境だった。
古アムダリヤ川などで、カスピ海やアラル海と繋がっており、盆地の河川湖沼にも豊富な魚類が生息していただろう。だからこの地には当然相当数の漁民が居て、またその舟を作る舟大工もいたであろう。域内交通にも馬だけでなく、舟が用いられたと考えられる。
(舟は木造船のみでなく、西アジアでよく見られる葦舟などもあっただろうし、羊皮筏もあったに違いない。)
この頃はアクサイチンの高地も今より温暖で、(日本列島の縄文海進の時代にも相当?し)高原の塩湖でも、陸封された鮭鱒科魚類の漁が活発に営まれていたと想像する。(後世にも青海高原路となったアクサイチンの塩湖沿いには、旅人に魚を売る露天があったという伝承もある。)
魚は古来から単なる食物ではなく、祭祀の際の贄にもなった。
和族はこの時代から魚食に慣れていたと考えられる。和族の聖草は葱類だと思われるが、他の天山月氏の黄牛族や白馬族のような動物トーテムがあったのか?は今の処、未解明である。羊や山羊を飼っていたとは想像されるが、それを祭祀の供犠にしていたという記録は無い。もしそれらがトーテム動物だったら、列島への渡来の際に連れて来た筈だが、我が国古代では羊の飼養は見られない。
だから、それらの供犠動物の代わりが魚類の贄だったのではないか?
そういう経緯から、和族の祭祀を司る和邇氏やそれをアシストした意富氏が、魚類への管理権を持ち、従って漁民を統制下に置いていたのではないか、というのが私の仮説である。つまり既に月氏が盆地に広がっていた時代から、舟や漁民への関与があり、これが小月氏が黄河東下〜遼陽での辰国〜三韓と東遷したのに連れても、そのまま維持されて来て、大八洲列島への渡来時にも、海人族の綿津見の支配として生かされたのだろう、と考えるのである。
本来はバラモンであり中ツ臣の和邇氏・意富氏が、何故海人族の管領の役割を果たせたのかは、何世紀にもわたる漁民・川人支配の経験があったからだろう、というのが私の解釈なのである。
だから和族東遷の立役者は和邇氏・意富氏であり、それが神功皇后のヤマト東征や“五王”時代の蝦夷北伐にまで繋がり、遂には大海人皇子の壬申の乱での隠れた東国兵力の結集者・多品治にまでなったのだ、と考えるのである。(近江での大海人側軍団は、美濃・越前などの多氏の兵力と、海部でもある尾張氏の陸戦隊だったろう。)