補遺24「穂積臣と鈴木氏」その1
天孫族考 補遺24「穂積氏から分かれた鈴木氏」その1
穂積氏は、古代に活躍した中級貴族として、よくその名が知られているものの、実は幾つかの疑問が存在する。
☆穂積氏に関する疑問
1、穂積氏はしばしば物部穂積氏といい、物部の同族であるかの如くである。
系図上も、始祖は物部氏と同じく饒速日だとし、
その子の宇麻志麻治命系の後裔だとする。
また直接の先祖は崇神朝の大水口宿禰だとする。
一方で、物部の姓は連であるのに穂積は臣であり、
河内王朝側からも、和族の直臣と認識されている。
これはどうしたものか?
◯物部とは、何らかの理由で擬制同族化したに違いない?
どういう理由があったのか?
◯穂積の一族から、九州の末羅の国造が出ている。これは穂積がかつては北九州松浦方面に根拠地を持っていたことを表す。
それは、和族による狗奴國が成立した前からなのか、或いは後からか?
大水口宿禰以前に、穂積の祖先が孝元天皇の臣下であったとする伝承があるようだが、これはやはり在北九州の穂積氏の祖先があったことを示唆するのではないか?
2、穂積押山による任那4県割譲の実情はどうだったか?
押山の事件の時に、押山の行為を容認していたのは
大連の大伴金村であった。だが同族の筈のもう一人の 大連・物部麁鹿火はこの行為を容認する朝議の結果を 伝えに百済使の滞在した難波の客館に行く任にありな がら仮病を使って出張しなかった。別の使者が伝達し た事にはなっている。
だが結果的に押山は勅許不得の(幕末の井伊大老の如 く)問題にされた。
後から、皇子勾大兄が百済使にこれは間違いだと言お うとしたが、百済の使官は「既に大倭国の大王の許可 を得たのにその皇子が反対するのは不敬不孝である」 と拒否した。
3、穂積国興の子息の一人である真行が、紀伊で鈴木氏を称したのは、
一族が勅勘を蒙ったのを憚ったからだという。
しかしその勅勘とは穂積の誰が、何の事件で蒙った
ものなのか?
養老年間に、穂積老が佐渡へ流罪になったのは、元正女帝への不敬があった為というが、これがその勅勘に当たる事件か?それとも別事か?
不敬の具体的な実際は何か?→これについては、後段で論じる。
但しこの事件は、元正が穂積老を斬罪としたのに、皇太子首皇子(後の聖武天皇)が取りなして流罪に減刑された。その後聖武即位後の大赦で本位に服されて、再度朝廷に出仕し、恭仁京の留守職や大蔵大輔等を歴任した。
もしこの事件を憚ったというなら、時代が隔たっており、また鈴木真行は穂積老の直系の子孫ではなく、叔父の穂積濃美麻呂の子孫である。濃美麻呂もまた穂積朝臣の姓を与えられているので、その姓をみすみす返上はしないと思われるから、恐らく国興〜真行の親子は穂積朝臣を名乗れない庶流だったのではないか? 嫡流の穂積老は聖武朝で復権して、大蔵大輔にまで成っている。以後も穂積の氏名を伝承したのは、老の子孫かと考えられる。(もしくは濃美麻呂の子孫でも穂積姓のまま後世に残った者もいるかもしれない。但し、中央官人は老の代あたりまでで、多くは中世には地方の武士となって行ったようだ。)
4、壬申の乱に於いて、穂積百足は近江朝廷側だったが、その討死後に弟の五百枝が大海人軍に付いた事で、穂積氏が生き残ったというが、この事情は?
5、どういう経過で、穂積の一系流は熊野神社との関係ができたのか?
鈴木氏初代の真行と熊野の関係は?
以上の疑問につき、順不同で検討して行く。
☆穂積老の流罪事件と鈴木への改姓の理由の件
先ず、次なる文書を参考にする。
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http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3771/1/06%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%85%88%E7%94%9F.pdf
上記は、元明〜元正天皇期の朝廷内の勢力図を考究した論文である。(「元正天皇期の政権構造」著者 佐々木律子;北海学園大学)
「元明天皇崩御後、二个月もたたない養老六年(七二二)正月二十日に多治比三宅麻呂・穂積老の謀反誣告・乗輿指斥事件が起こっている。事件の真相は不明であるが、皇太子首皇子の進言で死罪を免れ、 三宅麻呂は伊豆嶋へ、老は佐渡嶋へ配流になったとしている。一見すると、皇太子である首皇子の慈悲と徳が述べられている記事である。
渡部(育子、秋田大学教育文化学部教授、博士)氏は、
“不可解な事件であり、その真相はわからないが多治比三宅麻呂が事実無根のことを誣告したということは、政界の勢力関係に絡むことかもしれない。
穂積老が乗輿を指斥したというのは、天皇を批判したということである。
とすれば、謎の騒動のターゲットは皇太子(首皇子・後の聖武天皇)と天皇(元正天皇)である。元明太上天皇を失ったことで、在位中の元正天皇の地位が脅かされることは考えられないから、問題は、皇太子の方であろう 。 ”
と述べている。
この時点では皇太子首皇子の立場は絶対的なものではなかったいうことが想像できる。 元正天皇の二度の養老行幸の際、首皇子が同行したという記事がみられないことを考えると、元明太上天皇や藤原不比等と共に平城京において天皇の留守を守っていたことになるがその実態については不明である。皇太子としての首皇子の役割・業績に関しては、元正期の政権構造を考えるうえで今後の重要な課題と考える。」
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という。
この時期の朝廷内の勢力は三分されていた。
即ち皇親と、(壬申の乱の)功臣(とその子弟)、それに近江群臣と言われた近江朝廷にも仕えていた官人である。功臣は下級もしくは地方の官人層が多く、行政の複雑な実務執行には、朝廷に代々仕えた官僚達が必要だったのだ。
分類上からは、藤原不比等も近江群臣の一人である。
皇親は、持統の近親者皇族(元明・元正も含む)と、壬申の乱の天武派の生き残りである舎人親王と新田部皇子及び(高市皇子の子である)長屋王とその妻の吉備内親王(元正の実妹)である。
その勢力は、元正朝で2勢力に分化して行く。
即ち、次期天皇位を巡り、首皇子(+藤原氏)の一党と、長屋王を推す一党とである。
功臣派の多くは長屋王支持に回り、舎人親王と新田部皇子及び藤原氏は、首皇子派(つまり反長屋王派)で、近江群臣の多くがこちら側に付いた。
こういう情勢下で、上述の元正天皇養老6年正月の二つの事件が勃発した。
ともに詳細は伝わらない。
多治比三宅麻呂が事実無根のことを誣告したというが、具体的には何の事だったのか?後世(聖武朝)の長屋王事件も、下級官人が長屋王に叛意があるとの誣告をしている。恐らく、三宅麻呂は「誰々が、首皇子を排斥しようと
している。」とか言ったのであろうか。だが元正天皇が三宅麻呂を斬刑にしようとしたくらいだから、寧ろ「元正天皇の退位を企図している者あり」とでも言ったのかも知れない。それが長屋王かその近臣なら由々しき事であるからだ。だが長屋王には妻の実姉でもある元正に叛意などあろう筈がない。すぐ分かるような嘘だったか、丸切り疑心暗鬼の妄想だったのか?
一方で、穂積老の場合、天皇の乗輿を指して何か不敬の言を漏らしたというのだが、老は一体、天皇の逆鱗に触れるどんな事を口にしたのか?
ここで注目すべきは、両人の発言を首皇子が弁護に回って、それで天皇に両名の斬刑から流罪へと減刑させたという点である。恐らく二人の発言は、首皇子の肩を持つものであったに違いない。
だから、聖武即位後は、流罪は赦免され、穂積老は重く用いられるのだ。
想像だが、老は元正の輿を指して「いつまで大王の位に執着しているんだ。早く皇太子(首皇子)に譲位すべきじゃないか!」などと言ったのではないかと考えられる。首皇子の父である文武天皇は14歳で登極している。養老年間には首皇子はとうに20代後半になっていた筈だからだ。
だが、元正は自分が即位したのは33歳にもなってからだから、それと比較し首皇子は未だ未熟と考えていたのかも知れない。
でもそれは、(事実上の母代わりの伯母である)元正天皇の首皇子への愛情の表現だった可能性もある。後に譲位して上皇となった元正は、終生聖武の庇護者だったからだ。
もっとも、「美貌の女帝(元正天皇)」を書いた作家の永井路子氏は、元正は聖武の後見者ではあったが、聖武の後継は長屋王の男子王の中から選ぶべきと(元明の遺志を継いで)思っていたという仮説に立って話を進めている。
その永井氏は、この養老6年の事件については、
>>「翌年早々、彼女を驚かせたのは、謀反の噂だった。多治比三宅麻呂と穂積老という中級官吏が何事かを企んだようだったが、これは未然に発覚し、両者は配流となった。『不測の事態に備えて、警備を厳重に』という元明の遺詔に、元正は護られた、といえるかもしれない。」<<
としている。具体的な記述が史書に無いために、このように端折ったのであろうが、この多治比・穂積の“中級官吏が何事かを企んだ”という認識は間違ったものである。元が小説というフィクションなのだから、目鯨立てても仕方がないが、これでは余りに十把一絡げ的な乱暴な解釈(というかむしろ未消化・解釈不良)であろう。
穂積氏が勅勘に触れたという事件はこの老の乗輿指斥事件以外には考えられない。
だが、その事件のあった養老年間と、老の叔父(老の父虫麻呂の弟)濃美麻呂の後裔である者が「勅勘を憚って穂積の氏名を改めて鈴木とした」といい出す時期とは、少しならず時が隔たり過ぎているのだ。
濃美麻呂の後裔の穂積国興の息子である真行が初めて鈴木に改姓したというのは、だから実際は別の事情があったからだとしか思えない。具体的な伝承が無いので、この事情は今のところ解明しようがない。
しかし、穂積嫡流の老の系統も、以後中央での活躍が途絶えたかに見えるので、庶流の濃美麻呂の子孫もまたジリ貧化していたのではないか。
あくまでも私の想像ではあるが、その時に、地方に留住していた濃美麻呂の子孫である国興のまた庶子である真行が、定住した紀州の言葉で穂積(羽扠)→ススキ→薄→鈴木と変名したのは、その土地への定着の意思表示の如き物
だったかもしれないと思うのだ。羽扠(稲架)には二通りのやり方があり、一つは組んだ棒柱の架上に藁を逆さまに乾す方法と、一本柱の周りに藁の又を柱に交差して積んで行く(いわゆる積み藁)の方法で、穂積は後者を指す。
※この稲架については、後段でもう少し詳細に考察する。
(もっとも、鈴木の由来として、物部氏の斎く石上神社の巫女の手に持つ鈴器からだとする説もある。穂積が物部の下で神事に携わっていたからであろうとして、鈴器→鈴木となったというのである。だがこれは些か考え過ぎの感
がある。というのは、それなら熊野の鈴木氏も鈴器を必携の祭具とした筈だが、必ずしもそういう風にはなっていないからだ。)
濃美麻呂流穂積氏が紀州に留住したというのは、濃美麻呂の子である穂積忍麻呂(外従七位上)が、初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられ、この職を子孫が世襲したのである。
濃美麻呂→忍麻呂→ 息嗣→ 財麿 → 永成→ 豊庭→ 国興となる。
この内、穂積財麿(正六位下勲八等)は、弘仁3年(812年)に熊野大鳥居側に手力雄神を鎮座したと伝わる。
その後、穂積国興の子・基行の代に鈴木を称し、藤白鈴木氏として続いて行く。また宇井氏・榎本氏も穂積氏の分流と伝わり、熊野三党を形成した。
即ち濃美麻呂流の忍麻呂系統がその後ずっと紀州を根拠地にし、かつ熊野神社の神官を世襲して行くのである。
穂積の氏名にしても、稲穂に関わる用語法だから、稲作地帯に渡来して以降の命名ではあるに違いない。穂積押山が任那の国守に任じられていた時に、四県割譲の相手側である百済側記録「百済本記」では、氏の名の方は引用されていない。ただ名前が意斯移麻(オシイマ)とだけ紹介されている。これは、書紀の割注にその引用があると言う。(但し、「委意斯移麻岐彌」となっていて、これは“倭ノ押山ノキミ”と読まれている。これをして、押山が百済の官吏にもなっていたのではないか?と疑う人もいる。ただ岐彌は、
むしろ大倭国の高官なのでその尊称として岐彌=君を付けただけだと私には考えられる。)
ところで、養老6年の事件の事であるが;
一方で、悲劇のままに終わったのは多治比三宅麻呂の方である。
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和銅4年(711年)正五位上、和銅6年(713年)従四位下と弁官を務めながら順調に昇進し、元明朝末の和銅8年(715年)従四位上・左大弁に叙任される。元正朝でも、民部卿・河内国摂官など歴任し、養老3年(719年)正四位下、養老5年(721年)正四位上と順調に昇進を続けた。
また同年参議に任ぜられたともされ、参議任官が事実ならば、既に大納言・多治比池守がいた多治比氏は藤原氏に続いて一族から同時に複数の議政官を出したことになる。
しかし、翌養老6年(722年)謀反を誣告したとして罪を得て、斬刑に処せられるところを皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の奏請によって減刑されて伊豆国への流罪となった。
この誣告事件について、当時右大臣として実質的に太政官の首班に立っていた長屋王が、藤原四兄弟と政治路線の違いが顕在化しつつある中で、長屋王に反発していた新任参議の三宅麻呂を除いて、代わりに親交のある阿倍広庭(一説では長屋王の舅)を議政官に加えることで、少しでも太政官運営の円滑化を図ろうとしたという策謀の結果とする見方もある。
一説では、神亀2年(725年)6月22日配所で卒去。享年73。
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つまり三宅麻呂は、聖武の即位に間に合わず伊豆で亡くなったのだ。
上記の見解では、長屋王側も、近江群臣側の企図を先刻承知していて、先手を打って、三宅麻呂を誘導尋問で嵌めたという事になる。
元正天皇が、長屋王の側の言を信用して、三宅麻呂を朝堂から廃する事に同意したという事であろう。だがその真相を知る首皇子が、三宅麻呂の死罪は余りに過激だと言って元正を諫めたのではないか?
とすると、三宅麻呂よりもずっと下位の穂積老が同時に罪に問われたというのは、三宅麻呂事件に巻き込まれた結果とも考えられる。トバッチリとでも言おうか。三宅麻呂事件が勃発しなければ、老は上司戒告で終わっていたのかも知れない。それが俄かに一緒に死罪という勅定になってしまったのは、三宅麻呂事件の尾鰭付けに利用されたからではないだろうか?
聖武朝で長屋王の変が勃発し、長屋王夫妻が自刃したのだが、この件は後に誣告であったと判明し、名誉回復されて、生存していた長屋王の子孫は栄誉を賜っている。或いは、そういう時期に養老六年の事件が想起され、穂積氏
も、長屋王排斥に一役かっていたのでは無いかと疑われ、そういう嫌疑の煩わしさを逃れる為に、穂積庶流が、メリットの少ない穂積を捨てて鈴木を名乗ったとも考えられる。
☆ さて、最初の疑問点に戻ってみよう。
◯穂積氏はしばしば物部穂積氏といい、物部の同族であるかの如くである。
系図上も、始祖は物部氏と同じく饒速日だとし、
その子の宇麻志麻治命系の後裔だとする。
また直接の先祖は崇神朝の大水口宿禰だとする。
◯姓の違い
一方で、物部の姓は連であるのに、穂積は臣であり、
河内王朝側からも、和族の直臣と認識されている。
これはどうしたものか?
◯物部とは、何らかの理由で擬制同族化したに違いない?
どういう理由があったのか?
穂積の遠祖が大水口宿禰だとされているが、この人物は開化・崇神朝の人物とされるので、もしその祖先伝承が正しいとするなら、神功皇后・応神朝の以前(三輪王朝時代)から、畿内に居住していた事になる。
(もっとも、何かの理由があって、本当は応神朝以降の臣なのに、前王朝から存続していたように装って、その証左として大水口宿禰が先祖に設定されたという場合もある事を留保しておきたい。---------実は、私はこの説を取っている。)
穂積氏は、その根拠地が、摂津〜近江〜大和南部〜紀伊という環ヤマト地域であり、そこは古代の物部氏の支配地域とも重なっている。その事で、物部同族とした方が、何か都合が良かったから、擬制同族化したに違いない。
その為に、両者の始祖が饒速日〜その子の宇麻志麻治命として、その子孫に穂積の遠祖として大水口宿禰を設定したのであろう。
饒速日は、本来は出雲族ではなく、三輪王朝の始源の頃、天孫族の先遣隊として畿内にやって来た;つまりは物部も天孫族に所縁のある氏族だ!とする事によって、天孫族(和族)系の応神王朝(河内王朝)での存在を定着させたい意図があったので、和族系の穂積との同族論は好都合だったのかと考える。
物部は明らかに三輪王朝の王族の出で、出雲族であるから、その同族であるなら、穂積も三輪王朝時代に存在していなければならず、そこで大水口宿禰が、いわばミッシングリンクとして登場したものであろうか。
或いは見方を変えるなら、天孫族先遣隊の饒速日の後裔は穂積であり、逆に物部はその同族として、自分たちの祖先も饒速日だという主張にした!との可能性もあるかも知れない。(というのも、この同族論は「旧事本紀」で物部
が主張したものだからだ。)
饒速日の子女に穂屋姫という名がある。この穂屋と穂積を結びつけ、穂屋姫が穂積の遠祖だとする人もあるようだ。
いずれにせよ、物部と穂積は擬制同族を主張し合う事で、相互にメリットがあったから、そういう主張を共鳴したのであろう。
その大水口宿禰の男子で、末羅国造になったという矢田稲吉は、三輪王朝時代に既に末羅国造であったのか(その場合は、魏志倭人伝に言う伊都国に居た一大率の指揮下にあった事になるが)、それとも実際に矢田が末羅国造に
なったのは、末羅が九州王朝(狗奴國)の版図に入った時のことなのか?
私は、穂積の本系は、常識とは逆で、この末羅の国造家の方ではなかったか?と考えるのである。だから、穂積の姓は臣なのだ。つまり和族の直臣であったという事なのだ。
一方、大連にまでなる物部は連のままだ。既に河内王朝の雄略朝で、物部目が大連になっている。また、継体王朝(私の命名では、後応神王朝=第二応神系王朝)を立ち上げた功臣が大伴金村と物部麁鹿火の両大連であった。
この頃は、武内宿禰系大臣家が凋落していて、(それまで平群氏が優勢だったが、大伴氏に抑えられて)大臣は若き巨瀬男人だった。その為和族系の臣属の代表として大伴氏が、出雲系の物部氏と大連職を共存していたのだ。
継体を探して来たのは、北陸路を管轄に置いていたと見られる蘇我氏の一員であったようで、この事で第二応神系王朝で、蘇我氏が大臣家に成長していく契機となる。
穂積本系を元末羅国造系ではないかと考えたのは、継体朝で穂積押山が任那の国守に任じられており、明らかに半島南部に土地勘がある氏族であったと思われるからである。
また『日本書紀』継体天皇6年(512年?)4月6日条によると、穗積押山は百済に遣わされた時に、筑紫国の馬40頭を贈った、とある。
押山が筑紫国の馬40頭を贈ることができるほど、筑紫に支配地を有していた事を物語るものであろう。
末羅国造に任じられた矢田稲吉というのは矢田稲置の事だろう。
大水口宿禰の子は二人あって、嫡流が建忍山垂根命で、矢田稲吉命(成務朝定賜末羅国造)はその弟という事に(国造本紀では)なっている。
建忍山垂根命の子に大木別垂根命があり、その妹が大橘比売命と弟橘比売命(弟財郎女)で、これが記紀の日本武尊神話に繋がる。
そして、その建忍山垂根命の子が穂積臣初代の穂積真津とされるのである。
※但し、建忍山垂根という名は余りに穂積押山の名とイメージが被る。
◯矢田稲吉について
稲吉は稲置という職名(官名)であろうから、この人の名は矢田というのか?
もしくは矢田←谷田などというのは、どこにでもありそうな地名である。
地名なら、唐津あたりの県(アガタ)で、それが末盧国造になったというのであるから、矢田県よりもっと広い地域の支配官に出世したという事だろうか?
そうすると、矢田稲置は、建忍山垂根命の弟ということになっているが、実はその建忍山垂根が矢田稲置に任じられた当人ではないのか?と思いつく。
(垂根も無論宿禰の事であろう。)
もしそうなら建忍山垂根=矢田稲置で、末盧を治めていた。これが成務朝の事になっている。そして、その子の大木別垂根命に大橘比売命と弟橘比売命の姉妹があって、弟姫がヤマトタケルの妃になったというのは、納得出来る話になってくるのだ。
何故、本物のヤマトタケルは九州王朝の王子なのに、垂仁系の東国経略の話(ヤマトタケルBの活躍譚に仕立てられた)に、弟橘比売が登場するのか不思議だった。しかし弟橘比売が九州に於いてヤマトタケルA=日ノ下建の妃ならヤマトタケルBの話に流用される理由があるのだ。実際東京湾横断の時まで(仮にヤマトの人だとしても) 弟橘が連行されていた事は不思議だった。
しかし、日ノ下建=武内宿禰は武雄に滞陣中に、ヤマトタケルの水巻宮での妃である砧姫の弟姫である豊姫と婚姻した事になっているが、父が末盧国造である大木別垂根であるなら、武雄は末盧のすぐ南だから実に自然な話である。
するとその大木別垂根の子の真津が穂積の初代というのも理解出来る。
つまり三代目の矢田稲置が、稲置→稲木→穂積の意味合いで、大木別というのも“大きな稲穂架(ハサ)“の事かも知れない。(※その場合、矢田稲置は宇佐息長氏の一族かも?)
そして神功皇后東征に武内宿禰と応神の軍船に従った大木別(稲木)真津(末羅)が、ヤマトに進出して穂積氏を名乗ったのではないだろうか。
※矢田という名称については、後段で再度考察する。
後世の穂積老も大蔵大輔だったが、矢田稲置も末羅の御県の稲置職(県主)という王家の税務収納(大蔵)に関わる職だった。
恐らくヤマトに来住してからも、穂積は大蔵に関わる官職に就いていたに違いない。ところが、畿内において、前王朝時代から王家の蔵を管掌していたのは、どうやら物部氏であったと思える。員弁も物部が統括していた。
この為、穂積氏は河内王朝時代には、物部の下僚のようになった。そこで、両者に都合の良い様に、擬制同族化が唱えられたのではないだろうか?
別の論考で述べたのだが、後世の蘇我VS物部の闘争は、単に崇仏派対廃仏派の宗教対立ではなく、大蔵の支配権を巡る両氏族の対決が、結局和族対出雲族の対立となって、爆発点に達したものである。
その時は、武内宿禰系氏族であるとの主張の下で、蘇我氏が大臣の官位に座っていた。
(その結果勝利した蘇我を、今度は皇親と中臣が連合して打倒して行くのが乙巳の変である。)
河内王朝時代に擬制同族化していた物部と穂積両氏も、所詮本当の同族ではなかった。これが露呈したのが、継体朝での穂積押山の任那4県割譲事件を巡る対応である。
押山の支援には、和族系の大伴金村が積極的であり、物部麁鹿火は頬冠りしてしまったのである。麁鹿火が難波の百済の客館に朝議を伝達に行くのを妻が止めたので、仮病を使って行かなかったというのだ。
理由は、「神功皇后以来、歴代の大王が苦労して維持して来た任那を、当代で失陥してしまう事は畏れ多い事だ」と妻が説得したのだと言う。
これだけ賢い妻なのに名も出自も伝わっていないのである。
麁鹿火は筑紫の磐井の乱を鎮圧した功で九州の統制権を任されるのだ。この結果、北九州には、かつての葛城系に代わり物部の一族が多数進出する。「物部百八十氏」というのはこの事である。
(この時は、和族側には大連金村のほか大臣として引き続き許勢男人が就位していたようだ。)
その後、金村と麁鹿火の間は次第に冷たくなった様で、麁鹿火の孫、尾輿の代(欽明朝)に金村は失脚してしまう。
4県割譲問題を蒸し返された為である。
そこへ和族側で物部の対抗馬となって来たのが蘇我氏だったのだ。
→“補遺24 その2”では、この4県割譲問題の検討から始める。