第18章(続) 国号「日本」考、ヒノモトは日下
第18章(続)
☆国号「日本」考、ヒノモトは日下
我が国の国号「日本」のニッポンとは、音読であり、訓は
ヒノモトである事は周知である。
そしてヒノモトとは元来は日之下で、太陽神の照らし守る地
という意味合いで、我が民族が日の神天照の神孫に所縁の民
だというわけである。
で日之下といえば、日下であり、日下はクサカと読まれる事
などが連想される。
東大阪には日下の地名が残り、そこには日下神社があって、
祭神は雄略天皇の皇后となった若日下王ワカクサカノオオキミ
である。一般的にはここに住む日下部がその若日下王の名代部
であるので、この皇女(仁徳天皇と伝説の美女髪長姫の子孫)に
因んで日下部と言うのだとされている。
しかし、それでは若日下王が何故そういう名であったか?が
不明になる。ここはやはり日下という地名があり、そこで
日下部なる人々によって成育されたのが若日下王だと考え
なければならないだろう。
記紀では、神武など九州軍が東征の際に、大和に攻め込むのに
水軍でここまで来て、生駒山を越えて通じる道を取ろうとした
が、敵軍の長髄彦によって、指導者の兄五瀬命が手傷を負って
しまう。神武は、「ここは生駒から日が昇るのを臨む地だ。
われらは太陽神の子孫であるから、太陽に向かって攻めては
いけない。東南の紀州の方向に回り込んで攻めよう」と転進
したという有名な伝説が残る地である。
縄文海進の余波で、大阪湾は、古代には生駒山の西麓まで
広がっており、今の上町台地が南から伸びて区切り、その
東側は河内湖という汽水湖になっていた。草香の地は河内湖の
東岸の入江である。枕詞で「日下の草香」というように、
「河内湖に入ってきた船から見て、日のさす生駒山の下だから
草香は日下(クサカ)という」と言うのが地名の由来譚である。
で、この日下であるが、そこに伝説の神武東征の聖蹟がある。
それは孔舎衛坂という東征軍と長髄彦軍の激戦地なのである。
そしてかつては近鉄奈良線に孔舎衛坂という名の駅が置かれて
いた。(1964年、新生駒トンネルを通る新線が開通したので、
今はこの駅は廃線上の旧跡となった。)
http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/2015/11/post-238b.html
には、次のように記述されている。
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神武東征伝承に記載されている古戦場の「孔舎衛坂(クサエ
のさか)」の衛は衙の誤字といわれている。
従って「孔舎衙坂(クサカのさか)」が正しく、駅名にかつて
孔舎衛坂駅はあったが、実際にはクサエの坂という地名は
存在しない。
<進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像.pdf
を参照>---------
近畿日本鉄道も混乱していた⇒「孔舎衙坂」表記の切符<と
「孔舎衛坂」表記の切符の2つを発行していた(読みは、
両方とも「くさえざか」)。---------
「孔舎衙坂(クサカのさか)」は、クサカ(草香・日下)から
生駒山を上る坂であるが、狭義のクサカを発する坂であれば、
「日下越」<現東大阪市日下町から八丁門峠を越える>が
これに当たり、広義のクサカを発する坂となれば、直越
(ただごえ)の道のいずれかとなる。
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という解釈が、ほぼ通説となっている。(もっとも近鉄が二つ
の切符を発行したというのは都市伝説に過ぎないようだが。)
つまり、神武の聖蹟といわれるのは、「孔舎衛坂(クサエの
さか)」ではなくて「孔舎衙坂(クサカのさか)」であって、
後世に草香の坂とか日下越と記される大和側への山越道の
事だというわけである。
恐らく孔舎衛坂とは草香江坂の香の音が欠落した誤用か?とも
解釈できるだろう。
しかし、私には、古代に於いて「孔舎衙」と表記されていた
可能性がある!という事こそ注目すべきと考える。
従来は、“草香”の地名が先ずあり、そこが“日下”と表記
されるようになり、その音訳?が「孔舎衙」(別に久佐迦
の様な表記もあるようだが)だというのである。
だが私は、逆で、この日下郷の地は元来は「孔衙」(日下
Khuga、久我)で、そこに香草が植栽されていたので草香と
なってKuga →Kusaga→Kusakaという転訛が生じたのだと
思うのである。
だから記紀に於ける神武の聖蹟となるに至る伏線、つまり
生駒山が河内湖の船上から見て日昇の方向なので、そこは
日之下の地であり、元来草香という地だったが日下と呼ばれる
ようになる、というのは後付けの伝説だと考えるのである。
河内王権の日神祭祀の聖所、私のいう“日峩”(沖縄の久高御嶽)
=九州王朝時代の久我・古賀=日下Khaga、が河内湖の東岸
の白肩津に設置されたので、そこは日下と呼ばれ、斎日壇の
砂地には和族の聖草である匂う草・葱韮が植えられていたので
日下は草香と同義語になったのであろう。九条ねぎなどの原種は
河内の難波ねぎだったという。
日下は日差す方でもあるので久方の修飾表現も生じた。
(“白肩”津とは白伊方←白岩潟で、岩の多い津の意味であろうが、
もしや久方津なのかも?とも思えるのである。久方とは無論
“日差す方”で日昇の方角を意味するからだ。)
和族の斎日儀礼を取り仕切ったのが春日氏であるが、実際に
この日下郷には数多くの春日神社が分祠されている。春日氏の
居住が想定される。そして今の東大阪市の日下の北方には、
田原の地名も残っている。田原は大田原で、多氏の居住の痕跡
に関わる地名である。多氏も春日氏(和邇氏)と同族だとされ
和族の水軍も、両氏が担っていた。古墳時代(河内王朝時代)
の河内湖の沿岸に多氏の痕跡があるのも不思議ではない。
日下部という、この日下郷にゆかりの名代部は、私は多氏系の
皇族成育の部民だと考えるのである。
そして、後に春日神社の祀られた何処かが、河内のクガ(日壇)
であったと想像される。
(また“春日”というのは、微かなる日差しで初春の日を意味し
春日氏が早春祭もしくは冬至祭を掌っていた事を暗示している
のではないか? 和邇氏の和邇とは和(龢)族の禰宜なので、
(和族の最高神官は勿論大王であろうが) 神祇職として春日氏は
高等神官に相当し、多氏は(恐らく鴨氏も)その下の中級神官
だったのではないかと想像している。
その配下で実務に従事した部民が日置部ではなかろうかと
思う。但し、日置の名は、紀州には多いが河内北部では一般的
ではないようだ。当地では日下部になっていたのだろうか?
河内の日置部の中心地は丹南郡日置荘で、金剛山系から発する
天野川の流域である。しかしこの日置荘は6世紀以降の郷里の
様なので、もっと以前には河内湖方面にも日置部がいたのかも
しれない。また日神祭祀の氏族としては日奉部や日祠部も想定
され、比企氏・幣救氏=日置氏が伴造であったとも伝わる。
これらの氏族がそれぞれの微妙な専門職種を持ちながら、下級
神職として春日氏や多氏に仕えていたのであろうか? また
吉士氏は渡来系氏族だが、彼らもまた日神祭祀に関わるという
説があり、難波は吉士の居住地なので、これもまた日下に所縁
があるのだろうか?とも思える。※安康に誅殺された大草香
皇子に殉死した難波吉士日香蚊は、鸕野讚良皇女を育成し、又
草壁皇子を成育した大草香部吉士の先祖である。)
という事から、この河内の日下こそが、河内王朝時代の日峩で
後世に我が国の呼称としての日之下→日の本→日本の起源に
所縁の地であろうと考えるのだ。
但し、それとても九州王朝時代の久我=日下Khaga、即ち
狗奴国の狗奴に発するものだろうというのが私説である。
狗奴国とは無論魏書倭人の条に邪馬臺国の南にあって、倭人と
同種だが邪馬臺国とは仲違いしていたと記されている国の事
にほかならない。これが和族の国である。
(中国人には鼻濁音がないので、モンゴル→蒙古となるように
漢訳では日下Khaga→Khuga→Kunga→Kuna狗奴となって
しまうのだ。先に中国側に知られたのが倭奴だったので、狗奴
と書き表されたのか?)
和族が畿内に進出すると、それに伴い和族本宗(即ち皇室)
によって祭祀された日壇が日下であり、その後河内王権が
飛鳥王権になると恐らく天香久山が中央日峩となったので
あろうと想像する。
またその従臣神職貴族(春日氏や多氏)によって、彼らが植民
進出した各地にも日峩Khaga が作られていったと思われる。
南近江の甲賀も、私は一つの日峩ではなかったかと想像する
のである。甲西から信楽にかけては点々として春日神社が
祀られており、古代の春日氏の存在の痕跡だと思う。
甲賀は後に飯道寺に依る衆徒の修験道の中心地となり、古代の
痕跡はその中に埋没してしまったが、“幸が平”という地名の
ある地域に、南近江の日壇があったかもしれないと考える。
また北関東の鬼怒川から那珂川の流域は、東海道から進出した
多氏の勢力圏となったのだが、古河という地名も、一般の説の
如く利根川もしくはその支流のかつての流跡に因むというので
はなくて、坂東北部の日壇・日峩(古賀)だった可能性も検討
すべきかと考えている。古河の地のあたりにも、大野の地名が
残り、明白にかつての多氏の居住の痕跡と理解されるからだ。
また利根川を挟んだ南には春日部の名があり、春日氏に所縁の
部民の存在痕跡がある。
さらに、令制の時代になって越の国(越前と越中の間)に、新国
の加賀が建てられた。この加賀も越前地域の日峩のあった事に
因むのではないだろうか。越前大野の名が残る様に多氏の植民
した地域であり、また息長氏との婚姻によって王族の子孫が
成育され、その中から継体天皇となるオオドノミコが出た。
そしてそれを支援したのが三国湊に進駐していた大臣葛城の
一族とされる蘇我氏なのである。
息長氏も和族の波羅門(神官階層)に関わるので、加賀の日神
祭祀にも関わっていたのかもしれない。
天武朝以降は、伊勢神宮とその分祠である皇大神社や神明宮が
日峩にとって替わった為に、各地の日峩の機能はそちらに吸収
されて行き、独立したコガは見られなくなった。
その頃は、春日氏や多氏も波羅門としての機能を薄め、多氏の
配下の卜部であった中臣氏が次第に勢力を強め、結果的に
藤原氏が誕生し、皇家の直臣として太政官と神祇官の両面を
牛耳ることになったのは、周知の事である。
従って、その藤原氏の影響下で編纂された記紀には、最早
かつての日峩の事は忘却された、というよりむしろ意図的に
抹消されたのではないだろうか?(上古の波羅門としての春日
氏や多氏の存在意義を薄めようとしたのだと思う。)
北九州時代の和族の古賀・久我(狗奴)という日峩崇拝に匹敵
する祭壇は出雲族(黄牛族)側では何だったのか?少なくとも
出雲族が三輪王朝を建てていた頃の祭壇については明確な痕跡
に言及されたものは少ない。出雲族は磐座信仰が中心であった
と思われるので、黄牛の供犠を石盤の上などで行っていたので
あろうか?北近江の黄牛谷などがその祭祀の遺構だとも言われ
ている。ここは、黄牛族の波羅門であった息長氏が祭祀に関与
していると思われる。
(息長氏は、秦氏と同様に、和族と“倭族の出雲族”の両方に属す
る支族があったと考えられるのである。)
或いは古墳時代になって、前方後円墳が考案されると、その
前方部は祭祀壇だというから、この前方部の日継の祭祀が、
かつての日壇の祭祀にとって替わったのかもしれない。
とすれば、三輪王朝時代の前方部と、河内王朝のそれとでは
意味の違いがあったとも解釈しなければならないだろう。
伊勢神宮祭祀が主流になる頃に、前方後円墳が少なくなって
いくのは、日神祭祀の場所が、日峩→古墳前方部→伊勢神宮
と変遷して行く過程でもあろうか?
ところで、我が国が国号を日本とした事を中国王朝に通告した
のは遣唐使によってであった。
それ以前、倭国と言っていたはずなのに?という事で、唐朝
ではその解釈を巡る混乱があったという。
「旧唐書」東夷伝には、倭国の条とは別に日本国の条を設けて
以下の様に記している。
--------------------------------------------
「倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、
依山島而居。東西五月行、南北三月行。
世與中国通。其国居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島
五十餘国、皆附属為。→★(後述)---------」
日本国の条は、
「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、
併倭国之地。」
--------------------------------------------
古来、この表現については、喧しい議論がされて来た。
「或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。」とある事から、
倭の字が矮小をイメージさせる卑字なので、雅字の?日本に
変えたというのが通説化して、倭国=日本だとされて来たので
ある。
但し、それに倭国と邪馬臺国の関係の解釈が加わり、様々な
異説が提唱された。
私は、旧唐書の記す通りであり、日本=日下=狗奴国だと考え
ているので、先に畿内ヤマト(山門)に都邑を置いた政権である
三輪王朝、それは倭人の中小国家の連合政権なので”大倭“で
あるが、これを九州王朝の日下国が征服して応神朝からの
河内政権になり、日下は和族の建てた国家であるから、大倭の
表記を大和に変更したという説である。
で、旧来の通説の様に倭国はワ国ではなく、あくまでも漢字の
表記通りヰ国であり、大倭はオオヰと言った筈だと考えている
のである。そして都邑の所在するヤマト以外の倭人達からは、
ヤマト大倭=Yamato-Oowi →Yamatoowi →Yamatawi と
呼ばれた。つまりはそれが“邪馬臺”なのだと考える。
だからヤマトは大倭Oowiから大和Oowaの表記に替わった。
しかし、大倭をヤマトと同視した如く、大和もヤマトと呼称
したのである。しかし、大和はあくまでも地域名山門に因む
名である事から、ある時期に本来の日下→ヒノモトに正し、
日本という表記に変えることとしたのである。
さりながら、大和がヤマトと呼ばれ続けたように、日本もまた
ヤマトという訓読みする習慣が残ったのである。
日本=ヤマトは熟字訓に過ぎない。
さりながら、日本に改名する前には、推古朝に厩戸皇子により
隋の煬帝に送った国書などには、ここの事情を明らかにはせず
単に“日出る国”と記したのである。
上記旧唐書の→★の件り(倭国の条の後段)には、
--------------------------------------------
★其王姓阿毎氏、置一大率、検察諸国、皆畏附之、設官有十二等、
其訴訟者、匍匐而前地。多女少男、頗有文字、俗敬佛法、
並皆跣足、以幅布蔽其前後、貴人戴錦帽、百姓皆椎髻無冠帯。
婦人衣純色、裾長腰襦束髪於後、佩銀花長八寸左右各数枝、
以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。貞観五年、遣使献方物、
太宗矜其通遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁、
持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。
至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。
--------------------------------------------
この記事には、遣隋使の国書に記載した「王姓阿毎氏」という
事項と、魏書の邪馬臺国に関わる記載「置一大率、検察諸国、
皆畏附之」などという事項と、厩戸皇子時代の冠位十二階を
指すと思しき「設官有十二等、---------貴人戴錦帽」の事項
なども見えるのである。
しかし、これは私のいう継体天皇以降の“後応神朝”の推古天皇
時代の話題が含まれており、“前応神朝”が和族によって樹立
された政権(河内政権)であり、その時代は既に大倭国ではなく
大和になっていた筈なのである。
そして何より、十七条の憲法というものの中の有名なフレーズ
「和を以て貴しとなす」というのも、和族と秦氏や出雲族など
の単なる和合の精神ではなく、“倭人諸族の中で和族が最も
貴い!他氏族はその軍門の旗印の下で平服しなければならぬ”
という精神を令しているのである。
これをしてまさしく“令和”というにほかならない。
この様に推理するのは、その問題の“憲法十七条”なるものが、
どうであったか?を吟味してみた上でなのである。
(もっとも、この日本書紀に載る“憲法十七条”が、果たして
厩戸皇子の皇太子時代に作成されたものなのか?そうでは無し
として、書紀の編纂時の創作だろうという異説もあるのだが)
一般に、「和を以て貴しとなす」というのは、漢文の原文の
「以和為貴」を読み下したものだというのは、よく知られて
いる。しかしこの表記は、後世の書紀の写本に記載された字
で、本来の原文は「以龢為貴」となっていたと指摘している
人がいるのだ。(残念ながら、私は目下の処、この龢の表記
の写本の紹介記事に行き当たっていない。しかし、ネットで
検索したところ、複数の人が、和ではなくその古字とされる
龢の字を用いていたと言っている。中には、その事に感激?
して、自分の子息に龢の字を和の代わりに用いて命名したと
いう人もおり、恐らくこの人は、どこかで書紀の記載は元は
和ではなく龢の字が用いられていた事を知ったのであろう。)
従来この龢→和の書き換えがあった事は、確かに龢の字が和
の古字であったので、問題にはされて来なかった。
一方で、この「以和為貴」は太子のオリジナルの表現ではなく
論語学而編の「禮之用和為貴」を援用したものだというのが
通説になっている様だ。
論語の原書?についての知識が無いので確実では無いが、論語
ではこの件りは和の古字龢ではなく和その物を用いて書かれて
いた様だ。つまり中国では春秋戦国時代に於いて既に和の字が
使われていたのである。
そこで疑問が生じないだろうか? 遙か後世の推古朝時代に、
わざわざ和の字を古字である龢の表記にしたのは何故なので
あろうか?という問題である。
私は、この「以龢為貴」という表現は、一見は論語の応用と
見せかけながら、別の意味合いをも含ませていると考えている
のだ。従来、私は、天孫族とはアジア大陸時代の月氏の主要
氏族である龢族(奈義族)の事だと指摘して来た。月氏の他の
氏族には黄牛族(我が国では出雲族)と白馬族(我が国では秦氏)
があるが、「以龢為貴」とはそれらの諸氏族の中で龢族こそが
最も高貴である!と改めて指摘したものなのだ。
だからこそ、続くフレーズが「無忤為宗」となっているのだ。
(忤う=サカラウこと、無きを宗と為せ、と訓読される。)
従来、この後続フレーズが何故にわざわざ置かれているのか?
についても疑念が指摘されて来た。
しかし、前句が「以龢為貴」と考えれば、この疑念は氷解する
のだ。つまり龢族が最高貴族だから、他の氏族は逆らっては
ならない、という意味なのだ。
「無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。
然上龢下睦。」
この黨というのは単なる党派の意味ではなく。黒い異心を抱く
氏族集団である。「然上龢下睦」は、“規定を意識するならば
最終的に上は龢族と了解し、下々の氏族は睦み合うべし”との
サトシの言葉になってくるのである。
しかも従来、逆らうという意味の表現に立心偏に午と旁る文字
を使ったことが前例が少なく不可思議とされて来たのである。
つまり「忤」という文字の事だ。
私はこの「忤」の旁は本当は午ではなく牛だったのでは無いか
と考えている。(牛の字は造字上、時に午に誤用される事があった
らしいので、或いは牛と午のダブルミーニングだったのかも
しれないのだが。)
牛や午の心を持つ事が何故逆らうという意味になるのか?
牛=黄牛族=出雲族(物部氏など)や午=白馬族=宇佐族(秦氏)の
両族は龢族に異心を抱く事なかれ、という規定がこの後句の
表現なのである。
そして、龢の文字が簡略化されたのが和の字である事は、龢族
の知識層には理解されていた。だから龢族は和族とも表記され
それが、先住していた他の二つの氏族(首佐族=須佐男という
牛首天王を祭祀する、と宇佐族=馬城峰の八幡神を祭祀する)
の上に立つべき統治する(スメル・皇)一族だと宣言しているの
が、この「以龢為貴」という規定なのである。
つまり和とは、単なる和合(ハーモニー)の事ではなく、(よく
言われて来たパックスロマーナに倣えば)パックス・ナギーナ
の意味なのだ。そして龢の文字の本来の成り立ちは、禾と禾
の間に龠という文字を挟んだものだ。二つの禾は両禾といい、
王者の軍門の左右に立てられる軍旗を付けた鉾や槍であり、
龠は宮舎で奏でられる笙などの木管を中心の雅楽団を意味する
字である。(龠は単独ではヤクと読む文字。この笛の音に近い
声で鳴くのが屋久という名の小型の鹿であり、それが多数居た
ので、その生息地を屋久島というのである。)これは、前にも
指摘していた。
即ち和とは、王者の軍門の前に平伏する服属の儀式を意味する
ものだったのだ。
そしてこの龢族とは、天孫族の本宗として斎日の儀式を司る
麻儀波羅門階級を核とする氏族である。
和族が、他の二つの月氏系氏族(倭種)と原住民縄文族や海人族
などを平定して、倭人の連合王国・大倭を大和となしたのが
河内王朝(応神王朝)の成立なのだ、というのが私説である。
ところで、上述の如く唐では、高宗の時代までは、倭の日本
への国号変更を認めなかった。これを承認したのは、何とあの
則天武后だった。武則天自身が帝位に就き国号を周と改めたので
あるが、武則天の心理からすれば、実際上同じ国家でも都合に
より国号を変える事があるという理屈が素直に理解されたのかも
知れない。また渤海も武則天時代に唐から靺鞨地域の郡王として
公認されたのであった。更に、日本が女王統治の国というのも
武則天に歓迎されたのだと思う。同じ時期に、チベットの東女國
(これもまた月氏の末裔である蘇毗国)という女系統治の国も朝貢
している。
※ところで、「日本」という名称については、2001年に話題を
さらった事件があった。それはこの年、唐の長安で発見された
元百済人の将軍・祢軍(ネグンもしくはデイグン)の墓誌に「日本」
が出て来た事である。(私自身は、この年晩秋に白内障手術を受け、
丁度この事件が新聞を賑わした頃その記事を読めなかった。直後
から古代史の専門家の間では相当に話題になったというが、一方で
この年は春に東日本大震災が勃発した時期で、専門家以外がこの
話題に興味を持つことは少なかったと思われる。また私はその年の
初冬に重い肝臓病となり死の淵に立たされて三週間も入院し、退院
予後の療養の一段落後、今度は大腸癌の手術でまた慶應病院に入院
---------という事でこの祢軍墓誌について知ることはなかった。
数年後になって漸くこの事件を知ったのである。)
で、その祢軍の墓誌によれば、「日本の残党が扶桑に逃げ込んだ
ので、唐朝の官軍の追及と懲罰を免れている」という意味の記載が
あるのである。(于時日夲餘噍 拠扶桑以逋誅)
祢軍は元来は百済人だったが、唐と新羅の連合による百済征伐で
百済が滅びた後に、倭国の後援を受けて百済王朝復活のゲリラ戦を
展開した百済の高官遺臣につかず、唐側について戦い戦後叙勲され
唐の将軍となって一生を終えた人である。そしてあの白村江の海戦
の後、倭軍が韓土から撤退した後に、倭国側の(恭順の程度を)視察
するために派遣された唐人の郭務悰とともに、近江朝廷にまでやって
来たという事が日本側の資料にも登場する人物なのである。
無論その人の墓誌だから、本人の生前の活躍を知る知識人や一族の
有識者が筆を取ったものであろうが、そこに出てくる「日本の残党」
を意味する言葉(日本餘噍、口偏に旁は焦。この焦は欠くの意で、口偏
が付くことで嚙ると同義。それから転じて食べ物を嚙る人々で、即ち
生民、民草の意味。)は、白村江海戦での敗残者を意識したもので
あろうが、この時の日本の表現の中には、滅びた百済も含む唐朝から
見て日の本の地域(日域)即ち百済〜加羅〜倭国までの東海地域全体を
含むものか?それとも(後世に国号として日本を名乗った)当時の倭国
のみを指すのか?これが学者間の論争のテーマになったのである。
というのも、広く知られるように我が国が対外的な国名を倭もしくは
大倭から日本に改めたのは大宝令施行後唐の高宗時代であったからだ。
即ち、広い意味で藤原京時代以降という事になる。天智治下の近江朝廷
では未だ日本ではなかった筈なのに、大宝令施行以前に没した祢軍の
墓誌に日本の文字があるのは、①既に天智天皇時代以前にも我が国では
日本という表現を自国を表す言葉として用いていたのか? それとも
②(後の日本国を含めて)南韓と倭地を包摂する東海地方の広域名称と
して従来「日本」が用いられていたのか?
しかもどちらにしても、祢軍を含む百済人たちにも既に天武朝以前に
日本という表現・字句が知られていた事になるからである。
ある学者は日本餘噍が逃げ込んだのが扶桑とあるからは、日本と扶桑は
同じではなく扶桑は後世の日本国だが、敗残者は倭人と百済人の連合で
あり、日本の残党とは倭・百済両方の敗兵を含むので、両者の存在する
広域を指すのが日本だというのである。中には、扶桑と日本が違うという
のは、扶桑は大和王権で日本は九州王権だという珍説さえ出された。
しかし、扶桑が東瀛の意味なら、それは正しく後世の日本国であり、
日本餘噍はあくまでも日本地域(日域)から来た兵つまり倭人兵だと
考えていいのではないか。その軍勢に旧百済人兵が入っていたと
しても、新羅の側から見れば、主力は倭人の将兵であり、これを
日本の兵と称したのだろう。
いずれにせよ、日之下の意味の日本という表現は、大宝令の時に
いきなり出現したのではなく、倭国の別名日之下(日下)の雅字表現
として、斉明朝時代から流通していたのかも?と想像される事に
至ったのである。
※ 拠扶桑以逋誅 は、書き下せば「扶桑に拠り以って誅を逋れる」。
逋は逃れると同義。書き下しは、“扶桑島に籠もってしまいそれに
より、唐の官軍からの誅罰を逃れてしまっている”という恨みを
述べているのである。
そして、藤原朝時代に、遣唐使粟田真人によって則天武后が日本
への改名を認めてくれた、と言うことを、単に倭というよりも
雅字表現になった!と喜んだかに思えるが、それは誤解。
唐の側から見れば、夷狄の国名は一字表現ではなく二字表現に
なっているからだ。(羌・氐は例外である。)
突厥、大理、越南、新羅など皆二字国名になっている。日本は同時に
武則天により容認された渤海と同様だ。渤海は当初、震という国号を
望んだが認められず渤海で妥協した。(渤海は意味合いからすれば
必ずしも雅字表現ではない。霧の立ち込める北海の国という意味だ。)
印象的に“日下”よりも“日本”の方が佳く見えたのか?飛鳥〜藤原朝
時代には既に「東極に聖なる扶桑の樹があり、そこから太陽が
生まれて空に昇る」という伝承は我が国の知識人にも知られており、
扶桑の木の本というのだから大層めでたい名と思えたのであろう。