補遺20「中世とはいつからか」補足

天孫族考補遺20「中世とはいつからか」補足

◇中世的王権とは;古代王権の終焉は何時か?

“古代と中世の区切りを何処に置くか?”に関する議論の中で、今大勢を占めるに至った学説では、「日本の中世の開始は院政期からだ」とし、そこでは「王権が中世的な王権の在り方に変わった」とするようだ。

だがこの中世的な王権とは一体何なのだろうか?

勿論その言外には「先行する古代的王権の概念」があり、その「古代的王権から、中世的王権へと変化した」という事のように見える。

とすると中世的王権とは何か?は当然に古代的王権との比較で考えなければならないという事になるであろう。

しかし、多くの中世を論ずる学者の論舌では、古代的王権についての概念の措定が厳密に行われているとはいえないかに見える。むしろ、それは所与のものの如く扱われて、あたかも古代的王権が何か?は常識だとでも言わんばかりになっているように思えてくる。

そこで、専門外の非アカデミズムの者として、自分なりに、まずその古代的王権の“常識”を考えるところから始めてみた。

先ず、中世的王権では、王権といえども絶対的に強力な存在ではなく、多くの権門勢家の内の一つになっているのだが、古代王権では、皇族貴族兵家などの諸勢力と比較して、圧倒的に強力な存在だったと考えられて来た。

(但しここで言う兵家は後世の武士というのでなく、物部や大伴・多氏といった古代の武力氏族の事である。その伴造は貴族であるが、その配下には軍団長クラスの下級貴族がいた筈で、秦氏や東漢氏などもそういう武力集団を保有していた。)

もっともそれは理念上の事であり、実態的には、マエツキミ(大夫/諸卿)と呼ばれる大貴族達の合議体があり、王権は相対的な優位を持つものの、必ずしも常に絶対的に優位だったわけではないようなのだ。

また大臣や大連と言った古代の権門とでも言える超大貴族により常に掣肘をうけてきたというのは周知である。

しかし、天武持統朝を頂点に、“オオキミは神にしあれば”という「王家神孫」説が完成され、その後の律令では、王権の唯一絶対性が規定された。

(といっても、その背後にはすでに藤原不比等という権勢家が存在し、恰も唐国の宰相の如く振る舞っており、それがその次々世代〈聖武朝〉の藤原四兄弟に継承されて、最終的に摂関家という相国家系が王権に併立する事になるのだ。)

それが、院政期では院の存在が、最高支配層の一部に(理念上は最高位に)あり、そこには相変わらず摂関家もあり、その下の大臣家クラスの貴族もあり、更に大荘園保有経営者になった興福寺や東大寺、比叡山や高野山・東寺や三井寺などという大寺社も権門となって行く。

また鎌倉時代以降には、そこへ鎌倉将軍や執権・北条得宗家が加わり、室町時代には(鎌倉勢に代わって)足利将軍家とその子弟一族と大守護大名が並立するという風に、“各種権門の中で、王権勢威が相対化しているというのが、

中世的な王権の在り方だ”という事になるのだろうか?

これを土地所有の面からみれば、古代王権では、国土は一元的に皇家に属し、大貴族の私領はその貢献の褒賞として特権を(天皇から)賜与されたものだとされたのだ。とはいえ、それも理念上の事であり、墾田私有制によって荘園

成立の契機が生じ、やがてそれが永代私有が容認されると、貴族や大寺社が庶子や家人を使って新領地開拓に精を出し、また開発者からの寄進を受けて領家や本所となる。結果的に現地に定着している開発領主層が荘司となって

力を蓄えるようになり、そこから中世武士や僧兵が出てくるのである。

従って、古代的土地所有が、荘園保有を公認されるという中世的な土地所有へと変わった事で、王権側も結果的に変わらざるを得なくなったのである。

というのは、古代の国家機構では租税(租庸調)は、当然大蔵に収納され、国の入用に使われるのであるから、王家の私的に使える自由な財は僅少にしかならない。勿論その為に王家は屯倉という専用の領地領民を持っており、これが後の皇族領荘園になる。しかし屯倉の生産物も、実は一度国倉に収納されるので、必ずしも王家が勝手に使えたわけではない。

一方で、摂関家は、早くから荘園を保有しその収入は全て藤原の各家に入るのである。しかも摂関家は、国家機関の、とりわけ国司郡司の事実上の人事権を掌握しており、その叙任への謝礼としての貢進物は多量であった。

従って摂関家は、常に富を増やし、王家を凌ぐ経済力を持ったのである。

荘園が増えて国衙領が減れば、国庫収入は減り王家の経済力も落ちる。

これを挽回したのが、院という存在で、王家の最高権力者(治天の君)でありながら、院領の荘園主という形で私的に使える富を保有する事が出来たのである。

もっとも、鎌倉時代までの荘園はいわゆる不輸不入の特権を持たず、荘園と言えども一応税の賦課がされており、国衙経由で収公されていたとする学説もある。但し本所(本家)は院宮家か摂関家になるので、本所が定まれば、その生産物は国衙経由ではなく、直接に、都の院宮家か摂関家に納入される。

(院宮家というのは中世史学者の岡野友彦氏の用語である。院と宮家や女院等の特定の皇族を包括的に表現した概念である。)

これをして、国土領有権は結局は院宮家や摂関家にあり、ただ収税の経路が国衙→大蔵であるか、荘官→領家→本所であるかの違いに過ぎない;つまり利得を得る権門は同じだという考え方もあるようだ。この考え方では、荘官は領家から荘園管理の業務委託を受けている身分になったので、預所職というのだともされる。

しかし、班田給付への反対義務として納税するのと、荘園保有者へ直接に土地利用権への謝礼として貢租を納入するのとは、やはり民のレベルでの理念・精神上の態度に違いがあると考えざるを得ない。

特に本所が摂関家である場合、本来なら国庫から役職給付を貰うというのが原理に則したものであり、それが皇家や院宮家と同等になってしまうのは、既にそこに税の横取りが生じているとは言えないだろうか?

つまり、その時点で摂関家は名目的な臣下でしか無くなってしまう。

院政期の、荘園公領制という荘園と古代以来の公領が併存する体制が院政期から鎌倉初期までとするなら、鎌倉時代中期(承久の乱)以降は、守護地頭による地方支配であり、それが室町時代ともなれば、各分国は守護大名の全くの私領となり、いわばドイツの領邦制の小型版化して、あたかも各大名領は分国の如くになってしまう。

王権の勢威の相対化の進行、弱体化が日本中世の特徴でもある。

だから一時的に王権が、天皇ではなく元天皇(上皇=院)の私的な(令外の)政所である院ノ庁による政治という形に変態して、摂関家やその他の貴族や武家に対する支配権を掌握した体制は、私の見解ではボナパルティズムの一例だということになる。院ノ庁は令外の;上皇の家政機関であったとしても準公的な機関である。院を支持したのは、受領層や在京の中下級公家層であった。

明治のボナパルティズムの成立がいわゆる明治維新で、そこが近世と近代の画期だとすれば、院政というボナパルティズムの成立をもって古代と中世の画期とする事はあり得ない論理ではない。

しかし、摂関政治期の王権のありかたを考えると、そこは最早、(大貴族に偶に気を使っていた事もある)古代とは、明瞭に異なる点があると思える。

即ち、簒奪を狙っていたという蘇我氏を除けば、古代王権に取って変わろうという氏族は存在しなかったかに見えるのが古代である。

だが摂関家は実際上、皇家にとって代わって、古代において皇家だけに許された国家的な特権を、藤原氏がしかもその氏の長者が持つに至ったのであるから、その時代は最早古代王権の時代では無くなっていると考えるべきである。皇家は祭り上げられているからだ。

私は皇家が、実態上祭り上げられていて政治の実権を持っていない時代は既に古代では無くなっていると考えるのだ。だから摂関期をもって中世の開始と考えるのである。

コトバンクで「摂関政治」を引いた時に以下の記述に出会った。

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平安後期の藤原頼長(よりなが)がその日記『台記(たいき)』に、

「摂政はすなはち天子なり、関白は百官を己(おの)れにすぶるといへども、なほ臣の位に在り」と書いているのは、摂政と関白の制度上の差異を包括的に述べたものである。しかしそれも実際には形式的な面にとどまり、ことに摂関政治のうえでは、摂政も関白も国政の主導的地位にあったことに相違はない。

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つまり摂関家の意識では、天子に代わる存在だと自認していたのだ。

更に日本的な特質として、古代王権は、天孫族の渡来以来、バラモンの和族が支配者であった時代である。一時的に実権を持った臣下やクシャトリアは居たとしても、あくまでも王家を頂点としたピラミッド型統治が政治の中心

的形態であった。

しかし、(和族ではない、恐らく海人族の中のシャーマンであった卜部出身の)新興のクシャトリアである中臣→藤原氏が摂関として、王家と並ぶ二頭体制への移行は、最早バラモン支配の原理の貫徹されていた時代=古代では無い

というのが私の認識なのである。

それは、天孫族の支配原理の否定の結果でもあるからだ。

事実上藤原不比等によって編纂された「日本書紀」に於いては、王家は日向に起源を持ち、大陸の何処かに起源する西アジアの民族ではなく、日ノ本の島国に固有の王権である事が謳われた。

これは当然、中国大陸を統一した大唐帝国に対して、大和民族がユーラシアの牧畜民の末裔だったりしたら、唐の皇帝は中国の皇帝のみならず、塞外の民・漠北草原の民=遊牧民の天可汗でもあるので、その属国と考えられてしまうリスクがある事を回避したものである。書紀は第一に唐へ見せる為のものだったからだ。同時に、三輪王朝征服後も対外的に使って来たと思える「大倭」をも使用する事をやめて大和の表現を用いる事にしたのだと考えられる。というのは、もし倭を用いていれば、中国の史書が書くように、倭は呉の太伯の末裔であり、呉越の民(倭はその一部少数民族)だとすれば、今や呉越の地も統一した唐には、倭の支邦である大倭をも併合する大義名分が生じてしまう。だから“大倭”ではまずいのだ。そこで“大和”の表記となり、更に国名は日ノ本とし、陽の昇る扶桑の島だと宣言するのである。

(もっとも、日ノ本は天孫族元来の国名である日ノ下=日下であり、礎霊琉=曽冨理:ソフリ=パミールなので、和族からすれば原名に戻っただけなのである。※ 礎霊琉の霊は産霊=ムスヒ、タマシヒ=魂魄などのヒ、神霊。琉は太陽。礎は脚元。)

こういう精神プロセスは、和族(天孫族)を唯一至高の民族とする思想を否定し、支配層の中で相対化する作用をもたらした。

“龢をもって尊しとなす”という原則が否定されたのである。龢は和族。

それが藤原氏を王家と並立する貴種に押し上げて行ったのだ。

だが、その藤原氏としても、バラモンの血脈を否定する事は出来ず、むしろ外戚として、バラモン皇家と自ら=藤原を混血させて、結果的に藤原の血脈を貴重なものと錯覚させて行くのである。

天孫族考で陳述したように、武内宿禰系大臣家五氏族は、実は武内宿禰がヤマトタケルであり応神・仁徳の父でもあるので、臣籍であるが蘇我氏は、血統的には王家と同等だと自己認識して、簒奪も視野に入れていただろう。

だがそれは、和族バラモン内部の抗争であって、王家対藤原の様なバラモン対クシャトリアの階級対立では無かった。同様に古代に於いて物部大連が占めていたポジションでは、クシャトリアの頂点に立つ氏族として王権に対抗したのであるが、これはバラモン(厩戸皇子と蘇我氏)とバイシャ(秦氏と東漢氏ら)の連合武力によって潰されてしまった。

しかし藤原氏はその轍を踏まないようにして来たのである。大津皇子と高市皇子の排除に助力する事で持統への恩を売り、他の貴族を圧倒する力を獲得して行ったのだ。

しかも、平安時代初頭までに、和族の勢力(春日氏や多氏、大伴氏、安倍氏等)を、次々と壊滅に追い込んで行った。摂関期を見れば、皇家を除けば、和族の末裔は殆ど残っていない。僅かに鴨氏くらいであろうか。

鴨氏は中臣氏と争って宮廷神職の地位は求めなかった。市中神社の神職としてと賀茂一族が(安倍氏とともに)陰陽頭の職分に専任して存続して行く。

また、バイシャの頭領である秦氏は、平安京の建設に協力した後は、政治の世界から距離を置き、ただ密教勢力(叡山と東寺)の中に存在を維持するのである。あたかも藤原氏の覇権を恐れを持って見守るかの様に、である。

だから藤原氏摂関家による政権掌握の時期は、バラモン和族の支配の終焉なのであり、クシャトリアの時代の開始であって、それこそが日本の中世の開始に他ならない。武力による貢献で最高実権者に奉仕する(その事で土地支配権を安堵される)体制、それは封建制でありクシャトリアの政治体制なのである。

明治の倒幕後の新政府が、王政復古として、摂関の存在以前の太政官政府の体制に戻そうとした事は、誰の発想によるものか知らぬが、卓見であった。

しかし薩長藩閥の下級武士達が下剋上的に組織した明治政府は、結局は摂関家に代わって新興クシャトリアが奪権したものとなる。そしてそれは軍国主義という形を変えた下層クシャトリア政権になってしまうのだ。

更に言うなら、10世紀末に摂関政治が開始された事は、例えれば、大月氏国がクシャン朝になってしまったようなものだ。クシャン朝と違うのは、貴霜族(クシャトリア)もまた月氏の一氏族であった。だが藤原氏は和族や出雲族のような月氏系ではない。元来は出自の異なる民族=海人だったのだ。

こういう面から見れば摂関政治への転換は、いわば支配民族の交代でもあり革命でもあった。

但し、誤解を避けるために付言すれば、私は“十七条の憲法”の様に、天孫族と海人族や先住民(元縄文族)との貴賤を論じようとしているわけではない。

学校教育では、余り詳細に教えて来なかったが、一見王朝文化華やかとする“貞観の治”などという“明君”の時代即ち9世紀後半には、日本は内憂外患に見舞われていた。内憂とは関東から奥州にかけて勃発した数々の俘囚の乱である。一分国の軍兵では鎮圧できず、近隣複数の国衙の兵が動員され、時に京都からも将軍が派遣された。

一方、外患とはこのほぼ同時期に、九州北部から山陰北陸路にかけて海岸部を脅かした、数多の新羅海賊の来寇である。最終的にはどれも撃退されたのだが、時には45隻も海賊船を連ねて来寇した。この最大の侵寇は対馬に対してのものだった。来寇した千人を上回る賊徒の中には、実は新羅王の内諾を得て海賊に加わっていた新羅の官兵もいたという。(英国エリザベスI 世朝のキャプテン・ドレークの様なものか?)この時は、備えていた対馬の国司ほかの軍兵百人余が、新兵器の弩弓で対抗し、賊徒3百人以上を討ち取った。

また博多津に来寇した2隻の海賊船もあった。

これらの対処の為に、(後世の元寇の時ほどの難儀ではなかったろうが)太宰府の博多警固所などは、防衛行動に忙殺された。また山陰北陸路にも警固兵が設置された。

これらは、一見別個の事件が同時的に起こった様に見えるが、実際は、王朝の権力統制がその分弱まっており、内国的には俘囚の元蝦夷や、国際的には新羅の群盗集団から見て、日本国が弱体化していると舐めて見られた結果に他ならない。

この様に、過去の大和&平安王朝の悠長な政治手法では対応できない動乱期が来ていたとも考えられる。そういう時に、摂関家の棟梁による即断専決で軍事も含めての政治決定がスピードアップを要請されたのは時代の流れの必然であり、いや時代を乗り切る為には摂関家の独裁が必要だったと見る事もできるだろう。

この様な内憂外患の対処の過程で、古代の軍制である律令時代の国郡の備兵や防人制、またその後の健児制などでも対処できなくなり、兵事専門氏族の新たな抬頭とその親族・家人らを中心とした私家軍兵や兵備の貯蓄が成され

ることになった。これが、中世の武家勢力の誕生に連続していく。この様な軍制革命もまた中世への変換期を示すものである。

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