「天孫族考」補遺2

「天孫族考」補遺2

◯動物と天山三族

小月氏の3族(和族、牛族、宇族)の日本列島への東遷について、人間だけでなく、家畜の同行移動という面で、中央アジア〜日本列島への移動があった事で、その人間たちの移動の傍証を得ることが出来る。

それは、鷹狩り用の鷹と和犬である。

但し後者は、ほとんど渡来時に同行してきた犬が原種となったのに対し、鷹の方はむしろごく少数の鷹は渡来時に持参したであろうが、大部分は渡来後に日本に居た鷹を飼い慣らすことによって鷹狩りに用いたという違いがある。

もっとも、飼い犬については、天山族の渡来以前に、縄文時代から、日本固有種と思われる;いわゆる縄文犬が居た事が、縄文遺跡の出土物から確認されている。

従って、渡来時に同行した和犬も、縄文犬と混雑して、渡来時の純粋種のままで残ったわけではない。

鷹の方も日本先住種と掛け合わせされた可能性は高いものの、恐らく渡来種の方が圧倒的に少数であったと思われ、早い時期に、大陸種の特徴などは埋没してしまったろう。

一方で、犬の方は、恐らく繁殖に必要な最低限の雌雄が同伴して渡来し、一定程度の原種の性質を中世後期から江戸期に至るまで、特定地方種和犬として保持されて来たと考えられて来た。

和犬については、その起源を考えるためのDNA研究が、渡来人のそれと同様に為されてきている。

日本固有種(縄文犬)に近いと考えられて来たのが、エゾ犬と秋田犬および甲斐犬である。

他方渡来人の持ち込んだ犬には2区分があり、弥生時代に稲作漁労民(海人族)と共に持ち込まれたものと、出雲族や秦氏そして和族(天孫族)とともに持ち込まれたものとがある。

後者には、石州犬や四国の幡多犬及び紀州犬などが考えられている。因みに柴犬は石州犬と幡多犬の掛け合わせで誕生したと先刻の朝日新聞日曜版でも特集していた。

犬のDNA研究の権威は、田名部雄一岐阜大名誉教授である。田名部教授との以下のインタビュー記事は参考になるだろう。

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──日本におけるイヌの起源、歴史はどうなのでしょうか。

田名部 日本を始めモンゴル、韓国、台湾、東南アジア、

ヨーロッパなど各地のイヌの遺伝子を調べたところ、

モンゴル犬や韓国犬が日本犬に近いことが分りました。

さらに、日本犬に多く見られる突然変異型の遺伝子が、韓国犬だけに見られたんです。そのことから察するに、モンゴルなど東北アジアから韓国に移入したイヌに突然変異が起き、それが日本列島に入ってきたと考えられます。

しかし、それだけが日本犬のルーツとはいえそうにない。

なぜなら、日本犬の一部に東南アジアのイヌと同じ型の遺伝子を持ったイヌもいるのです。

──東南アジアのイヌがどうやって日本にやってきたのでしょうか。

田名部 どういうルートをたどったのかはよく分りませんが、縄文人によって日本列島にもたらされたのではないかと考えられるのです。一方、弥生人とともに突然変異型の遺伝子を持ったイヌが朝鮮半島を経てたくさん入ってきて、先にいた縄文犬と混血し、今の日本犬のもととなったと思われます。

その後、古墳時代以後は、外国のイヌの影響を受けず、

日本犬が成立していったようです。

──確かに、弥生人は朝鮮半島からやってきたといわれていますから、人の歴史と照合するとぴったりきますね。

田名部 そうなんです。イヌは常に人間とともに移動する

ので、日本犬の起源から日本人の歴史、ルーツが見えてき

ます。しかし、古いイヌの型の遺伝子がどうやって日本に

入ってきたのかなど、明らかにすべき点がまだまだ残されています。

今後、古いイヌの骨のDNA解析などを用いて、調査していかなければいけません。

──イヌと日本人の関わりは、そもそもどうだったのでしょう。

田名部 縄文人の生活の中心は狩猟採取でしたから、イヌを猟犬として使っていたと考えられます。

──その頃の遺跡から、埋葬されたイヌの骨が出てきたと

いう記事を見たことがあります。当時から、人間にとってイヌは重要な存在だったんですね。

田名部 そうでしょうね。確かに、約1万1千年前の遺跡、

愛媛県の上黒岩陰遺跡から出てきました。

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和犬の遺伝子の変移経路と、人間の遺伝子の変移経路を比較して、両者に相関関係が濃厚にあれば、それが日本人の成立経緯を物語る傍証になると思われる。

いずれにせよ、弥生人は農耕民族でありこれがいわゆる倭人であるが、農耕民族にとってより、牧畜民族にとっての方が、犬の存在価値が高いので、和犬の中に占める(田名部教授のいわれる)突然変異種が、蒙古系であるとの見解は妥当なものであろう。

私は西日本系の和犬の原種は渡来した出雲族や秦氏、そして和族によって持ち込まれたものであろうと推理する。

さてもう一つが、鷹狩という文化である。鷹匠という特技者の存在も含めて、その起源は中央アジアにある事は、民族学者の常識ともなっている。現実に今でもキルギスなどでは鷹匠が残っている。鷹匠の技術は、天山北路沿いの民族に起こり、それが東西に伝播した。西洋の中世にも鷹狩が在ったという。

一方、東側には蒙古や中国、朝鮮半島、日本列島へと伝わったのである。西洋へ伝えたのは、フン族だとか蒙古帝国だとか或いはサラセン人もしくはトルコ人だとか、諸説がある。そちらでも、恐らくは、その習俗のみが伝わったのではなく、鷹匠が移住したに違いない。

日本への鷹狩は、出雲族とともに移住して来た鷹匠によって持ち込まれたものであろう。秦氏系や天孫族系にも鷹匠が居たかどうかは定かではない。しかし、その技法が古代〜中世の日本列島には、ほぼ全域的に広まったというのは、日本人にとって鷹狩は極めて親和性の高い習俗であったと思われる。

ところで、日本人と飼育動物について極めて不思議な現象がある。それは、和人の原郷が中央アジアにあったと言うなら、何故、その地域を圧倒的に代表する家畜である羊が日本には普及しなかったのか?という問題である。

私などは、和族の東遷のキーポイントとなる黄河の移動には主に羊皮筏を用いたと考えた者にとって、明治以降になるまで羊の飼育が国内でなされて来なかったというのは不思議な事と思われた。王朝時代に、朝鮮の王家からの贈呈品の中に羊が含まれていたとの記録はあるが、それを日本側で飼育して繁殖させたとの記録がないのである。

この事は、上古の日本人にとって最早、「羊は無用な家畜」とみなされたという事に他ならない。

それは一体何故だろうか?

過去に、私はこの疑問に頭を悩ませた。

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☆日本民族と羊

推古天皇の時代に百済から二頭の羊が献上されたが、繁殖する事はなく、再び“羊のいない国”に戻ったという。

だが、羊の知識は、十二支に入っていることもあり、山羊に近く角のある牛科の動物との認識は、我が国人にも存在した。

しかし実物を見たことがない;十二支の他の動物、虎や龍、そして十二支以外の獅子や、麒麟とか鳳凰の様な想像上の動物に近い存在だったと言われている。だから絵に描かれた羊は、江戸時代に至るまでほとんど山羊の態をしていた。

推古朝以来、何度か羊が輸入されたとの記録はあるようだが、飼育が繁殖に至ったとの記録が無い。放牧の草地はあった筈なのに我が国で家畜化しなかったのは、偏にその必要性が薄弱だったから!としか考えられない。

中央アジアに起源を持つと推理される天山族が、遥々この列島にやって来たという証左は、東アジアの中で比較的近い中国や朝鮮や満州女真などからのいくつかの語彙の共有はあるものの文法的な特色なども含めて、日本語は孤立語だとされ、むしろ中央アジアのアルタイ語族系の特色を保持している点だ。

更に、皇族、貴族・戦士、庶民、部民(隷属民)という4階層の民族構成は、明白にゾロアスター教系民族のそれである。

そして、また鷹狩と鷹匠という、これまた中央アジア起源の習俗を保持している。

仏教渡来により習合してしまったが、支配層のイデオロギーとしての神道は日辰崇拝の基軸を有する。

にもかかわらず、中央アジアに必須の習俗である羊の飼育と利用(羊肉食、羊毛衣料等)を、日本人は保持していない。

仏教の隆盛で、獣肉食一般が禁忌される前から、羊肉食は姿を消してしまっていた。

タリム盆地の月氏→氐羌に混住する小月氏→遼寧の辰国→

朝鮮半島中部の馬韓・辰韓と弁韓→弁辰加羅→北九州や山陰と移住して来た天山族は、恐らく三韓時代までは牧羊をしていた筈である。ところが、弁辰加羅の時代から、牧羊は急に廃れたとしか考えられない。

これは羊の属性的な特色とも関係があるだろう。

そも中央アジア〜東アジアの遊牧や農耕牧畜民にとって、羊の家畜としての価値や限界、即ち長所短所はどうであったのかを考究してみよう。

羊肉食とは、何よりもそれの含有する脂肪を補給するためと、肉食系人種の一般的な必須の理由即ちビタミンCの補給の為との二つの大きな目的があった。

(今でこそ日本人はオーストロネシア各人種同様に野菜や果物からビタミンCを摂取するのだが、東北アジア〜西南アジア〜アーリア民族は野菜食の目的は植物繊維の摂取のためであり、ビタミンCは専ら獣肉や鶏肉から摂取するような腸内機制になっているのだ。)

しかし牧畜効率から見ると、人家近傍での放し飼いがたやすい山羊と比べて、羊は夏場に大量の餌を食べさせるための管理放牧をしなければならず手間がかかる。でもって、肉は山羊の方が上質であり、またその乳は(牛乳ほどでは無いが)やはり味は山羊の方が上だとされる。放牧でも、山羊は相当な崖地でも飼うことができるが、羊は坂道程度しか自力歩行できない。

また羊は運搬用や耕作補助の役にも立たない。(山羊は籠を掛けて運搬に使えるし、水田の雑草取りにも使える。)

羊の大きな長所は羊毛を取ってフェルトを作り防寒衣に用いる事ができる点であるが、極寒の地でなければ、他の獣皮で十分代用が可能である。また防寒というより身体の乾燥防止の為に草原地帯では羊からの脂肪の摂取が必須だったが、モンスーン地帯に移住してからは、体内水分の乾燥の懸念は薄れた。

こうして、天山族が、南韓の比較的温暖な弁辰加羅の地に行きついた頃は、牧羊の必要性が著しく価値無いものになっていたかと想像される。

その地では、結構野菜類を栽培しまた山野で野草類を摘んで、食することが可能になり、同時に先住していた海人族とともに魚食に馴染むと、野菜類や魚介類からのビタミン補給が可能になっていたのである。(一方で、製鉄用の薪炭や燃料用の枯草の確保には、苗木や草原の食害になる羊が、むしろ害獣視化されていったのかもしれない。)

そこで、玄界灘や山陰沖日本海の荒海を渡海する時に、敢えて羊を積載して列島へ渡来移住する事が為されなかったのだろうと推理するしかない。

舟の大型化に伴い、牛馬や山羊は日本にももたらされたが、羊を持ち込む事はなされなかった。

獣肉食という点で言えば、縄文人の主食でもあった如く、列島は山野の獣は豊富だったからである。鹿や猪、熊や狸など。また雉や山鳥などの野鳥も豊富だった。鮭や鱒、川魚類・貝類など、容易に獲れる水産物にも富んでいた。

日本列島の方が、朝鮮半島よりもっと温暖で植生にも富み、防寒・防乾燥の為でも、羊毛は必須では無かったのである。

麻布の衣類に、寒冷時には藁や笹類などの植物を編んで作った蓑を着用すれば事足りたからである。

こうして、中央アジア以来の習俗の内、牧羊だけが日本に渡来しなかったのである。

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