第17章(続) 第1節 秦氏について
《秦氏と出雲族》
ここでは、同じ月氏系天山族の白馬族と出雲族について一応の考察をしておきたい。
第1節 白馬族・秦氏について
(秦氏のハタという呼称は新疆の和田に由来するという仮説)
☆何故、秦氏と言うのか? 辰韓を秦韓と言ったが如くか?
古代に我が列島に渡来した加羅人の中で最多の人口を数えた
のはいわゆる秦氏とその配下の部民だというのはほぼ定説化
している。
もっとも秦氏と後世一括された氏族と部民は、百済や高句麗
の滅亡とともに列島に亡命してきた漢人や狛人の様に、ある
短い期間に渡来したのではなく、出雲族やもしかすると、それ
以前の海人族の渡来に伴って来た部族もいたであろうし、
天孫族(和族)の渡来以前に単独で宇佐や越に渡来した部族など
も想定されるので、何波かに分かれて渡来したと考えられる。
これらは弥生時代の後期の200年ほどの期間に跨るのだろう。
しかし、中心部族の渡来は、加羅諸国の新羅による併合から
逃れて、応神朝以降のいわゆる“倭の五王”時代に帰化して来た
弓月君などの数群であった。これらの“今来”の秦氏はそれ以前
の渡来部族(古来の秦)と異なり、河内や大和や山城など畿内に
居住地を賜与されたのである。
当初はその君長一族は、葛城氏の保護下にあったようで、その
頃は波多氏と称していたようだ。しかし弓月君など主な部族長
は、自らは中国秦帝国の王族の末裔だと主張し、いつからか、
“秦”氏や羽田氏などと名乗るようになって行った。
秦の訓は、本来ハタはなく、シンの音読しか無かった筈だが、
波多氏が秦氏を名乗るようになった欽明朝以降(それは継体天皇
以降の;私が呼ぶ処の後応神朝)時代からではないか、
と考えられる。
ともあれ、かかる度々の渡来により、“聖徳太子”のいた推古朝
までには、全国の秦氏系は列島人口の5%に達していたと推計
する人もあり、先住の旧縄文族や海人族に次いで、列島の主要
構成民族となっていた。
(恐らく天孫族と漢人《アヤヒト=百済亡命人》などの後期渡来
部族は合わせても秦氏系と同数程では無かったか。出雲族は
天孫族以前の渡来であるが、その人口比はどれくらいだったのか?
これらについての見解を述べている学説には接したことがない。
出雲族は、天孫族の東征の時に一部が反抗して敗戦後は例えば
諏訪などの地方に逃れて行って旧縄文族と同化した部族もあり、
また一部は天孫族に投降したり味方して大和王権の臣下に
なって行った。その最たる例である物部氏などもあるので、
その実数を推定しにくいのである。更に出雲族とほぼ同時期に
渡来した秦氏の先住部族や海人族もあった様なので、純粋の出雲
族をどう定義するかによっても違ってくる。)
秦氏が自らを秦王朝の末裔と称したというのは、古三韓時代の
辰韓が同様に「秦の王族の末裔を称して秦韓と名乗った」のと
酷似している。
秦氏の何波かの渡来の初期のものは、辰韓諸国内の出雲族と
同調して来たものだろうが、後期のものは辰韓の分国とも
思われる弁辰(弁韓)内の国、代表的なものは金官加羅(古くは
狗邪韓国と言われた都市国家)からの渡来である。
さて元のマター即ち秦氏は何故“シンシ”という音読ではなく、
“ハタウジ”と訓読されるのか?についての考察に戻ろう。
私説では、秦氏は元来はタリム盆地とその南の山地に蟠踞した
月氏の一部族で“白馬族”(今日の中国に残る少数民族のベイマ族)
を中心とした部族が本源だったと考えられる、としてきた。
月氏の内、東西交易路の西域南道にあったホータンに居た部族
で、月氏の三部族(龢族、黄牛族、白馬族)の中でバイシャ層を
メーンにした部族だったと考えている。
(龢族がバラモン、黄牛族がクシャトリヤを中心にした部族で
あるというのが私説である。)
バイシャは農牧民階層から出て交易に携わる商人とその交易品
の加工に従事する工人職人を含む、いわば庶民階層である。
西域南道沿いの崑崙山脈北麓のオアシス都市は、交易路として
分かり易いルートだっただけでなく、崑崙山脈の雪解け水が
タリム盆地に流入する河川の三角州でもあり、農耕にも適して
いた。この地域が砂漠化したのは4世紀からだったとされる。
更に特徴的なのは、このルート沿いに、白硬玉の産地があり、
ホータンはその集散・加工地としても有名だった。この宝玉は
今は和田玉と言うが、古くは于闐玉と言った。
于闐は和田の古名であり、Yutian とかUtien と読んだという
のが一般的な理解である。
しかしもっと古くは和闐とも書かれたようである。
ここにあった于闐国はその白硬玉の流通を独占して莫大な利益
を上げていた。西域南道の東端、中国側の出発点を玉門関と
いうのは、この于闐玉の輸入される関門という意味なのだ。
この于闐玉を中国側では「禺氏の玉」とも呼んだという。
中国の史書によれば「于闐国は古代の月氏の建てた国である」
とされている。漢代に大月氏国に遣使された官人に、大月氏の
女王が「自分達の民族名は“禺”である」と言ったとされ、以降
月氏は自称禺氏だと言うことになったようだ。
この禺というのは、月氏のバラモンである龢族の事で、
Nagui を漢訳する時に、鼻濁音の無い中国人がgu =禺と聞き
取ったのであろうというのが私の推理である。というのも、
女王(もしくは宰相あたり)が、それに続いて、「(音は)禺だが
意味合いは漢字の和(龢)だ」と解説したというのである。
つまり漢字の古体での龢は漢音でhuoa だが、訓ではnagui で
あるからだ。
現在の新疆ウイグル自治区の和田は英訳ではhotan となって
いるが、ここがかつての于闐だとはよく知られている事だ。
そして先述のように「于闐は和田の古名であり、Yutian とか
Utien と読んだというのが一般的な理解」だが、漢字学者の
故・藤堂明保教授は、「于は古音ではホーであった」として
いると司馬遼太郎氏が紹介している。これに従えば、于闐も
和闐とも書かれるが如くhotian であったという事になる。
しかしある学者によれば、この和闐は、元来ガンダーラ語の
Khotan だったという。だが、和闐はクシャン朝ガンダーラが
成立するよりはるか前から、和闐もしくは于闐として中国には
知られていたのである。
しかし、クシャン朝は、大月氏国の後裔の建てた国であるのは
事実であり、また于闐玉が“禺氏の玉”と言われてもいた事から
しても、元来その地は月氏の言葉で“Khotan”と呼ばれていた
という可能性はかなりの程度高いと思われる。
中央アジアの“kh+母音(a,u,o)”は中国音に無いので、例えば
汗khan は中国ではhanになるというのはよく知られている。
だからKhotan が中国ではHotan になるというのもそれに符合
している。
もっともそのKhotanが、もしかするとKhotian の様な発音の
言葉であれば、漢訳の際に、語頭の喉音khが脱落して、
otian→ otien→ utien →于闐となったり、またkh→hと変化
して、和闐Houatian →Houatanのような読みも成立したと
思える。
(干すという言葉の干はカンであり、于闐の于ではないが語形
がよく似ているので混同されて、于も訓ではホと言った可能性
も無きにしもあらず?という点も留保しておきたい。)
でもって、HouatanからHouata →Huataとなって、ここから
秦の訓読みであるhata が形成されて行ったのではないか?
というのが私の推理である。つまり自分達は秦の王族の末裔だ
と僭称しながら、実は自己認識の根底にはhotan 人だとの共通
了解があって、秦と書きながらシンではなくハタと称したのでは
ないだろうか?と考えるのだ。
一方、秦を何故ハタと読むのかについて、これは旗や幡に起源
するのだという説もある。
これは、秦氏が宇佐で祭祀したのが八幡神であるからだ。
そして八幡とは八旗であり、満州族の八旗の様な軍制があった
からではないか?という意見もある様だ。
しかし、中国の史書に于闐国はよく出て来てもそこに八旗制の
ような兵制があったとの記述は出てこない。西域南道の東側の
都邑国家に軍を出して併合するという政策で、于闐国は一時西域
南道最大の国家にもなっているが、それは遥か後世の話である。
この頃は既に于闐は、漠北から出たチュルク系民族が多数の国
になっていたと思われる。
問題の秦氏の源族が、匈奴の侵略を恐れて、于闐の地を脱出し
て東に逃れて羌族に合流したのは、秦の始皇帝が中国に最初の
広域王朝を樹立する以前の、春秋戦国時代の辺りだったと思量
されるのである。
だから私も、八旗制などは無く、その昔は商工業者が多数を
占める一般的なオアシス都市国家に過ぎなかったと考える。
但し、西域南道に沿い于闐人が広がっていたので、秦氏も様々
な職種を含む民族だったから、後世に八秦、つまり八十神と
までは行かぬまでも、数多いという意味での八を付けて呼び、
その八秦氏が共通に崇拝する神として(加羅に在った時から)
八秦神と言った神が在ったのではないか?とも考えられる。
そして八秦の象徴としての八つ幡が思料され、仏教読みとして
八幡がハチマンと呼ばれる事になったのではないかと考えた。
八幡神の名前の由来には、神功皇后が三韓征伐の際に対馬に
立ち寄り、広幡乃八幡という軍旗八本を立てたので、胎中の
応神天皇を八幡神というのだという伝承がある。
これが、宇佐神宮の祭神を神功皇后と応神天皇とし八幡神の
化身が応神天皇だとする信仰の根拠になっている。
しかし注意しなければならないのは、宇佐の神が最初に大和
中央政権に関与したのは、聖武朝時代の東大寺大仏建立に
まつわる伝承からであるが、その時「宇佐の神は八幡神だと
いい、応神の化身だから、皇室の祖先神である」などという
主張も認識も無かった。東大寺の宇佐神が手向山八幡という
名称になったのは、遥か後世の中世に神仏混淆が進んで八幡
大菩薩の観念が成立してからの事であった。
宇佐の神でもう一つ重要なのは、道鏡に関わる有名な神託事件
だが、この称徳天皇の時代でも、未だ宇佐神は八幡神とは、
(少なくとも中央では)呼ばれていなかった筈なのである。
但し先述の如く八秦の神という呼称は現地ではあったかも知れ
ない。というのも八幡神は朝鮮渡来神との言説もあるからだ。
それが神仏習合後、神功皇后=天照大神の化身=その本地は大日
如来となり、その胎中から生まれた応神天皇が弥勒の化生だと
する認識の中で、八幡神と観念されて行ったのだ。
だから、八幡の幡もしくは旗を以って秦氏の呼称の由来とする
のは誤りで、逆に秦氏のハタから八幡の連想が生じたという方が
真相であろう。
いずれにせよ、大和に帰化した秦氏の太勝(オオスグリ)=君長
が、波多氏を名乗りかつ自分達は秦の王族の末裔と主張した
事から、秦氏=ハタウジと成ったものであろう。
秦全体のの大勝はある時から太秦と呼称されるように成って行く。
☆馬韓は貊族の王が白馬族を支配していたのか?
百済が統一した韓半島中西部の地域の村邑国家群は、馬韓と
呼ばれたのは、私の推理では、辰国崩壊後、白馬族が来住して
複数の村邑を作っていたからなのだろうと考えた。
ところが村邑国家の一つに百残があり、これが他の馬韓諸国を
服属させ併合して百済が成立する。
この百残は白馬族の種ではなく、後の高句麗と同様に貊族の
建てた国であろうと思う。辰国が遼東にある時に、今の吉林省
から北鮮の咸鏡北道方面(つまり白頭山周辺)には貊族の国が
あったと思われ、これが漢以後の中国の遼東方面進出で分裂し
北部の高句麗と、南遷した百残になったのではないかと考える
のである。百残とは“貊族の残族”の意味合いであろう。
だから、中国の史書では、馬韓は王族と庶民は出自が異なる
との示唆があり、また王家は高句麗と同系だと言われて来た
のである。
勿論、辰韓の黄牛族と同住した白馬族もあった事だろう。
こちらの方は、元来月氏系(天山族)同士であるから言語的には
ほぼ均一化していただろう。ところが「史書では馬韓の言語は
辰韓とは少し異なっている」とされているのは、百残つまり
貊残で、貊族優勢の国だったからだと思われる。馬韓の言語は、
高句麗同系の言語に、白馬族などの庶民の言語が混入して出来
ていたのだと考える。
第一、史書によれば、その馬韓には、月支国があり王は馬韓の
有力諸侯の選挙で推戴され、しかもその月支王は辰韓全体を
統治する身分だというわけである。
辰韓や馬韓の村邑国家の中には、南部の弁韓に分国を作る事が
あったと思われる。しかしそこが弁辰とも呼ばれて、辰韓語が
ほぼ通じるというのである。
この弁韓が、後世に加羅諸国と呼ばれる都市国家群となる。
後の百済・加羅連合対新羅の対抗関係を見ると、弁韓の諸国は
“反斯羅の黄牛族”系と月支国(龢族)系及び白馬族系が混在し、
一種の連合体として提携関係にあった様に思える。
以前には秦氏は新羅系だという言われ方がされたが、これは
誤りだと考える。秦氏の中には、辰韓系の白馬族もいただろう
が、厳密には“新羅系”ではないのだ。
もっと言うなら、出雲族も新羅系と言われるが、これも誤りで
辰韓系だが、反(あるいは非)斯羅系なのだと思う。
秦氏は白馬族の農商工民で多様な職能集団であり、当然ながら
百済系の秦氏(厳密には秦部かも)も居たと思われる。
日本列島渡来後の事だが、河内の馬飼部なども広義の秦部だが
明確に百済系だと認識されている。
馬韓辰韓弁韓の三韓のいずれもから渡来したのが秦氏だという
のが正確な言い方であろう。
但しそういう中で、最も中心的な秦氏の渡来元地が、狗邪韓国
=金官加羅だと考えられて来た。
☆金官加羅とは?
これは現在の韓国の金海市に比定されている。
ここが三韓時代の金属精錬の中心地であった。その財力により
一時は加羅諸国の盟主とも言われたが、その役割は次第にその
西北方にあった高霊加羅(大加羅)に変わる。金官加羅は新羅の
統一戦役で比較的早く攻められて弱体化し、これが日本列島へ
の移住圧力となった。この移住はほぼ国を挙げてのものであり
この為、秦氏はそれだけで一国を構成する職種を網羅している
と言われる由縁である。
高霊加羅は秦氏(白馬族)の国邑ではなく和族のそれだったと
考えられる。私説では、月支国の分国が高霊加羅で、そのまた
分国が狗奴国(日之下)であったとした。
☆ 数波に亘る秦氏の渡来
秦氏と後世に総称され、その頭領が太秦と呼ばれるように
なった時代には、太秦の配下として認識された人々は、
秦氏とその部民である秦部であるが、一度や二、三度の渡来に
よって列島へ移住してきたのではない。渡来は数波に亘って
いたであろう。それを箇条書き的に整理してみよう。
1)古来の秦氏(古秦氏)
崇神・垂仁朝までに渡来していたものを仮に“古秦氏”。
①商人として韓半島と北九州や山陰との間の交易に
携わった者 辰砂や姫川翡翠などの交易も。
---------これがいわば先遣隊となった。
②技能職として来訪 石工、鍛冶、玉造、木工など。
③出雲族に随伴もしくは追尾して来日した者
出雲系及び物部氏との親和性が高い-----三輪王朝時代。
山陰・大和〜山城・伊賀・近江・北伊勢・尾張などへ
拡まっていった。
海人族(阿曇系)との親和も=造船系船大工〜宮大工。
員弁系〜稲葉・伊那部系〜信州・甲州(諸大工・服織)。
猪名部〜猪苗・稲部系(先進稲作技術者)
④豊前・宇佐の秦氏(天孫族との協調)(金属精錬)
→仮に“先秦氏”。
2)応神朝以降欽明朝以前に畿内周辺に渡来したもの
→仮に“前秦氏”。
相当な人員が渡来した→河内の治水土木に従事。
東国方面にも移住していく(遠州の秦氏)
葛城氏の南朝鮮出兵後に基幹部族が南大和に=波多氏。
豊前から日向・大隅への移住(隼人の反乱に備えて)。
3)今来の秦氏→仮に“今秦氏”。継体朝(後応神朝)以降。
豊前の秦氏は"秦王国"といわれるほど繁栄。
そこから四国や山陽・播磨などへの移住者。
同時に北大和・南山城の先住秦氏も発展同化。
→太秦という地位(最初は波多氏か?)
寝屋川の太秦は河内時代の頭領か?
推古朝に秦河勝→長谷氏・長谷川氏などの淵源。
太秦の統一的な支配下で全国的に再編される。
河勝の駿河征討で駿河から東遠江に秦氏の集住が促進
された?(駿河の久能氏や、長谷川氏などは
その末裔→後世は武士に成る。)
4)帰化人の秦氏(最後の渡来) →仮に“後秦氏”。
百済滅亡後、金官加羅滅亡時など任那から亡命。
中臣氏=藤原氏との親和性→長岡京・平安京へ。
太宰府とか北信善光寺平へも←甲州の新羅系と俗称
される。 (南部氏の祖など)
5)国内移動の秦系→仮に“秦裔氏”。
惟宗→島津氏・宗氏(九州・対馬)
長宗我部・香宗我部(宗我部氏)?
ただ不思議なのは平安時代には、秦氏は表舞台(政治)からは
離れ、専ら仏教界と商工人の世界に専従していく。
中央では藤原氏とテリトリーの棲み分けが成されたのか?
平安京の建設などは共同事業であった。
政治的には、地方官庁(国司・郡司)の役人にのみ残るだけだ。
(→それが後世は在地武士となって行く!=(5)がその典型例。)
この秦氏の潜在化の理由は、唐帝国の圧倒化を前に、記紀編纂
によって大和民族の発祥を大陸から隔離したので、依然として
大陸との繋がりが意識される秦氏は、単なる亡命帰化人とする
事で、百済系の漢人らと同列化し、歴史の裏に流し込んで行く
意図と、それを承知した秦氏側の同意が得られたからではない
のか?と私は考えている。
☆秦氏系の商工民などの特技職能民
秦氏は、(私説では、西域の交易に長けた于闐の商工民で
あり、月氏の第三身分であるバイシャに属する人民なので)
本邦渡来後も極めて多彩な職種をカバーしていたと思われる。
秦の音ハタそのままの機織、そしてその原材料たる麻の栽培や
絹の元になる養蚕などの衣料生産から、鉱山開発と金属精錬や
その最終加工工程である鍛治に至るまで、衣食住の内、衣と住に
関わるあらゆる職種、治水や土木建築・造船等をも掌握して
いたものと考えられるのだ。
秦氏の根拠地は当初は大和初瀬などだったが、渡来人口が増え
て伊賀・伊勢・山城・近江などの畿内諸国に先ず広がった。
北伊勢の員弁族などは造船業を得意とする支族であり、造船材
を求めて尾張・美濃・三河・南信伊那・伊豆など東国にも伸張
した。武蔵の稲城なども稲葉族の集住した土地であり、武蔵の
国府津である狛江の湊に外洋船を供給したのである。
ここからは府中にある国衙からの租庸調を船に載せて伊勢の津
に運び出した。府中に隣接する調布は秦氏の衣料生産民が集住
しており、これらが現物税として収められたのである。
また吉野熊野や伊勢の丹生即ち水銀産地を見出してこれを開発
そしてこれを製品化して売る商業(水銀商人)などは、専ら秦氏の
中核支族の業だったと言われる。伊勢から山越えして畿内に
売りに来た大商人の話は史書にも登場する。
(この財が、伏見稲荷の建造原資につながるのである。)
特に近江の秦氏は、時には住地が畑と書かれて畑氏ともされた
が、極めて特殊な諸職人が集住した地域を抱えていた。
これには、東大寺の物資加工にも関わった“甲賀山作所”(国営
の調度品製造工場)の存在の影響があると指摘されてきた。
●近江の秦氏系諸職工人の多彩さ
先ず金屋衆と呼ばれた鉱山関係者の存在をマークしておかねば
ならないだろう。この人々は、元は中国山地の鉱山関係の開発
と生産精錬に従事していたが、諸金属原料鉱脈を探しつつ、
近江やその近在にも移住してきた。
次に、黒鍬衆と呼ばれる職種があった。黒鍬の者は、鉱山開発
にも加わったが、その後は土木関係特に河川改修や築堤の技術
に携わった。(戦国時代に黒鍬者は忍びの者とされたのだが、
これは秦氏の支族である伊賀の服部;元来は服織で機織生産の
民、や甲賀の山伏衆と関わりがあったからである。治水技術者
として地方に雇われて行き、その地の情報を収集した。)
但し、黒鍬というには鉄製の鍬であろうが、それを農民でも
持てるようになったのは、相当後だと思わざるを得ない。
すると、古代には黒鍬衆には別の名があったかと考えられる。
更に穴太衆という石工集団の存在がある。当初は、北九州や
中国山地などで山城の築城や、山岳仏教寺院の土台や石垣作り
参詣道(石段)整備に携わった。最終的には近江の坂本に叡山の
別所として根拠地を定める。叡山こそ、秦氏系と言われる最澄
が開創した山寺に他ならない。
そして、以上の三部族は中世後期においては築城や城攻めにも
関わる部族として守護大名らに珍重されることになる。
員弁族からは大工や左官職が派生した。当初は宮大工や寺大工
として、王城建築や寺院建築に従事したが、これも中世になると、
城大工として築城や豪族の築館に関わる事になる。また伊勢神宮
の神戸にも加わる。神楽の発生にも関わると思える。
宮大工から更に派生するのが、木工師や木器師、そして木地師
である。木地師が作る椀や盆などの木食器の季節販売からは、
“アキナイ(商い)”の語が生まれる。
商いとは“秋担い”で、稲の収穫を終えた秋に、それを売っての
小金を得た各地の農民に、木器小間物椀や盆などを売るために
木地師達が製品を担いで出稼ぎに回ったことが語源である。
発端が、近江の木地師であったので、これは近江商人の発生の
由来だとも言われている。
木地師の里である近江の六ヶ畑にには、元は穴太衆に関わると
思われる阿野の姓の者や、高名な木地師である戸波丹後の名に
由来する谷後の姓が残っている。
木地師に多い小椋の姓も元来は近江の地名である。また、湖西
湖東に跨って木地師を営んだ者は、藤原末裔を僭称して斎藤を
名乗るものが多かったが、これは西東の転化だという。
木地師はその後、原料の木地を求めて全国の山地に広がって
行ったのだが、永くその原郷は湖東の山麓であるとして、江戸
時代の人別でも、近江の寺院の檀家として登録されていた。
●稲荷と狐
稲荷神社は、伏見に集住した秦氏の一族が祀った渡来神だと
言われ、また円仁が持ち帰った荼枳尼天とも習合している。
稲荷神の神使(眷属?)が狐だとされるのは、何故か?
荼枳尼天が狐の形を取るからだという説もあった。
しかし、秦氏は元来白馬族の筈なので、白馬や白鳥などを
トーテムとするのだが、これらと狐の関係を今一不思議に
思っていた。
一応、白を神聖色とするので、狐もまた白狐とされる。
荼枳尼天の別号を白晨狐王菩薩といい、狐の化身だという説が
真言密教で唱えられて来てもいる。
私は、因幡の白兎を考察する際に、因幡の白兎族とは、秦氏の
一部族とされた員弁(イナベ)族ではないか?と考えて、
次なる推理を展開した。
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秦氏は私説では小月氏の白馬族に由来する部族だとして来た。
小月氏は羌族に寄留しており、白馬羌と呼ばれる。
しかし、白馬族の中には、もっと東に移住して氐族に寄留
した部族もあり、これを白馬氐と呼ぶ。
この白馬氐族は、後世に白馬蔵族(ベイマ・チベット族)と
呼ばれて、チベット族の一部族視された事があったが、今では
氐族に寄留した白馬族だという事が次第に明らかになって来ている。
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という事同様に、白狐を下位トーテムにする白馬族(秦氏)が
あっても不思議ではないと思えるようになった。
白馬族は、私の見解では、月氏の第三階層(バイシャ)に根拠
する部族だが、それは独自の君長(勝や太秦)を戴くだけでなく
龢(和)族(第一階層マギバラモン)=天孫族や、第二階層の
黄牛族(クシャトリヤ)=出雲族に従属した集団があったと思う
ので、我が国に渡来するのにも、三つ以上の系統があったと
考えられるのである。
初期に渡来したのは出雲族に伴って来た白馬族で、これが
員弁族であったろうと推理する。黄牛族が、素戔嗚や五十猛
に率いられて先ず山陰に渡来した時に、伯耆や因幡に植民した
のは、白馬族のイナベ部族で、黄牛族が畿内に出て大倭連合
の
盟主となった(三輪王朝)時は、北伊勢の員弁地方に移住して
いる。このイナベは稲作農民でありながら、工人として木工
を得意とする集団であり、宮大工として王族の宮居や、高倉
などの建築を手掛けた。また舟大工でもあり、海人族とも
交流した。この頃ほぼ同時に渡来したのが、石工集団で、
穴門から瀬戸内沿岸に山城の土台を築いた。これが後世の
穴太衆になる。また鏡岩を磨いて古代灯台を設け海人の航行
の便を助けたのも、穴太衆の祖先であった。
一方で、少し遅れて、渡来したのは宇佐族で、これは先住の
海人族と協調して、豊の秦王国を形成する。
この宇佐族は、渡来の三番手だった和族の九州王朝と提携して
和王国の王族に王妃を提供する存在になった。但し、その王妃
になる資格を有したのは、白馬族の中の君長の中で、バラモン
階層に属した姫巫女である。
宇佐族にも舟大工集団があった筈で、これは和族が(神功皇后
&武内宿禰 with 誉田別=応神)によって、三輪王朝を打倒して
河内王朝を樹立する征服戦の水軍に軍船を仕立てたであろう。
日本海側を東進したのは、和邇氏の水軍で、南海ルートを
行ったのは多氏の水軍(肥前鹿島の有明水軍と大分の海部水軍
との二つ)である。
瀬戸内を神功皇后を載せて進んだのは、宇佐と伊予阿曇の
水軍であったと考えられる。
そして、河内王朝以降に、弓月君に率いられて、再び多数の
白馬族が渡来した。これが、三輪王家の駆逐された後の初瀬
の周辺に集住したいわゆる秦氏の中心集団となる。
この一部族が山城盆地に進出して伏見稲荷を営んだ集団に
なる。それが白狐族であったのか?
(当初は、武内宿禰の子孫である葛城氏の保護下で南大和に
いた波多臣がその大勝ではなかったろうか。)
更に、百済の滅亡とともに、百済王家と共に渡来した白馬族も
あったと思われ、これが秦氏に合流して行ったかは、定かでは
ない。しかし先住の秦氏種族と親和して、次第に一体化して
行ったのではないだろうか。馬飼部などがこれであろう。
白馬族は、月氏のバイシャ階層であり、農民・牧民・工人
(諸職人)・商人という幅広い職種をカバーしていた。しかも
渡来人の中では最多の人口を持っていた。古代の日本在住の
民衆人口の5%にもなるという研究者もあるのだ。
☆ 秦氏の身分関係について
秦氏の内部階層 勝と長(訳語)
秦氏の(後の大庄屋級の)首長を勝(スグリ)と呼んだ。
一般的な渡来人達の同等の村長を村主(スグリ)と
呼んだのに匹敵する身分(階位)だからであろうか?
その下でスグリを助ける役目を日佐と書いてオサと
言ったのである。各地の戸籍に秦日佐◯◯などという
名が、秦勝◯◯と並んで掲載されている。
日佐は補佐する者の意味で、長語と書いてオサべと
いうのは、訳部即ち通訳であるが、これも通訳として
交渉を補佐するのでオサと言ったのである。
そしてこのスグリを統括していたのがマサ(満佐、将
或いは正、また勝とも書く)で、その最上位がウズマサ
(烏頭勝?珍真佐、大勝、大将)である。
大陸の遊牧民族や騎馬民族では、常に周囲の夷人との
戦いに備えなければならないので、戦闘序列は生活の
必須な要素であったはずだ。
このような身分関係は三韓時代の各都市国家にもあり
百済や弁韓の一部には佐智という大官名があったよう
である。
これは、馬韓や辰韓で叱智と呼ばれた王侯に相当する
官位名であろうか?
そして最高位の王はコキシと訓じられている。
コキシとは、新羅で王を指す尼師今(ニシクン)と同じ
だが、三韓の別の国では干岐叱智と言ったがこの干は
今(クン、君)と同様、東アジアで遊牧民族の王の呼称
である。尼師と岐叱智は同じ様な意味であろう。
叱智とはそも日本語の帥・率と同じで率知即ち統括し
知ろす(統治する)者である。尼師は元は尼師智だった
のが、干を下に置いた為に尼師智・干と同義重複に
なるので尼師干と縮めたのだと考えられる。
そしてコキシとは干岐叱智の智が略されて訛ったもの
干岐叱ではないかと考えられる。
弁辰の大官である佐智はその上に役柄や出自などを
付けて馬佐智とか◯佐智とか言ったのではないかと
想像している。満佐とは馬佐智が略された呼称では
なかろうか?つまり馬佐である。
大政小政ではないが、軍隊の階級の大佐・少佐にも
通じる。
そして、宇佐というのは(宇の字が、藤原宇合の様に
馬を意味するので)馬佐の事では無いだろうか?
一方、出雲族の祖は須佐男と呼ばれる。須佐の男(神)
の意味である。須佐とは何か?
長門国の最北端に阿武郡という地域があり、そこに
須佐という地名が残っている。須佐男は先ず、後の
新羅になった辰韓か或いは弁辰(加羅)の辺りから、
この地の須佐湾に上陸し、素戔嗚自体はその東の
出雲国(後世の呼称であり、当時は斐伊の国の肥の河
流域に)移動し、そこで八岐の大蛇と戦うことになった
のであろう。一方須佐から西の穴門(防長)は、一緒に
渡来した(素戔嗚の息子とされる)五十猛が征服したと
考えられる。
この五十猛の子孫がイトデで、後世仲哀天皇に下関の
彦島で帰順したという話が日本書紀に残る。
またイトデは北九州の糸島にあったという伊都国の
王と同系で、そのルーツは辰韓の伊西国だという説も
ある。伊西国はしばしば倭国と組んで、その頃台頭し
て来た斯羅国(後の新羅)に攻め込んでいる。
伊西国は新羅の朝鮮統一の過程で滅亡し、弁辰の分国
(恐らく安羅あたり)を経由した後、ほとんどが倭王の
支配下に帰化したと想像される。従って伊西国は倭国
と同祖の国かと思われるのである。
(伊西国からの渡来人が集住したのが伊勢国ではないか
という説を唱える人もいる。伊勢は我が国の祖神で
ある天照を祀る国だが、その天照と同じ太陽神を
祀った人々が、伊西国からの渡来人だと言うのだ。)
それはともかく地名にもなった須佐とは何か?
これは元は首佐ではないかと考えられる。素戔嗚の
別名は牛頭天王であるが、これは牛首天王とも表記
される。つまり、牛首佐が須佐である。本来的には
牛佐なのだろうが、牛頭を旗印にしていたと想像され
る為に首佐となった。
この首佐は、だから馬をトーテムとする宇佐と対照に
なるものなのだ。
そして、加羅に於いて、宇佐や須佐の上位にある王が
オオキミ(大君、大干)である。
当部の頭で、秦氏で長を日佐といい、長と同じくオサ
と呼称した事に言及した。
しかし、この日佐はまた大君を補佐する役の意味合いも
あったのではなかろうか?とも思える。
我が古代においては大君が日子である、日の代り身だ
という意識のある事に由来するのではないか?
だから日の君がオオキミという観念になる。太陽神の
化身がオオキミで、このオオとは、後世大と表示され
たのだが、オオシマ(仰ク島)と同様に、東海上に昇る
日輪の如く仰ぐ君というニュアンスも感じられる。
秦氏の日佐は専ら和族のバラモンとの通訳を務めたのでは
なかったろうか、と考えるのだ。
☆ 宇佐と太秦、秦河勝
このテーマはそれだけで膨大な論説となる。
既に大和岩雄氏など先学の著述も充実している。
私などがとやかく付け加えるほどの内容も今はない。
但し、秦氏の頭領の称号である太秦については、
今は畿内の秦氏の棟梁(大将)についてだけ論じられる
事が多い。一般的には、ウズマサのウズは珍で、
秦氏についてだけでなく珍皇子と書いて、大事な皇子
を意味するというので、和族にも共通の“尊い”形容の
概念だと言われている。
無論、秦氏の頭領が、大王の前に財宝をうず高く積み
あげて、献上したので、ウズの将でウズマサなどと
いう俗解は伝説上のものでしかない。
しかし、宇佐の秦氏が祭祀する聖山が宇豆嶺というらしく、
この宇豆はやはり尊いという意味合いなのか?これは
よくよく検証を要すると考えている。
マサの方は、既に先学の研究で、満佐・勝マサリという
秦氏の首の呼称である事が周知となっている。
他の氏族で村主(秀リ)というのに相当する。
勝もスグリと読まれた。これは先述した通り。
また、公式には最後の太秦だったらしい秦河勝は、その名の
通り河川土木の棟梁でもあり、また物部守屋を滅ぼした厩戸・
蘇我連合軍の将でもあり、広隆寺や四天王寺を事実上建設した
人であり、後年富士川流域の新興宗教団大生部多を討伐して、
駿河の国の民政を立て直した軍政官でもあった。
さらに彼は、中世の武士団である長谷川党の祖であり、また
伊賀の服部などの特殊戦闘団の祖でもあり、またそこから派生
した猿楽師である観世座の遠祖でもあるとされる多彩な人物で
ある。その彼が何故、晩年播磨に事実上配流になったのか?
これもこれだけで、相当な研究課題になろう。
今は、これは小論の目的から外れるので、別の機会の論述と
する。