第19章 河内の日下(草香)と持統女帝

第19章  河内の日下(草香)と持統女帝

    (持統の生育地 鸕野讚良は日下の隣地である!)

☆河内国讃良郡は鸕野讚良皇女の産土か?

持統天皇の幼名(もしくは諱)は鸕野讚良皇女という。

そしてその名の通り河内国讃良郡にあった母方(蘇我石川氏)の

所有村落で育ったと言われている。母は石川麻呂の娘である

遠智媛とされる。

讃良郡は、河内湖の東北岸の地であり、現在の四條畷市と西側

の寝屋川市や大東市などに跨っていた。

今でも寝屋川市内に、国道1号線である第二京阪道路の南側に

東西の讃良町の地名が残る。

鸕野の鸕は鵜の鳥の異字なので、河内湖北岸の川鵜の集まる

潟などがあったのだろう。

でこの讃良の意味には幾つかの説があるようだ。元来は佐良良

と書くが読みはサラではなかったか?という見解もある様だ。

芹生と書いてセリョウと読み芹良とも書く様に、草生→草良で

ソウラ→サラであろうなどという説もあるようだが、これは

いささか納得できない。何故なら、この讃良の南東には有名な

日下の里があり、それは草香でもあるからだ。草良ならクサラ

でなければならぬだろう。もっとも福岡には早良の地名もあり

また佐原や沙原とか相良などという地名もあるのだから、案外

浅原(=潟、浅羽潟という地名もある)→アサラ→サラなどと

いう転訛なのかも知れないのであるが。

だが、近著である「馬」が動かした日本史 (文春新書) 」の中

で、著者の蒲池明弘 氏は、この讃良の地は、河内馬飼部の

集住地でもあり、河内王朝時代に盛んになったと推定される

馬牧があった所で、良い飼い葉の茂る草原で、この牧草地を

サララと言ったのではないか?と推理している。

蒲池氏によれば、ここの馬を使役して、堺の古墳群の用石を

大量に運ぶことで、あの大古墳の築造が可能になったのだと

いう。すると、日下の南側にある石切はその古墳用の石材を

切り出した所なのかも知れない。

石切は、三輪王朝時代には、物部氏(もしかすると三輪王家の

一族だったかもしれないのだが)の支配地だったと思われ、

河内王朝になってからは、ここの物部の下層民は大古墳群の

築造に奴隷的に従属させられたのかも?と想像をたくましく

させられる。

遥か後世に継体天皇が越の国から推戴された時に活躍した

河内馬飼首荒籠とは、ここの馬飼部の伴造だろうが、馬飼部

は百済系の渡来人だという。

(そうすると、この河内湖の東岸にヤマトとの間に聳える山地

が生駒だというのも、この馬牧の適地に関わるのではないか

と想像される。)

先述蒲池氏の説では、弥生末期には、朝鮮半島南部には良い

草原が無く、その為馬飼部は牧草地を求めて日本列島に移民

して来た、との事である。

一般的には、製鉄の先進地だった南韓では、溶鉱の為に多量の

木炭を必要とした為、木材が片っ端から切られてしまい、殆ど

禿山となって荒れ、草本さえ生えぬ流土地になっていた!と

言われている。しかし、それを牧草の喪失という観点で捉えて

いる人には、蒲池氏の指摘まで行き着かなかった。

もっとも蒲池氏は、「韓半島には牧草に適した土壌がそも存在

しなかった」とも言っている。

馬飼部が河内湖の北部に定住したのは4世紀以降の事であろう

というので、応神の東征の後に、北九州の草原地帯の放牧地

から呼び寄せられた天孫族の支配する部民ではなかったかと、

これは私の推理である。

魏志東夷伝倭人の条には、邪馬臺国の版図には牛馬が居ない様

だと記述されている。全く輸入されていなかったのか、偶々

魏使の駐在した伊都国あたりには見かけなかったという事で、

実は狗奴国あたりには既に少数ながら牧畜が行われていたの

かもしれない。

また蒲池氏は面白い事を述べている。鹿と馬は食性が近いので

鹿が食べる草が生える土地つまり鹿のいる所は、馬飼の進出

する時の目標になるというのだ。

もしその通りなら、各地に残る鹿島の名も、神鹿としての鹿の

いる聖地と見て来たのだが、もしやそこは征服戦争や運搬に

役立つ馬の生育地としても良好な土地なのだという事になって

来る。多氏の進出に関わる肥前鹿島→常陸鹿島も馬牧の適地

でもあるのかも知れないのだ。

鹿や馬が、笹を食べるかどうかは聞いた事が無いが、古代に

おいては、篠とは芒まで含めて禾本科植物や真菰などまで含む

笹状の細長い葉=小葉ササバを付ける植物の総称であったと

思われる。蒲池氏に依れば鹿も馬も冬場で他の植物が枯れて

いる時期には笹を餌にするそうである。下北の寒立馬もそうだ

と言う。だとするなら讃良とは笹良なのかも知れない。また

その蒲池氏は面白い事を紹介している。生駒颪(いこまおろし)

という風の存在である。馬は虻や蝿に纏われるのを嫌うのだが、

強風の吹く草原は虫が付かないので馬育に適するのだと。

いずれにせよ、どうやら河内湖周辺は河内王朝時代に急速に

発展した土地柄だったのではないだろうか?

この日下に隣接した土地で育った皇女即ち持統女帝が、

太陽神崇拝の考えを幼時から持ち、それが記紀の記述に反映

されている可能性さえ考えられる。

(日下は河内王朝時代の久我=日神祭祀地・斎日壇だった!)

実際、『天照』はその時代(持統朝)迄は、男神であったのが、

持統に擬える為に女神にされたという説もある位なのだ。

そして、持統が藤原不比等に高市皇子を暗殺させて、若くして

死んだ我が子草壁皇子の皇子つまり皇孫である文武(珂瑠皇子)

を皇位に就けようとした事が、天孫邇邇芸の降臨による葦原

中国の支配という観念に反映しているという説も強い。

(草壁皇子の草壁は無論、日下部である!)

更に持統の和風諡号は、高天原広野姫天皇というのだ。これは

正しく天照大御神の化身と言えるだろう。

鸕野讚良の馬牧地が果たして広野というほどの大草原であった

かは分からないが、これは想定というか願望のような想いか?

そして、讃良媛が幼い時に通ったかも知れぬ日下の斎日壇の

東から昇る日輪の向こうに、皇女は高天原を夢想して過ごした

のかも、と想えてくる。

(壬申の乱の折、吉野を脱出した天武夫妻が東の方伊勢の社を

遥拝して武運を祈り、その神幸で瀬田の戦いで神風が西へ吹き、

東軍大海人方が大勝した話は有名である。)

夫・天武と共に、新たに伊勢神宮を祖神の御社に定めたのだが

晩年、わざわざ三河にまで行幸したという目的は何だったのだ

ろうか?持統の船着港は御津という名で残っている。この近く

に何か持統の求める特別なものがあったのか?今は究明できて

いない。

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