補遺15続の2 海人の大の字とアヤツコについて

補遺15続の2 海人の大の字とアヤツコについて

☆海人の付けた「大の字」

丸邇氏に支配された筑前鐘崎の海女は、頭に巻く手拭いに「大」の字を書いたり、縫い付けたりしている。また紀州や伊勢の海女には大の字の変形で☆形を描く者もいる。

これを私は「彼らを管領する丸邇=太氏に因むものだ」と考えた。

この魔除けとされる大の字は、頭にだけでは無く、海女の持ち物や海女船の舷側に立てる小旗などにも書かれ、時には大の字ではなく太の字だったり、或いはそれを図案化したヒトデ(海星)形や☆形だったりもするのである。(海星を海女言葉で蛸の枕などとも言う。)

一方で、我が国には、安産を祈って妊婦に付ける帯(岩田帯)に「犬」の字を書いたり、また幼児の額に母親が、紅で犬の字を描いたり、時には墨で✖︎印を描いたりする習慣がある。

安産祈願の場合は、犬のお産が軽いのでそれにアヤカロウとする為、また幼児の額に付ける犬は、この児は人間の子ではなく犬の子だから神隠しに合わないようにしてくれ!という呪い(アヤカシ、誤魔化し)であり、また✖︎印は結界の綾印であるとして、このように付ける印形を“アヤツコ”(阿也都古)と総称した。

(注、“呪い”と書いたのはマジナイであり、ノロイの方ではない)

※そも岩田帯は犬にアヤカル為に妊娠五ヶ月の戌の日に

着帯祝いをして身に着けた。しかしこの岩田帯というものの言葉の由来がそも分かっていない。岩田に植えた稲はよく根を張って丈夫に育つからなどという俗説が流布している。しかしこれは農民に言わせれば全くの嘘で、岩田(磐田、石田、曽根田)は耕作に厄介なだけでなく、そこに植え付けた稲が泥田よりもよく育つなどという事はないそうだ。

そこで、岩田は、斎肌の事だと解釈する人もいる。だが私は、斎太もしくは祝太帯で、王家の壬生でもあった太氏が、皇子皇女の誕生を祈願して妊娠した皇妃に着けた祝い帯が起源であると思う。

アヤカルというのは“綾借る”で、綾の持つ呪力を借りる事。綾は杉綾などの語もあるように織目模様であると同時に、そういう織目の元になった竹細工の目や籠目である。

アヤヲツケルというには綾(印)を点ける事。

アヤツコは、“綾付けをした児”もしくは“綾を点ける事”となる。

結界に✖︎を用いるのは、封じ石という;石を十字に縛ってあたかも✖︎を付けたのと同様にして、庭の枝折戸の前に侵入禁止の目印として置く習俗にもなっている。

(※怪しとか妖しもまたアヤに関わる言葉と思える。アヤをつけるべき怪異な対象がアヤシイ物なのだろう。)

だから、海女の付ける大の字もまたアヤツコの一種だとする見解が出る。魔除けという機能が共通だからである。

しかし私は、海女の大の字は、アヤツコとして生じたものでなく、大氏の支配下の民である事を表示する家紋のような物ではないか?と考えた。綾付けの場合、大の字や太の字、更に☆形を点ける事が魔除けになる理屈がイマイチ不明だからである。つまりこれは大氏への帰属を示す事で、海賊や海の魔物に手を出させない為の呪術だと思えるのだ。

一方で、子供の額や岩田帯に付ける犬の字は、太氏とは何らの関係も無いように見える。しかし、これが犬だから犬の属性に沿った解釈がなされて来たのだが、元々はこれも太の字ではなかったろうか。

というのも太氏は王家の壬生の役目を世襲していたので、安産や魔除けにやはり太の字を付けて、この児が太氏の成育する王家の子女だという事を、第三者や精霊に示したものではないか。

この太の字の意味がわからない庶民には、太→犬の間違いという解釈が流布されて、児に犬の字を付ける風に変わったのであろう。

だから海女の大の字と子供に描く犬の字は根は一緒で、むしろ児に描く大の字がルーツではないかとも推理する。

このような大氏を暗示する印ではなく、✖︎を付けたり綾形をした格子(竹や籐の織り目が菱形になっているもの)を付けたりするのは、純粋に結界の呪い行為であろう。こちらは、元来は久米部の行うという“(魂)籠め”の「封じ込めの呪い」に起源する陰陽道などにも通じる呪法である。これが本来のアヤツコなのだ。(久米部は別考する。)

しかし大の字描きも、綾付け行為(アヤツコ)も、ともに魔除けの役を負うものである為に、習合してしまい、両者共にアヤツコの範疇で理解されるようになったのではないかと考える。

更に、野本寛一氏の「言霊の民俗誌」に拠れば、静岡県の駿遠隣接地である志太郡(駿河)と榛原郡(遠江)では、霜月23日に営まれる大師講の行事で、ぼた餅を作るが、その餡を摺った擦りこぎにこびりついた餡を、入口の大戸に擦り付けて、大の字を書いたという。

毎年同じ場所に書くので、大戸のその部分は白くなり、普段も大の字の痕跡が残って見えたと言う。無論、この大の字は大師講の大師の意の呪いなのだろう。(志太〜榛原の辺りは、広義の大井川の川先筋で、真言宗の寺院が多く、空海=弘法大師信仰のあった地域である。)

だから、一見この大の字は仏教?というか大師信仰の中のものの様に思える。だが、この大師講にまつわる現地の謎掛けを聞くと、一寸待て!と言いたくなる。

野本氏の蒐集によると、ナゾというのは、次の様なものだ。

「大師講のぼた餅と掛けて何と解く→沖中の舟と解く→してその心は→早くミナトにつきたい(港と皆戸の掛詞)」。

また同じ地方内で、「大師講の御馳走はエビス様に隠せ」という言い回しもあるそうだ。

大師講と沖の舟、またはエビスといい、共に海の匂いが漂う。この地域は、大井川の川崎から焼津辺に渡る辺りで、古来海人族が進出していたと想定される地域だ。だから、この辺りの戸口の大の字は、元は海民の魔除けの大の字があって、それが大師と習合したものではないだろうかと、私には考えられるのだ。

筑前の玄界灘に臨むいわゆる宗像七浦には冬の始め霜月二十一日前後に吹く北西の烈風を「お大師さん風」というとの事。これは丁度その頃に、入唐していた空海の帰国の船がこの烈風に吹き流されて筑前に着いたとの伝説に拠るのだとか。だが、よくよく考えれば、空海が弘法大師の尊号を貰うのは後世であり、帰国の際に大師であった訳はない。だから、この北西風の名前は、かなり後から付けられたものであると想像される。

また大師講が11月23日になっているのは、この日が旧暦での冬至になる事が多かったので、大師講という名で冬至の魔除けの行事が行われたのだというのである。

そも空海の入定は3月21日なので、所によってはこの日(もしくはその前夜)に大師講が営まれた。その後、真言宗の寺院や宗徒では毎の月命日に大師講を持ったのだが、それが偶々11月21日に吹く烈風と空海の帰国船の風難が習合して11月21日の「お大師さん風」の伝承が生じたと思われる。

だから、この冬至の祭の行事食として、小豆粥を作ったりぼた餅を作ったりした海民の習俗で、魔除けの大の字を戸口に書いたのが、大師講と習合して先述の駿遠沿海部の習俗が生じたものではないか。

土地によっては、この日の前後は大雪になる事が多いが、大の字を戸口に書いておけば、夜中にお大師さまが回って来て、不幸を除いてくれる筈だ、などという俗信も生じた。雪と空海の間には、本来は何の関係もない。(ある地域特有の何か伝承でもあるのか?)

※なお、アヤツコの事を、西日本のある地域で、ドーマンという所がある。これは、伝説の陰陽師である芦屋道満に因むものだろう。

芦屋道満は、官の陰陽師である安倍晴明(後の土御門家の始祖)と並称される者だが、実際はほとんど分かっていない。生駒の蘆屋里に住む竹取人から出たという説や、イヤ播磨の出身だとか、播磨は藤原道長の呪殺を企てて流罪になった先だ、とかの諸説があるものの、近江の道満岳修験の創造した虚像だとの説もある。その道満流の呪法には、

魔除に✖︎印を付ける術があるというので、これをドーマンと呼ぶ所が出来たらしい。道満は近世に歌舞伎の題材になって有名になった。

道満岳は今は大津市に含まれる比良山地の山で堂満岳とも堂満山ともいう。

☆久米部・久米氏について

古代に於いて、久米氏は大伴氏同様に、天孫降臨時の随伴神別氏族に位置づけられていた。

(「日本書紀」天孫降臨章1書に、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(別名は天久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、「新撰姓氏録」左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。)

その公的な役割は、大伴氏同様に、和族の武力部族であり、和邇氏や多氏が水軍を中心としたのに対して、大伴氏と久米氏は陸戦部隊の性格が強いと言われてきた。

しかし、ある時点から、久米部の伴造である久米直(?)は何故か衰微したと見え、大伴氏の配下に入った様である。大伴氏の配下の戦闘部隊には佐伯氏もおり、藤原朝から奈良時代にかけての頃は、両氏を大伴氏が指揮下に置いている。

久米氏には久米臣と久米直がある。久米直が久米部の頭領だと考えられる。但し姓の直は渡来氏族のものなので、和族が九州に渡来する以前、即ち弁韓に在った時までに臣従したものと考えられる。

宮廷舞に久米舞があるが、この様な部族名の付いた舞は、磯良舞とか隼人舞のように、その部族の服属儀礼の舞踊化だと言われる。

※久米臣の方は、後世大和高市郡の久米郷に和邇氏の支族深目臣が住んだ事で、久米臣の名を賜ったので、久米部の頭領ではないという事になっているのだが。

佐伯は大伴氏が征服戦争で捕虜にした後、自軍の戦力に加え入れた部族だとされ、何か敵対する部族をサエギル働きをさせるのでサエギ→サエキという名称になったという。(佐伯は元、豊後と日向の境に展開されていたので隼人を遮る部隊だったろう。その後、安芸・阿波・讃岐・越中に佐伯は分駐している。王朝から見て、それぞれの佐伯は何を仮想敵にしていたのか?これは明らかではない。だが中

で越中の佐伯は明らかに蝦夷に備えたものだろう。佐伯部は蝦夷の捕虜だというが、九州王朝が蝦夷と接触するのは、応神王朝が河内・大和を征略してからである。それで、久米部は肥襲部で球磨襲の捕虜を再組織したものという説も出され、佐伯も日向の南風曽[ハエソ]の捕虜を

自軍に組み入れたのではないかという考えも出されている。これは肥襲部として肥をコエと読ませるのだが、これは火の国は肥国とも書き、肥前肥後の両国になる事から、球磨部→久米部とするもの。)

大伴氏の方はその名前からして大氏(多氏)の陸戦力から発展したものと思われる。

そこで、久米の方は和邇氏の陸戦部隊だったのか?という考えを持つ人も出て来る。というのも、久米にも、もしかすると海人族の過去があったのではないかという説があるからだ。それは、久米とは来目であり、海人族の目の周りの刺青のいわゆる隈取をさす、つまり安曇目と同じものだという主張を根拠にした説である。そこから聖徳太子の

盲目の弟であるという来目皇子の伝説も生じた。これは恐らく久米臣が和邇氏系なので、久米部も海人系だと混同されたのではないかと思われるのだ。

しかし、久米とは必ずしも海人系の名称ではなく、彼らが使う呪術の、“魂籠め”に由来するのだという説もあるのだ。つまり久米とは籠めのコ→クの音韻転訛によるものだというのだ。

久米は佐伯と異なり、そういう精霊や悪霊を封じ込める呪術を持ちそれを軸にして戦いに臨んだ氏族だと考える人がいるのだ。

特殊な能力を持つから(今昔物語などに取り上げられた)久米仙人のような説話が生じた。久米仙人は橿原の久米寺の伝説の開祖者である。大仏殿とか宮城の建設に際して仙術で材木を宙に浮かして運送しこれを褒めて久米寺建設の土地を下賜された事にされている。

だが、本来は久米部の氏寺が久米寺だろうと推理されている。

また龍神を封じ込めて雨を降らさない様にしていたとして、歌舞伎にも登場する鳴神上人もまた封じ籠めの術使いであるので久米なのだとも言われる。(久米寺は空海が真言密法を感得した寺でもあるので空海の密教の呪法が、遡って久米仙人の伝説を生じさせたのかも知れない。というのは空海には、不思議実現の伝説が多いからだ。)

籠めが何故、久米として米の字を用いるかといえば、米もまた穀霊を稲粒に籠めている物だからである。

穀霊の詰まった状態が保食(ホケ)であり、その神格化が保食ノ神で、更にそれを雅的に表現したのが“豊受大神”なのだ。

※異説として、久米部は、王城のクベを守衛するものでクベ部だとするものがある。クベとは垣の事で、塀と城門を含むのだとか。

目下のところ、垣をクベと言い表す例に出会った事がないので何とも批評のしようがない。しかし私には久米部が宮門を守るようになった後世からの仮想ではないか?と思える。

ところが最近のニュースで事件の現場になった地名で“垣生”というのがある事に気付いた。こう書けば、これはハブであると思い出す。

垣生と書いてハブと読ませるのは難読地名とされている。またその地の出自と思われる人名にも垣生がある。

この垣生とは、羽生や埴生と同じで、元来は埴生だったと考えられている。埴生の埴とは、埴輪の語がある様に、泥土の事である。岩田のコメントで触れたが、岩田が耕作困難なのに対し、埴の方は岩石が混入していない耕土だから、水稲の適作地なのだ。また粘土質が多いものは焼き物の材料にもなる。

水稲の適作地が羽生田(埴生田)である。埴生は垣生とか羽生の他にも土生という表記もあり、埴=土と知れる。

垣が何故埴(ハ二)かと言えば、泥ハニで土塁を作ったり、後世は築地塀を造成したりするからだ。垣根とは垣目で、築地で仕切られた境目の意味である。→下記に異説。

古代史学者の上田正昭氏は、久米は宮城の塀=垣を守衛する部曲で、文字通り垣部なので、垣部=久米部との説を支持しておられる様だ。

強いて考えれば、垣目→コウメ(亘目)→クメの転訛かも知れない。

※垣目には、異説もあり、①土手垣を造るのに、土嚢の如く籠に埴を詰めて運び、そのままその土籠を積み上げて“垣根”にしてしまう工法がある。(こういう工事は土師がする。)その籠の目が垣根に出ているのでこれが垣目だとするもの。

②土手垣の上に矢来を組むが、その矢来の組目が垣目だとするもの。

☆筑前垣生の大の字について

事件のあった垣生は四国の新居浜だが、垣生の地名は西日本に幾つか存在する。その中で注目すべきは、今は中間市にある遠賀川中流のいわゆる“筑前垣生”である。

地名は垣生になっているが、そこの産土神社は、垣生駅の南西にある埴生神社で、土地の人たちも“元々は埴生で、それが垣生の表記に変わった”と知っているようだ。

ここは古代には、遠賀湾が深く湾入していた所で、中間の南からが当時の遠賀川であった。筑前垣生は、古くはこの遠賀湾の島だったと言う人もあり、その埴生神社の鎮座する山(羅漢山)と今の神社の参道の辺りにある池が、遠賀川の入江の河跡池らしい。一見その山が古墳で池は環濠の様にも見えるが、羅漢山の山頂部つまり埴生神社の本殿のある辺りは古墳ではないようだ。代わって、羅漢山の周辺に横穴が多数あり、これが垣生羅漢山百穴という横穴式墳墓群である。

私は、筑前垣生のすぐ北に位置する水巻が応神天皇つまり誉田別の生育の地であり、江川(岡江)で繋がる洞海湾の岡田宮が、神功皇后と武内宿禰の東征軍の出陣の地だと想定した。

従って水巻に隣接する垣生にも何かの関わりがある筈だと考えた。

埴生神社は元は埴生八幡宮と言ったらしく、祭神は神功皇后と仲哀・応神天皇の三柱である。伝説では、熊襲征伐に来た神功皇后が最初に行宮としたのがこの筑前垣生だと言うのである。それだけなら、北九州に多数分布する神功皇后の足跡地の一つでしかないのだが、どうも単なるOne of Them ではない様だ。

というのは、ここ羅漢山山麓の横穴式墳墓(6世紀後半の終末期古墳とされている)は、壁面装飾古墳として有名だからだ。

同じく遠賀川系の装飾古墳としては古月横穴墳があるのを知っていたので、私はこれらは古葛城氏系の豪族に関わるものだろうと漠然と考えていた。

しかし今回、埴生神社について調べて行く内に、ここを探訪して詳細な記録を書いておられるlunaburaさんのexiteブログ(exblog)内の「ひもろぎ逍遥」に行き当たった。→ https://lunabura.exblog.jp

(上記の地図や、後続の写真はそのブログからの引用である。)

そこで紹介されている線刻画に、複数の舟の表現とまた土器にも舟の線刻があり、この筑前垣生に住んでいたのは、やはり海人系ではないかと思わせるのである。

更に驚いたのは、横穴に入った所に描かれていた大の字である。

lunaburaさんは、これは6世紀後半では未だこの辺りでは漢字が普及していなかった筈だから、平安以降に誰かが(何の意図からか)この大の字を書き付けたのだろうと推理されている。

もし、筑前垣生の住民が舟の線刻を描き、それがまた(後世としても)大の字を書いたとすれば、正しく海人系だったと考えられるだろう。

この大の字は一体何を目的としたものなのだろうか?

(だが、写真では後から追加された悪戯書きもあるかに?

見える。左のコザト偏は太陽の陽か。右には海?も。)

更に、垣生が垣目であり、従って久米の発祥の地だなどとすれば、やはり古遠賀湾周辺は、私が睨む天孫族の揺籃の地域ではないか?との想像がますます膨らむのである。この場合、久米は海人族しかも大氏系という事になって来るのだが。祖神が大来目命というのも、考え様によっては、大氏の来目ノ命なのであるのかも知れない。

☆近世の修験によるアヤツコ

江戸期に里山伏がはびこると、その生計維持にマジナイが利用されるようになった。「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の順に九字を切ったり、九字の格子を額に書く真似をしたりした。除災護身法として行われたものだ。更に不動明王の真言を唱えながら九字を切ったり、或いは星形とか✖︎印を、額とか掌に書くような事も行われた。

これらもアヤツコと言われたので、江戸期にはアヤツコは一般語であったと考えられる。

明治初期の修験禁止令によって、アヤツコは修験の迷信行為とみなされたので、急速に廃れ、今やアヤツコは死語と化した。

(とはいえ、都市郊外の地蔵堂の巫女などというアヤ使いが、昭和の30年代程までは残っていて、戦前生まれの婦人たちの信仰を集めていた。こういうのは、例えば日切ノ地蔵堂などは◯◯院別院などと、看板を上げていたが、肝心の◯◯院の方は明治の廃仏毀釈で壊されてその住持の大黒さんが地蔵堂の方をやっていたなどというので、大方その◯◯院というのも本格的な寺院ではなく、里修験の寺だったと考えられる。里修験は葬式の執行は出来ないし、寺内に墓地などは所有していないので、拠点の寺が閉められれば、生活が成り立たないのだ。大黒さんが巫女になって亭主から習った経文や真言などを唱え信者を集めて生計を立てていたのだろう。私の知る地蔵堂の女庵主はその◯◯院の住持夫婦の娘だと言っていたので、二代目であったと

思える。こういうアヤシイ職業がほんの半世紀前までは残っていたのである。)

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