第18章 日下(久我、陸)国が狗奴国
第18章 日下(久我、陸)国が狗奴国
●古事記の九州各地方の異名 建日別など
☆古事記の国生みでの九州
著名な、伊奘諾伊奘冉両大神による国生み神話では、後世の九州島(筑紫島)について、その身は一つだが四面があるとして擬人化(擬神化)して次のように述べている。
次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。
故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。
肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。
(次に筑紫島つくしのしまを生んだ。この島もまた、
身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。
すなわち、
筑紫国つくしのくにを白日別しらひわけといい、
豊国とよのくにを豊日別とよひわけといい、
肥国ひのくにを
建日向日豊久士比泥別たけひむかひとよくじひねわけ
といい、
熊曾国くまそのくにを建日別たけひわけという)
この四面については、古来様々な解釈や見解表明がなされて来た。
そして誰しもが不可解と考えたのが肥国の産土神名である
「建日向日豊久士比泥別」だけが、他の三つと比較して異質に見える事である。
白日別・豊日別と来て最後に建日別が来るのだから、三番目も久士比泥別とか久士日別などであれば自然だが、ここだけが破綻の感があるからだ。
古事記自体が、これを肥国としているので、それは一応信じるとすれば、このクシヒネとは一体何の意味なのか?が難解でもあるからだ。またその上に付けられている“建日向日豊”も如何なる意味なのか?
古来の通説ではクシヒとは久志魂(奇霊)の事であろうとしてクシヒネワケとは奇霊泥別であろうとするものだ。この際に泥は上古の神名にある“御真津日子訶恵志泥”(孝昭天皇の和風諡号、古事記での表記)と同じで、耳や見とか恵や禰の様に神名の末尾につく尊号の一種であろうという。
そしてもう一つの通説には、クシヒは奇火の事であるとするもので、肥国は元来は火の国であり、肥後の阿蘇、肥前の雲仙の両巨大火山がある国なので、奇火の国であるとするものだ。
だが、この奇火にはもう一つ異説があって、有明海に南接する不知火海の神秘の火が見える国だから奇火だというものだ。
このどちらかでもクシヒネワケとは“奇火泥別”だという意味になる。
更にこのクシヒネには別の異説(別説)がある。天孫降臨の聖山は、“高千穂のクシフルミネ”と称されるが、クシヒネはこのクシフルミネに何らかの関わりがあるのではないかという類推が出来るというものである。しかしこの指摘はあるものの、実はそこを詳しく考究した者がいない様で、この意見は異説扱いで、先述のクシヒ説が一応通説となっている。
さてクシヒ(奇霊もしくは奇火)別なら、他の三つ;白日別・豊日別・建日別と一見整合するようにはなる。
だがそれであるとしても、では何故、他の三つが単なる別の名で、クシヒ別だけが、泥別と尊称が付いているのか?(謎①)
またその前に他三つの別の名と異質な「建日向日豊」の美称?らしき修飾が付いているのか?という謎が残る。(謎②)
そもこの建日向日豊はどう分解できる語かも多くの論説が存在する。また最後の豊はクシヒの方に付き“豊久士比泥”であるとの意見もあるのだ。
そして“建日向日豊”を建日向と日豊と二語に分解して解釈する人も多い。
筑紫島に神武の出自がある筈だと考える人達は、日向別があるべきだと考えて、この建日向がそれであり、そして日豊は恰も今のJR日豊線的な考え方に紛うが如く、日豊とは豊後の事だと考えるのである。(もう少し冷静にいうなら、豊の国と日向の国との間の国原を日豊と呼ぶのだ、という解釈をするのである。)
それで話を通せば、建日向(日向)+ 日豊(豊後)+奇火(肥国)の筑紫島中央部を横断的に領有する泥別、という事になってくる。
しかし、日向が豊から分離した国であるのは通説だから、これは“何とか日向の存在を出来る限り古く見せたい欲求”のなせる無理筋の主張だとしか思えない。
そして、別の説では、建日・向日・豊クシヒと分解して、
A説は建日・向日・豊は奇火禰に係る美称だと考えるものだ。例えば、上古の神名には正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命と長い修飾句(美称)が上に付く。この伝だとするのである。
B説は、向日は白日の書写間違いとし、建日・白日・豊(日)と他の三つの別があり、それに奇火(肥国)を加えて、そこ肥国が全九州の支配者たる地域だと考えるものだ。この場合、言い方を変えるなら、奇火(肥国)の潜在的な宗主権の存する“版図”を表しているとも考えられる。
この言い方は、倭の五王時代に、倭王武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称した、と南朝の宋書に記されているが、この称号に近い観念である。
私もこの説に近い。もっとも、向日が白日の書写間違いではなく、元来筑前は向日であったが、日向を南九州に置いて、そこを天孫族の故地に見せかける作為を施した為に、筑前が向日では不都合なので敢えて白日に変名した!と考えるのである。伊都国にあったという日向峠の周辺が本来の日向ではなかったのか?これを主張する人は昨今多い。
また伊都国と肥前の間にある白石岳に鏡石が置かれて、それが玄海を行く船の古代灯台になっていたのではないか?と想像している。するとこの鏡石は、白石岳の北側にあったのなら、反射する光が玄海灘に届くのは日昇時(向日)か日没時(入日)しか考えられない。で、日没時は古代船は航行しないので、鏡石が示すのは向日であり、従って筑前は向日の国といっても不思議ではないからだ。勿論白石岳の山頂に、南天に並行に鏡石を設置すれば、南中の太陽を山の南西方向に送る事も考えられなくはない。但し、南側には天山をはじめとした山地が広がるので、反射光を南側に送ったとして、何処でそれを受けるのだろうか?(現地探査をしていないので分からないのだが、或いは武雄側の何処かに送っていたとは全く有り得ぬ事ではない。ただこの可能性は、保留しておきたい。)
そして私は建日・向日・豊(日)串布留で、他の3両域を串刺し支配する主地、それが肥国(日の国、日之下国)だという意味がそこに盛られているのではないか?と、一時は考えたのだ。
というのも、天山の山名も気になるし、もしそれが古代以来の山名なら、肥前は天の下にもなるからだ。
(但し、今はやはりクシフルとクシヒネでは余りにも違いすぎるので、久士比泥はやはり“奇し日根”だろうという解釈に変えた。
日根は日子根子という大王の諡号にも使われる姓《株根》的な物であり、建日・向日・豊(日)・奇日根別と全九州を統合する称号だと考える様になった。クシフルのクシは同じく“奇し”だろうがフルは、第18章で陳述するように、襲添ソフルだと解する事になったからである。)
私説では、肥前から遠賀川方面まで拡がっていた日下kaga 国(古賀国、久我国)が魏志に言う狗奴国だとする。
狗奴国の王孫である誉田別(応神)が東征して、大倭を経略して統一国家大和が出来たというものだ。
この狗奴国=日下国は大陸から渡来した和族が建てた国であり、大宝年間に国号を日下→日の本=日本に改めたと考えているのである。
そして、天孫族とは天山族の転訛ではないかとも考えるのだ。
いずれにせよ、稗田阿礼や太安万侶にとって肥前は、(日向を天孫族の故地に見せかけようとしながら)どうしても無視はできない特別な所だったのだろう。
多氏は肥前鹿島や大野郷(後に太宰府が置かれた)など肥前とその近辺にゆかりが深い。また春日氏もであるが両氏は同族だとされる。
ともに元は海人族系と言われるが、阿曇氏とは一線を画す。
和邇氏(春日氏)も大野氏も姓は臣だが、阿曇はずっと連であり続けた。恐らくは和邇と多は海人とはいっても綿津見であり、天孫族の韓半島からの渡海に水軍として参画した臣なのだ。
春日氏や多氏は、いわゆる伴造として海部を統括していたのだろうが、その歴史的な起源は、天山族(天孫族)がはるかタリム盆地にいた頃にあると私は考えている。
完新世の間氷期温暖化の時期(日本列島はいわゆる縄文海進の時代であるが)タリム盆地は、北側の天山山脈と南側崑崙山脈などの雪解けで、多くのまたかなり大きな湖沼が形成されていた。そこでは後世の員弁族による造舟と漁人部による漁労が相当に大規模に行われていたと考えられる。
それが間氷期の終了で北方からの民族進出が世界規模で開始され、中央アジア〜東アジアでは匈奴の伸張を促した。その結果、タリム盆地の民族即ち中国でいう月氏は東西へ逃亡をせざるを得なくなる。
西進したのは大月氏国を形成し、東進した小月氏は青海高原から甘粛省方面で氐姜に混住した民である。しかし私の思う処、河西地域に逃れた湖沼河川の漁労民には、黄河に舟を浮かべて、遙か内蒙古方面へ移住した者達も居たのではないかと思われる。そして、氐姜が秦の圧政時代や秦末漢初時代の動乱に巻き込まれた時、そこへ混在していたかに見える天山族の一部は、黄河中流域の内蒙古から遼寧省方面、つまり遼の地へ再度の逃亡移住をし、そこで先住していた漁労民と再会したのではないかと想像するのだ。
もう一つの可能性は、先にその黄河を舟で東進した集団の中に既に天山族の王家つまり和族が含まれていたとすれば、そのまま一つの国家人民の核が移住したとも考えられる。後世の民族移動期のノルマン族とかノボゴロド族などにもそういう事象が起こったと考えられているからだ。
黄河を下ってくると、内蒙古の托克托(トクト)河口鎮の辺りで、黄河は急に南流する。これを南下すると中原に至るので、(漢人居住域の中心を避ける為に)西から来た集団は舟を降り、更に東を目指したのだろうか。
この集団が建てたと仮想されるのが辰ではなかったか?と考えたのである。
辰は謎の仮想国家とされ、本当に存在したのか?さえ疑われている。しかし彼らの末裔が建てたのが辰韓だとされている。
私は、通説に従い、「辰韓は馬韓の支配者が保護して東韓の地を分与した、馬韓から見て東側つまり辰の方であるので辰韓」だ、と理解してきた。
しかしもし遼の地に曲がりなりにも辰国があったとするなら、それは中国の地から見ての辰の方角である事から来るのかも知れないのだ。
月氏の逃散の際に東進した小月氏族は、太陽崇拝の強い民でそれが日昇の方向つまり東にニライカナイ常世国があるのだと信じて、日之下を目指す志向があったのだと思うのだ。
小月氏の東進には羊皮筏が使われたが、この操船は和邇氏や多氏の祖先が担ったのではなかろうか。(私は、彼らはかつてアクサイチンにいた頃、そこの氷河湖や河川での漁民も統括していたのではないかと考えている。また月氏の魚食も三韓以前からの食習慣だったとも考えている。)
和邇氏や多氏はこの辰国以前来の和族の臣ではなかったろうか。
やがて辰韓が出来、また弁辰へと天山族が南下すると、かつての操船族たる本領を発揮して、海人族の阿曇と交わりながら、綿津見族を成していったのではないか?と想像するのだ。
和族の水軍が多氏の率いる水軍だったとされる由縁は相当に深い根拠があったと思うのである。
多氏の水軍の東部最前線が、霞ヶ浦地域の鹿島であり、そこはやがて日立=常陸と呼ばれたというのにも、潜在心理的な背景が感じられるのである。
私は以前より、常陸が何故ヒタチと読まれるのか?を不思議に思って来た。
しかし“日立つ常しえの日下(久我)=陸”と解せば、これはよく理解できる。日下=久我(古賀や古河など)とは、和族の斎日壇の事なのだが、日昇の地を東に求めて行き着いた所(豊葦原瑞穂国の東端)こそがヒタチの国である。其処は永遠の(常しえの)斎日の地(正しく海原に向かう陸=クガ)であり、常陸なのだ。
「日立つ常陸TokoKuga のヒタチ」なのである。
そこで、日下=久我、古賀=陸の由来について考究してみる。
●中〜北九州各地の古賀地名
☆久我(古賀)の地名と「日本」の国号
私は、以前北九州の水巻町にある水巻宮(保食宮)こそが、誉田別(応神天皇)の生育の故地であろう事を述べた事がある。
その際に、水巻三山の存在とその三山に囲まれた高地が久我(古賀)と呼ばれていた事、そしてこの久我とは「陸」とも書かれる事に触れた。
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このコガとか、クガとかいう言葉は何なのだろう。(中略)
空閑地という言葉がある。使っていない土地、空き地のことだ。この空閑地を指す言葉が「クガ」や「コガ」だと言われている。しかし、空き地といってもただの空き地とは少々ニュアンスが異なり、「開拓されていない土地(荒地)」や「これから開拓される土地(荒地)」をコガ/クガといったようだ。
また、海に対して陸地のことを「クガ」といったことから、小高い土地を「クガ」「コガ」というようになったという説もある。
https://ch.nicovideo.jp/ky2g/blomaga/ar183824
この方は、日本の地名を考究している方で、кёку (きょーく)のハンドルネームでブログを多数書いている。
東京の久ヶ原などという地名も同様だろうか。空閑と書いてクガさんという苗字もあるから、クガもこの延長上の概念だろうというのが、このкёкуさんの見解である。
私にも、対案は思いつかないので、一応この
>> 小高い土地を「クガ」「コガ」というようになった
という説を、取り敢えず採っておこう。
ただし、空虚な土地ではなく、むしろ私は神祭の地として、結界された小高い土地(区界)というものではないか?と漠然とした観念を持ってはいるのだが。
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とその頃は考えていた。
その後も、ずっとこのクガもしくはコガというのは何だろうかというマターを考え続けて来たのである。
久我(古賀)が陸だとしたら、それは「天海陸」という世界の成り立ちに関わる語彙でもある。
この内、天と海とは共に古語でアマと呼ばれるが、本来的には天はアメで、海はワタだったが、水平線上で天と海の境は一緒になってしまうからか?共にアマと呼ばれるようになったのであろう。
そして明瞭に天でもなければ海でもない地面がある所の総称が陸である。そしてその陸とは“天の下”にある地面で、海面では無い。
こうした考究を続けた結果、我が国号の「日本」の由来に行き着く事になった。
つまり、日本(ニッポン)とは上代語ではニチポンであるが、これは漢字の音読みで、訓ではヒノモトである。
ヒノモトとは無論“日之下”の意味である。
古来、邦人は誰しも日本=ヒノモトという意味である事の知識を持っていた。黒田節に「ヒノモト一のこの槍を呑みとる程に---------」とあるが、このヒノモトとは我が国の事だとは誰もが理解していたのである。
で日之下は、之の助詞を省いて“日下”とも書かれる。
奈良時代もしくはその前の上代にこれはクサカと読まれる様になったのだが、これは生駒西麓の草香の地が、上代まで残っていた河内湖の入江=草香江で、河内湖から見ると生駒山からの日昇の真下(日下)にあるのが草香なので、枕詞「日下の草香」となり日下をクサカと読む様になったというのが通説である。
しかし日下は天の下(天下)と同意なので、天の下が陸(クガ)であれば日下もクガではないか?という着想に至った。
その上で、日下をカカ→カガと読んだ時代が上古にあったのではないか?と考える様になったのである。
今では日の字の読みには、晦日(三十日)とか十日とかいう日数を算える時の助数詞にしかカが残っていないが、上古には日をカと読んだ時代があったと国語学者は言っている。カの複数形である日々を表すケが万葉集にも残っているそうだ。カカが訛ってケになったのだと。
日下kaka→ kaga →kuga,koga という母音転訛で、久我や陸・古賀とか古閑・空閑などの語彙が生じたのではないか?
そして、この久我や古賀とは単に天海に対する陸地というのではなく、結界された区画であり、太陽神の祭祀を行う斎日壇であろうと言うのが、私の辿り着いた推理の結果である。
日神崇拝の民である天孫族(私の言う「和族」)は、その移住地の各地に「日下」の斎日壇を設けた。後世の氏神社の様なものである。北九州から中九州の各地に頻繁と残るコガの地名はこの斎日壇「日下」を祀る集落の存在を残す地名である。
そして、その周辺の倭人達は、この「日下(カガ)」を祀る部族を「日下族」と言い、和人自らはヒノモト族と称した。
つまり、伊都国や奴国と同様に、この斎日族の国が日下国なのである。
日下国は、出雲族の主導したヤマト大倭(ヤマト-オオヰ)の連合王国には参加しなかった。Yamato-Ohwi これが即ち邪馬臺である。そして邪馬臺国に加わらなかった国があると魏志に明確に書かれているのは狗奴国である。
この狗奴kuna とは日下kuga の漢訳であり、中国には鼻濁音が存在しないので、伊都国に来た魏使はkuga は狗奴と音訳したのである。(モンゴルも漢訳すると蒙古になってしまう。)
そして、この狗奴国=日下国・ヒノモト国が東征して応神朝を建てたのである。東征後の河内王朝が斎日壇即ち日下を設置したのが河内湖の東岸の草香江だった。その結果、日下は草香とも読まれるようになったと。(私説では応神の父は仲哀天皇ではなくその父と記紀にある日本武命、本来は日下武ヒノモトタケル:実は大臣武内宿禰と同人物。)
だから、我が国(和族の建てた河内王朝以降)は、その初めからヒノモト国であり、大宝時代にこれを日下から日本に書き換えて、倭からの改名を唐に申告したのである。
遣唐使の申告について唐側はこれを疑い、唐書は倭国と日本国はもしかすると別の国だとして、倭国伝と日本伝の二つが併置される事になった。
和族がヤマトを首邑とする大倭を征略した後も、対外的には大倭の国号を使い続けた為に、中国側には事情が掴めなかったのだ。そこで、倭→日本というのは、①倭が卑字と思い込んだ倭人(矮小などの連想が働く→矮人)が、より雅な(?)国号に変更したのだ、という解釈と、②元々は日本と倭は別物で、小国だった日本が倭を乗っ取ったのだ、という解釈が併存する事を旧唐書が記している。
その後、中国側でも日本側でも①の解釈が通説となったのであるが、実際は②の日下国(狗奴国)が、ヤマト大倭(邪馬臺)国を制圧して河内王朝を開始したのである。だから和族の目で見るなら、ハナから我が国はヒノモト国であり、大倭を征服してその版図を拡げたものなのである。
(但し、和族にも、大倭人とは別人種の民族だとの認識は無く、血族的には、大倭人も和族とルーツを同じくする民族同士だとの認識があったに違いない。だから大倭を乗っ取った後にも、対外的には大倭の名乗りを続けていたのだろう。但し、大倭の首邑がヤマトに置かれた三輪王朝時代には、大倭もヤマトと呼称されたのだが、和族の制圧後はヤマトは大和と書き換えられたのである。そして大和は日本の別号ともなって行く。)
と、以上により、私なりに日本古代の国家成立に関わる見解を得られた積りだが、応神の九州王朝(日下国)が打倒したヤマトの三輪王朝(邪馬臺国の発展した大倭)は、出雲族(須佐族、牛族=小月氏の黄牛族)が建てた国だとしても、その出雲族はヤマトに入る前に何処から来たのか?
通説の様に、辰韓→山陰→畿内?ヤマトという経路であったのか? 最近よく唱えられているように九州の伊都国(出雲族の分国)が東遷したものなのか?異説として挙げられている越にあった出雲族と海人族の共同王国から尾張や丹後あたりを経てヤマト入りしたのか?
つまりそれこそ邪馬臺国中核の起源であるが、これについては、未だ私説を構えるには至っていない。しかしこちらの方はいずれ考古学的な遺物によって解明されるだろうと思える。
しかし、日下国→日本国という流れは、記紀が敢えて架空の神武日向起源論を創作して、天孫族の由来を意図的に隠蔽してきた以上、想像力をもって真実を復元するしか手がないように思えるのである。そして中世においては、修験道や仏教までもが記紀の神話の根拠地を捏造するに熱心だったったのだから。
☆北・中九州地域の日下(日峩)
《佐賀の久我とは》
(肥前武雄近く多久の久我が左古賀つまり佐賀であろう)
私は、佐賀の地名は、そこにあった和族の斎日壇である日下(Kaga)の存在に由来するのではないか?との仮説を立てた。
はるか上古の九州王朝に於いて、主要な日下が左右中と三つあった筈だと想定したのだ。
勿論、斎日族である和族は、ある程度大きな集落や、令制時代の郡(評ko-ori ←kogari 日下里か?)程度の広域に必ず共同の祭祀施設としての斎日壇=日下(久我、古賀)があっただろう、と推理してきた。
それらの広域の更なる統合の祭祀施設は、令制以前の国造が主宰した日下であり、肥前・筑前・筑後(?)に左中右に相当する物三つがあったのではないかと考えているのだ。
(令制の国司が置かれた時代の、国の総社というような位置の日下があったと考えたのである。)
その内、右日下に相当するのは何処にあったのか?は未だに究明出来ていないが、左・中は佐賀と那珂川にあったと推理をしている。
で、先ず左日下であるが、当初は正しく佐賀市其の物ではないだろうか?と考えてみた。
その中でも直ぐに着目されるのが、佐賀大和にあったという肥前国庁跡の地であろう。人によっては、ここに大和という地名が残るのは、「大和族がここから畿内のヤマトに進出したからだ!」という。だがこれは全くの曲解で、令制時代の国衙があったので、そこはヤマトの出先だという意味合いなのだ。
戦前琉球では、国の出先機関例えば県庁などをヤマトと呼んでいた。これと同じであろう。
肥前国庁跡は他の国衙と比較してもかなり敷地が広いので、その敷地の一部に斎日壇である日下があったとしてもあり得ぬ事ではない。しかし、だとするとその地に何かそういう形跡とか地名とか寺社とかがあっても良さそうだが、そういう物は目下まるで見当たらない。
では、他の佐賀市内に日下=久我や古賀を遺す地名がないか?と考えて探すと、市の東南部(嘉瀬川右岸で、大川市の対岸に当たる地域)に「西古賀」の地名が残るのに気付く。しかしここは海抜が低く、明らかに有明海の干拓地であり、上古にあっては(縄文海進の余波で)海の中であったろう。
だから「古賀の中には古河、即ち古い川の流れていた痕跡地がある」と主張する地名学者がいるが、この場合は正しくそれであろう。
その証拠には、西古賀はあっても東古賀の地名が無いのだ。恐らく嘉瀬川の古い川筋であったのだろう。
そこで佐賀の近接地で古賀(久我、日下)に相応しい所を探してみた。するとあった!
唐津線の東多久駅南方に「古賀山」という名の、山というより土壇台地としか思えない高地がある。
しかもそこは、肥前と筑前の国境にある天山という山の真南(子午線上)に当たり、真東(東西線上)にその名も鏡山という山がある。鏡山というのは、古代灯台であり、鏡石があった山であろう。或いは、天山の更に北に白石山という名の山があるので、そこの鏡岩の受けた反射光を鏡山の磐座が受けて、冬至の日昇を先取りした微光(春日)を薄明の空に耀かせたのかも知れないと思えて来る。
即ち、ヤマトの藤原京での天香久山の役割が鏡山ではないか?
もしここ多久の古賀が、肥前の久我(日下)だとすると、この領域は、上古に武内宿禰の支配する地域だったと考えられるので興味が深い。宿禰の先祖は書紀で彦太忍信命(古事記は比古布都押之信命)が祖父とあり、父が屋主忍男武雄心命となっている。(古事記は比古布都押之信命を父としている。)
この二つの名は近似しているので恐らく同一人の異名だろうと思われる。しかもこの一族は孝元天皇の子孫とされている。
私説では、この比古布都押之信命とは、別名が大帯日子忍代別であり、即ち後の世に景行天皇と漢風諡号が贈られた大王であり、その子の武内宿禰とは記紀の英雄であるヤマトタケルに他ならない!と考えるのである。そして忍代別とは、この多久の古賀の東に隣接した小城に因む名であろう。今はオギと読むが、元来はオシロだったと考える。
だからヤマトタケルは日本武命というのだが、本来は日下武命だったのではないだろうか?この場合、日下は音読みでのカガではなく、訓読みでヒノモトタケルと言ったのが原名であるというのが私の推理である。
武内宿禰は神功皇后の妹であるという豊媛(淀姫とも)を武雄で娶ったという伝承がある。これは神功皇后=息長帯日媛の三韓?征伐に同行していた時の事だとされる。これは、豊媛とは実は息長帯日媛と同一人であって、武内宿禰実はヤマトタケルこそ、誉田別(応神天皇)の実父であろうと思う。
というのは、誉田別の名の由来地の保牟田のある北九州にある水巻宮では、ヤマトタケルが都から来たという砧媛と暮らしていて、複数の子を成したという伝承があるのだ。
水巻宮は遠賀川の右岸にあり、下ると直ぐに東に通じる江川があって、その江川が洞海湾に抜けた所こそ岡田宮伝承地で、そこに近接した陣原は神功皇后の東征軍の集結出発地なのだ。
砧媛もまた息長帯日媛の異名(変名?)だろう。もしくは本当に砧媛と豊媛が姉妹なら、ヤマトタケルが姉妹ともに嫁妃にしていたのかも知れない。古代の王家にはよく在った風習である。
水巻には水巻三山の名のある三つの山に囲まれた所に古賀の名が残り、久我神社もある。後世、筑前街道の古賀宿の地だ。
武内宿禰は孝元天皇の子孫であるとされるが、ヤマトタケルもその父景行天皇も、当然ながら“孝元”天皇の子孫である。私はその孝元は意図的にすりかえられた(皇統譜ではニ代前の)孝安天皇だと考えている。そして九州王朝の始祖は孝安の父君である孝昭天皇だと考える。皇統譜は、孝昭→孝安→孝霊→孝元→開化→崇神→垂仁→景行→成務→仲哀→応神となっているが、これは三輪王朝の孝霊→孝元→開化→崇神→垂仁の系譜に、孝昭→孝安→景行→(成務)/(ヤマトタケル)→(仲哀)→応神という九州王朝の系譜が継ぎ足された為に、ヤマトタケルと孝安の世代が隔絶し過ぎる形になったため、皇統譜で五代前の孝元の子孫という体裁にしたという作為を見るのである。
但しある事情があって、息長帯日媛の夫は実在しない仲哀天皇とされたのである。仲哀天皇の和名は帯日中彦だが、それは一応、景行= 大帯日子忍代別の孫であるに相応しい名である。ヤマトタケルは兄である大碓命を殺したという。そしてヤマトタケルの和名は小碓命だ。二人は双子であり、兄が大稚帯日彦(つまり変名が大碓命)、弟が小稚帯日彦だから小碓命なのだ。
稚帯日彦とは成務天皇であり、武内宿禰はその同年齢の内臣だとされているが、ヤマトタケルが不肖の兄を弑して王権簒奪をしたのであろう。そこで、武内宿禰とヤマトタケルを分離し、誉田別はヤマトタケルの孫とするために、間に帯日中彦を考案したのであろう。(だが、仲哀に当たる人物は、応神東征よりも前なので、ヤマト=大倭政権から北九州駐在の一大率に任じられた垂仁の孫か曾孫であったのかも知れないが?)
さて次に中日下であるが、中日下川→那珂川だと考える。
そこは何処かというと、今は古賀や久我の名は失せているが、那珂川右岸にある安徳台遺跡ではないだろうか?
そこは、伝説では安徳天皇が壇ノ浦で死なず逃れて来た行宮の地だとされている。これは明らかな偽説であり、一方でそこは皇室との何らかの縁のある土地だとの伝承があったのだろう。
この安徳台の北東には春日原の地名が残り、また観音山の名の山も近くに存在する。何やら怪しい。
こちらの日奉はやはり春日氏が奉斎したのではないだろうか?
この那珂川上流の安徳台は、背振山の北麓だが、その南の山腹には、やはり背振の“古賀の尾”という台地があり、その近傍を水源とする古賀の尾川が流れている。その古賀の尾を西に下ると、今古賀という地名も残る。往古には古賀の尾が日下で、後世に今古賀に移ったのかも知れない。
また吉野ヶ里には鰐神社があり、(漢字を伝来した王仁博士に因むものと曲解されたが、これは偽説で)春日氏に由来する地だったのだろう。吉野ヶ里遺跡は和邇(春日)氏の集落だったと思うのである。吉野日下里→吉野ヶ里の転訛ではないか。※更に、吉野ヶ里北方地域は長崎自動車道が通った時に、随分と土地整理が行われたので旧地勢が分からなくなっているが、吉野ヶ里遺跡から1キロも行かない高速の下道を北側に横断した辺りに、地名は失せているがバス停の名で山古賀という名称が残っている。その辺りは小高い土地の台地状の土地なので、吉野ヶ里の日下はこの辺りか?もしくは里日下が吉野日下里だったのかも知れない。しかもこの山古賀のバス停の西方には海童神社がある。多氏系水軍が祭祀した海神であろう。
そして右日下(ウカガ→ウガか?)はどこに比定すべきか?
上述、遠賀川河口近くの水巻なのか?或いは香椎宮に近い古賀なのか?或いは、嘉麻地方(遠賀川上流)や彦山付近か、日田の盆地の何処か?或いはその名も夜明の名の残る地域の何処かであるのか?今のところ究明できていない。(もっとも今の古賀市の命名は、かなり後世のものなので除外すべきであろう。)
朝倉市甘木にも古賀の地名が残る。ここも秋月の太平山という名の山の直南に当たる。そしてその山の東北には日向石という地名もある。この辺りの山頂に鏡岩があり、そこの反射光が日下の祭壇に送られていたのかも?と想像する。
しかし日田という名そしてその近傍の古墳から、魏の曹操の墓から出土した物とほぼ同范と目される鏡が出ているので、ここにも日下はあったであろうと想像される。筑後川流域と、豊後や大分地方は多氏の征服した地域なので、必ずや日下はあった筈だと思われるのである。
日田の問題の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したというダンワラ古墳は、日田市日高町にあるという。hita-kaka→ hidaka の転かも知れない。
また嘉麻の名も実は日下kaga→kanmo→ kamaの転訛によるのかも知れない。嘉麻地方を流れる遠賀川支流の桂川の辺りに支配域を確保したのが、武内宿禰の息子である葛城襲津彦だろうと推測している。桂川は今ではケイセンなどと音読みしているが、流れている川の古名はカツラガワ(葛川?)だとされているからだ。葛川の基=キ・城に拠ったのが葛城氏では?
ここには装飾古墳で有名な王塚古墳がある。
系図的には種々の意見があるが、私は葛城氏は武内宿禰の長子で大臣の権威を継承した氏族だと思う。武内宿禰一族の主な五族(葛城、巨勢、平群、紀、石川=蘇我)の中で、仁徳朝で最も存在感があったのが葛城氏であるからだ。
また、和族の中で、九州に勢力を残して、特に日向の経略をしたのは葛城一族だったのではないか?と考えている。
西都原古墳群があれ程巨大化したのは、天皇家に準じる大臣家の一族としての実力の結果であろう。また襲津彦の南韓遠征で得た馬が、日向の馬牧で育成されたのが、西南日本での馬産の基礎になったのだと思われる。都農牧は西都原に近いが、この牧の馬力を用いて巨大古墳の用材石が運搬されたのであろう。
日向は令制以前は豊後(豊国ノ後の道)の一部であったが、葛城が経略後には当然日下が営まれたと思われる。
それが何処なのか?これも今は究明できていない。しかし日向の国名も日下hinomoto からの連想で成立したのではないか?とも考えられるのだが---------?
日向には亡命百済王の子孫伝承が複数あるが、南韓遠征した葛城氏が、百済王族を保護下に置き、領国である日向に植民する事を認めたのではないか?馬飼部は百済系渡来民だとされて来たが、日向牧は、百済王族の伴った馬飼の民の営んだものと、古代大和王権によって(隼人の反乱対策に)宇佐から移住させられた日向や大隈の秦氏系(白馬族)の営んだものとの2つの系統があったのではないだろうか。
「『馬』が動かした日本史」の蒲池明弘氏に依れば、“向”には向かうという意味合いの他に、馬飼→牧という意味を持つ地名の元になったものがあるという。
上古にはumaという言葉は無く、nma →mumaもしくはma,meだった。牧は馬柵マキであるが、向はこのマキの転訛である場合があると言うのだ。
そうすると、日向は常識になっている“日向かし”即ち“東”に因むというのではなく(藤原朝あたりにそういう語源にしようと作為が働いた、それは日向を神武発祥の地に仮託する為であるが)実は「豊日の牧」→「日牧」だったのが日向に転訛していた事に因む名かもしれない。
葛城氏の考察に立ち寄ってしまったが、筑豊には明確には古賀や久我の地名は残っていない。この地域は近代の石炭採掘時代に著しく土地が荒らされ、仮に日下の跡地を想像させるような土壇などがあっても、そこには貯炭場やボタ山などが造成され旧状を忍ぶよすがは喪失してしまったであろう。だから、古賀の地名も喪失していたとも考えられる。この採炭地である事による事情は那珂川上流域でも同様である。
だが、日田辺りが右日下だったとしたら、何か推測の縁になる地名や神社名などがあっても良さそうだが、今の処見出せないのである。
従って、今古賀の地名が残る朝倉と水巻は貴重な遺産地と言えるであろう。そしてその中でも水巻の古賀は、よくよく考えれば右日下の最有力の候補地ではないか?と思えるようになった。
従来、遠賀とは付近にあった岡田宮の故地、岡の地名に因むというのが通説になって来ていた。
Oka→Onka→Ongaという転訛で岡川が遠賀川になったのだという解釈である。私もそれを聞いて「成る程」と思って来たのである。
しかし、今右日下の在り処を探す内に、Ukaka→ Ukaga
→Ukga→Unga→Onga と転訛したのではないか?という疑いを生じたのである。
果たして、通説のOka→Ongaと、私説のUkaga→ Ongaと、どちらが自然な転訛であろうか?
(中間形のUkga→宇賀という転訛も考えられるので、筑豊方面で宇賀という地名も探したが、これも見つかっていない。但し宇賀という人名=氏名は豊前地方に比較的多いという事までは判明した。しかし地名には行き当たらなかった。
また後世、筑紫の一大率が多氏の居住地だった大野郷に置かれ太宰府(太氏がミコトモチ=宰を務める庁府)が建設されたのだがこの太宰府遺跡によって覆われてしまった古賀があったかも知れないとも考えられる。するとその場合は太宰府が右日下=右賀だった可能性も出てくる。“遠の朝廷(ミカド)”の異名もあるからだ。)
☆魏志のいわゆる「菊池彦」問題と方保田東原遺跡
狗奴国と言えば、魏書東夷伝に、卑弥呼の邪馬臺国との比較で取り上げられているのだが、以下の件りには従来大きな注目がされて来た。いわゆる菊池彦の問題である。
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「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王 (中略)其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状」 -- 『魏書』東夷伝
【一般的な読み下し】
その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略)その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
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ここに出て来る狗奴国の王の名と思しき「狗古智卑狗」を
菊池彦であろうとするのが従来の通説である。すると後続の狗奴國男王卑彌弓呼(素)と狗古智卑狗の関係はどうなるのか?
国王卑彌弓呼(素)は称号で、狗古智卑狗が諱に当たるのか?
狗は専らクと読まれてきたが、鉤の様にコウという読みもある。本来は鉤などを使うべきところ、中国からは北狄東夷の地名であるから獣偏(犬偏)を付けた文字を用いたと考えられる。神はコウとも読まれる(神代など)から、久我が古賀でもあるのは単なる転訛ではないかも?知れない。
だから甲賀とか加賀などの地名由来も再検証すべきだろう。
また本邦での国(クニ)の訓の語源も狗奴だったのかも?とさえ思えて来る。
奴国の南に広がるクガ国は、和族の国であって、一時的には倭人の連合国家である大倭に同盟していた事があったのかも知れないが、最終的には倭人連合には参加していなかったのだろう。それが魏志東夷伝に、邪馬台(ヤマト大倭)の卑弥呼に服さない狗奴国として記載されたのかと思うのである。魏志では、その狗奴国の男王を“卑弥弓呼”といい、その官に“狗古智卑狗”がいたという。そしてこの“狗古智卑狗”を“菊池彦”と読んで狗奴国は肥後の菊池にあったとの主張は有名である。
だが私はこの狗古智卑狗は“久我知彦(陸地彦もしくは陸知彦)”で、久我の神界(日壇)を祀る巫覡であろうと思う。そしてその王名の“卑弥弓呼”は“日見久我“もしくは”日根久我“、或いは”日神子久我“で、その”子久我“kokoga →kokga →kohka →kokho →kokoと音韻転訛したものではないか?とかつて推定した事がある。だがそれでは王名の卑彌弓呼(素)と官名の狗古智卑狗は同じになってしまう。伊都国駐在の魏使が聞き分けた以上、両者はやはり違うものでなければならない。
そこで日子巫覡の日子の間に巫覡を挟んだ日巫覡子を考えた。
巫覡は通常にはフゲキと読むが、巫ミ覡キと読めば、日巫覡子はヒミキコ→ 卑弥弓呼となるのではないか?
また狗奴国を熊襲国として、だからこそ菊池彦を想定するとの考え方があるのだが、私はそれには与しない。というのは、九州王朝は、ヤマトタケル伝説や武内宿禰伝説でも共に熊襲との戦闘の話が出て来るので、和族と熊襲は宿敵関係にあったとしか思えない。後世に隼人(南界の熊襲=南風曽)は何度も反乱を起こしている。朝廷に服従した筈の平安朝でさえ、宮門警備の兵士である筈の隼人は、内裏の外にしか駐屯地を構えられなかった。これは、朝廷が隼人を究極的に信用は出来なかった事の証左であろう。
だから私は、倭種の狗奴国と熊襲(恐らく縄文人の末裔が中心)は別の部族だと考えるのである。倭種とは、先住縄文人に海人族や韓半島からの渡来人が混交して成立したいわゆる弥生人であろうと思う。というと、何か熊襲は単なる蛮族の様になってしまうが、恐らく九州西岸を回る海岸ルートで、大陸からの文化を受容していたであろうと考える。ただ、倭種のように既に青銅器時代にまで達していたかどうかは疑問である。昨今の松浦(古代の末羅)と南九州の交易の痕跡の発見からは、その九州西岸海路の存在が徐々に明らかにされ出している。末羅国は伊都国と連盟関係であった様だから、そうなると末羅=唐津(加羅津)であり、ここも出雲族系の部族だった可能性も否定できない。そうすると、熊襲や隼人にも実は出雲族系の血や文化が入っていたかも知れぬ?と思う。この辺りは今後の考古学の発掘に期待したい。
「山鹿市の菊池川と方保田川に挟まれた台地上に広がる、弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡として方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡がある。この遺跡での発掘調査の結果、幅8mの大溝をもつ環濠集落であり、---------青銅器類も多数出土した」として、ここが菊池彦の都、つまり狗奴国だと主張する人もいるのだが、ここからは鉄器も出ているので卑弥呼が魏に朝貢していた頃より1世紀程度も後の遺跡と思われ、そうであればむしろ筑紫の国造磐井もしくはその父祖の時代の物かと思われるのである。
私は、磐井は九州に残置された葛城氏の一族だと考えている。だから、筑紫君一族はやはり和族であり、“熊襲の菊池彦”の都ではなく、和族の支配地の南部に相当すると思量する。
☆ 方保田東原遺跡についての考察
山鹿市の方保田にある方保田東原遺跡は弥生後期から古墳時代前期頃の大規模環壕集落であり、鉄器が多数出土した。中でも特異な巴形装飾銅器で知られている。
この遺跡の位置から、狗奴国の都であるとか、いや邪馬台国そのものであるとか、従来から論議されてきた。
しかし私は、ここは一つの太陽祭祀の拠点であって、いわゆる久我(古賀)の一つではないか?と考えている。
地番整理の結果から、この菊池川とその支流である方保田川の合流点の三角地域は全て大字方保田に統一されているが、この遺跡の最寄のバス停に名を留めている「日置」が元々の小字の名称であったと想像される。
日置は、太陽祭祀に関わる日置部に因む地名であり、古代にここ方保田(カトホダ←カタホウダ←日壇祝田カダンホウリダあたりか?)で、日奉(ヒマツリ)が営まれていたのだろう。
阿蘇君が多氏の一族であるとされることから、阿蘇に近い山鹿での祭祀の主体は天孫族の祭祀氏族でもある多氏(或いは同族の春日氏)だったのではないか?との推理も成立するだろう。
時に、方保田遺跡出土の巴形銅器は火焔車ではないだろうか?
火焔車とは、太陽神に関わるシンボルである。卍も火焔車に起源を持つ宝輪だという。宝輪には金銀銅鉄の四方輪がある。
火焔車(火車)は日神が黄道を走行する乗り物とされて来た。(巴型銅器は、大陸の遼寧省でも出土すると聞くので、かつて遼東に在ったと思われる辰国の事を想起して興味深い。辰国もまた、私は東遷小月氏が建てた国と考えているからだ。)
一緒に出土したのが小型仿製鏡なので、方保田遺跡はそれ程大規模な斎日壇ではなかったのかも知れない。主な斎日壇なら、日神の化体である大型の銅鏡があった筈だからだ。また保田ともいうので、日神と保食神を共祭する豊穣祈念の祭場かとも思われる。
菊池の地名も、元来は日口或いは火口で、阿蘇の火の神を祀る(後世の阿蘇神社の)遥拝場であったのかも知れない。
(方保田の保田とは宝田・祝田であろうと考えるのだが、多田?或いは大台などである可能性もあろう。)
久我は斎日壇、日下(クガ)であって、狗奴とは久我の漢訳だろうというのが私説である。
久我の原音は、Kouga→Konugaで、→Kungaとなるが、
中国語には鼻濁音は無く、この為中華の民は鼻濁音を認識も出来ない。だからKungaは、Kuna(狗奴)とかKuda→Kuduに、或いはKuko(弓呼、玖古?)などと認識されるのだ。
Mongol →Monko(蒙古)となったのと同じである。
これはいわゆる音韻変化ではなく、そも中国人にはMongolがMonkoと聞こえているのである。
方保田は日奉の遺跡であり、そういう意味では狗奴国に属するものである。
しかしであるからと言って、この方保田の日置の地が、狗奴国の首都其の物であったとは思えない。
私は、久我国即ち狗奴国の宮居は肥前か筑前筑後のいずれかにあったと考えている。
この場合、日下(kuga)の存在地其の物が久我国の首邑である必要はなく、最高祭主である忍男禰宜は久我の近傍に宮居を設けていれば良いのだ。
“最高祭主である忍男禰宜”などと言ったが、忍男武雄心命というのが、武内宿禰の父である。これが大足彦忍代別の名を持つ後世の漢風諡号・景行天皇の事だというのが私説である。
私は日下=久我=古賀と表記が変わるので、これらを総合して便宜上“日峩”という風に表記して来た。
つまり太陽祭祀の結界を日峩Kaga →Kuga,Koga と言ったのだろうと私は述べたのだが、この峩というのは沖縄の御嶽の嶽と同様に、物理的に高い山というのではなく、神の降臨の依代の意味合いである。
恐らく佐賀に左日峩があり、中日峩を那珂川の上流域、そして右日峩を筑前の古賀あたり(私説では水巻町の久我)に比定する事ができるだろう、とも考えた。
佐賀の隣邑である小城が忍代もしくは忍男であるかもしれないとも考えている。武雄地域は九州王朝の拠点の一つだったろう。
(そこは武内宿禰が神功皇后と滞在したと思しき地でもある。)
日本の国号の源は日下hinomoto であるが、これは音読すればKagaである。日峩は日下処kagaka →kagga →kanugaなどと音韻変化する可能性がある。
琉球の東方崇拝の遥拝場は久高御嶽であるが、この久高とはtedahka (太陽の方)の“t”音が“k”に転訛したものである。
だから、私は久ヶ原や久我山も、日峩原(山)で、日神の祭場であったろうと考えて来たのである。
そこで、日下を何故にクサカと呼称するのか?について、再度見解を述べておこう。
和族が、遥か原郷のパミール高原にあった時には、日神の祭場では、葱韮が神聖植物であった。和族とは葱韮族であり、龢族を自称していた。(龢は和の字の異体でもある。)
上古の大王家一族に葱韮食の習俗があったことは、応神紀や允恭紀に出てくる。
我が国上古には野に出て“草摘”をする習慣があったが、これは食用の野菜山菜を摘む行為である“菜摘”と区別されている。
草摘とは文字通り葱韮類の臭い植物クサを採集する事である。そして、この葱韮類は単に食用というのではなく、日神の祭祀の際に供えられた神聖植物であった。
パミールとは中国では葱嶺といい、葱韮類の自生する高原だと知られていたのである。
だから日峩に於いても供物としたり、結界の証として植えた葱韮類があった筈である。臭い“草”の在る所、つまり草香が日神祭場の日下の名にもなるのだ。
枕言葉的にいうなら“草香の日下”なのである。
(“春日の滓鹿”がハルヒをカスガと読む由来だとよく知られているところだ。“草香の日下”もそれに類似している。)
ではこの日神祭場である久我とはどういうイメージなのか?
実際にその様な具体的な考古学上の遺跡が出てはいないのだが想像をしてみよう。
恐らく結界は、四角に高く縄張りされて、その縄には注連縄や幣か布帛(チベットの聖地の周囲の旗状の物)などが下がっていたであろう。丁度九州神楽の演舞場の結界の様なイメージである。
その中心か、東側に、恐らく初期は神の依代である特別な樹木が植えられており、その枝には太陽神の化身である鏡が吊り下げられていた事であろう。景行紀などで、九州の各地の土酋が服属の証として木に三種の神器と同じく、鏡と勾玉と剣を吊り下げて大王を出迎えたという記述があるが、祭祀の時には、鏡だけでなく、勾玉や剣を飾ったのかも知れない。
そして、神職(禰宜、種子)や大王(根子日子)や姫巫女が手草として、神聖植物である葱韮類や梛木や榊を取って、呪文を唱えたりお祓いをしたのであろう。(地鎮祭はこの日奉;ヒマツリのミニマムの写しである。)
その名残が今の神道の儀式である玉串奉奠になるのだろう。
この日峩は中国の天壇に相当するいわば日壇である。
私は、筑前の日壇は水巻の久我であろうと考えたのだが、そこはあたかもヤマト三山の様に水巻三山の間の高地にありいわば筑前の明日香である。そして面白いのは、今でもこの水巻町の特産が大韮という、巨大な大蒜(ニンニク)である事だ。正しくその久我原は草香の地になる。
空閑地もクガというのは、本当に何も無い空の土地というのではなく、そこは日奉の結界だから、住いや小屋などの人の身近な構築物を禁じられているので、普段は空に見える場所であるからだろう。