補遺23 日下国の右賀は遠賀か?
天孫族考 補遺23 「日下国の右賀は何処か?」
◆佐賀(左賀)、那珂(中賀)に対応する右賀は何処か?
日下国(狗奴國)の主邑を想定する論考で、日下国では斎日壇をカガ(クガ、コウガ)と呼び、何時からか久我や古賀・古河などの漢字を充てたと述べた。
集落(クニ)の大小の違いによってその規模も変わったが、主邑と思しき町(マチ)では族長クラスの列席する斎日祭が営まれた。
その主邑は日ノ下国では左右中の3つがあり、武雄近くの多久にあったのが左日下=佐賀、那珂川の上流の後世“安徳台”と呼ばれた所が中日下=那珂ではないかと推理されるが、右賀に相当する場所は推定しにくいと述べて来た。
朝倉とか春日、もしくは日田辺りか、或いは水巻(後世の香椎街道の久我の宿)か?と複数の候補地を考えてみたのである。
また、宇賀の人名の多い地域かも知れないと考えて、北〜中九州地域の宇賀姓の分布も調べてみたのだった。
しかし、最近右賀は、何の事ない!遠賀ではないか?と思い当たったのだ。
そも、古来“遠賀”とは、洞海湾に面した(北九州市八幡の)岡田宮の古名である岡ノ宮の”岡“に因むものだという語源説が有力であり、私も従来はそういう常識に従って来たのである。
だが一方で、オカ→オンガという転訛説にはどうも素直に頷けないものもあった。
だが逆に、(岡→遠賀ではなく)右賀→遠賀→岡だったのではないだろうか?と考え付いたのである。
ウガ→ウンガ→オンガという転訛は、語末の”ガ“が鼻濁音であるから、十分にあり得る転訛である。ウンガ→オンガは、語頭ウンが弱音化するので、聞き取りにくいので、音をはっきりさせる為の転訛である。
そうすると、岡田宮が右賀地域の主邑だった可能性があり、近接した水巻宮に武内宿禰(=日之下建ヒノモトタケル=小碓命)が居た事の必然性がある。
この頃、後に景行天皇に擬せられた大帯日子忍代別が佐賀の小城・武雄に居しており、岡田宮には大碓命が派遣されていて、父大王に婚する筈の宇佐の息長大媛である砧媛を、大碓が奪ったのを、小碓が掣肘しに出かけて殺し砧媛も奪ったのである。その後、小碓は水巻宮に住んでいたと考えられる。
大碓と小碓は双児の兄弟だったという。
二人は大稚帯日彦と小稚帯日彦という名号であるが、この大稚・小稚を大碓と小碓に変名して、ヤマトタケルの神話に仕立てられたのだと推理した。
そして稚帯日彦は2皇子の長兄とされた成務天皇の名号に仕立てられる。
記紀では成務天皇の同年齢の内臣が武内宿禰であるが、これは実際は大碓と小碓の双児(無論同年齢)の話なのだ。
三韓征伐譚では、神功皇后のお供をして武雄に滞在している時に、息長大媛の妹である豊媛を武内宿禰が嫁に迎えた事になっている。
豊媛が砧媛の妹か、或いは同一人なのか?いずれにせよ、その二人の姫の内どちらかが神功皇后であり、従って応神と仁徳の生母という事になろう。
またその内の一人が、葛城や巨勢などの武内宿禰系五氏族の母であろう。(五氏族から大臣が出された。)
王家では、姉妹の両方を嫁にする事の例が多数あるので、それは何の不思議もない;上古に一般的な習俗なのだ。
天孫族考で論述したように、仲哀とは一大率として、ヤマトから派遣された垂仁の子孫の王族だったろう。しかし彼が赴任して来た時に、元伊都国にあった九州北半を支配する一大率の役目は、九州王朝(狗奴國=日下国)の日之下建(武内宿禰)の子である葛城襲津彦によって奪取され、その治所も葛城氏の本拠地である嘉麻の桂川に近い香椎宮に置かれていた。
そこへノコノコやって来た仲哀はあっさりと誅伐されてしまう。息長大媛の呪術によって!という事になっているが。
実際は、武内宿禰と豊媛の子である誉田別(応神天皇)は、その仲哀の子である事にされて、ヤマト東征の口実になったのかも知れない。
とはいえ、この垂仁朝〜応神朝に変わるまでの間に、ヤマト王朝も東国経略を進めていたと考えられ、それが河内王朝になってから多氏水軍が東海道筋を征服東進する前に、先住していた出雲系の部族なのである。(員弁の東進についての検討の際に見たように、関東に進出していた員弁族は、三輪王朝
の時代の東国経略によるものである。)
これらは、垂仁や景行BやヤマトタケルBの東国経略物語物語となって記紀にとどめられているのである。
また九州王朝東征後、即ち河内王朝の祭日壇は、河内湖東岸の日下(草香)に他ならない。藤原京は京内にあったようだ。平城京では春日野。長岡京では、鳥羽の久我である。
※孝昭天皇が九州王朝の祖ではないか?という事を天孫族考で述べた。
孝昭天皇の和風諡号の観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)は、稚松彦岡江根子(根子は禰宜だったかも)で、北九州の若松半島に入部後、洞海湾の岡江の宮(岡田宮)に治日下(=治天下)したスメラミコトではないか?
という事も述べて来たので、右賀が遠賀(岡の久我)だったとするのは矛盾が無いのである。また孝昭天皇陵は葛城(実際は御所市)の掖上博多山上陵に比定されているが、これは九州王朝が東征後畿内入りした後に、拝み墓のような形で設けられたものではないか?掖上は御所市の地名だとしても“博多山上”という表現が気になる。元来は、博多津近くの宮地嶽あたりだったのかとも想像してしまう。私は孝昭の神格化が邇邇芸命ではないか?とも考えた。
◯王統別家について
以前、天孫族考で息長氏を論じたときに、天孫族=龢族がパミールの故地にあった時の女系制だった名残りで、女系の王統を継いでいるのが息長氏ではないか?と述べた。
息長の血統は、近江と豊前(宇佐)の二流があったと推測される。
近江の方は、佐保王家系(日子坐王の血統、狭穂媛や日葉酢媛)であり、豊国は息長大媛(辛島氏か?)である。
こういう王統別家は、王統が途絶しない様にする為の知恵だった。
後世の伏見宮家などの様な宮家の制度はこの王統別家の考え方の延長上のものである。
(但し、南北朝はこれと同じ原理ではない。)
皇統ではないが、徳川家の御三家御三卿などは、この王統別家に倣ったものかと考えられる。
継体天皇も元は佐保系の王統別家からだったと解釈できる。
開化朝の倭迹々日百襲姫も私は息長氏ではないか?と論考した。
これが迹々日ではなくて豊日だったかも知れないと考えた。そうすると、それは大倭連合王国=ヤマト大倭(オオヰ)国=ヤマタイ国に来嫁した息長大媛であるとすれば、それが日巫女=ピミコ(卑弥呼)であって、その死後に大乱をおさめたのが宗女である壹与なのだが、この壹与こそ武内宿禰の妻になった
豊媛だとすれば、どうだろうか? 三輪王朝との戦乱の後に、武内宿禰に率いられた神功皇后=豊媛によって新王朝が開始されたという記紀の記事に附会するのである。
新羅王家も、斯羅國を構成した3邑の王の血統が並行して存在したという。これらも王統別家である。
また中月氏の婼羌=蘇毗羌から分かれたソンパ国(チベットの東女国)にも王統別家があったかのようである。
王統別家の存在は月氏系王国の特徴なのだろうか。
(もっとも、クシャン朝にもこういう仕組があったかどうかは未確認であるのだが。月氏でも龢族の習俗なのかも知れない。)
◯左右中久我の成立順
左日下=佐賀、那珂川の上流の中日下=那珂、そして右日下=遠賀としても、これらは同時に成立したものではあるまい。
私の想定では、先ず若松に上陸した孝昭天皇(岡江葱)が、遠賀川に江川で連結していた洞海湾の南岸の岡に岡の宮を営み、その後孝安天皇(日本足彦国押人)から景行天皇(大帯日彦)が、豊前豊後〜阿蘇(肥後北部)〜有明海北岸(筑後・肥前)に版図を拡大したと考えられる。
景行天皇の別名が忍代別であり武雄心尊なので、小城辺りが首邑になったのであろうと推理したのだが、この時に、最初の岡が右賀とされて、小城が佐賀という呼称になったのでは無いだろうか?
その左右の久我(日下)が成立後に、間に中日下が定められたのでは無いのか。中日下=那珂だろうとして、那珂川上流の安徳台辺りに日下が設営されたのではないかと推理したのだが、それ以前に、那珂の背振山地を挟んだ南側の;今吉野ヶ里と云う地域の山上に日下と思しき場所が見られるので、当初はそこが中日下だったのかも知れない。
伊都国及び奴国を征服して、筑前全域を版図にした王者が日之下建(つまりヤマトタケル=武内宿禰)の時代であろうから、この時に筑前の日下として新たに背振山地北麓の那珂川沿岸の安徳台に中日下が移されたのではないかと推定するのである。
この時、奴ノ津に流入していた奴ノ川が那珂川となったのだろう。そして奴ノ津も那ノ津と呼ばれるようになったのだと思われる。