「天孫族考」補遺17 員弁族とは何か?
「天孫族考」補遺17 員弁族とは何か?
海人族との関わりは?
天孫族考本文及び海人族についての複数の補遺で、猪名部(員弁)は宮殿建築と造船に関わる氏族であることに言及してきた。
宮殿・神社建築の用材が宮木であり、造船用材が舟木である。これを総称して稲木といい、それを扱う職集団が猪名(木)部である。(更に専門的に、宮木部とか舟木部という専門職集団も居たという。つまり後世の言い方では宮大工と舟大工になる。古代どころか中世〜近世に至るまで極めて重要な職種である。)
そして、この猪名木部がどうしてそういう名称になるのか?従来、様々な説が唱えられて来た。
また猪名木部は、猪苗木部や稲苗木部、伊那(伊奈)木部などとも書かれどれもイナキの漢字訳(万葉仮名のような表音)だとされている。
これにイナキ族が進出したとされる濃尾地域に稲葉神社があり、この稲葉は稲場であり、イナキ族が奉じた神社である事から、稲場とはイナキ族の居住地の事であろうとされる。そしてイナキ族の東進の経路にある恵那(木曽)、伊那(天竜川中流)という地名もイナキ族の痕跡だというのもほぼ知る人ぞ知る共有知識である。
一方、伊豆にある稲取や、東京多摩地域の稲城(古名は稲木)、その多摩川(古代は浅川)対岸の猪方、利根川・霞ヶ浦地域の稲敷などもイナキ族の進出地であるという。
更にイナキ族は稲葉族でもあるので、その出自は因幡にあるという説がある。これも考究してみる。
☆員弁とは? イナベと読む
先ず、員と弁で員弁と読ませるというのは、かなり高度な(?)漢字知識がないと書けない熟語である。
員弁郡は北伊勢にあった郡名である
弁をベンではなくベと撥音ンを付けない読みは、古代中世には、弁財と書いてベザイと読み、これは船頭の事であるが、これから転じて、ある小世界の取り仕切り役をも弁財と呼ぶようになり、中世の荘園の管理人(つまり荘官の長)を弁財人(ベザイニン)と呼んだのと同様だ。
この弁はわきまえるという訓がある。認識・識別するという意味だ。
でもって、員であるがこれは訓ではカズと読む。員えるで“かぞえる”。幅員という熟語に用いられる。同じ読みの数えるとの違いは、数えるの方は、対象が単体の集合である場合にその数を算定する事をいうのに対して、員えるは算えると同様に、対象が複数単体でない場合でも、その対象のカサを測定するという意味合いがある。
(単体を数える場合にも使う。員数などとも。)
幅員とは、道路や橋また船腹の幅をいう。
こういうもの(諸元)を算定するのが“員える”ということになり、またその結果得られた幅とか丈とかの数値をまた員(カズ)というのである。
そうすると員弁とは、“幅員を測定しそれを弁える”という職能を指す言葉であり、宮木・舟木には確かに必須の職能であるので、そういう職能を持って宮大工や舟大工に従事する専門職が員弁であるとは納得出来る。
はるか上古の三輪王朝時代に、昨今話題の纏向の古代大建築を築いたのは員弁であろう。
だが、この員弁と書いてイナベと読ませるというのは、当て字に近い、かなりうがった表現だと思える。
因みにインベでは忌部と紛らわしいので、わざとイナベと読ませたというのではなく、初めにイナベという呼び方があって、意味から穿って員弁の字を当てたと考えられる。(次項に紹介する書紀・雄略紀の記載でも、猪名部と書かれている。)
員弁と書いてインベとかインベンでないのは、他例として人名にも使う印南があり、これも字通りではインナミだがイナミとリエゾンするが、イナベもこれに類似の発音法と理解する。
☆文献上のイナベ--------朝日郎の反乱
物部宗家の物部目(モノノベのメ)大連に関わる話である。
雄略天皇18年(474年)天皇の命により、物部菟代と共に伊勢の豪族・朝日郎の討伐を命じられた。菟代は敢えて進撃せず2日対峙したが、目は物部大斧手に盾を持たせて自ら進撃し、朝日郎を捕縛して斬った。
菟代は命令を完遂できなかったことを恥じ、7日間にわたり天皇のもとに報告に訪れなかった。天皇が、何故菟代が報告に来ないのか側近に尋ねたところ、讃岐田虫別が「菟代はおびえて2日間朝日郎を捕らえることができず、目が物部大斧手を率いて進撃し、朝日郎を捕縛して斬った」と述べた。天皇はそれを聞いて激怒し、菟代が所有していた
猪名部を没収し、目に与えた。
《雄略天皇十八年(甲寅四七四)八月戊申【十】》十八年秋八月己亥朔戊申。遣物部菟代宿禰。物部目連。以伐伊勢朝日郎。朝日郎聞官軍至。即逆戦於伊賀青墓。自矜能射。謂官軍曰。朝日郎手、誰人可中也。其所発箭、穿二重甲。官軍皆懼。菟代宿禰不敢進撃。相持二日一夜。於是。物部目連自執大刀。使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。朝日郎乃遥見。而射穿大斧手楯・二重甲。并入身肉一寸。大斧手以楯翳物部目連。目連即獲朝日郎斬之。由是菟代宿禰羞愧不克。七日不復命。天皇問侍臣曰。菟代宿禰何不復命。爰有讃岐田虫別。進而奏曰。菟代宿禰怯也。二日一夜之間、不能擒執朝日郎。而物部目連率筑紫聞物部大斧手。獲斬朝日郎矣。天皇聞之怒。輙奪菟代宿禰所有猪名部。賜物部目連。
---------日本書紀・巻第十四「雄略紀」
となっていて、“猪名部”が古い表記だという事と、この部曲は物部氏が管掌していた事が分かる。また戦勝の賜り物にするくらい重要だったという事も推定できる。
朝日郎(あさけのいらっこ)は、伊勢伊賀を根拠地としていた豪族だが、氏の名が書かれていない。国造級の豪族なら、山田朝日郎などと呼ばれた筈である。私は、朝日郎はまた、これも物部の一族では無かったか?と考えている。理由は、出雲系の伊勢津彦の伝承もあり、伊勢伊賀を根拠地としていたのは、旧出雲族系の物部氏だと考えるのである。また物部兎代の持っていたという猪名部は伊勢北部の員弁郡に居住していた。
だから同族で土地勘のある物部兎代宿禰が、追討将軍に選ばれたのだろう。また同時に物部目も追悼将軍になっている。こういうように、二人も物部氏から将が選ばれているのは、同族の反乱鎮圧で採られる方策である。(この時、既に目は、雄略即位時に大連になっていたとされている。)
兎代が朝日郎を恐れたというのは、同族だから彼をよく知っていたからであろう。
そして、例の崇仏派対崇神派の対抗で、物部守屋が、厩戸皇子と蘇我氏の連合軍に攻め滅ぼされて後は、物部討滅軍の将軍だった秦河勝の配下に員弁も入ったものと考えられる。
※ 中世には天慶3年(940年)に員弁郡は、伊勢神宮の神郡になっている。その後加えられた三重郡と朝明郡とともに“道前三郡”と呼ばれた。
ところで、物部菟代は兎代で、員弁は因幡を出自とするという説と考え合わせると、因幡白兎族を束ねる者の名ではないか?との連想が湧く。
☆因幡出自説~出雲族系工民か?(因幡の白兎族とは何か)
白兎伝説そのものはあまりにも有名なので、ここで敢えて書かない。
要点は、白兎が隠岐島から因幡の海岸に渡るのに、ワニ族海人の手を借りたが、白兎が約束違反をしたので、海人に懲らしめられた処を、大国主に助けられた、という伝説である。
隠岐から出雲へのルートは恐らく出雲系海人族(美保関の阿曇?)のものだったと思われるが、西海から丹波に進出して来たワニ系海人(綿津見)が、因幡まで勢力を伸ばそうとしていた。この出雲族対天孫族系海人の制海権争いの犠牲になったのが、因幡の白兎族ではなかったかと想像される。
その白兎族が出雲族と共に紀州に移動して員弁となったと私は考える。
(五十猛が紀州入りして、そこに樹木の保護をしたので木の国となったという伝説がある。ヤマトと木国が畿内になりその根が出雲という観念もある。)
員弁は、先述の如く宮木部であり舟木部でもあるが、古代の伊勢員弁郡を見ると鳥取や穴太の地名もあり、また衣織部もいたというから、員弁は月氏(バイシャ=商工農民の)白馬族の末裔だった考えられる。その内、因幡に残存した鳥取部が、今の県名・鳥取にまで繋がっている。
(造船造宮)用材を弁別する人達、それが員弁ではないのか?
員弁には北勢の穴太衆も含まれる(東員町に穴太の地名)というのは、宮殿建設には石工は必須だからである。
三輪王朝の宮殿建築には、北勢の員弁が当たったと考えられる。
白兎とは何か?
因幡の白兎は、白馬族の一部族=伊奈場族の下位トーテムではないか?という仮説がある。
秦氏百職というほど、秦氏(白馬族)の専門職種は多岐にわたる。
中国版Google の“百度”で白馬蔵族について引くと、以下の
記述が見られる。
※白馬蔵族とは、今も少数民族として四川省や雲南省に残る白馬族の事である。白馬族はチベット族=蔵族の分かれだとされていたので、そういう風に呼ばれるのだが、昨今では蔵族ではなく羌族だとする。
>>它与白马人的动物崇拜有着紧密的联系。比如说,
>>有黑熊部落、猴子部落、蛇部落,最大的要算羊部落,
>>部落里面又分小的部落,小的家族。动物的名字就
>>是部落的名称,
この記述から知ることが出来るのは、白馬族として全体的には白馬をトーテムとしながらも、その構成部族ごとに、諸動物を更に部族の下位トーテムとしているかに見える事である。
ここに掲られているのは、黒熊・猴子(猿猴)・蛇(龍蛇?)・羊の4動物だが、同様の風習がもし白馬羌にもあるなら、そこの配下部族に白兎などがあったとしても不思議ではない。
だが、これに対して別の解釈も出されている。
白兎とは白宇佐技(もしくは木)か? 出雲族に随伴した白馬族の一部族だったという説である。宇佐は都市名ではなく、白馬族の統括者馬佐(佐はシャー)=勝の事だ。
員弁は、因幡なので幡=秦氏の一部族か?とも考えられるからだ。
天孫族考本文でも考究したように、月氏の中で庶民階級である白馬族が最も人口が多かったと想像される。そして白馬族には、于闐王(これが日本で言う太秦だが)に直属しているものの他、和族や黄牛族に使役されていた者もあったと考えられる。
だから三韓時代は、黄牛族の多い辰韓のいずれかの国にイナベも属していたのだろう。それが、斯羅國の統一戦争から逃避して日本列島へ渡来した時に、黄牛族主流(須佐族と五十猛)は出雲と石見に、そしてイナベは後の名で言う因幡に移住して来たのだと想像する。
(間の伯耆には、白伎や禾尺などの雑民=スードラ階層の民が渡来したと想定している。ここから後世、出雲阿国などの舞巫女集団が出た。)
イナベが何故黄牛族に従属していたかといえば、タリム盆地の中で(当時は温暖化時代だったので、盆地には樹木が繁茂しており、それを伐り出して建築や造船用材にする職種であるイナベは、盆地の河川沿いに定住していた。盆地の北部や東部には黄牛族の城砦都市が多かったので、勢いイナベの顧客は黄牛族の王侯だということになる。
但し、イナベの全てが黄牛族配下かといえば、そうではなく、西域北道沿いには和族の城砦もあったので、和族の水人を統括していたワニ族の支配下にあったイナベもいたであろう。彼らは、和族の東遷に参加した者達もあり、後に弁韓=加羅を経由して、列島へ渡来したと想像する。
これが、九州筑後川沿いの風浪宮付近に拠点を置いた舟木部であろう。
因幡の国名の由来も未詳であり、地元では鳥取平野や、その西部のいわゆる因伯沿岸の潟湖などで古くから稲作が行われたので、稲場と言ったという説などがあるが、因伯地域が、弥生時代の稲作の最大の拠点でもなかったし、
西日本各地に稲作適地が分布していた事から、因幡を特に稲場と言ったという説は取れない。
稲場も稲木なども、イナべのイナと同音であった為に稲の字が流用されただけであろう。
またこれに類似の想定として、イナキ部は稲木部であり、稲作農民が稲を干す為の木架つまり稲架(羽叉=ハサ)を巧みに組んだのがその名の由来だという説がある。だがこれを言えば、各地の稲作農民にとって稲架や寿々木の組み方などは最低必須知識であり、イナキ部のみの特技とは考えられない。
☆イナキベの語源は何か? 引佐という地名
イナキ、イナベの語源を考究するのに、ヒントになる地名がある。
遠江国引佐郡。これをイナサ郡と読む。和名抄にある伊奈佐である。
都田川の下流域で浜名湖の東北沿岸に当たる。ヒキサ(引佐)と書いて何故にイナサと読むのか?地元でも正確な地名由来は分かっていない。
これも稲沢が詰まったものではないか?というのが大方の推論である。
(上図では浜名湖は室町の大地震後の形になっている。)
浜名湖の入江である引佐細江というのが浜名湖の東北端にある。これは入江ではなく実際は都田川の河口なのである。三方ヶ原台地の西端部にぶつかり、都田川は南流できず西に曲がっている。
かつては浜名湖は今の北半分くらいの面積しかなかった。だが、更に昔の縄文時代は縄文海進の影響で、浜名湖北部も浸水して潟地になっていたと思われる。(その頃は、南部のどこかで海=遠州灘に繋がっていたであろう。しかし弥生の小寒期以降は、浜名湖の南半分の丘陵地は干上がっていて、古代から平安時代になると、今の浜名湖は北半分くらいに縮小していた。こういう時になっても、北の浜名湖にどこかで海への流路があったかどうかは今のところ分かっていない。)海への流出が止まったか、或いはその流出の川が狭小だったかのどちらかで、都田川の流量が多かった為、潟地は水量を増して、北半分の浜名湖が形成された。その頃の湖沼名は都田沼などといったのではないか?とも言われている。北西部の三ヶ日地域にある支湖
である猪鼻湖もその頃の都田川や、西方からの宇利山川の水が溜まって形成されたと考えられる。
浜名湖の東部側は三方ヶ原であり、稲作には不適だった。三方ヶ原と天竜川を挟んで東側に並ぶ磐田ヶ原も台地で稲作には向いていない。
と言う事は、西遠州地域では、今の浜松平野と磐田南部にあった巨大湖水の大之浦(これが本当の遠淡海=遠江)周辺を除けば、都田川下流域は確かに稲作適地であり、地元民が稲沢だろうと推理しているのは無理もない。
だが、稲作の適地である稲沢なら、わざわざ引佐などと他に見られぬ用字をする理由が分からない。
と言う事は、この引と書いてイナ、引くをイナクと読む事があったとの類推が働く。
引にはヒクという訓のほかに、引す(イナス)という訓もある。イナスというのは、“往なす”もしくは“去なす”で方向を逸らす事の意。今でも相撲の手の名称として残っている。イナスとは、何かから引いて離すという意味合いである。
私は、引佐は稲沢ではなく、引沢(イナサワ)だったと考える。都田川上流は、並行する天竜川中流域と同様に美林地区であった。中世後半には、伊那から天竜川に木材流しが行われた。古代に於いては、都田川に上流で伐った木材
を引いて流下した。これを引き沢=イナキ沢と言ったのだと思う。
この事から類推して、イナべとは引木部(イナキべ)と呼び、引く=イナクの読みが非一般的だったので、猪名部と当てたのかと考える。
近くの浜名湖の支湾(三ヶ日町)に猪鼻湖の名がある。これも元は猪苗か伊奈羽あたりではなかったろうか?
これも浜名湖の湖北地域に猪名部族が住んでいたことに繋がる。
更に、中世には、この引佐郡には伊勢神宮の御厨が複数設定されている。未だ、浜名湖が拡大して海と繋がる前の事なので、引佐郡には神宮と繋がる何かの要因があったのだろう。員弁郡が伊勢神宮の神郡になった事と連動する気がする。また海と繋がっていない浜名湖には水産の特産はなかった筈だから、御厨として納めた奉納品は一体何だった
のか? 遷宮の為の用材か、あるいは宮大工の要員だったにかも知れない。都田川には金指の名もある。通常これは金属製錬の屑に因むと説明されてきたが、員弁の用いる金指(曲金)に因むのではないか?
ところで、猪名部と猪の字を使うのは、員弁がまた宍矢来(猪矢来→シシヤライ→鹿矢来とも)や猪垣を作る職種でもあったから、引部イナベの意味がよく分からずに猪名部と書かれたのだと思う。これが、余りに職種を連想させない用字なので、持って回った員弁という最もらしい表字が考案されたのだろうと考えるのである。
そして、引佐郡に残る都田の地名の由来だが、桓武天皇が長岡京の後か前かに、この引佐に遷都を企てたのでこの地を京田=都田と称するのだというヨタ話の伝説がある。これはとりも直さず、この引佐の用材が長岡京もしくは平城京の建築に使われたという事の誤解であったろうと思う。
さてでは、遠州や、また濃尾の用材をどう奈良や京都に運んだのか?
鈴鹿川の支流加太川の上流部は、山越え2キロで、木津川の支流である服部川のまた支流柘植川の上流に接続している。この2キロを台車に載せ牛馬に引かせて運べば、東海側の用材を畿内に運搬する事が可能である。
つまりこのルートは一つの“江”ではなかったか。
そして鈴鹿川の上流を加太川というのは、紀州加太に拠点を置いた多氏水軍(実際上、これが五王時代の大和朝廷の水軍だった)が、この鈴鹿川水系も支配していたのではないか。(かつて筑後川は多氏が管制していた。)
飛鳥時代以降は秦河勝の支配下に入った。この上流域伊賀は服部=秦氏の濃密に集住した地域である。
鈴鹿川の伊勢湾への河口は磯津という。磯津〜木津というのが木材運搬の経路になっていたのではないか。(後世、このルートはほぼ国鉄の関西本線のルートにもなっている。鈴鹿越えの合理的な経路なのだ。)
紀州加太の多氏水軍は、紀の川下流の支流貴志川沿いの溜池に一大造船基地を作っていたという。こちらにも舟木部が就業していたのだろう。
☆ワニ・多氏系舟木族の存在
考えるまでもなく、海人族にとって造船氏族イナベは切っても切れない強い繋がりがある。特に単なる漁り舟ではなく、対馬海峡や列島沿岸部や大河川の遡上などに用いる舟は、その用材の選定や伐り出し、木材の寸法の正確な員弁(測定選別)をするまで、専門職人の存在が必須だった。
だから河内王朝(五王時代)では、渡来時の慣例から北勢の員弁族が出雲族系の物部氏に属していただけでなく、ワニ・多氏系の海人族に属する員弁もいたであろうと考えざるを得ない。
それが、筑後川沿いや紀の川沿いの多氏水軍の為の造船に従事した舟木部であったと考える。
員弁も舟木も同族意識があったと思われ、多氏の東征に従って東海地方〜関東へ進出した舟木部も引木部であり、その痕跡が濃尾の稲葉神社や恵那、南信伊那、伊豆稲取、武州の稲木だったかと考えるのである。
☆木挽との関係
中世後半以降には、木挽き職人という職種が存在する。こちらもヒキというのではあるが、この挽きは鋸で木を裁断して短くする作業をいうのであって引木とは直接の関係はない。
--------------------------------------------
日本大百科全書(ニッポニカ)では、
木挽 こびき
大鋸(おが)で原木を挽(ひ)き割り、造材にあたる職人。
大鋸挽(おがひき)ともいう。木材生産における杣(そま)(伐採)、日用(ひよう)(運材)、木挽(造材)という3職の分化はかなり古くからで、木挽は山林から伐採搬出された原木の造材作業にもっぱらあたってきた。
都市の木材商の配下に働く木挽職人もかなりあって、その統制にあたる棟梁のたぐいもあったが、嵩高(かさだか)の原材運搬に利便の乏しかった旧時は、むしろ伐木原地の山村で造材にあたる木挽が多かった。
--------------------------------------------
とあり、引木部はこのように木材生産業の分化する前のものであろう。
また、別の事典では、
--------------------------------------------
世界大百科事典 第2版「木挽」の解説
古く杣(そま)(杣人(そまびと∥そまうど))と呼ばれた人たちは,その後技術的に分化して,その伐材にあたるものを先山(さきやま)といい,造材にかかわるものを木挽というようになる。その分化は江戸時代初期から顕著になったといわれている。先山が組織的な活動が多いのにくらべ,木挽はほとんど単独で就労した。
--------------------------------------------
という説明で言えば、「杣人」「先山」に当たるのが引木部かと思われる。
因みに大鋸が発明されたのは鎌倉時代だというので、少なくとも平安時代までの山部の中に猪名木部が含まれていたのだろう。
山部といえば古代歌人の山部赤人を想起するが、山部は和邇氏の統括下にあったともいい、その後分化した木地師が本家と仰いだ小野氏もワニ系氏族である。また、罪に問われて流罪になったという柿本人麻呂が赦免されて、名を変えたのが山部赤人だという伝説を生んだが、柿本氏もワニ系氏族である。更に人麻呂は木工権頭にも成っているので、木材加工集団との関わりがある。これは、上古に猪名木部と和邇氏とのつながりの回路があった事を示唆するのである。また大和岩雄氏に依れば、造東大寺司の大工の棟梁にも柿本氏の名があるという。
西行法師の山家集(12C後半)中にある
「嶺渡(ねわた)しに しるしのさをや 立てつらん こびき待ちつる 越(こし)の名香(なか)山」
の歌の“こびき”は、未だ大鋸の登場前なので、
このコビキは木挽きではなく、木引き衆=上述の日用(運搬)方の事かと推理される。そうすると、引木(イナキ)→木引き→木挽きという連想変化があったのかも知れない。
※因みに、越の名香山=越の中山とは、妙高山の事である。
妙高山麓の森林で、伐り出す手頃の大木に目を付けて、目印になるように竿(恐らくそこに布切れなども付けて風にそよいで目立つようにしていたのかも知れない)を立てて、山仲間に知らすという作業が眼前に浮かぶようだ。
☆疑問点
上述の論考の趣旨は、「員弁は出雲族との親和性のある事から、月氏白馬族の一支族ながら、黄牛族に従属した部族である」と考えたものだ。
さりながら、二つほどの未解決の問題がある。
先ず一つ目は、能登の真脇遺跡のような日本海側の巨木建造物を作った部族との関係である。今日では、この巨木建造物は海辺だけでなく、中部山岳部にまで広がっていた事が確認されている。しかもこの文化は縄文時代のものなのである。
果たしてこの巨木文化は、北方縄文人の発展の成果として発現したものか?それとも初期の海人族渡来によってもたらされたものなのか?
弥生文化をもたらす前の時代から、日本海側には、韓半島から渡来の可能性が考えられるからである。
西行が詠んだ歌にある越の木引きは、どちらの子孫であろうか?
二つ目の疑問点は、稲作農法の一法である苗代にまつわる問題である。
“猪苗代”という言葉があるように、苗代と猪苗(員弁)族との関係を指摘する人がある事である。つまり苗代というのは、員弁の様に山際の住地で低温の谷水や湧水を利用して稲作をするのに対処して取った農法であるとの見解がそれである。苗代というのは、中国長江奥地や雲貴高原方面の冷涼地で発明された農法であるといい、確かに今でもその地域の少数民族はこれを維持している。この農法が、(我が国の時代区分では縄文後期の)小寒期に長江下流地方にまで広がり、それを淮河人=濊族が漢半島南部に持ち込み、濊族=海人族が列島へ伝播したという説である。
海人が山部と同系であることは先述した、造船用材の調達のためには、海人が山部になる必然性があるからである。
一方私説では、苗代農法は、雲貴高原から、後世云うところの茶馬古道などの南の交易路を経由してタリム盆地の白馬族がこれを伝え、崑崙北麓で稲作を開始していた員弁がそれを取り入れていた。それが、黄牛族〜出雲族と共に日本列島へ渡来した、というものである。
これの傍証として、員弁が中央アジアにあった地下水路カナートと同様の水制工法であるマンボを使っていたという点が挙げられる。マンボは員弁郡を中心に、濃尾地区に伝わる導水路である。また冷水を温めて農業用水に使う”ぬるめ“という農法も員弁が伝えたものではないだろうか?
--------------------------------------------
※マンボなどというと、北勢西濃尾地区以外の人は、全く何のことか分からないだろう。農水省の員弁地域についての以下の記述がある。
「『マンボ』は横井戸式地下水かんがい体系で、サハラ砂漠西部から中国・トルハン盆地にかけて存在する「カナート」と同種のものです。トンネルは幅2尺5寸(約80cm)、高さ3尺5寸(約120cm)前後で地表から約2~10m
下を素掘りされています。
「マンボ」は江戸時代末期から大正時代に盛んに素掘りされ、現在も多くの水田を潤していますが、片樋のマンボ(長さ約1km)は、当地方の最初と云われ、規模において他に類がなく、今なお約7haの水田のかんがい用水として利用されています。(片樋地区では「間風」の字が当てられています。)」
--------------------------------------------
として、江戸末期から盛んになった水制工法だとされている。しかし、上記とは別の研究書では、マンボは坑道の排水路である“間歩”(マボ)に由来するとされ、江戸期よりもっとずっと昔に起源があるとしている。
私は、こういう工法が江戸期に突如出現したとは考えられず、盛んになったのが江戸末であったとしても、員弁の民がずっと伝来していた物ではないかと考えている。他地域に無い特徴的なものとされて来たが、近来富士北麓や三河地域等にも、江戸期よりも前に同様の導水技術があったとされている。
※水制工法とは、土木学用語としては、厳密には河川の流量や
流向の制御をする技法・工法を指す言葉だが、ここではもう少し広義に水流の制御技法を指す言葉として使っている。
一方、員弁はタリム盆地由来ではなく、長江文化由来であるという考え方に関わるものとしては、中越国境のベトナム側に残る𣗼(木偏に員と旁る漢字。イン或いはベトナム語ではアインという。ユニコードにはあるが、PCの
ワープロソフトやエディターでは表示されない場合があるが、Wordでは表示される)族という少数民族がある。ベトナムの少数民族の研究が我が国には伝えられないので、このイン族についてはほとんど情報が無い。
しかし、中国でこの少数民族名にしか使われない“木+員”=「𣗼」字で表示される民族は、果たして員弁=員木部と無関係なのか?
この疑問は、もっと時を経ねば解決されないものである。
以下は参考
--------------------------------------------
天孫族考本文に以下のように書いた。
1)古来(コキ)の秦氏(古秦氏)
崇神垂仁朝までに渡来していたのを仮に古秦氏とする。
①商人として韓半島と北九州や山陰との間の交易に
携わった者
辰砂や姫川翡翠などの交易。
→金属器や鉄鋌の輸入にも。
②技能職として来訪 石工、鍛冶、玉造
③出雲族に随伴もしくは追尾して来日した者
出雲系及び物部氏との親和性---------三輪王朝時代。
山陰・紀伊・大和〜山城・伊賀・近江・北伊勢・
尾張などへ拡まっていった・
海人族(阿曇系)との親和=造船系船大工〜宮大工・
員弁系〜稲葉・伊那部系〜信州・甲州(諸大工・
服織も)
猪名部〜猪苗・稲部系(先進稲作技術者)→猪苗代
因幡の猪名部→五十猛の紀州移住に随伴した
→三輪王朝の宮殿建設の大工、用材調達
→北伊勢に定住地を与えられた=員弁
④豊前・宇佐の秦氏(天孫族との協調)(金属精錬)
→仮に先秦氏という。
--------------------------------------------