追補③「吉野ヶ里石棺の蓋石の産地」
天孫族考追補③「吉野ヶ里石棺の蓋石の産地」
吉野ヶ里の石棺に使われた石は、佐賀・長崎県境に当たる多良岳山系の産物である事が分かった。
発掘現地責任者の発言:
白木原室長は「棺には軽い石蓋を使うことが多いが、今回の3枚の石蓋は合計400キロほどの重さで、これだけの手間をかけているということも棺に眠っていたのが有力者だったと裏付ける」と説明しています。
佐賀新聞の7月6日付記事は以下の通りである。
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国指定特別史跡・吉野ケ里遺跡(神埼市郡)の北墳丘墓西側の「謎のエリア」で出土した石棺墓(せっかんぼ)の石ぶたに関して、佐賀県は6日、多良岳産のカンラン石玄武岩だったと明らかにした。4枚見つかった石ぶたのうち3枚が一枚石を割ったものと判明。重さ約400キロの石材を約40キロ離れた山地から舟で運んだとみている。こうした例は極めて珍しく、弥生時代の葬送儀礼や運搬の在り方などを考える重要な材料になるとしている。
石棺墓は、吉野ケ里で初めて見つかった、弥生時代後期~終末期(2世紀後半~3世紀中頃)の有力者のものとみられる。石ぶたの石質は、佐賀大教育学部の角縁進教授(岩石学)が鑑定した。青灰色の硬めの石で、弥生時代には石斧(せきふ)などに使われている。
近くの脊振山にある花こう岩を使わず、遠くから運んできたことに県文化財保護・活用室は「石材としてのブランド価値、呪術的な意味、多良岳が信仰の対象、などの理由が考えられる」と読み解く。古墳時代には熊本県から、阿蘇溶結凝灰岩が大和政権に関わる石棺の材料として畿内まで運ばれており「重いものを苦労して運ぶからこそ権力者の証し。被葬者が特別な人だったことは間違いない」と指摘する。
輸送手段は、吉野ケ里の湿地帯から弥生時代後期の舟形木製品(ミニチュア)が見つかっていることを引き合いに「舟自体の出土がないため断定できないが、縄文時代から使われていた丸木舟では」と推測する。
石ぶたは、裏側に線刻があった北西側の1枚を裏返すと、南東側にあった1枚と断面が合致することが判明。石をまたいで刻まれた「×」「―」などが6カ所見つかったことも決め手となった。「長い線を丁寧に刻んだ後がみられ、絵のようにも見える」という。
同日、会見した山口祥義知事は「1800年前にどうやって運んだのか。交易があったことにも驚かされる」と話した。「謎のエリア」の発掘再開は9月ごろで「大発見の可能性はまだ残されている。関心を持ち続けていただきたい」と呼びかけた。(大田浩司)
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佐賀県太良町多良には、今の長崎本線多良駅の西側にかつて古賀の地名があった。(今は多良に統合改名されてしまっている。)
古賀とは久我や陸とも書かれるが元来は日下(カガ)である。
多良には多良岳から有明海に注ぐ多良川など複数の河川が流れ出している。
恐らく石棺の材石はこの様な河川から有明海経由で吉野ヶ里へ運ばれたのだろう。
多良の北に有明海の多氏水軍の拠点だった肥前鹿島がある。恐らく多良の古賀も多氏の現地日下壇だったのだろう。
日下壇とは太陽祭祀の為の土壇(つまり斎場)である。
音読でカガ(クガ)だが、訓読では無論“ヒノモト”である。
多良から吉野ヶ里に石材が運ばれた事から見ても、吉野ヶ里は、私の仮説での日下族の主要三賀(左賀=佐賀、中賀=那珂賀、右賀=遠賀)の一つである中賀=葭野日下里だったと思われる。
ところで、この多良は旧多良村で、隣村の大浦村と合併して太良町の表記となった。
ここの大魚神社は海中鳥居と沖ノ島と多良岳を結ぶ聖線で知られている。
多良も大浦も古代の多(大)氏に関わる地名である。
多氏は日之下族(天孫族)の陸戦及び海戦隊を為したと思われ、天孫族の東征と共に、各地に転戦移住し、その氏族に関わる地名を残した。
過去の天孫族考で論考したのだが、今一度それらの地名を
一覧的にまとめてみよう。
本貫に関わる地名:鹿島(神島)、志賀島
氏族名の延長地名:大野、(しばしば現地名+大野となる)
居住地に関わる地名:多良、多原・田原、
大田原、小田原、
太田、那珂
水軍の根拠地かと思われる地名:大浦、大之浦(大野浦)、
加太、太地
これらの名称の各地が多氏に関わるかどうかの目安は、
①近傍に祭日壇である久我や古賀の地名があるかどうか?
祭日壇を指す地名:日下、久我、古賀、古河、加賀、甲賀
(但し古河には古川=河川の旧流や河跡の湖沼の場合もある)
また
②その祭日の神官である和邇氏や春日氏が隣住していた形跡(春日の地名とか春日神社)があるかどうか?
更に
③日奉(ヒマツリ)に従事する日置部とか日下部が近接して居住していた形跡がないか? (日置とか草加や草壁・日部・草香等の地名や日置神社などの古社が残っていないか)
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などで推理できる。
但し注意しなければならないのは、相模大野の様に後世に
単なる丘陵地に付けられた名称もある事だ。これなどは
総称して相模原の一角を相模大野と命名したのである。
さて一方、私は春日氏と多氏は同族で、孝安天皇の兄である天足彦国押人命系の海人族だとしたのであるが、
それについて、多良が多氏と関わる事から、弁辰伽耶地域にあった小国家である多羅系の氏族ではないか?との説が
ある。
abemaブログでoyasumipon氏が以下の様に書いている。
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http://www.busannavi.jp/1375258447
洛東江の下流を拠点にして、伽耶の優れた鉄製品を作って、中国と日本との貿易や交流などが行われ、大いに繁盛した金官伽耶ですが、洛東江上流と黄江の分岐するところに位置する慶尚南道(キョンサンナムド) 陜川郡(ハップチョングン) 城山里(スンサンリ)にある玉田古墳群から5世紀はじめごろの金官伽耶の影響を強く受けたものと考えられる甲冑や馬具、装身具などの金属遺物や、ここからすぐ北にある大伽耶系の竜鳳紋環頭大刀などが発掘され、5世紀ごろの伽耶諸国と、古代日本、百済などの三国との国際情勢がうかがえる貴重な遺物を展示している陜川博物館があります。
陜川博物館の裏の丘陵にある玉田古墳群は、日本書紀に登場する古代の「多羅国」の支配層たちの古墳と知られており、古代日本と深い交流を行った伽耶は、6世紀、新羅に併合される際、多羅から日本に移住した渡来人をタラシヒコ、タラシヒメと呼び、百済を旧多羅=「くだら」と呼ばれたりもするようです。
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陜川の旧跡多羅は、大伽耶(高霊加羅)国傘下の小国だったと考えられ、新羅の統一戦争で、大伽耶や安羅と共に滅亡し、その人民の多くは日本列島へ亡命したと推理される。
しかし、だからと言って、タラシヒコやタラシヒメが即
多羅から渡来した人を言うというのは乱暴だと考える。
第一時代が異なるからだ。また都怒我阿羅斯等を阿羅(安羅)から来た人だと解するのと同じ様でいて、そうではない。私は降臨した日子・日女だと考える。
また旧多羅=百済という解釈も誤りである。百済は旧貊残
であり、これをクダラと読むのは、久多し邦(懐かしい邦)
と百済からの亡命人達が呼んだ事に起因するからだ。
第一、多羅は大伽耶連合の一小国であり百済は伽耶よりも
大きな国家だったのである。
一方で、“多羅が大伽耶傘下の小国だとすると、その帰化人
が居住した地域だから多良だろう”とする考えは、言下には否定出来ない。
とは言え、大伽耶や多羅が新羅に滅ぼされたのは欽明朝の事とされるので、もし仮に多羅人が多良岳東麓に帰化したとしても、その頃は、既に肥前の多氏の中核部は、天孫族の神功皇后・武内宿禰の東征に随従して畿内に移住し、その後東国の経略を命じられて中部地域〜関東へと発展していたので、それよりも遥か後世の事になる。
多羅人の帰化が遅かったのは、この地域の古墳が県内他地域に比べて極端に少ない事からも推理できる。
伊福湯牟田古墳は棺内に刀剣が副葬された横穴式石室を持つ円墳だが古墳時代後期のものとされている。
言い方を変えれば、吉野ヶ里が日之下族の中賀であったのは多羅人の帰化よりも遥かに早く、その頃は肥前鹿島〜有明海沿岸は多氏の活動範囲だったのであり、従って多良の名は多羅人の亡命よりも遥か前に存在したと思われる。
(或いは元の名は多良では無かったのかも知れないのだが。)
その韓国多羅の玉田古墳群遺跡を訪ねた人が次の様に記す。
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http://sawarabi.a.la9.jp/kankounotabi/kannkokunotabi.2-2.html
大河洛東江は、加耶にとって「母なる河」なのでしょう。
増水した洛東江を渡る
洛東江下流の東側にトンネの福泉洞古墳群、西側に金海の
大成洞古墳群を遺した金官加耶を中心とした前期加耶の繁栄は、4世紀から5世紀前半をピークに衰え、その後の後期伽耶文化は、洛東江を遡った高霊から陜川など内陸山間地方に舞台を移したと、遺跡調査からわかってきたそうです。
その高霊を中心にした大加耶の一つの国に多羅の国があり、そこにある「玉田古墳群」の発掘成果が最近紹介され、高霊の池山洞古墳群と並ぶ王者の墳墓として大きな話題を呼んでいます。
(中略)
途中、安羅加耶だった咸安を過ぎて、道路は洛東江を渡り、北上します。
この夏の長雨は韓国南部も東京と同じで、さらに午前中の豪雨もあり、洛東江は河川敷の畑まで冠水させ、満々と流れていました。
洛東江の支流、黄川沿いに少し入った豊かな水田地帯に、「多羅里」の地名の集落があります。
『日本書紀』の「欽明天皇二三年」の記述にある「任那」
十の国のうち、「加羅」と並んで比定できる古代「多羅」の地とされているムラです。
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つまり多羅人の大挙亡命は早くて6世紀前半、もしくは6世紀後半という事になる。(562年に大加耶が新羅に降伏し、加耶は東アジアの表舞台から姿を消す)
但し仮に、もし多氏自体が、天孫族の移住に随伴して多羅
から早くに渡来したとすれば、多氏所在地たる所が多良と
命名された可能性は残る。
そう考える場合は元々“多氏の国だから多羅という”事である。すると高霊加羅の天孫族にとって“多羅は特別な意味を持つ支族の小国家だ”という事になろうか?
時代は下るが、ササン朝ペルシャでは、マギ神官団だけで
成る聖都が、首都とは異なる北のシーズの地にあったのだ
が、多羅と高霊加羅はそういう関係だったのであろうか?
多氏は、九州王朝時代には、大分君や阿蘇君などを出して
おり、天孫族臣下団の中では特殊なポジションにあったのかも知れない。また同族の和邇氏が神官を出す氏族だとすれば、多羅は多氏だけでなく和邇=春日氏も居住する聖域でもあったのだろうか?
先述の玉田古墳群の研究が進めば、この辺りの謎ももう少し解明されるのではなかろうか?
目下、晋州にある慶尚大学が出土物を管理しているらしい。
注目するのは、冠が出ている事。冠は王の地位にある者の
威儀具である。また鎧や馬冑・環頭太刀など武具が多い事。多羅が戦闘集団である事が推測される。また鎧には前面左右に巴紋が(左巻き右巻きで)見られる事などである。(→巴紋は応神天皇のシンボルでもある。とは言え金官伽耶出土の鎧にも左右の胸部に巴紋があるので、巴紋は伽耶の共通図像であるのかも知れない。)
◯線刻に関わる謎
また石蓋の線刻について
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白木原室長は「棺には軽い石蓋を使うことが多いが、今回の3枚の石蓋は合計400キロほどの重さで、これだけの手間をかけているということも棺に眠っていたのが有力者だったと裏付ける」と説明しています。
記号の向きの違いが意味することは?シャーマンの力を封じ込める目的か。
石蓋には埋葬者を封じ込めるための「線刻」と呼ばれる記号がいくつも刻まれていました。白木原室長は「なぜ線刻を刻んだあとで石蓋を割る必要があったのか現時点ではわからない。今後、弥生時代の葬送儀礼などを知るうえで重要なものになる」と話しました。3枚の石蓋のうち1枚の記号だけが棺の内側を向いていました。祭祀を司る「シャーマン」などの有力者を完全に封じ込めるために、頭の上の石蓋だけを内側にした可能性も考えられるということです。
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という事で、あくまでも被葬者はシャーマンしかも女性だとして、卑弥呼的な存在を示唆して、邪馬台国の版図であるとしたいようだ。
彼らの頭の中には、そこが邪馬台国と敵対していた狗奴國の版図だったという考えが露ほどもないというのが不思議だ。
狗奴國(日下国の漢訳)には、官として“狗古智卑狗”が居たと魏書が書く。倭名類聚抄には「菊池」と書いて「久々知(くくち)」と注釈されている。狗古智卑狗=菊池彦で、狗奴國が後世の菊池を版図としていたと考えてのことだ。
だが、私は天孫族考で叙述した如く、日下知彦(久我治日子)だろうと考えている。また「王は“卑弥弓呼”であるが王より先に狗古智卑狗が記されていることから、狗奴国の実権を握っていたとも考えられる」とする説があるが、それは根拠の薄い解釈だと、私には思える。
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「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王
(中略)其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼興狗奴國男王
卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状」
-- --『魏書』東夷伝
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狗奴國の男子王が卑彌弓呼という名前である事を示しているが、「其官有狗古智卑狗 」は単に官と書かれているだけである。素直に取れば、その大官(宰相)の意になるだろう。それが日下知彦であるので、日之下国全域を統括する官であったという事にはなるのだろう。
一方で男王の卑彌弓呼の方は、単に邪馬台国の卑彌呼に対照させる為の名前かとも考えられる。卑彌弓呼と狗古智卑狗との関係は、オオキミと内宿禰(=オオオミ=大臣)との関係ではなかろうか?
だが読み方を変えれば、狗古智卑狗が王としては卑彌弓呼の名の人物だとも考えられなくもない。狗奴國の官制が不明なので、ここはそれ以上の推理が出来ない。
日下知彦がオオキミに当たるもので、卑彌弓呼が日之下御子あたりを意味する呼称なのかも知れないのだが。
後世の琉球王が、呼称として御主加那志前ウシュガナシメーと言われていたのと同様ではないだろうか?
ところで、また最初の線刻の話に戻るが、天文考古学者が、「天の川を示す星図ではないか?」と言っていたのは気になる話だ。
私は最初X印などが目立つところから、一種のアヤツコかと考えたのだが、確かにアヤツコにしては線刻が多数あり過ぎの感はある。そうなると、星図を描く為にある聖性を有した石(多良岳の石)を運んできて、そうしたが、葬送の際にその石を石棺の蓋として使った;その為星図としては不連続な形で割られて棺の蓋にされた、と言うのか?
もしくは、蓋は最初綺麗な星図であったが、改葬の時に、
割られて中の被葬者の骨や副葬品を取り出したが、呪術的な理由で再度石棺を封じた-------という可能性もあるだろう。
魂魄と身体(骸骨)とが分離しているから、骨を改葬したが魂魄は悪さをしない様に封じ込んでしまったというのかも?