補遺17続の(1)「謎の員弁族/関東の海人族」

「天孫族考」補遺17続の(1)「謎の員弁族/関東の海人族の覇権交替」

補遺17「謎の員弁族」の続論を、古代の猪名部の名工から江戸の松尾芭蕉まで、時系列を追って書こうと思っていたが、下記の事情(稲城在住者からのメールがあった事)によって、東京都の多摩川中流右岸にある稲城市が、古代に員弁の住地である事を先に述べようという気になった。

というのは、これを調べていくと前論で述べた様に、員弁が出雲族系のバイシャ(吠舎←倍生者=平民層、白馬族)である事と、それが天孫族系に再組織されて行ったらしい事が見えて来たからである。

☆東京都稲城市は猪名部の故地か?

“補遺17「員弁族とは」”をアップロードした通知で、

“造船・造宮の用材を求めて、大和朝廷の北征軍とともに東遷北上したと言います。関東では東京都下の稲城(元名は稲木)があり、狛江市の猪方は武蔵の国府に付属する造船所のあった所と考えられます。”

と書いたのを見たその当の稲城在住の後輩からメールで問合わせがあったのである。というのも彼の疑問は、稲城市のホームページなどを見ても、それらしい記述が無いのだというのである。

言われてそのHPにアクセスしてみた。

稲城市HPの「歴史と文化」のパートには次のように記されている。

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弥生時代から古墳時代

弥生時代になると、米づくりがひろまり、青銅器や鉄器の使用も始まります。平尾台原遺跡からはこの時期の住居跡や墓の跡が発見されていて、弥生時代から古墳時代にかけて大規模な集落があったことがわかりました。発掘調査で発見された土器や青銅器を展示しています。(※郷土資料室)

奈良時代から平安時代

奈良時代になると、稲城の地は武蔵国多麻郡(むさしのくにたまぐん)に属しました。大丸では武蔵国分寺用の瓦を焼いた窯が築かれます。実際に大丸の窯で焼かれた瓦や窯の実物大模型を展示しています。平安時代になると、延喜式内社という古社がつくられ、穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)、青渭神社(あおいじんじゃ)、大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)などの歴史が始まります。

また、仏教文化が地方に広まり、常楽寺や高勝寺にこの頃の仏像が残っています。

中世の稲城

武士の活躍と山城

鎌倉時代になると、関東では多くの武士団が群立していました。稲城周辺では、秩父党小山田一族の稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)が支配していました。市内にはこの時代に属する山城として、小沢城、大丸城(おおまるじょう)、長沼城(ながぬまじょう)が造られました。

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と表示されていながら、肝心の稲城の地名の由来については記述が無い。

強いて推理するなら、稲毛重成の支配地なので稲毛となり(南部氏の領土なので南部という地域名になったと同様)、それが稲城という雅字表記に変えられたのか?(と、一見思われてしまう。)

しかし、これは全く逆で、ここが古代〜中世前期に稲毛荘という荘園の一部であったので、そこに町田を拠点とした小山田氏の三郎重成が、頼朝の近侍として地頭職に任じられ、そこで稲毛と改姓したのである。

◯有力御家人だった稲毛重成

中世史の範疇に入るので、この事情は略述に留めるが、小山田氏は戦国期の名族であり、武田信玄麾下の第一の氏族であった事は有名である。NHK大河ドラマの「真田幸村」にも一族が登場していた。町田地域を支配していた小山田有重(小山田氏の祖)は畠山重能の弟であり、良文流平家の畠山氏の一族である。保元・平治の乱までは伊勢平氏の清盛に付いていたが、頼朝の旗揚げ後は、北条氏や畠山氏らと共に源氏側に付いた。その後、その子の重成らが義仲追討戦〜一ノ谷合戦や奥州合戦などに従軍して功を重ねた。

重成の妻は、北条時政の娘(頼朝正室政子や北条義時の異母妹)である。

その結果、平安時代は春日社の荘園だったらしい稲毛荘(今の稲城・多摩市+川崎市の多摩区・麻生区・高津区・中原区)という多摩川中流右岸の広大な領域=武蔵国橘樹郡〜多摩郡の稲毛荘の地頭職になり、稲毛重成を名乗ったのである。

その居城は(今の稲城市の東部にあった)小沢城である。

だが、建久6年6月、 重成は頼朝の再上洛に随行し、その帰路、美濃で妻の危篤を知る。頼朝から駿馬が下賜され急ぎ小沢城へ戻るが妻は卒去。

同年7月、妻の病没を悲しみ出家して法名を道全と名乗った。以降小沢入道と呼ばれる。家督を嫡男の重政に譲り、以後重政は小沢重政を名乗り、重成は(今の生田緑地にあった)枡形城に移り稲毛入道と呼ばれた。

ところが、元久2年6月「畠山重忠の乱」が起こる。北条時政の謀略により従兄弟の重忠が滅ぼされる。重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したとされ、直後、

時政と後妻牧の方の陰謀に覚醒した義時の命で三浦義村

によって重成の弟の榛谷重朝とその子らが殺され、重成は大河戸行元に攻められて殺害された。子の小沢重政も宇佐見祐村に討たれてしまう。

この結果、時政が追放されて、政子・義時の時代になる。これは、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台となるのだが、果たしてそこに稲毛入道重成が登場するかどうかは分からない。

こうして、稲毛荘一円支配は、稲毛重成・小沢重政の親子二代で喪失した。

その後、この事情を憐れんだ北条政子が、京都に嫁行っていた重成の娘の子姫(姪孫)を養子にし、小沢郷のみを与えた。稲毛の郎党は、縁を頼り讃岐国に亡命した。香川県に残る稲毛姓はこの後裔であるという。

甲州都留の小山田氏は、重成の末弟だが、領地が離れていた為、重成一族の滅亡には巻き込まれず、これが戦国期に武田家に臣従したのである。

稲城市のHPでは得られないので、元の名の稲毛とそれが何故稲城になったのかの由来を探そうと、Goog(le)ってみた。二つの話題がヒットしたが、これは猪名木→稲木→稲毛となった古代の話とは直接リンクするものでは無いので、この件は後段に送る。

ここでは先に古代の稲木地域の猪名木部について論考しよう。

○稲毛荘の古代

古代のこの地域は、後に春日社の荘園だったという稲毛荘なのだが、先述の如く、多摩市から町田市東南部〜川崎市北部の広域に跨るものだった。

この辺りの丘陵は多摩・稲城に隣接する日野市南部も含めて、今では「多摩丘陵」と名付けられている。

多摩丘陵の東北部は多摩川を挟んで武蔵国衙(府中市)に面している。

そこでこの今の稲城・日野丘陵(つまり多摩丘陵東北部)は国府の横にあるので、古来横山という名でも呼ばれていた。(中世に武蔵七党という武士集団の中での横山党の蟠踞していた地域である。その首領が横山氏なのだ。)

王朝時代に、国府の鎮守社だったのが大國魂神社である。その祭神大国魂は大国主の別名なので、天孫族系大和王権の支配する前、つまり三輪王朝時代=大倭時代には、出雲系氏族が居住していたと言う説がある。

古代の氏族の系図を研究する学者の掲げる房総の海人族・海上氏の系図を見ると、海上氏は下海上氏と上海上氏があり、それぞれ下総と上総の二つの総の国の国造である。そしてこの系図では、一族祖先に无邪志国造が居り、また同世代に千葉国造とか久都伎直(下海上国造の祖)が居る。そしてこの親に稲庭直の名が見られる。

皆、直の姓であるから、渡来系と意識されていた氏族であろう。

上海上国造の祖・長止古直は長床であろう。

(この長止古直の後裔から檜前舎人が出るが、これは後述のように海上氏が多氏の配下に入ってから壬申の乱で大海人皇子=天武天皇の味方をしてからであろう。)

長床は熊野系神社に特有の本殿前の前殿建築であり、その名を上海上氏が持つというのは、単なる海人族ではないという事を暗示している。

次に无邪志国造であるが、无邪志とは武蔵の事である。

武蔵は相模と並び武相というが、上古には両国でムサ(无邪)と言った。対岸の上総+下総が総の国だったのと対照である。ムサとフサである。

ムサとは何か?

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ムサ

武相(武蔵と相模)両国は、古代にはムサの国であった。

ムサとは朝鮮語で『MUSA -武士-』(무사)で日本の武者に当たるらしい。

後世に武蔵と当てたのはよくしたものである。

古語では武射、万葉仮名風では牟(无)邪と書かれた。

牟邪の上ツ国(都に近い方)が牟邪上=相模、下ツ国が牟(无)邪下= 牟(无)邪志つまり武蔵である。

このムサは元来無秩序なとか乱暴な様を意味する語素であり、“むさ苦しい”や“貪る(ムサぼる)”、古語の副詞“むさと”になる。

むさとは、軽率にことをするさま。うっかりとの意味。

「やいやいむさと傍へな寄りおっそ」〈虎清狂・蟹山伏〉

また、うっかりとの意味例では、

「むさと鉄砲はなすな」(うっかりと鉄砲をはなすな)

〈国性爺合戦 浄瑠・近松〉

“貪る(ムサぼる)”も、“むさと食ぶる”もしくは“むさ(と)欲る”→むさとほる、むさと欲しがる であるともいう。

北関東が毛ノ国、房総が総の国、武相がムサ(無秩?或いは武射)、北陸は越(コシ)、常陸は陸(クガ=日下)、甲斐は甲、信濃は科---------というように東国にも短い国名があったのであろう。

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そして次なる久都伎直(下海上国造の祖)の久都伎とは何か?

二つの候補が挙げられる。

共に武蔵国に在った久良岐郡と都築郡である。久良岐郡は、今の横浜市の南部の金沢区と磯子区・保土ヶ谷区辺りの郡名である。後世には一時久良と二字書きされたが読みはクラキであった。ここは三浦半島への道筋の海岸であり、海人族には重要な土地柄である。

一方、都築郡の方は久良岐郡に北接しており、今の横浜市中心部から都築区までの広域に相当する。

私は、これは都築郡の方が妥当だと考える。

何故なら、都築郡は、橘樹郡に接しておりそこはもう中世の稲毛荘に当たるからである。

本来、下総の海人族である下海上氏が、江戸湾の西岸にも進出していたのは海人族に必須の舟木を求めてであろうと思われるからだ。

稲庭直の名は、配下に猪名木(稲木)部がいた事を示すものだ。稲庭とは先に補遺17で述べたように、稲場であり、引木を積んだ木場の事であろう。

だから、稲毛というのも、稲木が訛ったものだと考えられる。

後で触れるが、木→毛はイ段音とエ段音の転訛現象だからである。

そして、稲毛荘の北側山地つまり現在の日野市から八王子市南東部は、中世には舟木田荘といい、かつて横山=多摩丘陵(舟木田荘と稲毛荘)が、員弁の造船用材の調達地だった事を物語っている。(そちらは多摩郡である。)

また都築という地名は都築木であり、宮殿や神社建築用材の事に他ならないと考えられるからだ。補遺17で述べたように、稲木とは引木であって、員弁とは引木部が猪名木部となり(雅称が)員弁となったと考えられるのだ。

引木の名を推理した浜名湖北部の引佐(引沢)に隣接した猪鼻湖という支湖のある事に言及したが、ここにも都築という地名があり、そここそ後世には長岡京や平安京の建築用材の調達地だった事は先述した通りである。

つまり後世の都築郡から橘樹郡と多摩郡の稲毛荘は、建築用材や造船用材の調達森林であり、下海上氏が江戸湾の対岸から進出してくる必然性が大いにあった。

そして无邪志(武蔵)国造までが、海上氏の同族だということは、上古には、関東の沿岸地域に進出したのは、出雲系海人族だといわれる海上氏の方が、和邇系の多氏(鹿島の那珂国造)より早かったのだろうと想像される。

つまり、武蔵から江戸湾を挟んで下総・上総まで、更に系図には阿波直の名まであるからこの阿波は安房であって、房総半島全体が海上氏の領域であった事が想像される。実際に、ある学者は、関東に“大海上国”が成立していたという説を唱えている。

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私は、補遺17では次の様に書いてしまった。

河内王朝(五王時代)では、渡来時の慣例から北勢の員弁族が出雲族系の物部氏に属していただけでなく、ワニ・多氏系海人族に属する員弁もいたであろうと考えざるを得ない。それが、筑後川沿いや紀の川沿いの多氏水軍の為の造船に従事した舟木部であったと考える。

員弁も舟木も同族意識があったと思われ、多氏の東征に従って東海地方〜関東へ進出した舟木部も引木部であり、その痕跡が濃尾の稲葉神社や恵那、南信伊那、伊豆稲取、武州の稲木だったかと考えるのである。

------だが、この記述の後段は変更しておく必要があろう。

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この出雲系海人族という海上氏の進出は、恐らく三輪王朝末期の頃に開始されていたのだろう。それが、垂仁朝の東国経略伝承になって記紀にも載っているのではないだろうか。四道将軍伝説や会津の地名伝承、ヤマトタケル(倭建命)の東征伝承などである。(このヤマトタケルは九州王朝の日下武命=ヤマトタケルAと習合した三輪王朝側の倭建命BやCの事だと考えているのだが。)

員弁は出雲系だということは、伴造が物部氏だと補遺17で述べた通りだが、海上氏自体が出雲系だという伝承があるからだ。

海上氏の祖先神について、古事記では建比良鳥命(たけひらとりのみこと、他の書き方は武夷鳥命・天夷鳥命・天日照命)が七つの氏族の祖先神とされ、下海上国造の祖とも記されている。出雲国造・无邪志国造・上海上国造等と出雲氏は同系だと理解されているのだ。

恐らく、物部氏が出雲族の陸戦隊であるのに対し、海上氏は出雲族の海戦隊の性格をも持つものではなかったろうか。そして畿内の員弁の支配は物部氏が持つのに対して、関東では海上氏が持っていたのかと思われる。

そこに、応神朝以降(河内王朝、いわゆる五王時代)になってから、東海道沿いに、多氏水軍が北伐を開始する。

伊豆から相模が先ず多氏の勢力下になり、海上氏の制海権のあった江戸湾は一時迂回して、鹿島の北浦・霞ヶ浦地域を占拠。恐らくは、奥多摩もしくは秩父を越えて北方からも、上毛野氏の様な九州王朝の同僚氏族が攻め下り、武蔵国も河内王朝側の版図となった。武蔵国造も多氏系に変わった様だ。

同時に、房総半島全体を抑えていた上下の海上氏の真っ只中に武射国造の領域が設定されて、海上氏は分断され、これ以降海上氏は、和邇系水軍の傘下になり、畿内の凡海(おほしうみ)連の配下になって行ったと考えられる。

武射(武社)国造は、後の令制国の上総国武射郡、現在の千葉県山武郡(山武市と芝山町および横芝光町付近)を支配した。領域とされる後の武射郡は、上総国の北端に突き出ており恰も下総国の一部のように見える。にもかかわらず上総国の一角に組み込まれているのは、それなりの歴史的、地理的な理由があるとされ、入植が黒潮の流れる太平洋側から進められたためとする見解もある。

武社(武射)は、牟邪とも記し、『古事記』孝昭天皇の段では、孝昭天皇の第一皇子・天足彦国押人命を牟邪臣の祖とし、『先代旧事本紀』「国造本紀」には、成務天皇の御世に、和邇氏祖・彦意祁都命の孫の彦忍人命を武社国造に定めたとある。また、和邇氏系図の彦忍人命にも武社国造と記し、和邇氏を武社国造や春日氏の祖としている。

国造氏族は、『古事記』孝昭天皇の段によると牟邪臣という氏姓を帯び、「国造本紀」に和邇氏と同じく孝昭天皇の後裔と称しており、和邇氏と同祖といい、多氏同様に、東国の国造では他に例が少ない臣という姓を有するのであり、天孫族の直臣である事を示す。(上毛野氏も臣の姓である。)

一方海上氏の姓は直であり、神別ではあるが渡来系と意識されていた。

しかし、提携する凡海氏が大海人皇子の壬生氏族となり、大海人が壬申の乱の勝者となって天皇(天武)に即位してから、海上氏の姓は直から連へと昇進されるのである。これは、多氏の指揮下、対近江朝廷戦では、高市皇子軍に兵を提供したからであろう。

武蔵の国府は、大国魂神社の門前町であった所(今の府中市)に設けられた。

祭神がそのままだったのは、武蔵国人にそのまま出雲系海上氏の支配民が多かったからだろうか。

しかし、多氏が東国の覇権を握ると、天孫族の信仰を持ち込んだ考えられ、

九州王朝以来の日下(久我)が、(常陸に続いて)武蔵にも作られる。

日野や久我山、久ヶ原などはその太陽神を祀る日壇の在処を示すものだと私は解釈している。この祭祀に奉仕したのは春日部や日奉部である。

日野は中世に国人の横山氏の領域となるが、横山氏は旧名を日奉氏と言ったとの伝承を持つのである。また横山荘は春日社の荘園だったとされ、後に摂関家領となったという。

更に多氏の覇権確立後は、その祭祀する鹿島神つまり武甕槌神が江戸湾の沿岸各地に祀られるようになった。武甕槌神は、出雲神話では、大国主に国譲りを強要する天孫族系の神であり、これもまた出雲系海上氏の東国の覇権が多氏に奪われた過程を暗示するものだ。

稲城は稲木

稲木の山地には小沢城もある。稲毛でなく稲城とされたのは、この小沢城ほか3つの城砦が稲木丘陵に在ったからだろうという説がある(後述)。

ところでこの小沢というのは、実は稲沢=引沢の一つで、伐採した用材を、浅川に向けて引いて流したのに由来すると推理する。

小沢城の南側に掘割様に小さな沢が流れる。これが恐らく小沢だろうか。

稲城丘陵が浅川(後に南流して来て合流した多摩川)右岸の氾濫原(これが稲田堤地域)に出た所で、稲城丘陵の中央部を東流して来た三沢川に合流する。

三沢川は稲田堤地域を北西〜東南に流れて多摩川に流入している。この河川は西隣の多摩市地域から流れて来ている。三沢川も引沢であろう。

(※この三沢川は、小沢城の築かれる前、源義経が奥州へ逃亡した道筋だったという話があり、これには私の祖先である遠州鈴木氏も一部噛んでいるのだが、員弁には無関係の中世史の話題であるから、ここでは触れない。機会があれば番外編として紹介したいと思う。)

稲田堤は、稲城の地元では、“昔、良田で米が採れたからだ”と言うが、実際は伐採した用材の木場だったからだと考えられる。

田というのは、囲われた土地区画をいい、必ずしも水田の意味ではない。森田や林田、木田などもそうだ。猪名木田堤が稲田堤に成ったと考える。

古代には狛江南部の猪方は武蔵の国府津だった狛江湊の造船所だったと、想定している。何よりも猪方とは、猪名部に因む地名であり、そこには、字名として半縄がある。これは員弁の用いる墨縄を連想させる。

対岸の多摩丘陵は、明治時代まではほぼ山林だった。西側の多摩市地域は、「平成ぽんぽこ狸合戦」の舞台に擬されている地域で、要するに狐狸の類が住むしかない森林地帯だったのである。

江戸期の浮世絵師・葛飾北斎の富嶽三十六景にある「武州玉川」は、多摩川にあった登戸の渡しを左岸側(稲城の対岸)から描いたものだ。

絵の右にちょっと川岸が引っ込んだ様に見えるところが、江戸期に造られた六郷用水の引き込み口らしいので、対岸に見える小高い丘の山林が稲城山地と考えられる。左岸は現在は狛江市である。江戸期になってからは、江戸で入用の材木は多摩川の青梅より奥の(奥多摩)山地から調達され、多摩川を筏で流して、江戸湾に出した。筏流しの鳶職は、多摩川河口からは歩いて多摩に戻った。この筏職人が戻るのに辿った道が、品川道といい、世田谷西地域までは玉堤通り、狛江地区から調布〜府中を通る経路が品川道という道筋でなのある。もっと南の方では「六郷道」とか「筏道」などとも呼んだ。

中世前期までは、武蔵の国府(今の府中市)地域も、それほど人口の多い所ではなかったから、稲木の用材は、国府や国領にあった国府の役人の宿舎、国分寺地域の国分寺や国分尼寺、府中の大國魂神社などの寺院建築に使われる程度の需要しかなかっただろう。

しかし、鎌倉時代からは地侍の城砦や住館に使われ、また人口も増えて稲木の用材だけでは不足するようになったと思われる。この為、特に船の用材に適する大木は、稲木山地では取り尽くされたしまったのであろう。この為、もっと浅川上流の日野や南八王子の山地に用材を求めるようになって行ったと考えられる。この地域横山に舟木田荘という荘園が存在した。

(江戸時代には前述の如く、奥多摩が用材調達地となる。)

多摩川とは浅川下流の事ではなかったか

タマというのはヤマの多い所というのに因む名だという。

マは盛り=杜であり、盛り上がった土地をいう。その中で八形に一段と高いのが山(八マ=ヤマ)」なのだ。

今でも、沖縄では、山を杜(モリ)とも言っている。

そして我々は、現在の地理的知識で、多摩はどちらかと言えば奥多摩に重点を置いた理解をしている。しかし古代の多摩の中心は多摩郡であり、もっと南にある地域と意識されていた。いうところの多摩丘陵の辺りである。

で、奥多摩は、その後八王子などとともに西多摩となったが、昔はそこは、青梅や奥青梅、更に奥は甲斐の丹波山村などという地域だった。

だからと言え、決して人口過疎地だったわけではなく、小仏峠越えになる前は、甲州への往還は、奥青梅から大菩薩峠を越える道筋であった。

(とはいえ、青梅の地名は平将門伝説に因むので、平安中期以降の名であり、それより前の古名は未詳である。)

今は奥多摩から流出する河川を多摩川と言っているが、上流は丹波川であり、今は奥多摩湖から下流を多摩川というのだが、これはこの川(仮にそれを丹波山川と呼んでおこう)が、青梅の地峡を出て平井川・秋川と合流してからの通しの名称であり、古代には秋川合流点方向(南方)へは流れておらず青梅の谷から真っ直ぐ東へ流下していた。地理学者が古多摩川と言っている川であった。(私は、これを古多摩川というのは不適当だと考えている。)

地理学者の通例に倣って古多摩川と呼ぶ事にもするが、実はこの古多摩川の流路は次の4段階に分かれて変化したと考えられて来た。

①丹波山川が青梅の北部を通り、今の霞川や成木川の流路を通って、入間川に合流していた時代。(縄文時代の中期以前)ここでは、古多摩川と言い条、入間川・荒川水系の河川である。)これはほぼ西から東への直線的な流下である。

この青梅からの流出地域の右前方(東南方向)には狭山丘陵があるので、川は狭山丘陵の北側を東流していた。この狭山丘陵の北部からの丹波山川〜霞川の堆積物が東側へ伸びたのが第一次の武蔵野台地となる。(地図のK面)

一方、この頃八王子南部から日野中心部を流れて、多摩丘陵の東北端から南に流れを変えて、狛江・登戸付近で、古千束湖沼群の作る入江で江戸湾に流入していたのは浅川である。この時期、青梅より南の福生付近に西側山地から流出する平井川や秋川は、どちら側に流れていたのかは不明である。

②丹波山川が青梅の流出地から、狭山丘陵の西端にぶつかってやや東南方向に曲がり、それが平野部に流出して東へ向かって流れたのが、今の石神井川の流路になる。この頃は、少なくとも平井川はこの流れに合流していたのではないかと思われる。石神井川は、今の池袋北部を通って、王子付近を通過し、後世の堀船辺りで荒川(当時はこれが利根川であった)に合流していた。

つまり利根川の支流になる。この石神井川を流路にした時代は、縄文後期から弥生時代までの比較的に長い時代続いた。この為、狭山丘陵の南側にも大きな扇状地が形成された。これが第二次の武蔵野台地である。

③地震によって、秋川が南に流れて浅川に府中の北西部で合流した段階。

ここでもまだ、古多摩川は石神井川を流路としていた。

④大地震で、古多摩川と秋川の間の数キロが繋がり、秋川との合流点からの流下は、青梅から来る丹波山川の方が本流となった。またそれが稲城の北東(即ち府中の北西)部で、浅川に合流したので、浅川側が支流のようになり、本流は南流する方で多摩川となった。やがて、この流下物が古千束湖沼群を埋めて、後世の多摩川左岸が形成される。一方右岸は、多摩丘陵とその南に続く下末吉台地とその東側に形成された狭い沖積平野があり、ほぼそれに沿い、南北に流れて川崎南部で江戸湾に注ぐ形となった。

この過程をよく見ると、少なくとも③の段階まで、浅川と、古多摩川と地質学者が通称する奥多摩の丹波山川下流部は繋がっていないのである。

そして、今の名で浅川と言ったが、実はこの多摩丘陵の周縁部を流れていた河川こそが、多摩郡地域を流れていたから多摩川と言ったのであり、この多摩川と繋がらない前の③段階までの立川北部を東流していた川を古多摩川というのは、不適当ではないか?と私は考えるのである。

※もっとも、弥生時代までの我が国土で、川に固有名詞があったとは思えない。「山から来る川」とか、「東へ流れる川」「あの原を流れている川」などと、それぞれの地域で呼びあっていたのであろう。但し、石神井という縄文の神だという「石神」の名が、武蔵野に残るのは珍しい。相模以西尾張までの石神は、弥生時代以降“天白神”に取って代わられたと言い、その天白神は員弁族の祭祀した神だという説があるからだ。(※この天白はいわゆる古層の神;石神と宿神とその後の天白信仰、という興味深いテーマだが、今はこれも先送りしておく。)

万葉集に、狛江地域で読まれたという歌に「多摩川」の名が文献上初出するという東歌がある。

多麻河泊爾 左良須弖豆久利 佐良佐良爾

奈仁曾許能児能 己許太可奈之伎

(多摩川に さらす手作り さらさらに

何そこの児の ここだ愛しき(『万葉集』巻14))

寛政の改革を行った老中・松平定信の揮毫で、文化2年

(1805年)に猪方村字半縄(現在の猪方四丁目付近)に建てられたが、文政12年(1829年)の洪水によって流失した。大正時代に定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して、大正11年、旧碑の拓本を模刻して新碑が再建されたのである。(今は小田急線狛江駅前にも、この歌に因み、布を晒す態の少女像が置かれている。) 古代には、調布とか布田の地名もあり、調布と狛江の境を流れて多摩川左岸に流れ込む根川辺りから、多摩川左岸の猪方の手前辺りまでで、女性達が布を晒す姿があったのだろう。)

つまり、万葉時代には狛江付近を流れる川は、浅川の名ではなく、多摩川の名であったという事になる。

という事は、万葉集時代(奈良時代)には、多摩川は④の段階に達していたのか?それとも、未だ③の段階で、浅川下流が多摩川であったのか?これは究明されていない。

私は、この石神井川になっていたのが、大地震で秋川に

繋がり多摩川になったのは、古墳時代か或いはもっと遅く奈良時代以降の大地震の時ではなかったかと考えている。

少なくとも、平安末・源平時代には、今のような流路になっていたであろうと考える。しかし、流路の変えられた多摩川中流は、左岸側に流れ出す傾向が続き、しばしば府中の西部に氾濫をした。分倍河原という府中の地名は、この辺りが水浸しになるので、古代の班田給付を他の平常な土地の倍面積で給付した事に因むものだという。(この水流が左に触れる性行は、もう少し下流の狛江市南部にも及び、有名なドラマ「岸辺のアルバム」氾濫にも関係しているのではないかと愚考している。)

もし分倍河原の地名の由来が班田制に関わるというのが真説であるなら、少なくとも班田制の頃(平安初期)までに、多摩川が④の段階になっていたのか、それとも氾濫したのは浅川だった(つまりまだ③段階だった)という可能性もある。そうなら、青梅〜福生→浅川に合流は平安中期の貞観の大地震頃だったとも考えられるだろう。

日野は多摩の日下であり明日香だったのでは

先に、「多氏の進出に伴い、武蔵にも祭日壇即ち日下(クガ、クサカ)が造られた;日野も日下ではないか」と書いた。

具体的には、日野の浅川の右岸の多摩丘陵に連なる岡である鹿島台がその日野の久我(日下)の候補地である。何よりも、多氏の拠点であった鹿島の名が使われており、またこの地の東側が高幡地域になる。

鹿島台の東北方向に、金剛院(高幡不動尊)の旧地がある。大日如来を祭祀する金剛院がこの位置にあったというのも、冬至の旭日を臨む地域だったと考えられる。

そして浅川という河川名だが、私はこれは明日香川ではなかったかと考えている。

和邇氏の本宗氏族は春日氏だが、春日と書いてカスガと読むのは何故か?

諸説があるが、①春の日が霞むので、春日の霞処という枕詞に因む、という説が、通説である。異説は幾つかあるのだが、②春日とは冬至の旭日を意味し、神話の天照の復活を意味するので、神栖む処=神栖処(カスガ)だという説

③冬至の朝日(明日)を意味するというのは同様だが、これは神明日香であるとする説。(カンアスカと読む)

私はこの第③の説を支持する。神明日香は神明日下であり、冬至祭を行う祭日壇のあった場所が春日であり、春日氏は(大和岩雄氏が考究された如く)和族の仲ツ臣=大神官なので、神明日下の祭礼を執行する氏なので、春日との呼称を得た、というものである。これは天孫族考で述べた通りである。

※同様に飛ぶ鳥の明日香で飛鳥=アスカという枕詞由来説がある。

これもまた明日香は明日下で、祭日壇の置かれた所を意味し、朝日に飛ぶ鳥は明烏であるが、それを八咫烏と観想するところから、飛ぶ鳥の飛鳥になると解釈している。

つまり、浅川は元は日野という明日香に流れる明日香川だったが、後世その由来が不詳になって、往時より浅くなった事もあって“浅川”という風に変名したと考えるのである。

だから、日野は春日社の荘園となっていたのだ。

つまり明日香川=浅川〜多摩川という流れが、舟木田荘(横山荘)から稲毛荘に流れて多摩川の名を負った由緒ある川なのだと推理する。

※近江の日野、越前の日野、伯耆の日野なども和邇氏系海人族に関わりがあると考えている。

さてここで漸く、最初に飛ばした話題「稲毛は何故稲城になったのか」について述べておく。

引木・稲木→稲毛→稲城

先ず、稲毛が稲木の訛ったものである可能性が大だという事は頷けよう。

稲木は先に補遺17で述べたように引木であり、造船や建築用材を調達する事に由来するものである。(江戸湾対岸の千葉の稲毛の地名も、千葉国造が海上氏の同族であることから、稲木であっただろうと推理できる。しかしこの千葉の稲毛付近には、花見川以外にそれ程大きな川が無いので、割合近い山からの伐採であったろう。従って、江戸湾の西岸の多摩丘陵からの用材調達が海上氏一族にとって必須だったかと想像する。)

ところで、ここでは二つの問題を指摘しておく。

1)稲木→稲毛のイ段音←→エ段音の通音化は、古来から認識されて来たが、

この現象は、①縄文人に見られる音訛現象であるという説。東北地方や琉球語に見られる事から、そういう見解が生じた。

②出雲族に見られる音訛現象であるという説。出雲弁が出羽・津軽弁に混同されるというのは、松本清張の「砂の器」で有名になった。つまり辰韓由来か?

そのどちらであるかの問題。

2)稲毛や稲敷とか稲取、稲葉などの稲は員弁のイナであって、イネ=米を採るための植物ではないのだが、イナと読む稲は全てが員弁由来かと言えばそうではない。無論米の稲の場合もあるのだが、古代人はそれをどう区別していたのか?という問題。これは、日本語の語素ネ=根を廻る問題にも繋がる。イネとヨネ(米)とコメ、サネなどの認識の区別の問題である。

---------今は、この二つ問題を指摘して、将来の考究に送ることにする。

ともかくも、今の稲城市の稲毛は、同じ多摩丘陵の横山地域に舟木田荘が営まれた事からも、稲木つまり木材調達地だった事は明らかだろう。

一方稲木の山地には稲毛氏の小沢城があったことは、先述した。稲毛でなく稲城になったのは、この小沢城ほか3つの城砦が稲木丘陵に在ったからだろうという説がある事を指摘しておきたい。→この件は後ほど詳述する。

有力御家人だった稲毛氏が多摩川右岸南部に版図を広げたという見解もあるようだが、これはむしろそういう広域の稲毛荘が中世前期から存在していて頼朝の縁者という有力御家人だった小山田重成がそれをそっくり所領として任じられた、という方が正しいであろう。(前述の通り)

ところで、この小沢というのも、実は稲沢=引沢の一つで、伐採した用材を、浅川に向けて引いて流したのに由来すると推理する。

小沢城の南側に掘割様に小さな沢が流れている。地図上には表示が無いのだが、これが恐らく小沢だろうか。(小さな沢だから小沢なのか、或いは引沢の崩字が小沢と誤読されたという可能性もある。)

小沢は稲城丘陵が浅川(今は南流して来て合流した多摩川になっている)右岸の氾濫原(これが稲田堤地域)に出た所で、稲城丘陵の中央部を東流して来た三沢川に合流する。

三沢川は稲田堤地域を北西〜東南に流れて多摩川に流入している。この河川は西隣の多摩市地域から流れて来ている。

稲田堤は、稲城では「昔、良田で米が採れたからだろう」と言うが、実際は伐採した用材の木場だったからだと考えられる。

田というのは、囲われた土地区画をいい、必ずしも水田の意味ではない。森田や林田、木田などもそうだ。猪名木田堤が稲田堤に成ったと考える。

さてその稲毛は明治になって村名を稲城とする。この経緯2説も面白い。

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「稲城」地名の由来の2説とは、(Googleで探すと)

①東長沼の故川島琢象(たくぞう)氏は、言い伝えとして父親の川島吉蔵の話を伝えています。

それによると、(後の稲城地域)東長沼外五か村連合戸長であり、のちに初代村長となる森清之助から新村名について相談をもちかけられた 奚疑(けいぎ)塾の創始者・窪全亮(くぼぜんりょう)が「稲穂」と「稲城」の二候補を示し、結局「稲城」が選定されたということです。

「稲城」の選定にあたっては、矢野口・東長沼・大丸の地に砦(小沢城・長沼城・大丸城(おおまるじょう))があったという歴史的な事実と、この地が稲の産地であり、昔からよい米がとれたということが考慮されたといいます。(川島琢象、『窪全亮(くぼぜんりょう)先生と奚疑(けいぎ)塾』昭和61年発行より)

また、

②狛江の故石井正義(いしいまさよし)氏が、昭和7年、8年頃に著した「武蔵野郷土地名稿(草稿)」(狛江市・故石井干城氏所蔵)には、「稲城村は稲毛村と称号すべきも許可なくして、稲城は稲毛の意義として命名せるなり」とあります。

この史料がどのような根拠から述べられたのかは明らかではありませんが、当初「稲毛村」の名称が選ばれ、神奈川県へ上申(じょうしん)されたが許可が得られず、字義の通じる「稲城村」と命名したというものです。

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狛江の石井氏は代々、狛江市和泉村(旗本の石谷氏の知行地・今の狛江市北部、小田急線の北側に相当する)の庄屋を務めていた。子孫はカジノ博打で失脚した狛江市長でもあった。

調べてみると、この第②の説がほぼ正しいようである。

すなわち、森清之助が神奈川県庁に合併後の村名を「稲毛村」としたいと上申した処、拒否されて、識者の意見をいれて「稲城」とした処、これが受理された、という事らしい。

では、何故県庁は、稲毛を拒否して稲城なら受理したのであろうか?

(ここで留意すべきは、明治初年には、新政府は武蔵国の旧江戸府外と豊多摩及び東多摩地区を除く、西側の多摩地区と多摩川の右岸地域は、相模国と合併して神奈川県とした事である。県庁の置かれた横浜も武蔵国であった。

この多摩地区が東京都下に移されたのは、多摩川など奥多摩の水源の管轄権を東京市に与えるという首都対策の内務省の方針に依るものである。後日、多摩地区が自由民権運動一揆の拠点になったのを弾圧する為の内務省の意図があったという説明をする人もいるが、これは不確かである。)

神奈川県庁担当官の稲毛案拒否の理由は、公式には何であったか?は、今に伝わっていない。

そこで、理由を推理してみる。

1)県庁の担当官吏が、歴史的知識が無く、この申請地域の旧名が稲毛荘であった事を知らなかった。

2)稲毛の「毛」が、雅称とならず御一新の時代にふさわしく無いと感じて、もう少しまともな名前にする事を求めた。

3)担当官吏は、むしろ歴史的知識があり、王朝時代の稲毛荘は、当該の地区(矢野口界隈)から、川崎に近い;高津や更に南の中原地区までも含む広域の荘園の名である事を知っていた。だから矢野口地区が広域名である稲毛を

称するのは不適当と判断した。→なかなかの知識人だ!

4)担当官吏が、次の直近の出来事を知っていて、混乱を回避しようとした。

その出来事とは、戊辰の役の際に、江戸無血開城の直前、多摩川の川崎に至った征東大総督だった有栖川宮熾仁親王が、休憩に一時滞在した神社が「川崎山王大権現」という名であった。この名は旧来の神仏習合思想の形であった。平田神道や国学の影響で神仏分離論者だった宮がこれを咎めて神職に命じて、稲毛神社と改名させた。現在の京急川崎駅の近く、川崎の市役所付近にある神社である。(東海道の通る、川崎市南部地域である。)

この事件は、征東軍(官軍)の神仏分離政策の、関東の先駆け的な事案とも言えるもので、後日全国的に吹き荒れる神仏分離と廃仏毀釈の先例でもあった。内務省の出先機関であった当時の県庁の官吏にも、周知の事案であったと思われる。この為、新たに稲毛神社の存在する事になった川崎の中心部と、30キロも北の町が稲毛を名乗れば、地理的に混乱が生じると危惧したので、稲毛の村名を拒否した、というもの。

どうも、この官吏の忖度によるものではないかとの疑いが拭えない。

稲毛神社は、上述の如く今の川崎中心部の宮本町にある。

宮本町は、古来川崎山王社があった為で、稲毛神社と改名されたが、これは実は、稲毛荘の範囲では無い。(恐らく中世には未だ未開発の海岸であった地域である。山王社が出来、更に南の恐らく埋め立て地に川崎大師が開基されてから、この辺りが川崎の中心になって行ったのである。)

また鎌倉初期にご家人の稲毛氏に関わる地域でもない。

つまり稲毛荘の飛び地ではない。稲毛荘には本庄と新庄があったが、新庄は今の武蔵新城駅の辺りの事だからである。

稲毛荘は記述の如く、今の町田市の東部〜稲城市、川崎市の多摩区・麻生区・高津区・中原区を含む広大な地域だったが、江戸時代には、多摩丘陵の林野とその谷合に人家や水田の点々とする村落地の連なりであり、旗本の知行地や幕府天領の混在する所だった。武蔵小杉にあった川崎代官の管轄する地域であった。

だが、そも京都育ちの有栖川宮は、どうして多摩川下流の武蔵南部にかつて稲毛荘があった事を知っていたのか?安土桃山時代以降から江戸期まで凡そ300年以上もの間、死語になっていたと考えられる地名である。

という事は、有栖川宮の滞在時に近侍した土地の者の中に、この武蔵国南部に、王朝の昔、稲毛荘という荘園のあった事を教示した知識者が居たという事になろうか。

すると案外、上述(3)が稲毛の命名拒否の理由であったかもしれない。

こうして、稲木地域は稲城村となり、今の稲城市となったのである。

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