番外「日本古代史書研究」読後感
天孫族考番外「日本古代史書研究」読後感
◉「日本古代史書研究」(関根淳著、八木書店)を読んで
基本的には、よく「国史の研究とその解釈について」という史書学そのものを整理していると思った。
しかし、私がもっとも関心を持ったのは、関根氏が後書きで言及している「権力資源論」という学問分野の存在についてである。
権力資源論とは、古代から現代に至るまで、政治権力の存在の所以・源泉は何処にあるのか?を考究するものである。
これは、凡そ1990年代の後半あたりから現在に至るまでの30年弱の間に進展してきた歴史学の切り口(裁断原理)である。特にアメリカの歴史学者マイケル・マン(UCLA教授)やティモシー・アール(ノースウェスタン大学教授)などの推進で発展してきた概念である。
関根氏は、次の様に述べている。
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国際的な文化人類学・考古学の立場からは、国家形成史の考察理論として アール (Earle) の 「権力資源論」が注目されている。 権力資源論とは国家形成の最初の要件である権力がどのように構築されるかを経済・戦争・イデオロギーという三つのソース (資源) から分析するものである。 簡明で汎用性の高い理論であろう。 これを本章の主題に引きつけて考えるならば、イデオロギーという権力資源を「史書」史 において検討することが可能である。
以上のように、東アジア古代史が考古学・文化人類学と連携しつつ新たな国家形成史論を発信することはけっして不可能ではない。 わたしたち歴史学 (文献史学)はエンゲルス理論から早々に脱却し、国家形成史研究における考古学からの誠実な呼びかけに対して真摯に向き合うべきである。
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下図は、明石茂生氏「国家の形成:空間的視点からの考察」
に掲げられたものである。それは下注に引用する。
上論で、エンゲルスへの言及があるが、そのエンゲルスの国家論(「家族、私有財産及び国家の起源」)では、搾取者と被搾取者の二つの階層の関係から国家が成立して来るというテーゼがあり、これはその当時の(1世紀以上前の) いわば権力資源論でもあった。つまり、搾取という行為を正当化する為に王権神授説のような宗教的な口実が考え出され、また搾取の実行を担保する為にゲヴァルト=統治暴力が導入される。それが警察や軍事力によって発揮される体制が国家という組織だという認識である。
この考え方は、マルキストだけでなく、その間接的影響下にあった本邦の戦後学会でさえ暗黙的に広く受容されてきた。
この経済行為を搾取・被搾取に単純化する論理を脱却しなければならない!
という問題意識を関根氏は主張しているのだと思う。
即ち「搾取」という観点そのものが一つのイデオロギーの産物だからである。
とは言え、マルキストから見れば、「それは単純化ではなく、本質を究明していけばそうなるのだ」と言うかもしれない。
だが、そうであるなら、我々は、「原始時代から初期の部族制〜首長制〜原初的な国の成立」を、経済・戦争(軍事)・イデオロギーという権力資源論の立場からはどう構築出来るかを、精緻に確認する必要があるだろう。
権力の成立を、単純に搾取を軸にして見ないという点では、吉本隆明の展開した「共同幻想論」があるのだが、これもまたいささか観念論になっているのかと思える。もっとも共同幻想論では、権力資源の中でイデオロギー的な
ものを根源的なものと捉えているわけだが、歴史実態(考古学)的には、実際どうなのだろうか? かなり原始の時代にも宗教の萌芽のあった事が言われているのだが、それが実体上の経済(生産行為や交換行為、儀礼行動など)にいつから、またどうリンクして行ったのか?
この辺りを深く考究する必要を感じるのである。
ここで、留意すべきは、マルキストはテーゼを提供されると、それに合わせて現実からそのテーゼに合致する事態を探す様になって行く。本来的には、テーゼとは現実世界を説明する為に立てられた仮説である筈なのだ。
ところがこれが往々にして逆転してしまうのである。その典型が、江戸後期についてのいわゆる「厳マニュ論争」である。資本主義社会の到来の前段階には、商業資本によるマニファクチャーが充実してきて、それを発展の契機として資本家が成育するという考え方である。そこで明治維新はいわゆるブルジョワ革命の段階と見るかどうかを巡り、そう見ようという人達により既に江戸末期にはマニファクチャーが成立していたという立論がなされ、その論を証明する為に、厳密なるマニファクチャーの存在を探すという事になったのだ。これは、マルキストにとって「もし明治維新によって資本主義が成立していれば、その次の段階は社会主義段階なので、社会運動・労働運動は社会主義の実現を目指すという事になる。だが、もし明治維新によっても資本主義の発達が未完成なら、歴史の発展段階として、社会運動は先ず資本主義社会の充実を目指さねばならなくなるのである。」これは社会主義を信奉する人たちにとっては甚だ面白くない。
この為無理矢理、江戸後期に厳マニュを見つけ出し、明治以降の(今となっては、太平洋戦争以前の)社会段階をして一応必要条件は満たした資本主義社会と位置づけたかったのだ。
(勿論幕末には、マニファクチャーの初期段階はあったが、定義上の厳マニュに相当する例は稀だったのである。つまり、明治維新は資本主義をもたらす社会的な進歩などではなかったのだ。表面上の文明開花はあったにせよ、明治維新は王政復古であり、アンシャンレジームの扮装を変えた再編でしかなかった。いわゆるボナパルティズムの反動政権だったからだ。)
日本に資本主義が成熟するのは、太平洋戦争後、漸くバブル前の時代である。
ところが、案に反して、その頃には社会主義国に於ける矛盾の数々が露呈し、遂には社会主義は最早資本主義の後に来るべき社会だとは、多くの人たちが思わないようになってしまって、現在に至るのである。
唯一の“社会主義国”である中国は、形を変えたボナパルティズムでしかない。習近平政権は、全くのナポレオン的なものだからだ。中国共産党は民衆の革命を恐れて弾圧し、ソ連にさえあった労働組合の活動さえ認めない。
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注) 明石茂生の権力資源論についての見解
国家形成への契機としては,いままでさまざまな考えが提出されてきたといえるが,主なところでは人口圧や資源制約の解決,支配・収奪ないし 防衛目的,公共事業(治水など)の要請,長距離交易と威信財の確保,対外政治的要因(第二次国家)などがあげられよう。国家の本質はM. Mannが定義するような,正当性を伴うとはいえ暴力に裏付けられた規制・法律作成の独占化にあるとすれば,国家形成の問題はその構成員がいかにして そのような権力の制度化を受け入れるに至ったかに帰着する。そしてその解答は集合的行動の意思決定に絡んで権力の源泉つまり経済、軍事、イデオロギーの3つの側面から引き出すことができるはずである。
図で表すように,権力の源泉としての経済,軍事,イデオロギー は相互に補強する形でひとつのシステムを形作る傾向をもつ。経済的基盤(富の集中)は軍事,イデオロギーの基盤を負担,寄進というかたちで補強する。軍事的権力は財産権の規定ないし保護という形で経済的権力の保持 を助けることが出来るであろうし,イデオロギーにはその保護を通じて存立基盤を社会的に補強するであろう。イデオロギーは構成員の価値体系に 訴えることにより,軍事,経済的権力に「正当性」を付与してまたは媒介してその存立を支持することが出来る。そしてこの相互依存のなかで国家の形成と存続も可能となるのである。
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◉古代の終焉時期に関しての追考
また「日本古代史書研究」の中で関根淳氏は、「三代実録」の後の国史(仮称「新国史」とか「本朝世紀」などの称があった)が、計画されながらも、恐らく宇多天皇の代の実録の編纂中に中止になり、以後再開されなかった事について、歴史を扱う原理即ち国家統治の原理が、それ以前とは異なるものになって、もはや国史編纂をする意味が失われたからだ、という意味の見解を示している。
つまり六国史の時代は、いわば古代王朝の時代であり、本邦の場合皇家が連綿として諸氏族の上に立ち、神授された王権をもって統治する時代だったが、宇多天皇以降には、藤原氏の摂関政治が開始されて、国家は王権とその宰相家である藤原氏の共同統治のような政体に変化した---------という事になるのである。実態は、天皇は御簾の内に隠れて、政治の実権は藤原氏の長が掌握する時代である。こういう意味合いからも、摂関制の成立によって、本邦の古代が終わり、中世のクシャトリア下剋上の時代が始まった!と考えられるのである。(藤原氏はバラモンを装おうとしたがそうではない。新興のクシャトリヤに過ぎないからである。しかも元は海民=バイシャである。)
最早、「国史」による皇家の権威づけは不要になった!という事なのだ。
明治の王政復古まで、“本邦の国体は歪められていた”という風にいう事もできるかも知れない。そして、現代に於いて「明治天皇実録」から「昭和天皇実録」まで三代の実録が刊行されたのは、(戦前戦後での国体の概念が変革した事は置いて、)ある意味で、“天皇の坐す国”の実録の再開である。※もっとも、戦前に於いて宮内省で、神武天皇以下歴代の天皇等の事績を纏めた「天皇皇親実録」というものが編纂されたが、これらは「国史」ではない。
留意すべきは、「明治天皇実録」であって、「日本明治天皇実録」ではない事だ。実は六国史の一つである「文徳天皇実録」はその正式名称が「日本文徳天皇実録」であり、書紀以来の六国史はすべて「日本〇〇」という書名になっているのだ。それが、「日本三代実録」の編纂完成をもって終了したのである。すなわち藤原氏の時代なった!のだ。それは「古代日本」の終焉なのである。
◉「古事記」は何故半ば公式の史書の様に扱われたか
「日本古代史書研究」に依れば、推古朝で「天皇記」「国記」が編纂された事が書紀にも記載されているが、その基になった「帝紀」「旧辞」が恐らく欽明朝までに成立していたであろうと推理している。そしてこれらの名の伝わる史書類の他に、様々な氏族が自らのルーツを古代国家の体制の中で都合よく説明するための姓氏録(家史・氏伝・氏文)を持ち、また各氏族の家に伝わる神話や王統譜伝なども持っていたと想像される。それらを称して「古記」とか「古語」「古事(フルゴト)」などと呼んだという。これらは、現存しない!が、記紀の編纂の頃には、相当多数あったと考えられるとの事なのである。それは平安朝に4回以上行われた書紀の講書の際にそれらの一部が引用されている事から推理できるからだと、関根氏はいうのである。
ここまでは、私にも疑問の無い推論である。
その推論を肯定した上での疑問は、古事記以外に多数あった「古記」・古史書は、何故その後纏まった形で残っていないのだろうか?という点だ。
例えば「大倭本紀」などは、書紀とは異なる神話や古代王家の挿話を載せていたと考えられるが、今や引用部分や逸文しか残っていない。
ところが、古事記だけは、正式の国史である日本書紀が成立後もほぼ完璧に残されて来た。この事は、王朝の実権を簒奪した藤原氏にとっても、古事記は不都合な部分が少なかったからでは無いのだろうか?(私説では、古事記は書紀のドラフト本であり、大筋書紀との食い違いが少ないからだと考えた。関根氏は古事記は一種の偽書ではないか?との疑いを仄めかしているのだが。)
遅くとも、平安初期までは残っていたと言われる上宮家版天皇記である「上宮記」も、書紀編纂の参考にされたと考えられているが、何時の間にか喪失しているのである。これは、究極的には摂関家にとって不都合な内容があったからではないだろうか?(上宮記は平安中期までは、藤原氏の長者の別荘である宇治平等院鳳凰堂の経蔵に秘匿されていたという。)
既述の如く六国史をもって国史編纂が中止された経緯からしても、古代の本邦の真の歴史は、藤原氏には不都合なものだった。
端的に言うなら、(いつのまにか天児屋根命も天孫降臨に随従した事になってはいるが)藤原氏=中臣氏=卜部氏=対馬の浦部は本来の天孫族では無かったからである。
推古朝で厩戸皇子と蘇我馬子が纏めた「天皇記」では、“日本武尊〜神功皇后〜応神天皇の系統の男系が、武内宿禰〜5大臣家〜蘇我氏の女系を后妃とする事が正統だ”という理念があったと考えられる。
これが厩戸皇子の憲法の「龢を持って尊しとする」という原則なのである。
龢とは和族の事であり、北九州の日之下建王家での直系である皇家(応神)と葛城氏など武内宿禰の子孫が、共にバラモンの最高位だという認識である。
この2系統が王族と準王族(副王家)であり、春日氏や多氏がその配下の和族なのである。これこそ本邦古代の“国体”であった。
この体系からは、海人族出で多氏の下僚として亀卜に携わった卜部氏は本来主流に立てるはずはないのである。
それを、春日氏(仲ツ臣)の存在に背乗りして乗っ取り中臣連になった藤原氏にとっては、推古朝天皇記の筋(ストーリー)は抹殺しなければならないものだった。また連の姓もである。等しく朝臣なら出自は誤魔化される。
祭祀者として春日氏の地位を乗っ取り、そして后妃入内家&宰相家として武内宿禰系5大臣家の存在に取って代わったのが、中臣=藤原氏なのである。
奈良時代までは、一応は臣下の分を保っていたのだが、平安朝になってからは、古代の大臣に匹敵する摂関という事実上の副王に昇り上がったのである。
だから摂関時代は最早古代ではなく中世の開始期なのである。
この藤原氏の下剋上のベクトルを妨害したのが菅原道真であり、その為道真は粛清されてしまった。また菅原氏は出雲族であり和族=バラモンではない。
◉神話という共同幻想
神話というのは、現代から見ればある種のロマンかも知れないが、古代にあっては単なる空想ではなく、もっと重要な要素だった。
神話は、それを共有する(実態としては支配者によって共有させられる)複数の氏族たちにとっての共同幻想であり、より高次の共同幻想である「国」の基礎に連続するものである。いわば、氏族の共有アイコン的なものだと言う事ができよう。つまり戦闘の旗印と同じ機能を有するものなのだ。
中世以降の村落共同体の氏神は、その共同体の成員が、実際上は、流入者も含む同一血縁集団や、長い歴史を共有して来た地縁集団でなくても、その氏神を崇敬し神事に奉仕する事によって、擬制的な同族の一員と容認される事を意味するのであり、氏神や産土神の由緒はいわばこの村落共同体の神話の核なのである。
多神教でありまたアニミズム的な原始性もありながら、日本の神話が共有されるのは、それら村落共同体の氏神達を、記紀に登場する神道譜の神々のいずれかに比定し、それによって最終的に高天原神話体系に位置付けるという古代以来の神話解釈が敷衍された結果である。
但し、それは確かに為政者側が支配の原理=政治権力の正当性を植え付ける行為の結果ではあるが、逆に被支配者が神道譜の体系に自らの氏神を位置付ける事で、アイデンティティを獲得しようとした精神作用の成せるものでもあった。
柄谷行人は「旧約聖書がわかる本」の書評の中で、次の様に言っている。
「神話というものは一般に、現行の支配体制と支配者の神的な起源を語って、それらを正当化する性格をもつ。つまり、王(権力)と神が、実質的に等しいとみなされる。しかし、(旧約聖書の)天地創造を読み解いていくと、権力と神とは対立するものである、という思想が見えてくるのだ。つまり、権力は人間がつくった悪しきものにすぎず、神はそれをはるかに超える力をもつ。」
これはセム的な一神教での旧約聖書についてであり、原初の拝火教も含めて多神教では、部族はいずれかの神の末裔だという神話を持ちあい、それらの共同幻想的なパンテオンの中で、部族の統制権の正当性の口実を構築して来たのである。