第5章 月氏系部族の日本列島への渡来

第5章 月氏系部族の日本列島への渡来

 

こうして、辰韓からもしくはその分国である加羅諸国

の何れからか、山陰北陸方面へ渡来したのが出雲族で

あり、これは黄牛族が主体である。須佐男は黄牛族の

首長であったと考えられる。須佐男をして牛頭天王と

言うのである。牛頭天王はまた牛首天王とも書き、

須佐男の須佐とは首佐の意味であろう。

加羅から九州東部に渡来したのは白馬族と葱茈族で

白馬族は香春岳の東、周防灘方面から宇佐にかけて

集住した。これが宇佐族つまり秦氏である。宇佐の

宇は馬の意味である。

須佐と宇佐の佐というのは、百済などの王族である

佐智・叱智の如く族長を意味する語だろう。干(汗)

も族長だが、干の方が複数の族長を束ねる王か?

佐は中国語では王を補佐する官を意味するように

なったが、元来は中央アジアのシャーではなかった

かと考えられる。牛首族のシャーが須佐で、白宇族の

シャーが宇佐だと考える。葱茈族の長はやはり干で

あったのか? 干の和語が君だとされるので、全部族

の大汗なので大王(オオキミ)なのだろう。

ところで秦氏の部族長を後世"満佐"(=勝)と呼んだが、

これは「馬佐」の事であり、宇佐が地名となったので

部族長の呼称を馬佐→満佐→勝とする様になったので

あろう。(太秦の語源である。)

葱茈族こそが天孫族であり、北九州の遠賀川流域から

香春岳の西側・いわゆる田川地方からその南部方面〜

彦山そして筑後川を降り、後世の肥前にも進出した。

また一部は豊後の大野や国東、更には日向方面へも

移住したと推理される。

葱茈族は日子族でもあり、天王族の本宗であった。

天王の子神が日の神であり、葱茈族こそが日の神の

直系の子孫だという信仰を有している。

葱茈族(ネヂ族か?)は根子族でもある。葱は種子でも

根っ子でも増殖する縁起の良い植物である。また肉食

の薬味というだけでなく、薬草でもあった。

各大王の呼び名(諡号)には日子と根子の両方の呼称が

入っている事がある。また大王を大倭根子ともいう。

(一方で、神を祀る神職を種子:田根子ともいい、また

根子とも言った。禰宜というのは根子の事でもある。

後世、烏帽子を冠り狩衣姿をしていた神職を葱坊主に

見立てた命名だという説もあるくらいなのだ。)

日子族は白馬族と近接した渡来地に居住していたので

共に日本へ葱を渡来したと思われる。だから、最初の

我が国への葱の渡来地は北九州か東九州の地域だった

と推定される。近畿へ持ち込んだのは秦氏であろう。

天孫族が九州で平定したのは、熊襲だけでなく恐らく

先住渡来人も含まれていたと思われる。大王の命で、

豊後方面の平定戦争の主力になったのは多氏である。

多氏は大氏とか意富氏とも書かれる。多氏が平定した

 のが大分と呼ばれる地である。後の豊後大野の、竹田

寄りの地にネギノ(禰疑野)という土地があり、ここの

八田などという土蜘蛛を多氏が征略したという書紀の

記事がある。八田とは反抗的だった秦氏の反乱分子で

あろうか?平定後そこは大野と呼ばれることになる。

その後多氏は大分君に留まらず阿蘇君などを一族から

出し、肥後北部・肥前南部にまで進出したのである。

それにしても禰疑野というのは、ここで渡来人が葱を

栽培していたからであろう。(伝説上は、多氏の勝利を

天皇がネギらって誉めた事でネギノというとされるが

これはこじつけとしか思えない。だが、この伝説には

ネギラウという語とネギとの間には心理の深層に通底

するものがあった事を現しているのではないだろうか)

多氏(大氏、オオノ氏)は初め日子族の神職でもあり、

その為、多氏(と同族の春日氏)を仲ツ臣と言った。

それは神と大王との間を執り持つ官の意味である。

多氏の下で卜占にたずさわったのが卜部氏であり、

これが後世の中臣氏である。多氏は最初は鹿卜を専ら

にしたが、元対馬で亀卜をしていた卜占の一族を配下

にした。亀卜の方が焼裂面が大きいので見易い長所が

あったからである。多氏が卜部氏を配下に加えたのは

卜部氏が亀卜術を持って豊前に進出してからか?

或いはその術を評価して多氏が卜部氏を原郷対馬から

豊前に移住させたのか?は不明である。だが、その後

多氏が豊後→肥前鹿島→常陸鹿島・大和と進出するに

一貫して従い、いつの頃からか卜部を改めて(多氏の

仲ツ臣というのに倣って)中臣(←那珂富美?)を称する

ようになる。仲ツ臣だった多氏が、大和の内廷で壬生

をも務めるようになると、中臣氏も宮廷の官吏に登用

されて、宮中祭祀を斎部氏と共に行うほか、一族から

は武人も輩出した。これは、常陸鹿島を治めた那珂

国造・多氏の手の者として、磐城方面の蝦夷討伐戦に

度々参加していたからである。当初は戦いの帰趨や

戦法を占う為の従軍であったが、占いの結果を自ら

証明する為にか?戦闘にも加わりその才を認められて

武人化した。卜部というと、日陰の職に思えてしまう

が、亀卜の亀を銛で取るのは力技であり、後世の捕鯨

漁師の如く強健な勇男揃いだったという。

大和に進出してからは対新羅派遣軍の将軍まで出して

おり、武人としては多氏を凌ぐようになる。

(中臣氏が藤原氏に出世してからは、多氏は逆に中臣

と同系と言われるようになり、多氏の祀った鹿島神と

多氏の同族である春日氏の祀っていた春日神を藤原氏

の祖先神に取り込んで春日大社とし、これを自らの

氏寺と称したのである。但し、多氏にせよ中臣氏に

せよ、鹿島系とは別に畿内入りした一族があったと

見られ、物部守屋と共に蘇我氏の崇仏に対抗した

中臣鎌子は非鹿島系と考えられる。)

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