補遺22「八咫烏と日足紋」

天孫族考 補遺22 「八咫烏と日足紋」

◯八咫烏の三つ足について

天孫族考本文でも述べて来た様に、

1)八咫烏は、印度の聖鳥ガルーダ(仏教でいうところの迦楼羅)の発展形であり、本来的には鳳凰や朱雀とも、また日本の金鵄とも同系だ。

2)カラス=黒い鳥というのは、朱雀といえども、太陽を背にすれば陰となり黒く見えるからだ。

  ※ス(もしくはソ)は中央アジア系言語の鳥を現す語素

     カケス、ウグイス、ホトトギス、ウソ、スズメ

  ※カラは同じく黒を現す語素だった

      カラコルム(黒崑崙)、カラ契丹(黒契丹)

    →カラも、カ(陰)+ラ(日)だったかも知れない?

3)八咫烏が小月氏(日ノ本族)のシンボルであるというのは、三本の足が、小月氏を構成する3部族;

蘇毗族(龢族=和族)と黄牛族(牛首族)と白馬(宇)族の3つを表し、それが我が国に渡来して支配層を形成した天孫族・出雲族・秦氏(宇佐族)に相当する。

 ※原住の縄文族に、大陸呉越の倭族・淮族=朝鮮の濊族=海人族(阿曇)が渡来先住し、そこに出雲族が渡来して連合王国を作ったのが大倭=弥生人〜初期古墳時代人(三輪王朝=ヤマト大倭;ヤマトォヰ)

そこへ秦氏と天孫族が中部九州に建てていた久我(日下・陸)國=狗奴國(九州王朝)が東征して、河内王朝(大和国、日ノ本国)が成立した。

蘇毗族(龢族=和族)と黄牛族(牛首族)と白馬族は、元来は、マギバラモン・クシャトリア・バイシャの3部族に対応し先住の海人族と縄文族がシュードラに相当する。

   (更に、捕囚などのチャンダラが最下層の隷属民。)

※面白い事に、牛族と宇族だが宇馬は午の字にも作るので、牛と午では、字形では角が出ているかいないかの違いである。

「忤(逆らう)は、立心偏に旁が午だが、立心偏に牛の旁もあり得るだろう」

 とは、厩戸皇子の十七条の憲法の考察で述べた。

「和をもって」尊しというのは、原文では「“龢”をもって」である事も。

立憲の直前で忤ったのは、牛族(出雲系)の物部氏だったからだ。

午族の秦河勝は、牛族の首領・物部守屋討伐軍の将であった。

日本では、新興クシャトリアの藤原氏が摂関として政治の実権を掌握し、以後幕末までクシャトリアの内部の奪権闘争で時代が動いた。

一方、中央アジアに残った大月氏は、五つの分国に分かれ、その内の貴霜国(つまりクシャトリアの国)が他を圧倒してクシャン朝が成立する。

(もっとも、クシャン朝はバラモン国であるササン朝に征服された。)

朝鮮半島でも、辰韓中のクシャトリア国家であった斯羅國が、馬韓(百済)や加羅を征服して統一して新羅となった。以後明治の李氏朝鮮まで基本的にはクシャトリア国家である。

---------というのが、私の解釈であった。

中国でも、三本脚の朱雀という霊鳥が構想されたようだが、何故三本脚が瑞兆なのかの説明は尽くされていない。単なる奇瑞扱いである。

これは、中央アジア系民族の(原ゾロアスター教の)カーストについての理解が不十分だからである。

◯日足紋について

我が国のいわゆる家紋の中に「日足紋」という図形がある。

よく見られるのは十二日足紋。日辰を表す中央の丸(日章)から周りに放射状の輝光線を表現する筋(帯)が描かれている図柄である。

輝光線の数が十二であるのが、十二日足。八つなら八日足、六つなら六日足などという。1本の日足が2条に割れているのを変わり日足紋という。

(6本の幅太の帯状の日足が各2条に分かれていれば変わり十二日足である。)

この日足紋は、専ら北九州に出自の武家で使われている。竜造寺氏やその後を襲った鍋島。草野、伴野、大村、木下、中島、高木、勝屋、上妻、赤司などの各氏。主に肥前(佐賀・長崎)や肥後、北九州系(福岡、大分)の氏族の家紋になっている。

光条の先がV字状に割れている図案は一般に旭光日足と呼ぶ。

また旧日本海軍の旭日旗も一種の日足紋章だと考えられる。警察の制帽などに付けられる紋章も旭日紋の変形である。

さて、日足紋が中九州と北九州で専ら用いられたというのは、やはり元来は、九州王朝に関わる紋章ではないか?と推理し得るだろう。

◯日足と八咫烏の三つ脚

八咫烏の三つ脚は、太陽神の霊鳥の具有物なので、当然に日足である。

天孫族の原語である蘇毗族の蘇毗とは足霊日(ソヒラ)であり、日足である。

八咫烏が天孫族のシンボルなのは、元来は三つ日足の意味合いだったからである。(足霊日は、タジク語でパミール=坐魅日。漢語で葱嶺。)

またそれらは日月星の三辰をも象徴する。これらは、遼東に一時建国された辰国のシンボルでもある。辰国は、南遷して、加羅・辰韓・馬韓の構成部族になった。

天孫族が北九州に渡来し、中九州(肥前〜筑豊〜豊前・豊後・阿蘇・肥後)を版図にした時に、先ず八咫烏が神話的なシンボルとして登場、恐らくその後、そこの地に日足紋が創造されたのでは無いだろうか?

だから、日足紋も原初的には「三つ日足」の図象ではなかったろうか?

月氏3部族の意味合いが忘却されて、六つ日足や八つ日足・十二日足など様々なヴァリエションが考案されて来たのだろう。

そして周りを波輪で囲ったものとか、丸輪とか、抱き柏日足とか、他の模様と組み合わされたより複雑な日足紋も登場した。また中心が日章の代わりに巴を用いた木下日足なども工夫された。

図像学的には八咫烏も一種の日足紋だといっても良いだろう。

その日足の光条の数についてだが、発展形を考えると、2系統になる。

先ずは、三日足→六日足→十二日足という倍々の発展形。こちらが一般的。

もう一つは、(六日足)→八日足→十六日足の系統。

十六日足になると、もはや十六弁菊花紋に近似して来る。

※ 足霊日(ソヒラ)は、我が国では無論日之下であるが、天孫降臨の高千穂の“添(ソフリ)”の岳や出雲族が追われ拠った“諏訪”の地名に、また平安京の建設の敷地に邸宅を提供した秦勝が屋敷内に祀りそのまま平安京内裏の守護神になった曽冨利神の名称に残っている。

また朝鮮でも、首邑のある地を意味するのがソホルである事なども、「天孫族考」本文及び補遺の幾つかで指摘してきた通りである。

※小月氏、大月氏について言及したので、天孫族考で私が中月氏と称した;崑崙山脈南麓高原地帯に残存した月氏の後裔についても、ここで纏めておく事にする。

該当するのは、後漢以降に婼(or 若)羌と呼ばれた部族群である。ここから分かれたと思われるものが4種ある。

一つは昭武九姓と呼ばれた城砦国家群。(これはタリム盆地〜フェルガナ盆地方面西域に分布していたので、大月氏の後裔ではないか?とも考えられるのだが。)

そして、その昭武九姓とも関わると思われる象雄(シャンシュン)国、そしてその後裔が日土(ラダック)国。

更に婼羌の別名は蘇毗羌だが、その直接の後裔と思しき東チベットに建国された蘇毗(ソンパ)国。これは女王の統治する国として東女国と呼ばれた。首都は昌都(チャムド)。

東女国は唐に則天武后による武周が成立すると、“日本”の国号を認めて貰おうとした(持統上皇の統治する)大和と、東西中と女君主の君臨する国々が連立する事になった。武則天が国号変更を承認する動機ともなった。

しかし、象雄も蘇毗も、ラサ南方の渓谷から起こった吐蕃によって征服されてしまう。

昭武九姓の国家群の地は、南西から侵出したイスラム軍に寇掠されてしまい痕跡は残らない。そこの君民は象雄国や青海高原にでも逃れたのだろうか?

象雄国の遺跡の洞窟等の古文書や遺品は第二次大戦前に、ドイツのナチス親衛隊のヒムラーの派遣した探検部隊によって欧州へ持ち出され、その後行方が不明となった。

ヒムラーは月氏やゾロアスター教部族のカースト制をドイツに取り入れようとした。ナチスがアジア人の中で日本を特別視したのは、日本が月氏の子孫の国だという説を信じた為である。

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