補遺20 中世とはいつからか
天孫族考 補遺20 「いつからが中世か? 古代は何時終焉を迎えたか?」
この問題を考究する前に、中世の活躍主体と見られて来た「武士」というものがどう発生して来たかを考えてみた。
というのは、「中世とは武士の社会だ」という考え方が従来あったからだ。
☆武士の発生
荘園や国衙郡衙領の農民が自衛のため武装し、地域で連合する内にリーダーを中心に纏まり、武士団が出来る。
--------これが一般的に日本史で教えられてきたセオリーである。
※もっとも、この様な地方武士のほかに、都の武士として北面や西面の武士などというものがあり、彼らも一応武官の官位は得ていた。その武官というものや検非違使など、また御随身などという職責もあったが、これが本来の“侍らう者”=侍の語源である。これらの都の武士の中にも地方に下って地方の武士になった者もいた筈だが、それは“歴史上の主体としての武士”の範疇には入れない。また古代の防人や多賀城(陸奥鎮守府)や出羽城などの兵士も居たが、これらは中世の武士の母体とは考えられていない。
どうも、今思えば、戦後の歴史教育で、“下の階級が次第に成長して、やがてより上の階級から奪権する”という、一種の“革命思想”というものが、「歴史の法則」だという様に考えられて来たようだ。
これは、戦後盛んになった唯物史観というか“科学的”社会主義史観の影響によるものだが、不思議なことに、非社会主義者にさえ、これに近い考え方を持つ人間が少なくないという事がある。
これは、戦前までの「薩長政府」教育に於いて、明治“維新”を、封建制度を打倒した進歩だという考え方をとって来た為に、結果的に社会主義歴史観と重なってしまったからだ。
つまり江戸時代までが近世で(但し“日本に於ける近世は中世封建社会の延長だ”とし)明治から近代が開始される、と解したからだ。
だが、実際は明治の政治体制変更は、革命ではなく、反動の一種でしかないのであって、単純に“下の階級が次第に成長して、やがて、より上の階級から奪権”したなどというプロセスでは無かったと考えるべきなのだ。
近世をどう捉えるかにも関わるが、西洋では絶対王政の成立と、王権下での中央集権及び軍権の掌握による政治社会体制の時代と考えられて来た。
この意味では、徳川家康による江戸幕府の成立は、日本型の絶対王政の成立だと解釈できるだろう。だが豊臣秀吉の天下統一と大阪城の五大老・五奉行を中心とする政権は、関白という擬制的な公家政権ではあったが、江戸幕府に繋がる中央集権制であり、秀吉による絶対王政的な政権であった。
だから、豊臣時代=桃山時代以降を日本の近世とするのである。
しかし、この豊臣秀吉個人は、ほぼ農民に近い身分からの下剋上であるとはいえ、豊・徳政権は戦国大名と秀吉や家康の家臣団(下級武士)と旧勢力;皇家や公家及び仏教教団、との三つの勢力の妥協によって成立していた。
戦国大名と京都の皇家公家を双扼して政権の実権を握ったのは新興下級武士集団のボスであった秀吉と(戦国大名ではあったが元来は三河の小領主でしかなかった)家康であった。この時代、戦国大名の領民でありながら戦闘にも動員されて、農民層もいわば下級武士化していたのである。そのまま行けば、この農民層が、室町時代的な一揆となって、いつ戦国大名に取って代わるか分からない。また堺や博多の豪商らは自治共同体を作り、浪人や武装農民を傭兵にして大名勢力に対抗しようとした。これらへの警戒から、秀吉は兵農分離を進めようとしていたのである。
いわゆるボナパルティズム的反動体制である。
ボナパルティズムは、フランスのナポレオンの政治体制を典型として概念化されたものだ。旧勢力(貴族+宗教勢力)と新興勢力(ブルジョワジー+豪農)の対抗関係を、武装勢力(軍)のボスにのし上がったナポレオンが双扼して皇帝に就いて、両勢力のバランスの上で統治した体制である。
この様に、新旧両勢力を双扼してそこに武力を背景に統治体制を構築するというのが、私の歴史解釈用語としての「ボナパルティズム」である。
ボナパルティズムでは、その体制の成立時点で、新興勢力の権利や活動が制限されて、一時的に歴史上の進歩が停滞する。そういう意味からこの体制は反動なのである。また必ずゲヴァルト(武力)の実際上の統帥権を持つ者(かグループ)が支配の頂点に立つ。
こういう点では、明治政府も、役者こそ異なるものの、ボナパルティズム的反動政権であることには変わりがない。だからこそ本来の明治の政治変動は、王政復古であり、世界史的には“Meiji Restoration”と称される。
明治政府の中心には、大久保利通や伊藤博文などの下級武士出身者が存在したが、それは下級武士のみによって奪権されて出来た政治体制ではない。
旧勢力は、廃仏毀釈で仏教勢力が神道勢力に置換されたが、皇族公家は、むしろ復権し、また大名などの江戸時代の上級支配層は華族としてカタチを変えて存続した。一部に渋沢栄一のような商人出身者も出たが、これらは当初は支配体制の主要勢力にはなっていない。
結果的に、明治政府も、“クシャトリヤ”層内部の支配者交替でしかない。
さて、話を、その武士の発生の時点に戻す。
地方の武士は、中世農民の自衛武装によって発生したというのは、空想でしかない。ごく一部にそういう例があったかもしれないが、稀である。
実際は、中央から国衙郡衙に派遣された中小貴族の庶子が土着し、在庁官人層を作る。介やせいぜい掾目の地位の者。これらを中心に彼らと荘園の家司層とによって、自衛の武装集団化する。時には他領を寇掠する事もある。
こうして暴力集団化したのが武士団の核を形成していく。
同時に、家の子郎党の食糧を確保増産の為に、荒蕪地の開発をして、云う処の「開発領主」になる。
しかし、開発領主は、一介の農民シュードラから成長したものでないのだ。つまりは、中央クシャトリヤが地方のそれに転換しただけなのである。
(※この議論は20世紀末の中世史学会で成された“武士の発生についての「垂直転換」論と「水平転換」論との対抗”に相当する。)
中世とは、こういう古代中央集権制(律令体制)が崩壊して、地方に分散した小権力が発生した時代である。
そういう中で、鎌倉幕府の成立とは、中央(京都)の旧勢力と勃興した坂東の新勢力の妥協によるボナパルティズム的反動体制なのである。
西洋史に於いては、新興勢力が旧勢力を打倒して市民革命などと呼称される政治変動が存在するのだが、日本史に於いては、常にボナパルティズムにより、勃興する下層階級の勢力は奪権できる前に不発で終わってしまうのである。(これが日本の歴史的民族態Japantum ヤーパントゥムの特色だとする研究者もいるのである。)
日本に於けるブルジョワジーの勢力伸張は、大正期〜昭和初期に成されたが、軍閥という武装勢力によって、軍国主義体制というボナパルティズムで市民革命にまで発展することはなかった。結局、太平洋戦争の敗戦によってGHQによる旧勢力の一時的な一掃によって、外部注入的に市民革命が遂行されたのである。
それまでは、バイシャ(商工民、職能層)やシュードラ(農林漁業民)が、政治の表層に出てくる事は稀であった。
安土桃山時代の堺や博多の豪商などの活躍は、日本史では大変に例外的なものだった。
こういう意味からすれば、世襲を原則にしない宗教勢力内部の階梯は、下層バラモンの存在形態として注目すべきものだ。しかもこれは洋の東西を問わず、世界史一般の現象である。西洋史に於いても、修道院の武装化した宗教騎士団が存在するが、これは我が国では大寺院の大衆(ほぼ修験者)に相当する。
☆中世とはどう概念付けられるか
(日本史上の中世の開始期はいつか?)
◯そも中世とは
元来は、古代と近世の間の時代の意味である。
つまり古代が終焉し、近世が開始されるまでの中間期が中世だというのが、間接的な定義である。
当初は西洋史の時代区分として概念付けられた。
定義上は、幾つかの異論があるものの、概ね西洋中世は封建社会だとされて来た。即ち、封建領主が国主によって、その封土に於ける統治権の行使を委託されている社会体制という事になるだろう。
この場合統治権とは、近代に於いていうところの政治三権(立法・行政・司法)に宗教の選択権などを含む。もっとも宗教の選択権は国主の専権だったとし、それは封建領主には委託されていないとする考えもある。また更に、軍権=武力の統帥権も含まれる。
◯ 日本の中世の開始期に関する3説
これを日本に適応してみると、封建社会の開始はいつからか?という解釈になるのだが、複数の異説が存在する。
分かり易さから、従来は本格的な武家政権である鎌倉時代以降〜室町時代を中世としていた。12世紀末以降である。---------①
昭和時代の学校教育などではこの説をとっていた。
しかし、厳密に見れば、鎌倉も源氏将軍三代は、将軍直によって御家人が、守護地頭に任じられて統治したのだが、北条氏の執権政治下では、御家人の任免は北条氏を中心とした幕府機構に依り、また地方統治権の委任もそうであったので、主従関係は(名目的公家将軍との間になり)曖昧化していた。
だから、中世の定義を、西洋流の封建関係に求めず、統治権のあり様に置く見解が展開された。
もし厳密な封建関係を以って区分とするなら、足利幕府になってからとするか?或いは北条政権が後鳥羽上皇に勝って、守護地頭の統治権を全国に拡大した時以降とするか?
鎌倉時代前期には、国衙は依然京都王朝の任命した国司か目代が支配を続けていたのである。
次に、別の中世の規定観念としては;
平安時代の前期後半には、天皇の統治が揺らぎ、藤原北家による摂関政治が始まると、貴族・官僚は、天皇家と摂関家の二重支配下にあり、特に地方は、国司郡司による国衙領郡衙領の支配と並行して、皇族や貴族の私領(荘園)が存在。そこでは公権ではなく領主によって統治権が行使された。
従って、中世の開始を摂関時代とする見解である。---------②
少なくとも、桓武天皇くらいまでは、奈良時代の延長で、君主(天皇)専制が維持され、律令制もほぼ維持されていた。
(平城天皇〜嵯峨天皇になってからは、君主専制は弱体化して行き、藤原氏の権力が増大した。)
この中世を摂関時代からとする見解は、日本の中世を最も早く9世紀に設定する見解である。
この見解に対する批判としては、藤原氏の専横体制はずっと一貫していたのではなく、時に“明君”の天皇が出て親政を行なってもいるので、摂関期は古代と中世の過渡期だとする見方になる。この為、古代でもなく中世でもないので「中古」時代という区分を設定する学者もいる。
宇多天皇の寛平の治、醍醐天皇の延喜の治、村上天皇の天暦の治などという概念が、唐の太宗の貞観の治に擬えて、古くから言われて来た。
しかし、そういう反動は、天皇が近臣=中下層貴族と組んで摂関家に対抗していた;ある意味これも一種のボナパルティズムの時代だったとも考えられ、古代の君主専制時代とは明らかに違っているのである。
一方、これら①②の間の、院政期をもって中世の開始とする見解が出された。---------③
院という、天皇家から派生した超君主が政治の主導権をとった時代であり、院の近臣の方が、名目上の朝廷の官僚よりも、権勢で凌駕していた体制であり、これが古代とは決定的に違うというのである。
同時に上層社会だけでなく、下層社会(農民・漁民・商工民)も、古代の様な公民では無くなって、各地にそれぞれ独自の郷村社会が成立していた。
これら中世庶民の様態は故網野善彦氏らによって考究された。
今はこれが主流となり、学校教育でも1980年代頃からこの見解③を採用するようになったようだ。
今言及した①②③とも、政治体制の変化・実質的な権力者のあり様を以ってマーカーとするものだが、他方これを土台構造即ち経済システムの側からとらえようとする見解がある。
そのメルクマールは、荘園制の進行具合によって、古代と中世を分けて認識しようというものだ。
但し、この見解にも二様の見解に分かれる。
i )寄進地荘園の増加が顕著になった時期 摂関家・大貴族・大寺社への寄進荘園が増えて、地方でほぼ国衙領と二分された時代。この頃は、生産の中心は、国衙直轄地からむしろ荘園側に移り、統治権も荘園領主に帰するようになった時代である。→つまりこれは摂関期であるから、先述の②とほぼ同じ時期の事になるとする。
この結果、地方へ土着する貴族の庶子が増え、結果的に武士団の誕生に繋がる。承平天慶の乱が939年だから、地方での武士の誕生は9世紀末から10世紀初めである。
また生産の目的が、租庸調という古代的な租税の為でなく、領主用や郷村民集団の余剰蓄積〜市場交換の為という中世的な形に変わって行く。
ii )平安中期の荘園整理令以降。摂関期以降に荘園整理令が何度か出されたが実効が無かった。ところが、後三条天皇の延久の荘園整理令か出されて、荘園の文書記録と再整理が進行した。結果的に、(これも網野善彦氏の命名した)「荘園公領制」という(公領もほぼ受領=国司と国衙郡衙の在庁官人が荘官化して荘園同様になって)地方での中世的な秩序が形成されたと考える説である。これはほぼ③の院政期に相当するという。11世紀半ばになる。
※但し、i)の寄進地荘園の増加が顕著になった時期という捉え方自体が、網野氏のいう荘園公領制と同じだとして、摂関期から増大が始まったとしても、完成されたのは院政期だという反論もある。だから、荘園という切り口だけでなく、中央での支配体制の実態など、複数のフィルター断面で見て総合的に、古代の終焉=中世の開始を判断しなければならない。
と、この様に中世の開始時期に関する学説は分かれている。
因みに私は最も早い②の時期を中世の開始と考えている。これは、宗教界に於いても、神仏習合が進み各地に修験大衆が広まった時期でもあるからだ。
つまり、下部構造・上部構造そして宗教面(精神構造、形而上)も古代と異なるようになったのが、摂関期からだと考えるからだ。
と、同時にその修験道の広布も含め、日本の古代の終焉とは、最高バラモンである和族(龢族)=天孫族の王家即ち天皇家による直接的統治の終焉であり、代わって、本来は和族ではなかった藤原氏がバラモンの様に振る舞う社会が到来したのが摂関期だと考えるからだ。→これについては後述する。
◯西洋や中国との比較
もっとも、中世の概念と時代区分は、西洋史や中国史に於いても、学者によりかなり大きな見解の差異がある。
一般に西洋史に於いては、古代国家の特徴として奴隷制の存在が指摘されて来た。
しかし、日本の古代に於いて奴隷制に相当するものはあったのだろうか?
天孫族考の補遺で論じた如く、我が国の先史時代(石器時代〜縄文時代)には階級制はなく、階級(中央アジア的カースト)は天孫族が大陸から持ち込んだものである。恐らく、古墳時代までは(雄略紀などを見ると)天皇が古代的な専制君主であったことが想像される。縄文人や海人族などは、シュードラ層と見做されたのであろうと考えられる。しかしそれらは果たして、“奴隷”だったのか?(大多数の人民が奴隷ではなくても、奴隷に相当する身分の民はいたに違いない。)
そして、上古の社会は、部民制に移行していった。
一部の部民は伴造に従属する半奴隷的な身分だったと考える人もいる。
だが、我が国の古代の完成形を律令制だとするなら、そこでは公地公民制であり、それを前提として税制(租庸調)が成立していた。
庶民が農奴化したのは、むしろ荘園制の成立により、そこに囲い込みされたからである。農奴制を以って中世の特徴とするなら、西洋の封建社会は正に農奴制の存在する中世という事になる。
古代の奴隷制と農奴制とはどう違うのか?一般的な概念としての古代の奴隷制は、身分関係であり文字通り奴隷には私的生活の自由などは無かった。
農奴制では、農民は土地に従属していたが、家族を持つ事の自由や、余剰生産物を市場で売買する事は容認されていた。だから農奴とは、奴隷ではなく、あくまでも領主の統治下にある(人権の制限された)農民の一家という意味合いになる。
その意味からすれば、日本の江戸時代の農民も多くはそういう土地に縛られた存在であった。
だが、江戸時代まで中世に入れる考え方は無い。江戸時代ならず豊臣政権以降は近世だというのが、共通見解になっている。
西洋史では、西ローマ帝国の崩壊とその遠因となったゲルマン民族の大移動までを古代とし、それ以降を中世とするのが一般的である。
しかし日本史に於いては、そういう画期的な事象を以って古代の終焉とするものではない。強いて言えば、鎌倉幕府の誕生を以ってする①の見解は、それに近いといえるのだが。
(とはいえ、鎌倉幕府の誕生自体、何時とするか学説が分かれているのは周知の事である。)
中国史に至っては、いつの王朝から中世と扱うかは、正しく百花斉放の況を態しているのである。一般的には宋代を以って中世とする。これは内藤湖南のいわゆる唐宋変革論の影響でもある。五代の時代が日本では平安後期に相当するので、宋からとするなら我が国の鎌倉時代開始期より少し早く、ほぼ③院政期に相当するのだろうか?
◯天孫族考から見た日本古代の終焉とは?
私の考えでは、古代とは、日本に渡来した天孫族の王家が、直接統治する時代の事であるので、元来の和族(皇家と臣の姓を持つ直臣の集団)ではない“連”の姓出身の藤原氏が、政治的な実権を掌握した摂関期は最早古代ではないと考えるのである。
天孫族考で繰り返し考察した様に、藤原氏=元の中臣氏は、対馬出身の卜部が、和邇系バラモンの従臣化し、やがて和邇氏の本宗家である春日氏の権能である宮廷神官としての仲ツ臣の地位を簒奪して(下剋上して)成立した氏族である。だから、宮廷祭祀の推進役が中臣系になると、本来の天孫族の持つイデオロギーは変質させられた。これを意図的に推進したのが藤原不比等であった。
一方、藤原氏の伸張期は、仏教の興隆期でもあり神仏習合の観念の発展期でもあった。
神仏習合の極致でもある修験道の発達。これは和族のバラモンに代わって、形而上のバラモンを擬制的に成立させたものだと思う。
本来、天孫族の根本アイデンティティは、“和族は太陽神の種から成立したものであり、最高バラモンたる大王=天皇は、太陽神の化身である”という共同幻想に立脚していた。
神仏習合の時代になり、太陽神は大日如来の化体であると観想されると、天皇はその現人神だから大日如来の変成だと考えられる様になった。
中世になり、天皇の交替時に大嘗会の代わりに仏式の即位灌頂が行われる事になった時にも、この「天皇は大日如来の変成(ヘンジョウ)」だという考え方に則っていたのである。そこでは新帝が大日如来の印相を指で結び法華経の一節が誦まれたのである。
こういう意味合いから、修験道では史上一貫して天皇家への尊崇が根底にあった。これこそが明治政府が修験道を徹底的に弾圧した根元的な理由だと私は考える。明治の新政府の大官達にとって、天皇家は自分達の支配体制の維持のための道具でしかなかった。彼らは、本来的な尊皇家ではない。
だから本当の、根っからの尊皇思想を持つ修験道は恐怖の対象だったのだ。
実際に修験が、武装勢力として実力を発揮したのは、先ず源平合戦に於ける熊野水軍の参戦である。御白河法皇の院宣により熊野水軍が加担した事で壇ノ浦合戦は決定的になった。二度目は、南北朝時代に於ける修験各勢力の南朝への加担である。地方での南朝勢力は地侍と山伏の連合であった場合が多い。三度目は、戦国末期の織田信長の(日蓮宗を除く)仏教勢力との戦いである。これは第一フェーズは叡山焼き討ち、第二フェーズは石山本願寺との戦いに、門徒ではない根来寺(新義真言宗)の鉄砲法師の参戦である。またこの戦いには、天台系修験の水軍の流れを汲む村上水軍が信長派水軍との海戦に参加している。二回目に九鬼水軍の鉄甲船によって敗れるが、一回目の海戦は、村上+根来水軍が勝利している。
これらの歴史的事実を踏まえて、明治政府は、修験が本来の尊皇派として武力蜂起する事を危惧していたのだと思える。
こういう形而下形而上の両面から、和族の支配が衰退した摂関期は、日本での古代の終焉後だと考えるので、私は摂関期以降を中世とするのである。
つまり、それはクシャトリヤの時代の始まりでもある。摂関期には武力統帥の実権も、摂関家に移っていたと考えられる。
藤原氏を(彼らが装うとした擬制バラモンと見る考え方もあろうが、私は)新興クシャトリヤだと考えている。しかし彼らは、本来のクシャトリヤ(出雲族の物部氏や、大伴氏など和族系の武力氏族)ではない。
和族の多氏系の征夷の戦いでの従軍卜師兼戦士として成長して来た氏族だと考える。摂関期の京都の藤原一族の様な、ひ弱さを思わせる上層貴族が彼らの本質ではない。
近江朝廷時代の中臣金のような将軍も輩出しているし、それ以降の奈良時代の藤原四兄弟の様に、明白な武闘派的な存在があった。考えてみれば氏の太祖である中臣鎌足も、蘇我氏暗殺の実行犯の一人である。
こういう武闘派的な要素があるからこそ、地方へ赴任した庶子から武家藤原が各地に生じたのである。また天慶の乱を起こした藤原純友なども出ているのだ。藤原氏の本性は“クシャトリヤ的”だと考えられるのだ。
(系統は違うが佐伯連などと同様だと思う。)
彼らは渡来してきた天孫族ではない。天孫族が九州にいた時に、多氏に臣従した陪臣である。だからこそ姓はずっと連であった。
常識的には、鎌足が乙巳の変で大功を挙げて、朝臣になったとされているが実際には、不比等が持統の懐刀となり、恐らく大津皇子と高市皇子の排除に協力した事で、直臣の扱いになったのではないだろうか。
それで連には認められていなかった皇妃への入内が実現し、かつて蘇我氏が得ていた外戚の地位をも占めるようになったのである。
中臣氏の祖神は、春日神社に合祭された天児屋根命であるが、この天児屋根とは実は海小屋根であり、対馬の何処かの浦に設られた“占い小屋”だった。そこに籠り、亀卜によって、海の日和や漁獲の吉凶を占っていた浦部こそが卜部氏の出自の根源だった。彼らは、対馬を通過した天孫族の海人統括者である和邇氏に従い、多氏に従属して、豊前に移住した。そこから多氏の征夷の戦闘に従軍した事で発展したのである。
しかし王朝期、藤原氏によって、自らの出自の隠蔽化の心理が働くと、元の対馬の何処の浦が本貫地なのかは不明にされてしまった。
その後、対馬では数々の古代の遺跡や古神社の跡地が発掘されたが、今だに卜部の本貫地は確定されていないのである。
幾つかの説の内、有力なのは、厳原説と豆酘説と加志(美津島)説である。
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対馬卜部氏
対馬県造家の対馬県氏(対馬県直)の一族。対馬県直は、史料によって祖神は変わり、候補としては建比良鳥命、天児屋根命、雷大臣命、建弥己己命(天穂日命の曾孫・高皇産霊尊の5世孫)、押瞻命がいる。
平安時代の末裔として、以下の人物が見える。
上県郡擬主帳卜部川知麻呂
下県郡擬大領直浦主
下県郡擬大領直氏成
上県郡擬少領直仁徳
『新撰亀相記』によれば、上県郡に直氏と卜部氏、下県郡に直氏と卜部氏と夜良直氏がおり、上下の直氏を国造としている。
厳原町にある与良祖神社(よらのおやじんじゃ)は夜良直氏の祖神を祀っているとされる。
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以上は、ネット辞典weblioに記述されている記載である。
この与良祖神社こそが、対馬直氏の祖神祭祀地だという説になる。
もっとも与良祖神社の祭神は豊玉姫ということなのだが??
豊玉姫が産んだのはウガヤフキアエズなので、その産屋が天児屋根だとでもいう解釈があるのだろうか?
また与良祖神社奥の院は、石積み祭壇で有名だが、かつては宝満宮と言ったので、筑前の宝満神社修験に関わるものだろう。
一方、現在長崎県の無形文化財として、今なお亀卜のワザを伝えている岩佐家が、豆酘に存在し、雷神社の神事とされる事から、豆酘の浦こそ、対馬の卜部の本貫地だという説が生じた。
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対馬の亀卜習俗 無形民俗文化財(国選択)
指定年月日 昭和53(1978)年12月8日
所在地 対馬市厳原町豆酘
亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う方法である。対馬豆酘の岩佐家は、亀卜を世襲する家筋で、「亀卜伝義抄」を伝え、今日なお旧暦正月3日の雷神社の祈年祭(としごいのまつり)に奉仕している。対馬の卜部(うらべ)は、壱岐や伊豆の卜部とともに古代には宮中の祭祀に関与していたものであるが、亀卜習俗伝承は今日ではここのみとなった。そのため古代の民俗知識を伝える貴重な資料として記録保存を行うため、国から選択された。
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そして、雷神社の祭神は、神功皇后伝説の雷大臣であり、これが烏賊津臣と同じで、天児屋命の後裔だとするのである。
しかし幾ら、豆酘が古い伝説の地であるとしても、中臣烏賊津臣などという藤原氏によって書紀編纂の際に捏造されたとしか思えない名前が出て来てしまうと、全く信憑性が薄くなる。
実は美津島の加志に鎮座する太祝詞神社の祭神も、この雷大臣とその祖神である太祝詞神(天児屋命の別名だと)を祀るという伝承を持つ。しかもそこはその雷大臣の墓跡だともいうのだ。この墓跡も、対馬特有の高石積みの壇の形状をしている。
そしてその近所にはもう一つ雷命神社というのもあり、そちらは雷大臣の邸跡であり、亀卜発祥の地だともいう。
いずれにせよ、共に決定的な証拠が薄弱である。
仮に与良祖神社が、天児屋根の祀る社だとしても、それが古代以来そこにあった事にはならないし、豆酘の岩佐氏が亀卜の習俗を伝来しているとしても、それが卜部の宗家より分かれたものかは不明である。
そして太祝詞神というのが亀卜の祖であり、その後裔が記紀の神功皇后神話に結びつけられて、雷大臣なる名号を与えられたという逆の推理も成り立たないではないが、直ちにそこが本邦亀卜の始原地である事を証明するものではない。
しかし、古代に於いて朝廷に奉仕する卜部20人の内、半数の10人が対馬の上下の県から選ばれていた事を考えれば、(残る10人は壱岐と伊豆の卜部が5人ずつ)、卜部の本貫地は対馬にあったとの事は信じるに難くない。
但し、亀卜自体は、対馬のオリジナルではなく、朝鮮半島の海岸部にもあるというので、卜部もまた渡来人である可能性が無くはない。実際に卜部と朝鮮の朴氏の関わりを研究する人もいるのである。
ともかく、天孫族考の補遺「海人族」の項などで度々指摘した様に、対馬は中世〜近世に、九州から多数の修験が入島して、勝手様々に神社を勧請して由緒書の書き換えがなされてきたので、本来の古事は散逸してしまった。
この修験者達による書き換えは、記紀の記載を正しいものという前提に立つので、古事で伝来したものも全て否定されてしまい、この過程で卜部の出自の伝承もいい加減になったのであろう。
しかし、こういう風に曖昧なのは、ある時期から、曖昧にしてしまう意図が何処かで働いていたからだと私は考える。