補遺17 続その2-(1)
“「天孫族考」補遺17「謎の員弁族」続その2
員弁の系譜/猪名部から芭蕉と江戸の上水まで”
(1)古代から中世まで
☆各地に広がる員弁
>>「摂津の猪名川は、明らかに猪名部の住地と思われ、
>>これは桓武朝に長岡京や平城京の造営時に動員された
>>土木建築職工集団だったのでしょう。木津川の用材を
>>引木したのはこの集団でしょうね。」
---------(FB「古代史研究会」書込)
と書いた。猪名川町は摂津から丹波篠山への街道の奥にある。猪名川の名の川沿いの町である。この猪名川こそは、引(木)川であり、中流には猪名寺(尼崎)の地名も残っている。何か隔絶した所のようなイメージを持つ人もあろうが、ここは大阪梅田から30キロ弱しか離れていない。古代に於いては、猪名川を下ると本流の神埼川は水路で淀川に繋がっていた。淀川経由で長岡京や平安京へと移動出来たと思われる。今の“通勤”のイメージではなく、員弁の宮木部は出職するので、仕事のある所の近くに、建設中は一時滞在するのである。(これは定住を通常とする農民と著しく異なるもので、山仕事や木地師等と同様な職工部族の特色である。)
猪名寺という名の寺院は今は無いが、今「猪名寺廃寺跡」という所に法隆寺式の伽藍を持つ廃寺遺跡があり、白鳳時代孝徳朝の左大臣だった阿倍内麻呂が建立したという。この寺院建築に猪名川の宮木部が動員されたのだろう。
しかし猪名部が建築したので猪名寺というのは通称であろう。法園寺という名の寺がほぼ同一の敷地にあったという伝承があり、この名が本来の寺名かとも思われる。法園(ホウオン)寺の山号は猪名野山である。
どうしてここがそういう寺の建築場所になったかというと、古来から猪名川の猪名部の伐採して流した木の中継地=木場があって、町的な集落になっていたのかもしれない。もしくはその少し上流辺りには中世に多田銀銅山が開発されて、(恐らく採鉱というより)坑道の維持の為に猪名部の土木技術が使われたので、その為の出職の滞在地だったのかと想像される。
この鉱山は中世よりもっと早く古代から開かれたという説がある。
法園寺は猪名部の集住した猪名野に造られたので、猪名寺と呼ばれるようになったのだろう。
猪名寺の地の神として祀られていた猪名野神社は元の名を野宮(ノノミヤ)と言ったが、中世後期に伊丹城の鎮守として移座されている。この神社は別名が「天王宮」「牛頭天王宮」などと呼ばれ、素戔嗚を祭神とするので、猪名野の猪名部が、やはり元来は出雲系だった事を暗示している。
中世の多田銀銅山(近世には秀吉〜江戸幕府も直轄地とした)には、坑道や排水路の出口としての間歩(マボ)の名が14も残っている。この間歩が近世の北勢濃尾でのマンボの名の由来であることは、補遺17本文で記述した通りである。これも員弁との繋がりの傍証である。
員弁も舟木も同族意識があったと思われ、東海地方〜関東へ進出した舟木部や宮木部も引木部であり、その痕跡が濃尾の稲沢〜稲葉神社や木曽川沿いの恵那、南信天竜川沿いの伊那、伊豆稲取、武州の稲城だったかと考えるのである。(との趣旨を補遺17本文で書いた。)
因みに稲沢は稲葉と小沢の二村の合併名である。稲城にある小沢の名がここでも現れるというのは、小沢はやはり、引沢の引の字の崩しが小と誤読され易かったからではないか?との推理を裏付ける。
また浜名湖東北辺の引佐にも触れて、この引佐の引(イナ)が猪名部の族名の由来であろうとも述べた。そして引佐に隣接する都築の地名が都築木でありその奥浜名湖北辺の森林の伐採材が、伊勢に運ばれて鈴鹿川〜木津川という“山越えの江”を通して、その桓武朝の都造りに用いられた可能性にも触れて来た。
「関東では東京都下の稲城(元名は稲木か)があり、狛江市の猪方は武蔵の国府に付属する造船所のあった所と考えられます。」 (FB「古代史研究会」書込)
関東では稲城の他に千葉側の稲毛、稲敷など、員弁族の
引木(稲木)に関わると思われる地名が残っている。無論、員弁族が用材調達地を求めて畿内から北上していたのであろう。
和邇系水軍や多氏の北伐に従軍したのかと思っていたが、補遺17続の1での考究で、当初は出雲系海人の海上氏の東遷に伴従した後で、多氏の北伐があり、結局河内王朝(和族の王権)の支配下に移ったのだが、それは雄略朝頃までではなかったか。そして、天下分け目の戦いとなった壬申の乱後は、完全に(和族の)天武政権に服属したと考えられる。
◯紀州の印南と南部の両地域も、元来は印南部(猪名部)ではなかったか?
南部は周知の如く梅林で有名。梅は猪名部族が大陸からその苗か種を持ち込んだのだろう。員弁は造林族でもあり、木氏の部民でもある。
印南は建御名方(武南方)の故地であろう。建御名方は紀伊〜伊勢〜濃尾〜伊那・諏訪へと移動したと思われ、その経由地は皆猪名部に関わる土地だ。
※木氏とは、(天孫族系の紀氏に置き換わる前の)紀州を支配圏とした、出雲系五十猛の部族。
岐阜の伊奈波(稲葉)神社の祭神は、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)なので、出雲系の名である。また相殿祭神には稲葉国造の祖・五十瓊敷入彦の外祖父の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)が坐すので、伊奈波が稲葉である事は明らかである。
東京の青梅の梅も多摩の員弁が植えたものか。多摩の員弁も元は出雲系の下海上氏に統括されていたことは、補遺17続の1で述べた通りである。
どうも梅は、出雲系氏族が大陸から帰化させた植物ではなかろうか?
☆古代の猪名部の名工たち
上古に猪名部が半島から渡来して帰化人となった事、そして既に雄略朝の時代にはその中から名匠との声価を獲得していた事が知られている。
その名匠とは、猪名部御田と猪名部真根の二人である。この二人は、同一人ではないだろうが、共に雄略天皇絡みのエピソードがあり、そこに非常によく似た要素があるので、名匠は別々に二人居たにしても、どちらかの話が混交してしまったのではないかと疑われる。それを考察する。
ところで、先ず猪名部の起源に関わる話として出てくるのが、猪名部の始祖の帰化人説である。
書紀には、新羅王が、倭国との戦闘で倭の船を焼いた事を詫びてその賠償として、造船技術者を倭国に送り、やがてその子孫が帰化して舟木部や宮木部の先祖となった。それが大和朝廷の職業部の一つである「猪名部」(または為奈部)に属したことが言及されていて、中でも名匠と言われる猪名部御田は、その新羅から帰化した人の直系の子孫だという。
しかし、私はこの猪名部新羅人末裔説は全く信用しない。猪名部が雄略朝の時代には既に物部氏の管掌下にあった事は以前に述べた。
物部氏はれっきとした出雲系氏族だが、出雲系氏族;特に物部氏は反新羅だという事が、記紀で知られている。天孫族考本文で言及した様に、出雲族は辰韓斯羅國が南鮮統一に乗り出した時に、反抗して破れて日本列島に逃れてきた氏族ではないかと考えられる。その時に辰韓伊西国から移住して来たのが五十猛であり、須佐男族と共に山門や木の国に進出した。この木の国に進出した五十猛族の配下にいた部民が猪名部ではないか?と、私は考えている。
そして応神朝の頃、葛城襲津彦が対新羅戦に渡海した時に、この伊西国の亡民が日本軍と共に戦い新羅の王都慶州まで攻め上った事が知られている。また継体朝時代に筑紫造磐井が新羅と結んで反乱を起こした時に、鎮圧軍の総大将になったのは大連の物部麁鹿火だった。物部が反新羅だったからの起用だった。もし物部氏が親新羅派だったらそういう起用はあり得ないのだ。この乱鎮圧の功で、北九州に物部が進出を許されて“天物部二十五部”という一族多数を配するほどの支配地を得たのである。
記紀執筆の頃には、既に新羅が南朝鮮統一後であり、南朝鮮は何処も新羅という誤解が生じていた。だから猪名部の新羅人説が生じたのだろう。
さて肝心の古代の猪名部の名匠の話題に戻す。
※以下、暫時は、研究者が書いたものの引用紹介とした。資料扱いにし、自分で書き直すことも考えたが、私の晦渋な文章より、返って引用とした方が、分かり易いだろうと思ったのである。
執筆者に敬意を評して敢えて引用させて頂く。
猪名部 御田(闘鶏 御田) のエピソードがネットで紹介されている。
「木工鬪鶏御田の冤罪と秦酒公の琴の声」
擅恣企画 上田 忍
http://nihonsinwa.com/page/1469.html
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木匠(こだくみ)の闘鶏御田 (つげの みた)の裏話です。原文には、「命木工鬪鶏御田、一本云『猪名部御田』」 とあり、「闘鶏御田」は「猪名部御田」とも思われますが、真偽は定かではありません。「一本云」とは一説にはという意味で、日本書紀では、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」 などと書名を明らかにしないことが多いようです。以下に逸話を紹介します。
即位12年夏4月4日。身狭村主青(むさのすぐりあお)と、檜隈民使博德(ひのくまの たみつかい はかとこ)を呉国に使者として出しました。
冬10月10日、天皇が御田に楼閣(たかどの)を造ることを命じまし た。
そこで彼は高楼の柱の上を四面(よも)に疾走していましたが、その見事さに伊勢の采女は思わず見とれてしまいました。御田の動きに気を取られた彼女は、足がもつれて倒れ、捧げる饌者(みつけもの 御膳之物)をこぼしてしまい
ました。その場に居合わせた天皇は、御田が采女を犯したのだと勘違いし、処刑し ようと刑吏に引き渡しました。そばにいた秦酒君(はたのさけのきみ)は、琴の声にのせた歌で天皇に悟らせようと思いました。
「神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝(サカエ)を 五百(イホ)振る折(カ)きて 其(シ)が尽くるまでに 大君に 堅く仕へ奉(マツ)らむと 我が命も 長くもがと
言ひし工匠(タクミ)はや あたら工匠はや」
(「神風の(枕詞)伊勢の、その伊勢の野原に立つ、茂った木の枝が、何百年もの風雪の中で多々折れて、やがてそれが尽きてしまうまで、大君に堅く仕えましょう。我が命もそれほどに長かったらなぁ、と言っていた工匠の命が... なんと惜しい工匠か」)
...それを聞いた天皇は、御田を赦しました。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十二年九月条】原文
十二年夏四月丙子朔己卯、身狹村主靑與檜隈民使博德、出使于吳。冬十月癸酉朔壬午、天皇、命木工鬪鶏御 田一本云「猪名部御田」蓋誤也始起樓閣。於是、御田登樓、疾走四面、有若飛行、時有伊勢采女、仰觀樓上、 怪彼疾行、顚仆於庭、覆所擎饌。饌者、御膳之物也。天皇、便疑御田姧其采女、自念將刑而付物部。時秦酒 公、侍坐、欲以琴聲使悟於天皇、横琴彈曰、
柯武柯噬能 伊制能 伊制能奴能 娑柯曳鳴 伊裒甫流柯枳底 志我都矩屢麻泥爾 飫裒枳瀰爾 柯拕倶 都柯陪麻都羅武騰 倭我伊能致謀 那我倶母鵝騰
伊比志拕倶彌皤夜 阿拕羅陀倶彌皤夜
於是天皇、悟琴聲而赦其罪
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また上と同じ上田忍氏のWeb上には、猪名部真根の伝承も紹介されている。
「韋那部真根は采女の相撲に気を取られ、刃を傷つけた」
https://nihonsinwa.com/page/1473.html
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猪名部 真根、韋那部 眞根(ゐなべ まね、いなべ まね)生年:生没年不詳。朝日日本歴史人物事典の解説には以下のよう記されています。
「雄略天皇の時代(457~479)の木工(木匠 こだくみ)。猪名部は天皇や氏族に隷属する品部のひとつで、土木技術を提供する工匠集団。その部民の伴造、すなわち工匠集団の長には、新羅系の渡来人が任命されていた。
4世紀末ごろ、有能な工匠が新羅より貢進され、造船や土木・建築工事にたずさわっていたという。真根は『日本書紀』雄略13(469)年の記事に名工とうたわれている。
雄略天皇は宮殿・楼閣の造営に関心を持っていたといわれ、それらの造営に従事した真根は、日本に仏教建築以前の大陸建築を伝えるのに大きな役割を果たしたのであろう。」
またWikipediaでは、「日本書紀によると、采女の女相撲を見て刃先を誤り、雄略天皇の手前で豪語した事と違ったために処刑執行となる所、その仲間が真根の処刑による墨縄技術の失伝を憂う歌を歌う事で、それを聞いた雄略天皇が処刑中止の為の使いを出し、処刑執行寸前で中止となり、事なきを得た人物。」とあります。
なお、詳しい内容は以下の通り、次ページに原文も紹介します。
木工の猪名部真根は、石を質(あて=木を削る台)にして手斧で木を削っていました。終日(ひねもす) 木を削っても、誤って刃を傷つけることはありませんでした。其の場所(作業場)へ雄略天皇が遊びに来て 「お前の技は確かにすごい。が、どんな状況でも誤って刃を石に当てることはないのか」と尋ねました。真根は「決して誤ることはございません」と自信をもって答えました。そこで天皇は采女(うねめ=各地方の 豪族が恩恵にあずかるべく、自分の娘などを天皇に差し出した。仕女)を呼び集めて、衣裙(きぬも
=裙はスカートや裾の意)を脱がせ、著犢鼻(たふざぎ=犢鼻は子牛の鼻でふんどしの意)にして、面前で相撲を取らせました。真根もたまったものでは、ありません。時々手を止めて相撲を見たりしながら、木を削りましたが、ついに手を誤ってカーンと「やっちまった」のです。天皇は「朕(われ)を畏れず、貞(ただ)しくない心で、妄(みだるがわ)しく、軽々に答えやがって!」 と責めたてました。そして刑吏に引き渡し処刑しようとしたところ、同僚の工匠が真根(の凄技)を惜しみ、助命を願う歌を詠みました。
惜(アタラ)しき 韋那部(イナベ)の匠 架けし墨縄(スミナワ) 其(シ)が無けば
誰(タレ)か架けむよ あたら墨縄(スミナワ)
《惜しいことだ 韋那部の工匠が 掛けた墨縄は。 それが無ければ、誰に架けられるだろうか 惜しいことよ、墨縄》
墨縄は直線を引く匠の道具。天皇はこの歌を聞いて反省し悔い惜しみ、喟然(なげ)いて頽歎(なげ)いてこう言いました。「危うく貴重な人材を失うところだった」。そして、使いを甲斐の黒駒に乗せて走らせ、 真根を縛っていた徽纒(ゆわいづな)を解き、返歌を詠みました。
ぬばたまの 甲斐の黒駒 鞍着せば 命死なまし 甲斐の黒駒
《ぬばたまの(黒の枕詞) 甲斐の黒い馬に鞍を付けてたら、(鞍の重みの分だけ到着が遅れ)命は無かっただろうなぁ、甲斐の黒駒よ》
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇十三年九月条】原文
秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃。天皇、遊詣其所而怪問曰「恆不誤中 石耶。」眞根答曰「竟不誤矣。」乃喚集采女、使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是眞根、暫停、仰視而斲、 不覺手誤傷刃。天皇因嘖讓曰「何處奴。不畏朕、用不貞心、妄輙輕答。」仍付物部、使刑於野。爰有同伴巧 者、歎惜眞根而作歌曰、
婀拕羅斯枳 偉儺謎能陀倶彌 柯該志須彌儺皤 旨我那稽麼 拕例柯々該武預 婀拕羅須彌儺皤
天皇聞是歌、反生悔惜、喟然頽歎曰「幾失人哉。」乃以赦使、乘於甲斐黑駒、馳詣刑所、止而赦之。用解徽 纒、復作歌曰、
農播拕磨能 柯彼能矩盧古磨 矩羅枳制播 伊能致志儺磨志 柯彼能倶盧古磨 一本「換伊能致志儺磨志、而云伊志歌孺阿羅麻志也。」
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猪名部御田や猪名部真根の両者の話は、雄略朝12年と13年で近接しており、共に采女に見とれて失敗し、更にそれを助けようと近くの者が歌を詠み、天皇がそれを聞いて罪を赦すという構図になっており、酷似している。
後者の話の方がオーバーになっているので、元は御田の話ではないかと私は考えている。
御田は別名が闘鶏御田になっており、北勢員弁の人ではなく、山続き伊賀の柘植の人だというのが注目点である。
◯猪名部百世について
猪名部御田や猪名部真根(まね)をはじめとして、猪名部は、優れた木工技術者集団だった。天平勝宝4(752)年、名工・猪名部百世(いなべももよ)は、飛騨の匠(たくみ)らを指揮し、奈良の東大寺大仏殿を建立したという。
法隆寺の再建や、興福寺の建設にも関わっているらしい。
『新撰姓氏録』(平安時代の記録)では為奈部首〔いなべのおびと〕や猪名部造(みやつこ),という名が載る。これは各地に分散している猪名部を中央であ統括する伴造だろうと言われてきた。
(2002.11.17の、伊勢新聞掲載記事を次に引用する。
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猪名部百世
~大仏殿建立の立て役者~
今年は大仏開眼一二五〇年目の節目の年である。伊勢国が大仏金メッキ用の水銀を提供し、大きな役割を果たしたとについては先に述べた。 ところで文献によれば、伊賀国出身者として大仏殿の造営を担当した名工 猪名部百世(いなべのももよ)の存在が知られる。
彼は東大寺造営のために設けられた大規模な建設部局(造東大寺司)に大工として所属していた。 神護景雲元(七六七)年、称徳天皇の東大寺行幸に際して、地方豪族としては最高位に属する外従五位下という位をもらったのも、 大仏建設の功績が認められたからだろう。その後トントン拍子に出世し、一説によれば伊勢国の国司(現在の県知事)にまでなったという。
桑名市の西に員弁郡があり、大安町や東員町等多くの町が広がっている。 員弁の文字は和銅六(七一三)年に全国の地名が「好字」二字に書き改められて以後のもので、本来は猪名部郡であったものと思われる。 猪名部は木工技術に長けた人々の集団で、中央の猪名部氏に率いられていた。
『日本書紀』などにも有能な大工として度々登場し、古くからその技術が知られていた。 伊勢国員弁郡には猪名部姓の人々が多く資料に登場する。
なぜ伊勢国や伊賀国に猪名部氏が多いのかについて定説はない。ヒントの
一つは、員弁郡に広がる大安寺の領地である。 大安寺は日本初の国営寺院・百済大寺くだらおおでらに起源を持つ寺院で、 当時最も権威のあるお寺であった。 員弁郡の土地が大安寺に収められたのは天武天皇の時であるが、その背景には員弁郡と中央政府との強い繋がりがある。
大和から東国へ抜けるには二つの重要なルートがあった。後に関所が設けられる不破関の東山道と鈴鹿関の東海道である。 員弁郡には二大関所間を南北につなぐ道路(現在の国道三〇六号線に相当か)が通過していた。
この重要路を守るために大和王権の息のかかった人々が配置されていた。これこそ猪名部だと考えるのである。 猪名部氏は隣接する桑名郡に所在する伊勢国最古の寺院・額田廃寺建立に中心的役割を果たしたに違いない。
猪名部百世は伊賀国の人と伝えられるが、当地一体には有能な工人が多数居住し、その技術でもって国家に奉仕していたのである。
今年の正倉院展のテーマは大仏開眼と日韓友好であった。 猪名部の名の載る文書や伊賀・志摩国の税帳等多くの三重県関係の資料が展示され、私たちの目を楽しませてくれた。
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地元新聞だけに、いささか我田引水の箇所もある。例えば不破・鈴鹿の関が設けられたのは、かなり後世であり、員弁が北勢に定住したのはもっと以前上古の事である。だから2関の連絡路防衛の為というのは全く当たらない。
また大安寺領が伊勢にあったのは事実だが(大安という地名が後世にも残っている)それが員弁の地にある理由はその事とは直接関係がないと考えられる。
百世は伊賀の国人だといい、それは上古の猪名部御田が伊賀の柘植の人だという事からも意外ではない。伊賀と北伊勢は山を挟んで一帯であり、そこの猪名部はほぼ同族であろう。また山越えした甲賀には正倉院御物の製作に携わったという甲賀細工所もあったという。
東大寺や正倉院の建設やその調度品は、北勢・伊賀・甲賀のみならず畿内の猪名部が広く動員されたであろう。
ところで、百世は既に平城京朝時代の人であるが、遡って、その百世が指揮したという飛騨の匠の話を次に記す。
最初の雄略朝の話は、河内王朝(中国南朝でいう倭の五王時代)での話題であった。(私は河内王朝を、前応神朝と呼ぶ。そして、河内王朝の王嗣が途絶えて、応神五世の孫という継体天皇が継承した王統を後応神朝と呼ぶ事にしている。)
飛騨の匠の話は、聖徳太子にも関わるので後応神朝になる。猪名部百世は天平時代なので、勿論、はるかその後になる。
☆員弁が秦河勝の支配下に移って多様化した
物部宗家が滅亡後、員弁の支配権は秦河勝に移されたのだろうという推理を過去に述べた。元来、大工職や木工職は秦系部族の家職である。
和族(というより、和邇系海人族)に従属した舟木部や宮木部も居たと思われ、それが秦氏の統領つまり太秦の支配下に一本化されて、建築のみならず土木の仕事まで幅広く行うようになったと考えられる。
秦系の川部が山城の巨椋池の治水工事を担ったのは有名である。これは上古の事であり、未だ員弁族は物部従属下にあったので、この巨椋池や淀川治水には秦系の部民が動員されたのであろう。
しかし、河勝以降は、員弁も加わり、秦系土木建築職人の職能や活躍分野は一段と充実化して行く。
川部との関わりが出来て、治水土木の分野にも進出したものと思われる。
これが中世後期に一部が黒鍬になって行く契機を用意したのではと考えるのである。
☆飛騨の匠(タクミ)
古来から、飛騨は名木を求めて員弁が進出していた。大工職の発展としては、「飛騨の匠」の語が残る。
飛騨の匠は、飛騨が山国で米が取れず、また材木以外の他の産品もないので律令時代の租庸調を負担できず、都に出て大工職の労役(匠丁)に服した事で、宮大工に必要な知識と技量が自ずとつき、都に駐在する飛騨の木工職人が、“飛騨の匠”の呼称を得たという。
匠丁は1里(50戸)ごとに10人(9人の職人+1人の炊事係)を出し、毎年百人を越える就労者が都へ上った。原則1年交代とされたが、激務で食糧も自前であったので、逃亡者も多数出て、取り締まりも厳しく行われたという。このような匠丁の中から、都に住み着いて技術を磨き、名匠と呼ばれるまでになった人々があった。それら名匠たちの仕事は、説話や伝説として後世に伝わった。遥か後世の江戸時代、飛騨の大工たちは、飛騨匠の末裔としての自負を持ち、祭り屋台や民家などに高い建築技術を注いだ。
その伝統は高山祭の屋台などに今も残る。
特にその名を高からしめたものに、柿本人麻呂の作と仮託される歌がある。
かにかくに ものは思はじ 飛騨たくみ 打つ墨縄の
ただ一筋に
(万葉集 巻11、2648)
この歌は万葉集では詠み人知らずとして出ている。
しかし拾遺和歌集に人麻呂作として載せられている。人麻呂や和邇系海人族と舟木部や宮木部などの木工職人集団に関わりがあると言う伝説はかつて述べた通りである。人麻呂が一時、木工権守に任じられていたという伝承にまつわるものだ。
この歌意について、上記の歌の解説が飛騨木工連合会のホームページの記載を紹介している方がいたので、再引用
させて頂く。
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奈良時代末頃の成立で、現存最古の和歌集である『万葉集』巻11に詠まれているこの歌は、
「飛騨人の打つ墨縄が正確無比な一直線であるように、
あれやこれやと浮気はしない、その打つ墨縄のように一直線に、だた一筋の道を行くのだ‥」
という想いを込めた恋い歌です。
引用元:飛騨木工連合会ホームページ
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勿論、墨縄とは墨壺から引き出される;墨に浸した;縒り合わせた糸の事である。線をまっすぐに引くための道具である。木材を切る前に、墨の線で印をつけるのに使われた。墨縄の先には針が着いていて、刷毛でおさえながらぐっと糸を持ってきて、ピシリとやる。
正確な線を引くには、糸を真っ直ぐに張り詰め、その張り詰めた糸を、指ではじいて線を付ける。指で弾くのを、“糸を打つ”と称した。
昨今は、プレハブ的に事前準備した用材を現場で組み立てる事が多いが、昭和の時代には、工事現場では普通によく見る道具だった。
一筋の線を引くために気を集中している職人の姿と、引かれた墨縄の真っ直ぐ迷いのない線とに、好いた女への真っ直ぐな思いを重ねたのが既述の万葉歌である。
ここで注目すべきは、その大工の必須の道具である墨縄が、万葉の古代から存在し、歌に詠まれるほど周知だったという点である。
◯墨壺の伝来
墨壺は、古代エジプトに起源があるといい、メソポタミア〜中央アジア〜中国を経由して日本には伝わったという。興味深いのは、その形態に多少の差異はあるものの、ほとんど同じ機能を持つという点である。差異とは糸車
がどう付いているかである。中国の物はほとんど日本と同形なので、大陸伝来なのは明らかである。中国の物は既に壺に糸と糸車が一体化した作りになっていた。春秋戦国時代(紀元前)にあったという。
日本で最初に墨壺が使われたのは法隆寺の建築の時だとされている。(7世紀初頭の頃)。だからそれ以降の建築には墨壺が使われていたと考えられる。
但し、法隆寺は、墨の跡は確認されるものの、墨壺その物は残っていない。
※正倉院御物に墨壺があるという。これが現存の最古の物。
大工の技術の奥儀は墨を打つことにある、とまで言われた。「其が無ければ、誰か懸けむよ」(先述。書紀の猪名部真根の話)と歌われ、大工の本領発揮の道具とされた。
※写真は飛騨式という一文字型の墨壺
◯飛騨の匠の始祖は鞍作止利だとの伝説
飛騨の匠にまつわる伝承や説話の類は多数ある。
その中で特に目を引くのは、あの法隆寺の釈迦仏を造ったという仏師・鞍作止利についての伝承であろう。
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鳥仏師とも書くが、司馬鞍作部首(しばのくらつくりべのおびと)止利仏師の通称。また 鞍作止利(くらつくりのとり)、鞍首(くらのおびと)止利ともよばれる。中国南梁(なんりょう)からの渡来人司馬達等(しばたっと)の孫といわれているが、司馬一族は4世紀ごろに渡来した「鞍作村主(すぐり)」の子孫とする説もある。聖徳太子や当時の権力者の蘇我氏に用いられ、日本書紀によれば、606年(推古天皇14)に飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏、飛鳥美術)を造像(止利作を否定する説もある)、623年聖徳太子と母后、妃の菩提のために法隆寺金堂の釈迦如来及び両脇侍(きょうじ)像を完成している。先の飛鳥大仏が後世の補修が多いのに比し、この三尊像はほとんど完全に残っており、光背裏の刻銘から彼の確実な作品と知られ、貴重である。作風は中国北魏(ほくぎ)竜門系の様式を取り入れながら、独自な造形感覚で日本的に整斉された「止利様式」を確立している。単純な形の大きく張った目、両端がつり上がってアルカイック・スマイル(古式の笑い)と称される不思議な微笑を感じさせる唇、板を重ねたように堅く直線的な衣のひだなど、象徴的で力強く、威厳に満ちており、名実ともに7世紀前半の彫刻界を代表する作家であったことを示している。[佐藤昭夫]
-----出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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上述が通説であるが、これには飛騨との関連には触れていない。伝承に依れば、父は鞍部多須奈(くらべのたすな)といい、彼も仏師として聖徳太子の父帝・用明天皇のために坂田寺というお寺の建立を指揮したといわれる。
後年は出家し德齊法師と名乗ったという。また叔母の嶋も、若くして出家。善信尼と名乗り、日本で最初の比丘尼だとされる。
鞍部とか鞍作の名から、元々は馬具製作者だったのではないかとも言われて来たが、馬具にも木部がありまた漆や金箔の技法も用いるので、木工細工職でもあったろう。当然彫刻技術も伝承していただろう。祖父が司馬達等だとも言うので、鳥は帰化三世になる。
しかしこの止利は飛騨の生まれであり、母は飛騨の匠の娘というのだ。
聖徳太子と秦河勝とが広隆寺や四天王寺・法隆寺・斑鳩宮など多くの造寺と宮殿の建築を行ったのは有名だが、二人の為に大工の指揮に当たったのは、鞍部多須奈で、良い宮木(用材)を選ぶために、彼自ら飛騨の地に赴いた。
(この頃、既述のように員弁の統括権は、物部宗家滅亡後は、秦河勝に移管されていただろうと思う。従って多須奈が飛騨の猪名部の所から良木を切り出させる指示を出しに行ったのであろうか)
※ 多須奈が行った飛騨の天生谷という所で、聖徳太子に関わる奇跡が起こるのだが、これは太子信仰から派生した伝説なので、今は省く。
ともあれ多須奈が天生谷(飛騨市河合町、白川郷の南東方向)で木材伐採の指揮をとっていた頃、谷筋の月ヶ瀬の村の娘・久良女と恋に落ちる。(武蔵の久良郡の名もあり、久良は員弁に関係する名かとも思われるが、未解明。但し、土地の碑文では九郎兵衛の娘「忍」とされているが、この時代に九郎兵衛という命名方はないので、後からの創作であろう。)
しかし、都の官位を持つ大工の棟梁と村娘では身分が違うので、久良女は誰にもその事を打ち明けられないでいた。その内にお腹が大きくなり、父母や村の人々は父無し子と思って「月から授かった子」「天より授かった子」と言いあった。
難産だったので、産婆が竹の箸で頭を摘んで出産させた為に、生まれた子は、首がひょろりと長く鳥に似ているというので「止利」と名づけられた。
(というのも伝説で、近くに小鳥峠の名があるので鳥取部が居たのかも。)
多須奈は造寺の仕事が急がれるので、久良女と子どもを飛騨に残して飛鳥の都に戻って行った。
止利は少年になると実家を手伝って杣仕事をしたが、木人を作ると動き出し天生の湿原を耕して水田にし、実った稲を脱穀した籾が積もって籾糠山になるという具合だった。止利の天才的な職人の腕前と賢さとは地元で評判になり、やがて13歳(17とも)になると匠丁に加わって飛鳥の都へ上った。
(※木人とはカカシの事)
止利は苦労して父親・多須奈を探し当てたのだが、父の多須奈は、それが本当にわが子かどうか疑った。「腕試しに、仏像の左右半身をそれぞれ作って合わせてみよう」と言い出す。
そして、二人が別々に造った半身を合わせてみると、不思議にもぴったり合い、立派な仏像が完成したので、親子は抱き合って喜んだという。
その後、止利は飛鳥の父の家に留まり、多須奈に仕事を任されるまでになった。そして止利は、飛騨から上ってくる匠丁の面倒も見たので、飛騨では止利を飛騨の匠の始祖としているのだ。
この話は、父親が修業の為唐国に渡り、唐人の女との間に子を儲けたが、帰国してしまったので、子が日本に訪ねて来るという後世の説話にもなっている。それは多須奈が、中国人の司馬達等の子であることから発想されたものであろう。(こちらの話では、木人ではなく木鶴に乗って唐土に飛んで行った飛騨内匠という名の人物になっている。止利=鳥→鶴の連想か?)
多須奈の官位と言ったが、この頃は未だ律令制の前だったから大工の官は木工司(モクシ、もしくはモクのツカサ)=和訓ではコダクミノツカサ(コダクミとは木匠の事)と言い(令制では木工寮となる)であり、多須奈はそこの大属(オオサカン)辺りであったろうか。(小属ショウサカンは土工=今の左官職の頭領であるので、この職をサカン→佐官→左官と呼ぶようになった。)
木工司の工人の中から名匠は、王邸や東宮邸に属する内匠(ウチのタクミ)となっているので、多須奈は太子の造寺の大工の頭でもあったらしいから、東宮にも属する内匠の頭人でもあったと思われる。その結果、子の止利が太子の宮殿だった斑鳩宮の後に改築された法隆寺の塔頭の造仏に関わる契機が出来たのであろう。
都へ上る労役としての匠丁は、飛騨以外の猪名部からも徴用されたであろうが、飛騨の匠達は、自分達が鞍作止利の直系である事を誇示して、優位性を保持しようとしたに違いない。
左官の官位から、飛騨の匠は、左の匠とも言われ、これが後世の左甚五郎という名匠の伝説に繋がる。
☆ 春澄(員弁)善縄とその娘・洽子
中世の春澄(ハルスミ)親娘の話である。
春澄(員弁)善縄(ヨシタダ)は「続日本後紀」を編纂した人である。
知識人で公卿の身分。あまりに性格が違いすぎるので、祖父の猪名部財麿が伊勢国員弁郡少領という郡司に赴任した時に土地の名を氏名にしたのではないか?とも考えられる。父猪名部豊雄は周防の国庁官人になっている。周防の国府は言うところの防府であり、ここらは員弁の地であるとは思えない。単なる官人としての赴任であろう。
猪名部の首長は員弁首。だが、猪名部財麿が員弁宿禰の姓であるというのは善縄が朝廷より春澄の氏名を授けられた時に“員弁宿禰善縄に春澄名を賜る”とされているからだ。
春澄善縄は猪名部造氏とも書かれるので、猪名部そのものではなく伴造と解される。物部氏の庶流を称したとも。
善縄の生涯の概略は、三重県の環境生活部文化振興課県史編纂班のWEB頁に所載の物が、簡にして要を得ている。それを引用させていただく。
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平安時代初期、菅原道真の父是善ら、時の大学者と文章道を通じて交流し、「在朝の通儒」(万事に通じた学者)と賞された学者がいた。伊勢国員弁郡出身の春澄善縄(はるずみのよしただ)である。
春澄善縄は、もと猪名部氏を名乗り、員弁郡を本拠地とする地方豪族の出身であった。彼が幼少より学問を好んだため、祖父は、その教育には惜しむことなく財産を費やしたという。その甲斐あって、善縄は文章道においてその博識には当時のどの学者も及ばないまでに大成した。官途についてからも、学問への情熱は衰えを知らず、俸給を研精のために費やす勤勉ぶりであった。天長10(833)年、仁明天皇のもとで東宮学士に抜擢されるが、承和の変(842年)での皇太子廃立のあおりを受け、一時周防権守に左遷されてしまう。しかし、翌年には、文章博士として中央への復帰を果たし、斉衡2年(855)、彼の人生最大の功績となる、わが国4番目の国史編纂の勅命を受ける。
国史の撰者には、当時の最高権力者・藤原北家の良房を筆頭に、参議の伴善男(とものよしお)、実務担当として善縄らが指名された。その編纂過程では、開始間もなくこの事業を命じた文徳天皇が崩御、その後、応天門の変(866年)による伴善男の失脚などで5名の撰者のうち、良房と善縄以外がすべて脱落する事態に陥った。結局、先帝の遺業を引き継いだ形の幼帝・清和天皇のもと、撰者の補充が行われないまま編纂が進められ、その終盤の実務は、必然的に善縄のみの手に委ねられていった。しかし、善縄はこの苦境を乗り越え、遂に貞観11年(869)、仁明天皇一代の実録を『続日本後紀』として完成させたのである。
善縄は、国史編纂事業のただ中、貞観2年、参議に栄進し、朝政の中枢を担う公卿の列に加えられた。政争渦巻く平安初期の朝廷にあって、彼は、生粋の学者として常に謹朴で、学者たちの争いにも孤高を守った。年齢を重ねるごとにますます聡明で、紡ぐ文章は更に美麗さを増したという。
その彼も、国史編纂を終えた直後の同12年初め、力尽きるように病に倒れ、間もなく京の自邸で74年の人生に幕を下ろした。
員弁郡藤原町長尾には、かつて「春澄屋敷」と称された善縄の邸宅跡伝承地があり、そこには彼の偉業をしのぶ郷土の人々によって春澄社が祭られ、崇敬を集めてきた。明治41(1908)年、同社は猪名部神社に合祀され、没後千年以上の時を経た現代の員弁の地を、静かに見守っている。
ところで、彼には、男女4人の子があったが、その才知を受け継いだものはなく、春澄氏は承平元(931)、善縄の娘・洽子(あまねいこ)の記録を文献上の最後に、歴史を覆う闇の中に姿を消してしまう。しかし、善縄の成し遂げた『続日本後紀』編纂の大業は、現在に至るまで、古代史研究の道標として平安時代の歴史の一角を照らし続けているのである。
(県史編さんグループ 笠井佳代)
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薨去の際に、正四位だったが、従三位に追叙せられた。
最終官位としては、“参議 従三位 行式部大輔 兼讃岐守。”
娘の春澄洽子は掌侍・典侍を務め、父と同じ従三位にまで昇った。
※ 洽子(あまねいこ)という表記は上記三重県の物。異議あるを後述。
しかし、二人の男子は五位に終わり、都での栄達を諦めて員弁郡の故地に下ったといい、地元猪名部神社の神職になったという。
そこを本貫地とした員弁氏には、鎌倉時代に郡司となった員弁家綱、行綱の名が『吾妻鏡』に見えるとの事で、猪名部神社社伝では彼らを善縄の裔としているが、仮冒であろう。
○春澄の氏名の由来考
猪名部造氏が何故春澄などという不思議な氏族名を賜ったのか?
平安前期までは、氏族名は原則として朝廷から下賜されるものだ。
一見、員弁の名と無関係の様に見えるがそうではない。これは掛詞なのだ。
“張る墨縄”。員弁に必須の道具であるのが墨縄。用材に切り出しや面取り等加工の目印に墨で印を付ける道具である。大工道具としては古代から墨壺の形で、遥か大陸から伝わった文化である事は先述の通り。
そこで朝廷の誰か物識りが、員弁の墨縄→ 張る墨縄の善縄→春澄の善縄と姓を改める様に提案したのだろう。猪名部では高位の廷臣としては相応しく無いと思ったのだろうか? これは善縄が自分でそういう氏名を望んだのではないだろうと思う。というのは、員弁や墨縄に些かでも知識があれば、墨縄は引くと言うが張るとは言わないからだ。また墨を付ける、縄を打つ、その併せで「墨を打つ」とも言う。
一般の縄は確かに“縄を張る”と使うので、墨縄も縄だから(実際は撚り合わせた麻糸なのだが)“張る”だろうとしたのは、結局半可通の仕業だ。
だから引墨→稲隅とか、打つ墨で空蝉とかなら、洒落にもなったであろう。
でも貰う方は文句は言えない。雅称には違いないからだ。案外、藤原良房あたりの命名なのかも知れない。(良房の極官は太政大臣)
そして善縄の娘・春澄洽子(アマネイシ)の事である。
これは員弁の本職には直接関係はない。そこで簡単に触れる。
但し、洽子をアマネイコと書く物がある。女子の名をコと言う様になったのは、乱世の平安後期からである。
平時子や北条政子、降って日野富子など。
しかし古代には、息子(男児)はコで、嬢子(娘子)はシであった。郎子(イラツコ)と郎女(イラツメ)であり、子は普通は男児に付けられた。
中臣鎌子、小野妹子など子を末尾に持つ官人は多い。
だが女子は、藤原光明子、藤原彰子など、子と書くもシと呼ぶのである。
だから、正四位の春澄善縄の娘であるから、洽子はアマネイシと呼称するのだと思う。と言っても、本来の名は高子(コウシ)であった。
元慶元(877年)2月に陽成天皇が母后藤原高子の名に触れる女官たちに改名を命じたため、初名の高子から洽子に改めたのである。洽子も、音読みではコウシになってしまうが、それをアマネイシと読んで回避したのだ。
(とはいえ、この女子をコと呼ぶ命名は、女子=ジョシの愛称である女ノ子=コの呼び方から始まったとも言われ、院政期あたり=平安後期からだろうと言うのである。これは武家などの下位身分の家での習慣だとも言い、平時子はトキコであり、その娘の徳子=建礼門院はトクコでなくトクシと言った筈だ。幼児の愛称はノリコだったという。徳の訓にはノリもある。)
春澄洽子は、女官として出仕後、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の五代の天皇に仕えた。貞観10年(868年)正月8日、無位から従五位下に叙位された後、同15年9月9日までに従五位上“掌侍”となり、洽子に改名した元慶元年(877年)11月には正五位下。仁和3年(889年)に従四位下に進んだ。
この後に“典侍”となり“尚侍”藤原淑子の下で、光孝天皇の崩御の際には鈴印供奉の大役を務めた。寛平8年(896年)には従四位上に昇った。
特に、宇多天皇からの信任厚く、「寛平御遺誡」には糸所に出仕中の洽子への高い評価が記されている。(糸所の別当も務めた。)
醍醐天皇の受禅の際には剣璽使の大役を果たした。延喜2年(902年)に、何と父善縄の追位でもあった従三位の高位を賜った。
またこの時代の高位の女官に相応しく歌人としても有名である。
宇多天皇の女御・藤原温子(オンシ)のサロンに歌人として出入りしていた。温子は七条の后とも呼ばれ、醍醐天皇の義母となり皇太后となった。
「散る花の なくにしとまる ものならば 我うぐひすに おとらましやは」(古今和歌集 巻第二、春歌下、107番 春澄洽子)
ただ単に散る花を惜しんで泣いていたのだろうか?
「大和物語」には糸所の別当として洽子が登場し、温子のサロンで歌人の伊勢、兵衛の命婦(=藤原高経女)、一の皇女(均子内親王、温子の一人娘)という顔ぶれで行われた歌会に参加した模様が描かれている、という。
脱線だが、伊東潤の歴史小説「悪左府の女」の主人公は、春澄栄子(エイシ)。保元の乱の元になった悪左府(左大臣)藤原頼長に政治の道具として使われる琵琶の名女流楽人。父は文章博士とされており、伊東氏の頭には最早春澄氏と員弁は全く関係の無いものと思われているようだ。
☆ 猪名部の後裔?の黒鍬
中世後期の員弁の階層分化
武士化した伊賀者は、俗に上忍・中忍・下忍と三層に分化したという。
一方、職人であった員弁(猪名者)は、上層はやはり地侍化したが、中・下層は、棟梁や頭と一般職工とに緩く分化して行ったものと考えられる。
また伊賀者と猪名者はしばしば混淆したと考えられる。伊賀者とは主に服部氏、羽鳥氏、麻生氏、百地氏などの秦系氏族。
秦系は、土着武士(地侍)集団化した大和初瀬の長谷川党や伊賀の服部氏や、特殊職能集団として猿楽一座(観阿弥は伊賀の服部元清である)や、乱破・忍者の様な諜報・特殊工作者集団などに分化していったのは、周知の通りである。
猪名部も専門的な分野とまた階層による分化が生じて行ったと考えられる。
上層は、土着した土地で地侍化したであろう。荘園の管理人=荘官になり、中世後期には地頭に任じられて御家人にもなっていく。こうした上層の分化はむしろ分離ともいえる。
中層は、職人の棟梁や頭となり、その下により専門分化した職人達がいる。
中世には、猪名部の一部は黒鍬者になって行く。黒鍬は性格上、伊賀者だと思われているが、私は“猪名者”だと考えている。
員弁の中でも、建築よりも土木職や、鉱山関係の金山衆とも関わりを持つ集団が、中世後期の国人領主の治山治水の内政的必要性と、近隣領主との戦闘局面での必要性から築城や水脈制御などの職能を駆使して、黒鍬衆となって行ったのだろう。黒鍬とは、農民の使う農鍬とは異なる黒色のコーティングがされた刃を持つ特殊な鍬を用いることからの呼称であるという。
一方で、築城や治水の技術知識に長けた者は、作事奉行や普請奉行とその下僚(方役人)に、治水関係では専門的な水役人・水奉行・水路奉行・掛樋方などの職名で大名家の下役人に召し抱えられるようにもなった。
その中で戦国期に珍重されたのは何といっても黒鍬の者である。
ところで、その人夫衆の名前の元になる「黒鍬」だが、それはどういう物でまた、何をするのに用いたのか?
ともかくも、黒鍬というくらいだから、黒いのが目立ったということと、農作業用の鍬(農鍬)とは異なる用途のものだったという認識はあるのだが、では実際はどの様な物だったか?というと確たる記述に出会わない。
しかもその黒鍬の実物は、近世の絵でしか見たことがない。
それを見ると、鍬の刃板の部品が全部鉄製では無く、木に鉄を継いだ物で、絵の上の白い部分は木板であり、その先端部に鉄(鋼)製の刃が付いているという形状の物だったらしい。だから黒い部分は先方の刃の鉄の部分だけなので、黒鍬と書かれても、刃板全体が黒かったのではないのだ。強いていえば、白い木のパートがあるので、刃の鉄の部分の黒が目立った(しかも農鍬よりも大振りなので黒が強く目に映る)という風にはなる。だが、だから黒鍬というのはちょっと遠い感じがする。(下図左は普通の平鍬。右が黒鍬と黒鍬の者)
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精選版 日本国語大辞典では
黒鍬〘名詞〙
① 戦国時代、築城、開墾、道普請などに従った人夫。黒鍬の者。黒鍬者。〔武家名目抄(19C中か)〕
② 江戸時代、江戸城内の掃除や荷物などの運搬等の雑役に従う下級の役。
十二俵一人扶持。黒鍬の者。黒鍬者。黒鍬同心。
〔随筆・幕朝故事談(1789‐1801か)〕
③ 江戸時代の土工。主として川普請や新田開発工事を受け持った労働者。黒鍬の者。黒鍬者。 ※夜明け前(1932‐35)〈島崎藤村〉第一部「貧窮な黒鍬(クロクハ)や小前のものを思ふ彼の心は既にその頃から養はれた」
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と出てくるが肝心の語源の説明は無い。
色々識者の書き物を読んで整理すると次のAB二つの説に整理できそうだ。
(黒鍬の語源由来)
A説 「風呂鍬」が転訛したという説
資料の図を見てわかる様に、黒鍬は木製の台に鋼の刃を
継いでいる。
この刃を付けている台木を“風呂木”と呼ぶらしい。
どうして 風呂なのか考究したが、資料が乏しく、目下 突き止められていない。
目下の推理としては、釜風呂というものがあり、江戸期 に五右衛門風呂と呼ばれたのだが、この釜風呂では大きなお釜(恐らく元は塩釜だったろうか?)の下で直接薪を炊き、中の水を加熱して湯を沸かす。しかし入浴しやすい様に枠が木で出来ている。加熱で火傷しない為だ。
同様にちょっと形態は異なる長州風呂というものもあるらしい。
この鉄に木枠を付けているので、この木枠を風呂木と言 い、その翻案で黒鍬は元は風呂鍬と言ったのではない か、というものだ。
江戸時代まで漢字カナ混じり表記では、現代と違って、
カタカナを用い、振り仮名もカタカナだった。
それでフロクワ→クロクワと、転記の際に変化したのだ ろうか。
B説 元の名を“久六鍬”といい、これが黒鍬に転化したという説。
それで、この久六というのは、人名なのか地名なのか?
これが分からない。人名なら、考案者=発明者とか発注者ということか。
地名というのは、ちょっとあり得ない。
一説によれば、久六鍬は、中部地方から畿内の何処かで 考案されたのだという。有力なのは濃尾地方で、知多半島の大野鍛冶という鍛冶屋集団があり、その出職が木曽三川地域で発想したものだとか。
もしそうなら、そこの輪中地帯で、土堤や排水路の土均しなどの用途に発想された物ではなかろうか?
一方で、久六鍬は九六鍬で、長さ九寸✖幅六寸の大型の鍬だという。つまり九六→久六と転化したというのだ。農具としての鍬(平鍬・農鍬)は通常五寸✖️四寸くらいなので、相当に大きな物になる。かつ鍬棒が平鍬より鋭角に付いている。
明らかに農具というより特殊な用途に用いる目的があったのだ。
木台に鉄刃を付けるのは、単に鉄の節約というより、それだけ大きな鉄板だと重くなり過ぎるからだろうか?
(調べたが、木台の木には何の木を使ったのか?未詳である。杉や檜のような一般的に入手し易い木では割れ易いので、樫とか栓の木などの硬い緊密な木質の物を使ったのであろう。用材の入手と加工そして鉄刃の抜けない様にする取り付け方など技術を要する仕事の物だ。)
ところで黒鍬を敢えて久六鍬と呼ぶ理由として、黒鍬の者が、その大型の鍬を使って、戦国時代には戦死者の埋葬に従事したので、黒不浄の連想から黒鍬と呼ばれ、ある意味では武家世界では下賤な身分とされたという解釈もある。
室町時代に、渋谷氏の治めた渋谷城(その跡地は金王八幡になっている)の南東側に黒鍬谷という地名がかつてあったという。ここは、黒鍬衆を住まわせた所では無く、黒鍬衆が戦闘の犠牲者を葬った谷だという。
この様な理由から、江戸期になると、江戸城の黒鍬の者以外の、大名家の黒鍬衆は、黒鍬の名を使うことを回避する様になったと言われる。