補遺21謎の品遅部
天孫族考 補遺21 「もう一つの謎の氏族・ホムチ部」
古事記に出てくる品遅部は、ホムチべという品部(部曲)である。
それに、かねて考究していた片岡神社のある南大和の王寺に纏わる話題が結び付く事を、最近知った。
そも品遅部とは、本来は何だったのか?
☆王寺(大和)の地名について
王寺の片岡に在る片岡神社について述べた時
(※その発言についての経緯は参考までにこの記述の文末に掲げておいた)に、そこは何故「片岡」というのか?の理由を考え、片岡神社の祭神が住吉神である事から、大和川経由 もしくは紀の川水系宇智川と葛城川(大和川支流)を結ぶ水路(江=“船路”の江)を経由した加太の多氏水軍との関わりがありそうであり、だから「加太岡」であった可能性があることを指摘した。
もっとも、この大和川の反対側(右岸)の北東に斑鳩宮があるので、その斑鳩の丘陵(扇状地であるらしい)の斜め向かい(大和川左岸)にある丘なので、こちらは「片側の岡=片岡」である可能性も考えた。(上宮王家には片岡女王の名の王女もいたようだ。)
また斑鳩(法隆寺)のある地域に南接しているから、上宮王家の寺という意味合いで“王寺”なのか、とも漠然と考えた。
しかし、「王寺の地名は“品治”に由来するとの説がある」という記載を、「日本地名辞典」に見つけた。
homdi →(omdi)→ohji と転訛したのだというのである。
(もっとも古代日本にはha行の音韻はなくpa行音だから、homdiではなく、 pomdiであっただろうが!)
この品治は本来はホムチで、古代の名代部であるホムチ部に由来する。
ホムチ(これも古代音ではポムヂ) 部は、色々な表記がある品部である。
品遅部、誉津部、本牟智部、品治部などと書かれて来た。(以下もホムチと表記するが読みはポムヂ→ポムチだという事である。)
品治(品遅)部(ほむちべ)とは、『古事記』の本牟智和気王(ほむちわけ の おおきみ)の挿話で、この名の皇子がしゃべれるようになった際に設置された品部(名代)であるとされてきた。
◯本牟智和気の伝説
本牟智和気王は垂仁天皇の皇子だったが、生まれて後、顔に髭が生える年齢になるまで言葉を発しなかった。いわゆる言語障碍者(啞)だとされ、喋れる様になるまで、父大王が数々の努力を重ねるという、不思議な伝説を持つ皇子である。
有名なのは、①二俣の大杉で作った舟を浮かべて、そこへ天皇と皇子の二人で乗り合わせて親しみを示したり、
②幼時に王子が白鳥の飛ぶのを見て、「アッ」と声を出したので、白鳥を捕らえて皇子に飼わせれば言葉を発する
のではないかと、廷臣に白鳥を追わせたという話。(この話はどうやら鳥取部の発祥の伝承になるらしい。)
---------の二つだが、
結局、本牟智和気は言葉を発しない。そこで太占で占った処、どうやら出雲の素戔嗚大神の祟りによるものとなり、皇子は出雲にまで赴き、そこに大神の大きな社を建てて祀ったところ、喋れるようになった。
この事を記念して、皇子の為の名代部を複数設置した。代表が名を取った本牟智部(古事記では品遅部)であり、同時に鳥取部や鳥飼(鳥甘、鳥養)部、大湯坐(おおゆえ)・若湯坐(わかゆえ)を定めた、という。
そして、白鳥を追って各地を巡った廷臣は記と紀でその名は違うが、鳥取造の祖になったとされる。
誉津部は書紀の表記である。だがこの部曲は、その後品遅が変化した品治部と表記もされた。
そうなると、壬申の乱の功臣である多品治を想起するのは自然である。
実際多品治は大海人皇子の湯坐の首だったとされる。
多氏は私の想定では、元来天孫族皇家の壬生・育児の諸務を担っていた。
垂仁天皇(出雲系王朝)の話に仕立ててあるが、これは皇子成育の品部である多氏(乳部、壬生部や大生部)の持っていた伝承を、大安萬侶がある意図から垂仁記の話にしたものと、私は推理する。
この話の裏(潜在意識下)には、幾つかのファクターが埋め込まれている。
白鳥を追い回した各地は鳥取部の存在する土地であるが、鳥取部は木国〜出雲に関わるので、(出雲系と思える伊勢の員弁族の領域にも鳥取部がいた事が知られているので)、彼らは元来は出雲系部族だったのだろう。因幡は後世
鳥取県になる。(因幡の白兎は、出雲の大国主に助けられる。)
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山辺之大鶙(やまのべのおほたか)を遣はして其の鳥を取らしむ。故、是の人其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦追ひて稲羽国(いなばのくに)に越え、即ち旦波国(たにはのくに)・多遅摩国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到り、乃ち三野国(みののくに)を越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に追ひ到りて、和那美(わなみ)の水門(みなと)---------
(※和奈美の水門は兵庫県養父郡(但馬)の和奈美神社=後述付近が比定地。円山川に隣接している。ただ高志〜但馬は経路というには飛んでいる。)
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以上は古事記の記載である。この鳥取造の祖らしい山辺之大鶙が巡った地域が、旧出雲族の版図だったのだろう。
一方日本書紀では、鵠(白鳥)を追ったのは、天湯河板挙(あめのゆかはたな)とされている。
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詔して曰はく、「誰か能く是の鳥を捕へて献らむ」とのたまふ。是に、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖(おや)天湯河板挙(あめのゆかはたな)奏(まを)して言(まを)さく、「臣(やつこ)必ず捕へて献らむ」とまをす。即ち天皇、湯河板挙(此には拕儺(たな)と云ふ)に勅して曰はく、「汝(いまし)、是の鳥を献らば必ず、敦く賞(たまひもの)せむ」とのたまふ。時に湯河板挙、遠く鵠の飛びし方を望みて、追ひ尋(つ)ぎて出雲に詣(いた)りて、捕獲(とら)へつ。或(あるひと)の曰く、「但馬国に得つ」といふ。
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※上述の和奈美神社であるが、その由緒書を見ると
式内社 但馬國養父郡 和奈美神社 旧村社
御祭神 大己貴命 天湯河板挙命
となっていて、山辺之大鶙ではなく天湯河板挙が祭神で、また主神はやはり出雲系の大己貴命=大物主=三輪大神になっている。
多氏は和邇系であり、元々は九州王朝系であって、神功・応神の東征に従軍して畿内に進出した氏族だと考えられる。それが、当の古事記編纂者という太安萬侶が、自らの氏族の職掌である壬生=ホムチ部の発祥の由来を敢えて
前王朝たる垂仁朝に設定したのは、いかなる意図によるものなのか?
垂仁の第一皇子が言語障害であり、それが出雲の神の祟りだというのは、開化〜垂仁の三輪王朝が、既に祖神である出雲神からも見放されている事。
そして王朝の継承は第三皇子?である大帯日子=景行天皇に移ったことを暗に言い立てているのであろうか。
(実際には、景行天皇は垂仁天皇と併存していた別系の王朝だが)その直臣である多氏も景行朝以前から大和に根拠があったとして、垂仁→景行への王朝の一系性の傍証としようとしたのか?
この辺りは、よく理解できないが、理解しにくいところが逆に意図の存在を感じるのである。
実際にホムチ部の分布する各地は、多氏の進出によって分布するようになった所も多いのではないかと考えられる。
「誉津部は、大和国・山背国・伊勢国・越前国・越中国・但馬国・出雲国・播磨国・備後国・周防国・阿波国に分布し、因幡国・安芸国にも地名よりその存在が想像される。」(Wikipedia)
こうして、設置されたホムチ部の名“品治”が多氏にあるというからには、王寺=品治にある片岡は、やはり加太岡である可能性が濃厚である。
斑鳩宮&法隆寺は、秦河勝配下の秦氏配下に移った猪名部が建築に当たった事が知られているわけだが、秦氏と多氏・和邇氏は各地で居住地の隣接性が指摘されている。そこで、大和川北岸の秦氏とすぐ南岸の多氏という隣接が
想定されるので、片岡神社を祀ったホムチ部はやはり多氏系部族であろう。
◯ホムチ部について別の着想は
ホムチ部が垂仁朝の伝説として記紀に載ることについては、上述の様に、多氏の何らかの意図を感じるのだが、別の観点からの解釈は無いのか?それを考究してみた。
もしホムチ部が三輪王朝時代から存在したとしたら、三輪王朝も出雲系部族の王朝であり、ルーツは月氏系(私が天孫族考で使った用語では天山三族系)だから、三輪王家にも壬生部があったとしても不思議はない。
つまり、この解釈を取れば、和族に於ける多氏の役割を、三輪王朝で担っていたのがホムチ部であり、九州王朝の東征で、大倭国が和国になった結果、ホムチ部は多系壬生部へ何時か吸収されたという事になるかもしれない。
天武朝直前期に大湯坐(おおゆえ)・若湯坐に多系が任じられていたようだというので、湯坐部を多氏が統括していたとして、最早その頃はホムチ部は無く、だから湯坐首でもある多氏が品治の名を持っていたのだろうか。
だとすれば、三輪王朝時代のホムチ部を統括する伴造が別にいた筈だ。
天湯河板挙命という名は、湯坐に通じる。その湯河板挙が鳥取造であるとされるからには、ホムチ部もまた湯河板挙(鳥取造)が伴造だったのか?
湯河板挙を祀る和奈美神社の和奈美とは輪縄で、鳥を取る縄製の罠の事だとされる。鳥取部はまた鳥養部でもあるので、成育に関わるのかも知れない。
辰韓系(出雲族)王家の子は、卵生説話を持つので、卵生した嬰児を成育するのは鳥養の民の任という事になるのだろう。
多氏と鳥飼部に何らかの関わりや擬制的同族などの説があるか?などは今のところ分からない。多氏も、藤原氏の全盛期には、最早宮廷舞楽の家としてしか認識されぬほど存在を縮小されてしまったのだ。
◯ 吉備品遅部雄鯽(きび の ほむちべ の おふな)
ところで、実際に品遅部の名を負う人物が、「日本書紀」仁徳天皇四十年二月上に登場する。吉備品遅部雄鯽である。彼は、仁徳天皇の舎人であろうと想定されている。
仁徳天皇40年、天皇が妃の候補とした雌鳥皇女(めとりのひめみこ)が隼別皇子(はやぶさわけのみこ)と逃亡したとき、天皇の命で佐伯阿俄能胡(さえきのあがのこ)とともに二人を追跡し、伊勢の蒋代野(こもしろの)で追いついて殺し、廬杵河(いおきがわ)のほとりに埋めた。
その際に、皇后八田皇女から、「皇女の齎(も)たる足玉手玉をな取りそ」と命じられていた。(これは、貴人の亡骸を辱めてはならないという戒め、というだけでなく、八田皇女からすれば、雌鳥皇女は同母妹だったからでもある。)しかし、雄鯽らは皇女の衣服を探って、裳の中から玉を手に入れた。
八田皇后から、皇女の玉を見たのかと尋ねられても「見ず」と偽証した、という。
この後玉は近江山君稚守山の妻と、采女磐坂媛が身につけていたのを発見される。(新嘗祭のあった)11月に豊明節会があり、殿上人の者だけが参加する酒宴の席の出来事だ。
二人の女性は、「玉は佐伯阿俄能胡の妻から借りたのだ」と証言した。
玉を入手した雄鯽が死者の所持品を我が物にすることを厭い、阿俄能胡に献上し、それを近江山君稚守山の妻と采女磐坂媛が借りて身に着けて、公の場に出て来て見つかったのである。
この事で佐伯阿俄能胡は罰せられたというが、彼が罪に服したという記述は『書紀』には掲載されていない。佐伯は私領を献上して免罪された事になっている。ところが、『古事記』では、雄鯽と阿俄能胡の役割は、「山部大楯連」が行ったことになっていて、大楯は死罪とされたというのだ。
山部大楯も舎人のようであり、先にホムチ部の発祥譚に出て来た山辺之大鶙はその祖先と思われるので、大鶙が鳥取部の祖であるとすれば、舎人の大楯もまたホムチ部ではないだろうか?
そして、山部赤人が、柿本人麻呂の別名だとの説があるように、藤原朝時代には、山部は春日(和邇)氏系海人族の統括を受けており、特に赤人は多氏の支配した関東地域の山部だったので、やはり山部や鳥取部にも壬生・品遅としての性格があったのであろう。
時に、仁徳皇后が八田皇女となっているが、これは後の皇后で、仁徳の前の皇后は、有名な磐之姫である。
この間の事情は、『日本書紀』によれば
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応神天皇の崩御後、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と菟道稚郎子は皇位を譲り合っていたが、空位のまま3年が経ち、菟道稚郎子は自らの命を断った。その際、大鷦鷯尊に妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言したという。
大鷦鷯尊は即位し仁徳2年に磐之媛命を皇后に立てるが、磐之媛命は嫉妬深い女性とされ、仁徳が八田皇女を妃とすることを許さなかった。
しかし天皇は仁徳30年に皇后の留守中に八田皇女を入内させ、怒った皇后は難波宮に帰ることなく、仁徳35年に筒城宮で亡くなった。
そして天皇は仁徳38年に八田皇女を皇后に立てたというのだ。
その後、仁徳40年に、皇后の同母妹の雌鳥皇女を妃としようとしたが、隼別皇子が皇女と通じてしまう。天皇は皇后の言を尊重して罰しなかったが、謀反の心があるとして二人は殺される。その際に皇后の願いにより皇女の装身具は奪わぬよう追手に命じたが、その禁は破られる。
それが先述の吉備品遅部雄鯽と佐伯阿俄能胡に纏わる話なのである。
『古事記』でも概ね同様の所伝を記すが、菟道稚郎子の自死や遺言の話は記にはなく、八田皇女が皇后になったことも記されてはいない。
これは、大安萬侶が磐之媛に心情的に肩入れしていたからであろう。実際磐之媛の陵墓は、古には多氏同族の春日氏が祀っていたと思われる春日神社の神域である三笠山に造営されている。
また菟道稚郎子は自死でなく仁徳による暗殺だと示唆しているのかも知れない。また菟道稚郎子の母は日触使主の娘であるが、日触氏は春日氏の同族。従って多氏とも同族である。
従って、書紀の方が、仁徳つまりその後の王家に都合が良いような体裁に仕立てられていると考えられる。
◯隼別皇子の物語について
仁徳天皇は雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を妃にしようと、甥の隼別皇子(記紀では仁徳を応神の子とするので、その場合は隼別皇子は弟になる)に婚姻の仲立ちを頼む。(雌鳥皇女も異母妹か実は姪になる。)
しかし、隼別皇子は、密かに彼女を妻にして復命せず、さらに皇位への野心をうかがわせる、不敬の言動が本人からも周囲からも相次いだ。このため、一度は二人の仲を許した天皇の怒りを買った、とされる。
しかし古事記では、雌鳥皇女が、仁徳の妃になるのを忌避したのは、皇后の磐之姫を恐れたからだという。
『古事記』では仁徳天皇の皇后の嫉妬を恐れた皇女が、以下のように発言して、自ら進んで異母兄の速総別命(はやぶさわけのみこと)の妻になったとする。
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「大后(おほきさき)の強(おず)きに因りて八田若郎女(やた の わきいらつめ)を治め賜はず、故(かれ)仕へ奉(まつ)らじと思ふ。吾(あ)は汝命(いましみこと)の女(め)に為らむ」
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(皇后のご気性が激しい為、天皇は八田若郎女を妃にお迎えになりません。ですから私もお仕えはいたしますまいと思います。私はあなたさま=隼別の妻になりましょう)
何も知らなかった天皇は雌鳥皇女の寝所を訪れるが、皇女に仕える機織女らの歌を聴き(『古事記』では門外の敷居に坐って互いに歌を交わした結果)真相を知り、恨んだものの、皇后に気兼ねし、また兄弟としての交情を思い
(二人の気持ちを慮って)一旦はこれを許した、事になっている。
だが、これが隼別の謀反の話になっていく。
古事記にはまず女鳥王(めとりのひめみこ)が速總別王(はやぶさわけのみこ)に、天皇を討つべしと促したことが記されている。
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この時、その夫 速總別王の到來(き)ませる時に、その妻 女鳥王 歌曰ひたまはく、
雲雀は 天に翔(かけ)る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね
天皇この歌を聞かして、即ち軍を興して、欲殺むとす。
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また日本書紀にも、
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俄(しばらく)ありて隼別皇子、皇女(ひめみこ)の膝を枕にして臥せり。乃ち語りて曰はく、「鷦鷯と隼と孰(いづれ)か捷(と)き」といふ。
曰はく「隼は捷(と)し」といふ。乃ち皇子の曰はく、
「是、我が先(さきだ)てる所なり」といふ。
天皇、是の言を聞しめして、更に亦起恨を起こしたまふ。時に隼別皇子の舎人等歌(うたよみ)して曰はく。
隼は 天に上り 飛び翔(かけ)り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね
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これは隼別が大鷦鷯(仁徳天皇)より優れているので取ってかわるべきと評判し合っているという事なのだ。
これを以って叛乱の意図があると見なされたのである。
隼や鷦鷯など、鳥に纏わる話が出てくるところに、どうも元来は鳥取部の伝承ではないかと思わせるのである。
隼別の話は、作家田辺聖子氏の古代小説「隼別王子の叛乱」で有名になり、その後脚色されて宝塚歌劇の演目にまでなった。
もっとも、古事記の記さない、否記せない事情、即ち女鳥皇女の実同母兄である菟道稚郎子が仁徳に大王位を簒奪されたのだから、その仇に嫁ぐなど(自分は八田皇女のようには)したくない!と思い、代わりに異母兄の隼別に王位を取らせたいと考えたという真相、が隠されているのかも知れない。
◯史書に現れる別の品遅部
吉備品遅部雄鯽が最も有名な品遅部に属する人だが、ほかに二人の品遅部が古書に登場する。
上古の応神朝と、奈良時代の二人の名である。
応神朝の方は、當麻品遅部君前玉。奈良朝(天平時代)の方は、坂井(越前)の品遅部君広耳である。
加西市の市史編集室の今津勝紀氏による當麻品遅部君前玉の記述である。
少し長いがよく分析しておられるので、引用させて頂く。
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播磨国賀毛郡の地名伝承
---------今津 勝紀
『播磨国風土記』にみえる賀毛郡の地名伝承は、次のようにあります。
賀毛と号するゆえは、品太天皇の世、 鴨村に双鴨が栖を作り卵を生めり。
故に賀毛郡と曰う。上鴨里、土は中上。 下鴨里、土は中中。右二里、鴨里と号するゆえは、已に上に詳なり。但し、 後に分ちて二里となす。故に上鴨・下鴨と曰う。品太天皇の巡行之時、此の鴨飛発し、修布井樹に居めり。此の
時、 天皇、問いて云く、『何の鳥か』、侍従當麻の品遅部君前玉、答て曰く『川に 住める鴨なり』、勅して射さしめる時、 一矢二鳥にあたる。即ち矢を負いて山より岑を飛越し処は、鴨坂と号す。落ち倒れし処は、仍ち鴨谷と号す。羹を煮し処は、煮坂と号す。
『風土記』は和銅六年(七一三)に、政府が全国に命じて編纂された地誌で、国ご とに古老の言い伝えなどをもとに作成され ました。ここに鴨坂・鴨谷・煮坂(にさか) などの地名がみえます。それぞれの地名の 現地比定は慎重に扱わねばならないのです が、この風土記の伝承によると、元来ひと つであった鴨村を「品太天皇」すなわち応神天皇が巡行するに際して、一つの矢で二 羽の鴨を射たことにより、上鴨・下鴨の分割がなされたことが説明されています。上鴨・下鴨の分割が応神天皇の頃であったかどうかは、問題にならないことで、不明とせざるをえないのですが、ここで取り上げたいのは、鴨里が説明される部分にみえる伝承そのものです。この地名起源伝承は、 敢えて言うならば、応神天皇と品遅部君前玉の鳥追い伝承と言ってもいいでしょう。 当麻の品遅部(=品治部)君前玉とはヤマトの北部葛城地域にあたる当麻の豪族と考えられます。 実は、古事記・日本書紀には、鳥追いに 関するまとまった伝承が残されています。 それは垂仁天皇の皇子ホムツワケの伝承です。古事記にみえるホムツワケの伝承は、 垂仁天皇と佐保比売との間に生まれたホムツワケが、火中に出生したことにちなむ命名譚と、ホムツワケが長じても話をしなか ったという物言わぬ皇子の言語回復譚により構成されます。古事記により大まかな筋を述べると、垂仁天皇の皇子であるホムツワケは、サホヒコの滅亡の際、燃えさかる稲城の中から救出され、それにちなんでホムツワケと命名されたのですが 、彼は、長じても話をすることがなかった。そんな彼が、高く飛び行く鵠の音を聞いて初めて言葉を発した。そこで古事記では、山辺大擢を派遣して、鳥を追わせる。山辺大擢は、 紀国(紀伊)・針間(播磨)・稲羽(因幡)・ 旦波(丹波)・多遅麻(但馬)・近淡海(近江)・三野(美濃)・尾張・科野(信濃)・高志(越)へと追いかけ、ついに和那美の水門で鳥を捕まえる。しかしこれでも物を言わぬ皇子に対して、
ホムツワケが出雲大神を奉ることでついに言語を回復する。彼が行く先々にホムツワケにちなみ鳥取部・ 鳥甘部・品治部・大湯坐 ・若湯坐を設置した、とのことです。
この古事記ホムツワケの伝承をめぐっては、国文学でも研究が積み重ねられており、 すでに火中出生と命名に関する部分につい ては、これが漢訳仏典の『経律異相』「瞻婆女人見死闍維於火中生子」による潤色であることが明らかにされています 。また、物言わぬ皇子の部分についても『経律異相』 「慕魄不言被埋後言得修道」に類似する部分がありますが、ここは多少異なる部分も あります。つまり、ホムツワケの伝承は、 古事記を編纂するに際して『経律異相』を 下敷きにしたことが明らかであり、この部分は、古事記編者の創作である可能性が考えられます。このように現在の古事記のホムツワケの物語には編者による創作の可能性が考えられる部分が含まれるのですが、 鳥追いの部分に関しては、現状ではそのようなものが見つかっていません。恐らく、 この部分は古くから神話の核として存在していたのではないでしょうか。 そこで、記紀のホムツワケの鳥追い伝承ですが、事実関係は別として、古事記では 山辺大擢が鵠を追って、播磨に至っていること、また品治部の設置がそれに関連して見えることに注目したいと思います。播磨国風土記の賀茂地名伝承と密接に関連することは明らかです。播磨国風土記が古事記 など朝廷の伝承を参照した可能性も否定しきれませんが、風土記の地名起源では応神天皇の頃の話とされており、古事記を下敷きにしたものとは考えられません。恐らく、 播磨にも何らかの鳥追伝承が残されており、 それが風土記に採録されたものと考えるのが合理的でしょう。すなわち鳥追の伝承が、宮廷だけではなく播磨にも存在していたのです。 『古事記』は宮廷に伝わった帝紀・旧辞をまとめたものですが、帝紀とは皇統すなわち王の系譜であり、旧辞とは神話や伝承のことです。いまここで詳しく述べる余裕 はありませんが、系譜と神話は、古代の社 会を組織立ててゆく上で、大変重要な意味を持っていました。賀毛郡の地名起源伝承は古事記に残された伝承 (旧辞)の別伝としての価値をもつものであり、この地域の 歴史を復原する上で重要な鍵になると言えます。(『加西市史編集室だより』2、2001.8)
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つまり、ホムヂとは“火(ホムラ)+出(イヅ)”だと言っているわけだ。
そしてそれは漢訳仏典の『経律異相』に見える説話を古事記編者(大安萬侶)が利用して、鳥飼部の発祥伝承譚に纏め上げたのだろうと推理している。
ホムヂという言葉の非一般性故に、記紀のホムツワケ皇子の話が創作されたが、元は仏典の火中生子譚だったという解析である。
但し、留意すべきは、本牟智和気皇子伝説が、大安萬侶の仮構だったとしても、ホムチ部はその事とは別にして、厳として古来存在していた部曲だったという事をである。それは、上記の応神・仁徳朝という上古の話題でなく、下記の、天平時代に品遅部が存在したという話があるからだ。
次に登場するのが、その、ずっと後世の奈良朝時代の話である。
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品治部広耳 (ほんちべの-ひろみみ)
奈良時代の官吏。
越前(福井県)坂井郡の郡司として、天平宝字元年(757)、東大寺に墾田100町を寄進した。のちの東大寺領の国富荘、鯖田(さばたの)荘にあたり、東大寺が奈良時代中期から平安時代初期にかけて北陸に設定した初期荘園の代表例。氏は品遅部とも。
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これは日本人名事典に載る記事。元の出典が、東大寺文書とか続日本紀とかの記載は無いが、別の資料では「越前国坂井郡司解」辺りであるらしい。その文書では、“品遅部君広耳”とも出ているようだ。(福井県誌)
ともかく天平年間にまでは品遅部を名に負う人物が存在した事が分かる。
大安萬侶よりもずっと後の世代になる。
そも天平時代には、壬生としての多氏自体の活躍はもはや克明ではない。律令時代には、宮中の内廷雑務は中務省の内舎人や、女官は宮内省皇后宮職や中宮職の官制の中に取り込まれて、特定氏族の独占の職では無くなっていたと考えられるのである。(記録上は、誰々親王の乳母等と出ている。一旦乳母になると、内親王が斎宮に任じられて伊勢に出向する時は、随従して行ったようだ。この辺りを詳細に研究した学者は知らない。)
そして、品遅部もまた、各地から必要に応じて徭役に出仕していた専門職という性格から、単なる地方官という存在に埋没していったのであろう。
それにしても、伊奘冉は神で不老不死の筈だが、軻遇突智によって焼死してしまう。火中生子である本牟智和気を登場させたのは、垂仁の出雲系王朝の滅亡の予兆を感じさせる大安萬侶の隠された意図があったのだろうか。
(元来伊奘冉は出雲系の祖神であり、天孫族のそれでは無い事を指摘する人も多かった。)
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※(附)片岡神社に関わる過去の言及について
Facebookの古代史研究会の投稿に於ける片岡さんという方のコメントに、私から、以下のようなレスを付けました。
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我が国の片岡姓は、大和か近江等もしくは土佐が多住地と言われていますが、土佐は、長宗我部氏の家来になった片岡氏が、四国以外から臣従したといいますので、元来は大和南部の王寺にある片岡神社がその根本ではないかと言われます。そしてその片岡神社の系統が近江と、何と遠江にありました。(中世に大和の片岡神社の社領の中に、そういう土地に封戸があった事が言及されています。) 実は、遠江の吉田の片岡神社は、一時私の曽祖父が
住んだ事のある土地なので、昔から関心がありました。
平塚にも今は片岡神社という名の神社がありますが、これは中世までは、雷電社と言っていた様で、祭神は別雷神(ワケイカズチのカミ)です。どうやら土地が片岡の名であるのでそういう名になったものと思われます。
で、本貫地の王寺片岡神社は、今では複数の神が連座していますが、本来は遠江吉田の片岡神社がそうであるように、住吉神を祀ったものではないか?と考えます。
私は、この片岡とは加太岡で、王寺は大和川沿いですが、南の葛城地域の南部が紀の川(吉野川)水系の宇智川に連なるので、加太や住吉から多系の
海人族が応神東征の時に逆遡行して来た地ではないか?と想像しています。
片岡神社の祭神は、天照皇太神、表筒男命・中筒男命・底筒男命(=住吉三神)、品陀別命(応神天皇)、それに清瀧命です。
中世に修験道と神仏習合が盛んになると、王寺も葛城修験のテリトリーとなり、ここ片岡神社は一時清瀧権現と言われました。清瀧権現は瀬織津姫の別名で、仏教でいう善女龍王、本地は如意輪観音です。清瀧権現は、醍醐寺の聖宝上人が尊崇したので、当山派修験によって各地に勧請されましたが、他では、私の知る限り、片岡神社の名で勧請はされていません。ですから清瀧権現と住吉系は、今は同座していても、元は別系統だと思われます。
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これは、もう少し補説すると、私のかねて論述していた「江」の概念です。
紀の川支流の宇智川上流は、西側の葛城山地から流出して来て(今の国道168号線)辺りで南流しています。ですが私は、この南に曲がる地点から、168号線に沿って、東側の弥勒寺の西を通って、葛城川の上流に繋がる江(水路)が古代にはあったのではないか?と想像しています。この間は、僅か1.5キロしかありません。いわゆる葛城の道沿いの「風の森神社」の東方の低地を通る経路です。というのも、この道筋の葛城川の右岸東南方向の内陸に“船路”という地名があり、かつてそこに舟運があった事を推測するからです。
もしそこが江であれば、紀の川水系と大和川水系を結ぶ水路だった事になるわけです。