第17章 非天孫族の月氏系渡来人

第17章 非天孫族の月氏系渡来人

私説では、大和王権を築いたのは、大陸から渡来した元々は

小月氏の三部族、葱茈族・白馬族・黄牛族が中心だったとして

来た 。

この内葱茈族が、崑崙山脈の南麓と北麓の一部にいた高地性の

高天原人であり、それが龢族=和族であって、いわゆる天孫族

である事も主張した。

           

これに対して、崑崙山脈北方の平地人=タリム盆地人が天山族

であり、それが白馬族と黄牛族である事も主張して来たのだ。

(→そして白馬族が秦氏であり、黄牛族が出雲族及び物部氏

だろう事も示唆して来たのである。)

今大陸の中国周辺では、葱茈族と黄牛族の末裔と思われる民族

は、確認されていない。黄牛族は、その多数が大月氏国に合流

し、その後貴霜翕侯国〜貴霜大月氏国(クシャン朝、ガンダーラ

王国)となったが、その後の西南アジアの民族興亡戦によって、

ペルシャの東征やアラブによるモスリム化やチムール帝国、

そして元(蒙古帝国)という歴史の流れの中に消えてしまった。

一方で葱茈族の方も、蘇毗族や象雄国に分かれてチベット高原

に唐代までは存在したが、吐蕃によるチベット統一で、その

隷属下に埋没して行ったのである。

だが白馬族だけは、少数民族として今日まで残存している。

これがかつて氐羌に混住したという白馬族即ち“ベイマ族”

である。最近のNHKのドキュメンタリーでは山の民ベマ族と

称していた。

ベマ族の紹介をネットで見つけた。

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白馬チベット族は、長いあいだ、原生林のなかだけで暮らし、

外の世界とはほとんど無縁に生きてきた「桃源郷にすむ

人びと」であった。新中国成立直後の一九五〇年代、

大部分の白馬チベット族は、漢語はむろんのこと、周囲の

チベット族の言葉すら話せなかったとといわれる。かれら

は北にチベット族、南に漢族という二大民族にはさまれ

ながら、もっとも奥深い土地にたどりついて、外部から

隔絶された社会をっくりあげていたのである。

しかもかれらはチベット族に属するとされながら

(1951年の政府による「民族識別」調査以来、

周囲のチベット族とさえも交流することが稀であった。

というよりも、もともとかれらはいわゆるチベット族とは

かなり異なった風俗習慣をもつ人びとである。白馬チベット

族には、チベット族の特徴とされるチベット仏教を信じ、

ツァンパ(炒り麦粉)やバター茶を飲食し、乳製品を利用

するという習慣がないし、言語の面でも、チベット方言の

ひとつとみるよりも、むしろおなじチベット・ビルマ語派

のチャン語群にちかい点が指摘されつつある。つまりは、

白馬チベット族と呼称するよりも、白馬族、白馬人とした

ほうが、かれら民族の来歴にはふさわしい。

じつは、この白馬人はチベット族がこの地にくる前から、

住んでいた民族ではないかと考えられているのである。

むしろかれらは、もう少し西の岷江流城の山間地にすむ

チャン族と似ており、一説には、古代の民「氐羌」

(『漢書』西南夷列伝)の「氐」の末裔ともいわれている。

さらにかれら一身の意識からいえば、周辺のチベット族は、

おなじ民族であるとは考えていない。それはチベット族も

同様である。

白馬人にとってのチベット族とは、北の中原(高原?)地区

からおしよせてきた侵入者である。だからたとえおなじ村

に住んでいるような場合でも(南坪県)、かつては互いに

通婚することはなかったし、それぞれの伝統のまつりに

ともに参加することもなかった。

とくに婚姻においては、白馬人はかならず白馬人どうしで

相手をみつけなければならないとされていた。チベット族

や漢族といった外部の者との結婚は恥であり、万一そう

なったら、本人や家族だけでなく、親戚にいたるまで周囲

の非難をうけ、白馬人社会でのいっさいの関係を断たれて

しまったという。

ではもうひとつの周辺民族である漢族に対しては、どの

ような感情があるのだろうか、白馬の口頭伝承には次の

ように伝える。それは、白馬人がなぜもとのゆたかな土地

から寒冷な山奥に追われたのかという話である。

むかし、白馬人の村は南の江油県一帯の平原にあった。が、

三国時代に、蜀軍を率いる諸葛孔明の機略に敗れ、北に

追われた、そして明代初めには、明朝の植民地拡張政策を

うけて居住区をさらに北の山間部へと制限された。

いまの平武県城から北へ約10キロの地点を居住の東端と

定められて、その境界を越えて往来することを禁止された

のである。また民国時代には、軍閥や国民党にたびたび

攻められ、年来の飢饉も加わって多数の白馬人が死に、

総戸数が500あまりにまで激減した。平武に残る

「殺氏坎」は、当時の漢族による虐殺の事をいまに伝える

ものである、という。結局漢族も、北から攻めてきた

チベット族同様、白馬人にとっては南からの侵入者であった

といえる。そしてその結果、白馬人は地域的にますます

縮小、孤立へとおいこまれ、「桃源郷の人びと」となって

いったのである。

しかしその反面、白馬人の社会のなかでは、おなじ共同体

の一員としての意識、いいかえれば白馬人としての民族意識

がきわめて強くなっていったものとおもわれる。彼らに

とって白馬人であることを示すもの、たとえば白馬語や

冠婚葬祭における習慣、年中行事、日常の衣食住にいたる

までのもろもろが、存在そのもののあかしであり、守るべき

ものであった。それは周囲との接触が日常的となったいまも

基本的にはかわらない。またとくにチベット族や漢族との

共住がかなり長い南坪県においては、芸能や服飾などに

大きな影響をうけながらも、人びとの白馬人としての意識は、

かえっていっそう強固な感じをうけた。

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「盤盤帽」:羊毛做的,又叫「蟬皮帽」。帽子上面纏有紅、

藍、黑三色的彩帶,而且飄揚在帽緣外有五六公分。女性的

帽子更為特別,上面纏著珠飾或銅鈕,在帽子上還插有白雄雞

的尾羽,別具風情。

對襟裙袍:白馬婦女的對襟裙袍是用各種花布鑲嵌而成的,

腰間繫著一條很寬的花腰帶,腰帶上拴著用麻繩穿成的古銅

錢幣。在這種袍子下面,白馬藏族的婦女們還穿著一種壓制

著密褶的黑長裙,裙邊鑲著幾圈五彩花邊,腳蹬黑馬靴。

白馬老爺:白馬藏族不信佛教而信奉自然神,其中最崇信的

是稱為「葉西納蒙」(意即「白馬老爺」)的一座神山,

最重要的宗教活動是每年農曆正月初一到十五日的跳「曹蓋」。

原文網址:https://kknews.cc/culture/lrj3b5g.html

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※つまり、ここで注目するのは、ベマの人達は特別な帽子を

被りかつまた女性が最も色彩豊かな衣装であるという事だ。

かつての婼羌時代の女系尊重にも通じる風習が残っているの

だろうか?

この中国四川省北部山地に残存する白馬族は、氐姜に混住した

元小月氏白馬族の末裔なのだろう。

彼等は、中国西辺に残留したが為に、迫害の歴史を辿る事に

なったのである。

しかし、黄河を下って、遼の地に至り辰を建て、その後、三韓

(前三韓)時代には、馬韓・辰韓に移住し、更に弁韓に分国し、

やがて海人族の協力を得て渡海して東九州豊前や山陰等に植民

した白馬族がありそれが秦氏である。

秦氏は、大陸に残った白馬族に比べれば、幸福な歴史を辿る。

天孫族(龢=和族)の渡来よりも白馬族と出雲族の列島渡来は先行

していたと考えられる。先ずは白馬族の冶金や鍛冶集団や交易

商民などが渡来し、それに連動して出雲族が渡来。その後に和族

が北九州に渡来し、最終的には半島に残存していた白馬族が来住。

これは新羅の半島統一戦争からの逃避であった。亡国の高句麗や

百済の遺民が帰化人として渡来したのが、渡来人全体とすれば、

それらが最後の移民であった。

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