補遺24「穂積臣と鈴木氏」その2

天孫族考 補遺24「穂積氏から分かれた鈴木氏」その2

それでは、4県割譲問題の詳細を検討してみよう。

◯任那4県割譲問題

その4県とは、任那の西方にあった地域である。「任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県」 (おこしたり・あろしたり・さだ・むろの四つのこおり)と『日本書紀』にある。

(

穂積押山が提議・推進したといういわゆる任那4県問題を整理しておこう。

一部の人達からは、これは押山が一人突っ走って推進した政策であると非難されているが、それは誤解である。

但しそういう誤解が生じたのには理由が二つある。

その一つは、物部麁鹿火がその妻に忠告されたというのと同じ理由。

即ち、任那は天孫族が半島南部に本拠を置いていた頃から、営々と保持し続け、またいわゆる「倭の五王」時代に、中国南朝に、その保有権と、同時に百済・新羅両国の旧地域に対する潜在宗主権を認めさせようと努めて来た地域である。この百年以上も越える王家の営為を無に帰す行為であり、言うところの売国行為であり禁じ手なのだと。

一度継体天皇の勅許が出てからも、皇子勾大兄(後の安閑天皇)が反対したというのは、この観点からであったと思われる。

第二の理由は、この政策の推進派の大伴金村と穂積押山の二人は、譲渡を受ける相手の百済から優遇を受けまた賄賂をもらっていた疑惑があり、これこそ売国行為だ!というもの。

第二の理由の真偽は分からない。穂積押山は百済からも官位や栄誉を受けていたという疑いも持たれた。また後世、大連物部尾輿が、老いた大伴金村を失脚に追い込んだのは、この疑惑を持たれた事を不徳の致すところと攻撃の材料としたのである。

しかし、この4県割譲の政策は、基本的には朝堂の大多数の検討を経て採択された公の戦略であり、大王男大迹王(継体)の叡慮にも沿ったものだった筈だ。

先ず、男大迹王は、よく知られたように、自分の根拠地だった越前もしくは近江にいた周縁王族(私のいう王統別家)の人で、応神5世の孫とされている。

大王に推戴されたのは壮年期であり、若い時は、大王位などは無縁と思っていたであろう。実際、大王継承の第二候補として名が挙げられた。→※

だから、若い時分から、近江〜越前の支配地の充実に努めていたという。

鉄器の導入も、友好国の百済から積極的に導入していたらしい。以前NHKの番組「英雄たちの選択」では、男大迹王自身が百済に渡航して、百済王と親交があったのではないか?と推理していた。

越前〜百済間は、どういう海路で通交していたのか?よく分かっていないが可能性は否定できない。

明らかに男大迹王は大王になってからも親百済派であった。

※『 日本書紀』によれば、大変な暴君と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御(506年)したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て討手かと恐れをなして山中に隠れ、行方知れずとなってしまった。この為、別の候補を探すこととなり、男大迹王が推戴されるに至ったのである。→むしろ倭彦王を邪魔者として排除する意図がばれて、逃亡したと言う説もある。

男大迹王に大和の情報を伝えたのも百済系の河内馬飼首荒籠だったという。

こういう男大迹王の親百済の姿勢は、恐らく継体朝の朝堂の雰囲気にも影響を与えていただろうと思われる。

それで穂積押山が、任那駐在の鄙守として、対新羅の戦略として、4県割譲を提案して来た時にも、大連以下の諸大夫(前つ君達)も賛意を表したのだろう。

だが、一部の和族集団(恐らく葛城系=武内宿禰系貴族と大和系皇族等)には、親新羅でこそなくても必ずしも親百済ではない;保守派がおり、河内王朝(私はそれを、第一応神系王朝もしくは前応神朝と呼ぶのであるが)以来の任那経営の苦労の歴史的記憶があって、容易に賛同できぬものだったろう。

だから難波の客館に大和の結論を聞きに来ていた百済使に朝議を伝える役目を負った大連・物部麁鹿火を、その妻君が止めたと言うのも、その妻もまた和族の貴族の娘であり、河内王朝の大王たちの積年の苦労を、親たちから

聞いて育ったのであろうか?

しかし、この物部が後世に存続し得た理由になる重要な役割を担った麁鹿火の妻の名や出自が全く伝わらないのは実に不思議である。

そこで、私は、この麁鹿火に百済使へ朝議を伝えるのをやめさせたのは、名前不詳の妻などではなく、名前を出すわけにはいかない別の大和派の女性ではないか?しかも大連に内命を伝えられる程の身分の人。そうなると継体皇后の手白香皇女しか考えられない。恐らく、外子(継体の連れ子)の勾大兄に言って、百済使への通知を取り消させようとしたのも皇后の計略ではなかったか?(この行為が勾大兄が安閑天皇として中継ぎさせる条件だったのかもと疑う。)

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さて、放送番組「選択」流に、手白香皇女の頭の中に分け入ってみよう。

一、折角私が自分の幸せを犠牲にして、男大迹などという歳の離れたどこの馬の骨か知れぬ爺さんの妻になったというのに、このまま先祖伝来の任那の地を少しでも失うというのは、仁徳の皇統を守るために一緒になったのに、その仁徳以来の国是に叛くことになってしまう。

これでは皇祖皇宗に申しわけが立たない。昔からの家臣に命じて、4県割譲などという政略はどうしても放棄させねばならない。

先ずは影媛事件以来親交のある物部大連の荒甲。そして新たに皇親となった男大迹の連れ子の長子である勾大兄。この二人を説得しよう。

ニ、いや自分が前面に出ては、男大迹との間の嫡男である磯城嶋皇子が将来大王位に就くことが内定しているとはいえ、これがひっくり返されるかもしれない。ここは前面に出ず、大人しくしていた方がよいものか。

三、とはいえ、やはり任那の一部でも失陥するのは畏れ多い。ここは自分が表面に出ず、大連や大兄に動いてもらう方が良いだろう。意見を聞かれたら二人を支持すればいいのでは?代わりに二人には何か得になる事を約束してやればいいのではないか。

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仁賢天皇の娘であり、先帝武烈の同母姉である手白香皇女が継体天皇の皇后となったのは、母である春日大娘皇女が仁賢妃になったのと同様、傍系天皇の正統性を立てるための政略的な理由によるものだったと考えられている。

即ち、傍系に属し、先代天皇との間の血縁が非常に遠い継体天皇は、先帝の同母姉である手白香皇女を皇后にすることにより、一種の入り婿の様な形で正統性を獲得したということである。継体天皇は大和に入る以前、現地で複数の妃(尾張目子媛ほか)を持ち、沢山の皇子(後の安閑天皇・宣化天皇他)がいたにもかかわらず、手白香皇女とのあいだの皇子である磯城嶋皇子(広庭命=天国排開広庭尊・欽明天皇)が正統な継承者とされていたことも、このような推論を裏づける、と解釈されている。

この為、安閑・宣化両天皇は欽明即位までの短い繋ぎだとする説と、欽明とその異母兄両天皇は並立していた時期があるという説、更には継体と安閑は欽明によって誅殺され宣化が並立したが打倒された、などの諸説がある。

このようにして継体天皇と手白香皇女との間に生まれた欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖となったというのは間違いがない。

その皇統の話はともかく、欽明朝には、4県割譲問題が蒸し返された。これには皇太后の手白香皇女の意思も働いていたのではないか?

だが、欽明も父継体ほど半島の事情通では無かったから、その半島政策は悉く失敗に終わっている。

ともあれ、話を4県割譲問題に戻そう。

肝心のその政策の内容・目的は何であったろうか。

この頃、新羅の南韓統一戦争は佳境を迎えていた。この為、任那の防衛の任に当たった穂積押山は、後背の4県を

親交国の百済に割譲し、その地域の防衛は、ヤマトの兵ではなく百済の将兵に委ねようと考えたのである。何せ任那は和地からは海を隔てた所であり、一丁事が起きた時にヤマトの援軍は即応出来ない。今押山の持つ兵力では北西から南下してくる新羅の正面軍に対応するのがやっとである。4県は高霊加羅より北方から南東方向に伸びて新羅と分かつ小白山脈の西側にあるので、4県を保有し続けてそこに治安維持の兵力を割くのは得策にあらず、と考えたのだ。しかも新羅はこれまでも、小白山脈の峠を越えて、百済南部に度々侵入している。もしそのルートで、新羅軍が迂回して4県を攻めればそこは寡兵では保たず、結局失陥して、任那中心部は、北東と西側との両方から攻められる事になる。それでは全てを失う事になってしまう。その為に、いっそ4県を百済に割譲して百済軍に守らせれば、和軍は正面防衛に徹する事ができるのだ。

こういう提案を、百済や任那の事情に詳しかった継体も朝堂の重臣の多くが容認したのである。

高霊加羅こそ和族の半島の母国であり、高天原であったのだ。そこは死守しなければならないというのが押山の主張だったのである。

実際に、継体以降に、新羅は先ず小白山脈を越えて、旧4県を含む南西部を攻略し、任那を包囲して滅ぼすのである。穂積押山の考えたようには、百済の軍兵が強くなかったのである。押山の戦略は正しかったのだが、前提と

なる百済軍の強度を買い被っていた事になる。いずれにせよ、斉明天皇の時代になって、唐と新羅の連合の前では、最早任那を維持することは不可能であったろう。白村江の海戦で負けた後も、暫時は陸兵は任那加羅の地に留まっていたが、やがて総退却し、和族の半島における本貫地は失われたのである。だが、この事を以って、不幸とすべきかは別問題である。

もしいつ迄も加羅をそれこそ辛うじて保持していても、その時は唐の派遣軍との全面衝突となり、皇帝によって日本攻略の渡海の大軍が組織されていたかもしれない。日本にとっての幸いは、まもなく新羅が、唐の派遣軍の横暴に抗して、反旗を翻し、半島南部から唐を締め出してくれた事である。

この結果、我が国は、滅亡した百済の代わりに、新羅との友好関係を築き、それが平安時代初期まで続くのである。(新羅関係が破綻するのは、寛平の時代、新羅の王室の勢威が衰え、各地に群盗が出没し、その中から南部海岸地方から、日本への海賊活動が頻発するようになったからだ。海賊は略奪品を密かに新羅王室へも献上しており、また海賊には新羅の軍人も加わっていたと言うから、海賊といっても半ば国家公認の行為だったのである。後世高麗となった朝鮮海岸を襲った倭寇は、昔年の新羅の海賊への報復だとの主張をしたのだ。この度重なる新羅海賊の外患と、東国での蝦夷の捕囚の反乱という内憂とによって、我が国の王権は対処に大いに悩みを抱える事になった。結果、我が国では、古代王権の時代は終わり、摂関家専断の時代を迎える事になる。私が中世の開始と考える時代である。→これは別稿で論考した。)

◯壬申の乱と穂積氏

ところで、最初の疑問点列挙で、4つ目に壬申の乱に於ける穂積百足の討死について触れた。実はこの事と、物部・穂積擬制同族論についての全く別の解釈の根拠とする人もいる。

穂積の同族という物部は大連を出す物部連家ではなく、別系統の物部首氏だとする説である。この説に立つと、穂積の姓が臣なのに物部が連である事の理由の説明もつくというのである。

◯物部の別姓について

首姓の物部氏(物部首)は春日氏の一族。天足彦国押人命8世の孫である木事命の子・市川臣を祖とする。布留連、布留宿禰の同族だと。

後世に物部連となり、大連の物部宗族と同様に連の姓となった。この為に、物部首氏と物部大連系とは同族ともみなされるようになった。

壬申の乱の初期、近江朝廷軍に与していた物部首日向は、穂積百足と五百枝の兄弟と、倭古京での募兵と兵器の確保に向かった。

このとき、大和では大伴吹負が大海人皇子のために数十人の同志を得て戦う準備を進めていた。吹負は古京留守司の一人である坂上熊毛としめし合わせて、吹負が都外から高市皇子を名乗って近づき、熊毛が内応するという計画を立てた。高市皇子はその頃美濃国にあって大海人皇子のために軍を編成していた。それが早くも大和に現れたとの虚報を流そうというのである。

6月末、吹負らは飛鳥寺の西の槻の下の陣営に入り、内応を得て軍の指揮権を乗っ取った。そのとき百足は小墾田の兵庫(武器庫)にあって、武器を近江に運ばせる任についていた。吹負は高市皇子の命だと言って百足を呼び寄せた。百足は馬に乗ってゆっくり近づき、飛鳥寺の西の槻の下に来た。ある人に襟をつかまれて馬から引きずりおろされ、一本の矢を射当てられ、斬り殺された。かくして倭京の軍は大海人皇子の側に組み込まれた。

倭京にいた五百枝と日向は何もできなかったらしい。二人は監禁された。だが二人は吹負に恭順して赦され、大海人皇子側の軍に加わった。

この様な出来事から、物部首氏と穂積氏は、単に一緒に行動していたというよりも、血縁的にも業務上も親しい関係にあったのかもしれない。

物部首が元来春日氏の一族市川臣から出たというからには、元は臣の姓であった可能性があり、なお春日氏が元は多氏同様に、北九州に根拠を持ち海人族の統括をしていた事を考えると、穂積・物部首両氏の関係は、穂積矢田稲置が末羅国造であった昔に遡るものかも知れない。

首姓物部が春日氏の一族として物部つまり兵器庫の管理に関わる氏族であり、一方大連物部氏が出雲族の三輪王朝の兵器庫でもあった石上の倉を所管していたのと同様であったのだろう。

物部大連家は、推古朝に蘇我氏と厩戸皇子らの追討軍によって河内の本拠地で滅亡するが、その後石上の兵庫を管理させられたのが、同名異族の物部首ではなかったか? そこで、滅亡した大連家を慰霊の為に石上に石上神宮が

営まれ、そこの神官は物部首氏と穂積氏が任じられたのではないか。

穂積氏の遠祖が大水口宿禰に擬せられ、古神道宗家を名乗る神道の一派から大水口宿禰は神道創始者と崇められているのはこういう経緯によるものか。

穂積濃美麻呂→忍麻呂系が、熊野神社の神職に任じられたのもそういう背景があったのかと考えられる。穂積系鈴木氏が、石上神社の祭具である鈴器に結び付けられたのも、このような文脈の延長であろう。

いわば、三輪王家の鎮魂が出雲の杵築大社であったように、物部の鎮魂の社が石上神宮だった。そして、その結果物部首氏は布留連の名でも呼ばれるようになった、と考えられるのだ。

☆末羅(松浦)国と矢田稲置について

矢田は元来末羅の何処かの地名だろうか?と考えて検索してみたが、該当する地名「矢田」は、松浦どころか北九州一帯にも無かった。(矢田の地名は中国地方までであるようだ。)

代わりに谷田の方は、南接する佐賀側に2箇所ある。松浦に近い方は、今は佐賀市になっている谷田で、佐賀市の北方、天山の東方、唐津側との境界の背振山地の西部に当たる。中世には地侍の築いた谷田城があった。もう一つは、

肥前鹿島の谷田である。共に、古代には狗奴國(日之下)の多氏の勢力範囲だった所である。

という事で、矢田←谷田ではないのかと考えた。もしそういう音の流用であるとするのなら、矢田稲置の居たという末羅に最も近いのは背振山地を挟んだ南側、即ち今は佐賀市の谷田だという事の蓋然性はあるだろう。

しかし、谷田:谷間に作られた田地というのと、矢田;矢が落とされたor 矢を射られた田というのでは、意味合いに違いがある。単に万葉仮名的に借音漢字の如く扱って同一視できるものか?

という事は矢田稲置の矢田は単に人名(九州以外の矢田の地名を負う人の名)なのか?という事になる。

今その別の地の矢田地名の詮索を置いて、もう一度、松浦地域と人名・矢田の関わりを調べてみた。

すると唐津市浜崎(元東松浦郡)の諏訪神社の祭神である“諏訪姫伝説”に行き当たった。この諏訪姫は都から(その都とは果たして何処か?は、さて置き)遣わされた人で、大矢田連の娘とある。

地元に伝わる諏訪姫伝説の内容は次の通りである。

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諏訪姫とは、大和朝廷で身分の高い大矢田連(おおやだのむらじ)の娘で、百済から献上される鷹を受け取り、当時まだ日本には伝わっていなかった

鷹匠の技術を修得するために勅使としてはるばる下って来た姫君で、百済人の鷹使い・斎来と身分の違いを超えて恋仲になったものの、大切な鷹を蝮に殺されてしまったので、責任を取って自害し、この地に埋葬された姫である。

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先ず諏訪神社は、出雲族の斎く諏訪神が、中世に広く全国に勧請されて、主に往来の安全を祈願する神、また(これは多くの神社がそうであるように)豊年祈願の神として祀られるようになったものである。

ところが、ここ唐津の諏訪神社は、諏訪姫神社であって、祭神もその諏訪姫である。

だが、大本(?)の信州諏訪社を連想させられるのは、鷹匠の関わりである。天孫族考でも、中央アジアの遊牧民の習俗であった鷹狩と鷹匠が、古くから本邦にも伝来しており、しかも鷹狩の神が諏訪社とされていた事を述べたの

である。

但し、上記の諏訪姫伝説で不思議なのは、百済から鷹匠である斎来(佐伯か?)が、鷹と共に本邦の王家に献上されたというまでは良いとしても、その技術の習得に都から派遣されたというのが、女性だというのが腑に落ちないのだ。

そも、鷹狩の発生地中央アジアと、そこから東西に伝播したのだが、東亜や西欧でも、先ず女性の鷹匠は稀である。(稀に伝説で女鷹匠は出てくるが。)

だから、この姫が鷹匠技術を習得に派遣された当人ではなく、姫の居た御県などに、技術習得者の男性が居て、女性はその県主(これが大矢田氏)の息女だったという可能性が考えられる。

だから、元来は大矢田◯◯媛であった筈なのに、中世に鷹匠の神が諏訪社となったが為に、その名が諏訪姫になってしまったのだろう。(もっとも、大和朝廷に大矢田連などという氏族はいない。)

そして、百済の鷹は侵入した蝮に殺されたことになっているが、諏訪社にも大蛇伝説があり、竜の小太郎などの民話もある。また蛇類と大矢田の名は、美濃市の大矢田(オヤダ)神社の祭神が、出雲系の須佐男と奇稲田姫で、大蛇

に関わる神であるところから、この大矢田の名が、連想流用された可能性があろうかと考えている。

但し、この大矢田の名は、同地にある喪山神社の神話群に関わる名である。何と饒速日の子孫と称する若日子命なる神が、美濃にやって来た処、喪山で葬儀をしているのに遭遇し、参列者が死者が生き返った!と驚くので、その死者を見ると、これが自分と全く瓜二つの顔をしている。怒った若日子命が喪山をぶち壊し、周りに矢を射掛けたところ、離れた田にその矢が落ちたので、そこを大矢田と言うようになったという伝承があるのだ。

だから、若日子命を祀るという喪山神社と大矢田神社はセットになって成立していると考えられる。

その大矢田神社は、奇祭“ひんここ祭り”で、地域では有名である。地元の紹介記事を引用する。

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美濃市の大矢田神社に伝わる国選択無形民俗文化財「ひんここ祭」。

素朴な人形劇で豊作を祈願する祭り。最も大切にされてきたのが、猩々(しょうじょう)神人形でその1体の復元修理が終わった。復元前の人形は約350年前につくられたとみられ、傷みが激しかった。新しい人形はほぼ同じ材料を使っており、10月の例大祭で登場する予定だ。

地元の大矢田ひんここ祭保存会によると、祭りの起源は約500年以上前の室町時代までさかのぼるという。境内の急斜面に設けられた舞台で、農民を襲う大蛇を須佐之男命(すさのおのみこと)が退治するという人形劇で、五穀豊穣(ほうじょう)や訪れた人たちの安全を祈願する。

猩々神人形は、須佐之男命の妻「櫛稲田姫」の化身とされ、ひんここ祭で最も重要なからくり人形だ。最上段の屋形に祀られ、体を左右に振って舞い、タイを釣りあげる。

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その人形が猩々だけでなく、数々あるのだが、とてもユニーク&ユーモラスな形状をしているのだ。内容的には、人形劇版の八岐大蛇神楽である。

“ひんここ”が聞き慣れぬものだが、私は“姫・日子”が訛ったものではないか?と考えている。

地元では、脱力系ヘタウマ人形と評している。

上記で、饒速日の子という若日子と矢を射る故事が結びついていて矢田の地名由来になっている事を確認したが、実は、矢田と饒速日はもっと直に関係性があるのだ。

大和郡山市矢田にある「矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)」は、延喜式神名帳に記載されている大和国添下郡十座の筆頭社で式内大社だが、別名「矢落(やおち)神社」ともいう。

祭神は櫛玉饒速日命で、天磐船で降臨した地域にあり、饒速日が降りる場所を決める為に、矢を三本射落としたところ、その矢が止まった所が矢田の名になったという伝承である。饒速日は降臨後、土地の神である長髄彦の妹である炊屋姫と婚姻する。

祭神である饒速日命が天磐船に乗って空を飛んだという「先代旧事本紀」に記されている故事により航空祖神として崇められ、毎年9月20日に航空祭が行われる。プロペラが奉納され楼門屋根裏から吊されている。そこで通称プロペラ神社とも言って、関西では有名らしい。

唐津の諏訪神社の諏訪姫伝説は、これらの幾つかの伝承をミックスして創作されたものだと思われる。

しかしそのようになったのも、古代に穂積氏の中から矢田稲置が、末羅国造に任じられたという古伝承が下敷きになったからではないだろうか。

矢田の名は、佐賀の谷田に居た穂積氏の一族の谷田稲置が、山の北側の唐津の末羅国造に任じられて、矢田稲吉と変名したというのは、もしかすると、脊振の北側の末羅国や伊都国を、日之下(狗奴)國が占領する過程で、戦闘があり、矢が飛び交ったので、谷田→矢田となったのか?という想像も膨らむのだ。

この戦闘は、武雄を拠点とした日之下建つまり武内宿禰が総指揮者だったのだろう。

いずれにせよ、天孫族考補遺で度々述べて来たように、神社の縁起や祭神は中世に修験者が神職を兼ねていた所では、大幅にまた適当に書き換えられてしまっている可能性がある。特に松浦は、対馬に渡る津の所在地で、太宰府

の宝満山修験の活動域である。対馬の神社の縁起などは、全く創作されたと思われるものが多い。九州は、廃仏毀釈の前までは、全国的に見ても修験道の盛地であった。彦山〜宝満山〜背振山地は、いわゆる山伏道の九州横渡の

ルートである。だから、この地域の神社の由緒や縁起は、修験者の記紀解釈に基づいて改訂修飾されていると見なければならない。

矢田稲置の娘が関わる話があって、そこに百済からの鷹匠の話題が加われば鷹匠の神だから諏訪社が勧請される、という短絡過程が生じたのだろう。

稲架(ハサと読む)とその紀州方言;寿々木について

都会の人は、今やハサなどと聞いても何の事か分からなくなっている。しかもハサは、語の由来から離れて漢字では「稲架」と書く。

ハサに使われる木の棒をハサ木というが、これも稲架木と書く。

本来のハサは、“羽差し”もしくは“挟(ハサシ)=挟み差し”、から来ているという。

ここを詳しく百科事典で見てみよう。

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稲架(読み)はさ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

稲(いね)を収穫時に刈り取ったあと、脱穀までの間乾燥する方法の一つを架干(はさぼ)しといい、架干ししている状態または架干しのための構造物を稲架という。刈り取った稲は束ねてから乾燥するが、その方法には地干(じぼ)し、積干(つみほ)し、杭干(くいほ)し、架干しなどがある。

地干しは田面に置いて乾かすもので、平(ひら)置き、倒立置き、寄(よせ)置き(いわゆる島立[しまだ]て)などがあり、もっとも簡単な方法である。

田面が乾いた所で行われるが、田の乾きぐあいで置き方を異にする。全国的にわずかずつみられる。

積干しは鳰(にお)またはコヅミなどといわれる方法で、稲束の穂のほうを内側にして円錐(えんすい)状あるいは角柱状の小山に積む。堆積(たいせき)の片面だけに穂をそろえる片積みもある。この方法は、米と藁(わら)をゆっくり乾燥させて、急乾燥による品質の劣化を防ぐもので、地干しの欠点を改良した方法である。秋に田面のよく乾燥する瀬戸内海沿岸地域をはじめ、北九州、中部地方、東北地方の一部などでみられる。

杭干しは棒掛けともいい、田の畦(あぜ)に棒杭を一定の間隔に立て並べ、各杭の地面から数十センチの所に止め木を直角につけ、それを台にして、杭を中軸に稲束を穂先を外にしてかけ重ねる。掛け方には十字掛けと螺旋(らせん)

掛けとがある。棒の高さは地域により異なり、1~2メートルの低い地方から2~3メートルに及ぶ高い地方もある。また地方によって1本の棒杭にかける稲束数がほぼ決まっている場合が多い。近畿地方以東北海道までの東日本、とくに東北地方に多い。次に述べる架干しより資材が少なくてすむ。

架干しはハサ、イナキなどとよばれ、横に渡した竹、棒、綱などに稲束をかける。田面が湿っている場合や湿田地帯でも稲束の乾燥ができ、全国的に雨の多い地域で広く行われる。架が1段だけの単段架はもっとも簡単な構造で、長いものは100メートルにも及び、直列のほかにジグザグ形やコの字形などもある。地域によっては2~3段のもの、さらに10~15段という高い壁状の構造につくる地方もあり、後者は北陸・山陰地方に多くみられる。多段架は田の上につくるほか、稲束を運んで住居の周りにつくる場合もある。多段架には垂直架と傾斜架とがある。傾斜架は稲をかける架面が60~70度の傾斜をもつもので、変形として両斜面の屋根形などもみられる。新潟地方ではあらかじめ畦にハンノキを一定間隔で栽植しておき、下枝を払ってその幹を支柱として多段架を組む。最近は鉄パイプやコンクリート杭も用いられている。稲架面に四角い風穴をあけて倒伏を防ぐなど、地域によって伝統的な特色のある稲架がみられる。

日本では稲が穂刈りから茎刈りに変わった奈良時代(8世紀ころ)からすでに地干しだけでなく積干しも行われ、また841年(承和8)にはもっと有効な架干しを奨励した記録が残っている。乾燥方式は米の品質に及ぼす影響が大きく、普通20~30日かけてゆっくり十分に乾燥させると品質、味覚がよい米に仕上がるといわれる。最近はコンバインが普及して、立毛のままで生(なま)脱穀するようになったので、いままで日本の秋の風物詩だった稲架は急速に姿を消しつつある。また籾(もみ)の人工火力乾燥施設が普及したことや、作業の省力化の動向から、稲架の形を簡略するようになり、伝統的な稲架が少なくなってきている。

[星川清親]

 

次は、

精選版 日本国語大辞典「稲架」の解説

はさ【稲架】

〘名〙 (挟(はさ)むの意。「はざ」とも) 農家で、木や竹を組み、刈り取った稲をかけて乾燥させる設備。おだがけ。いなかけ。

《季・秋》 〔和訓栞後編(1887)〕

同様なのが、

小学館デジタル大辞泉「稲架」の解説

はさ【稲=架】

《挟はさむ、の意。「はざ」とも》竹や木を組んだ、刈った稲を掛けて乾かす設備。稲掛け。《季 秋》「―の道朝夕きよくなりにけり/林火」

そして

世界大百科事典 第2版「稲架」の解説

はさ【稲架】

刈り取った稲束を乾燥するための木組み。手刈りまたはバインダーで刈取り・結束した稲束の乾燥法には,大別して地干し,立干し,架干し(かぼし)および棒掛けの4種類がある。このうち架干しのために用いられるのが稲架で

ある。稲刈り直後のもみは約20%の水分を含むが,乾燥後のもみの水分は15%程度まで減少し,脱穀・調製やその後の貯蔵に好適となる。稲架には地方により種々の形式があり,その呼称も,はざ,いねかけ,いなぎ,いねぎ,かかけ,おだ,あし,だてなど多様である。

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何故、収穫後の稲に乾燥が必要か?は上述の説明には処理上の都合に言及があるが、以下の旧伊達藩地域の農協の解説がよく分かる内容である。

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脱穀したばかりの籾には25%前後の水分が含まれますが、水分が多いと籾すりしにくく、保管中にカビや虫が発生する原因にも。水分が15%ほどになるまで乾燥させる必要がありますが、短時間で乾燥させると表面がひび割れてかさかさになってしまい、おいしいお米になりません。その点“ほんにょ”などの天日干しは1〜3週間という長い時間をかけ、稲にまんべんなく天日があたるよう場所を入れ替えながら行うため、おいしいお米に仕上がるのです。

※注、“ほんにょ”“ほにょ”“ほにょう”は杭干し(棒掛け)のハサをいう方言。

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今では、標準語?的には、稲架はハサというのだが、稲作が営まれた各地

には、それぞれ独特の表現があったようだ。

東北の伊達藩地域では“ほにょ”と言ったようだ。伊達領は、今の岩手県の南半分(北上以南)〜宮城県〜福島の伊達郡だが、旧伊達領の山形県あたりまでの広域に広まっている言葉だ。(一方で花巻以北の南部藩領では使われない)

その語源は“穂+仁王”だと言うのが一説。その影形が仁王立ちを思わせるからだという。異説は“穂+鳰”で、鳰は鳥の巣の事で、稲積の形状が鳥の巣を連想させるからだ、とするもの。

文化人類学のエッジ&エリア理論に沿って言うなら、“ほにょ”は、西日本の何処からかから伝来した用語なのかもと考えられる。

仁王という言葉は仏教普及後だが、東北の稲作は縄文晩期には既に開始されており、それまでに使われていたとしたら穂鳰の方が古い表現である。

だが、私の知る限りでは、稲架(ハサ)を、スズキと言ったと言うのは、紀州と大和南部のいわゆる熊野吉野地域だけである。

しかもそこでは、穂積氏が石上神社に奉仕する巫女を出していたので、巫女の振る鈴器に因むという解釈がなされて来たのである。

鈴器とは、一般的には神楽鈴とか巫女鈴というものである。小さな柄の先の枝に15個(七五三鈴)もしくは12個(五四三鈴)の小鈴を付けた祭具で、神楽舞や祈祷の際に振ってその音で除災する。魔除けの鈴という。

巫女や神職だけでなく、三番叟の翁舞でも手採り具になる。(なお12個の鈴は浦安の舞に用いるという。12ヶ月を表すとの説もある。五四三=暦)

鈴器の芯になっている(その下方が柄)の棒を剣に見立て、鍔の部分を鏡とし鈴を玉として、鈴器全体を三種の神器のシンボルだとする解釈もある様だ。

その細かい謂れはともかく、稲架木に稲穂が干されている形状が、棒に鈴が環状に付いている鈴器形を連想させることから、稲架木を鈴木呼ぶようになったというのである。

ハサでも、柵状に組んで建てた穂杈木に稲藁を吊るしてある物は、鈴器を連想させない。

もっとも、それ以前に、稲の穂自体が、茎先に籾が鈴生りに成っているからそも鈴器なのだという説もある。しかしそれだと、稲穂は全て鈴器になってしまうので、やはり円錐形に立っている稲架木こそが鈴器→鈴木なのだと考えるのである。

そこで鈴木を寿々木、寿々喜と書いたりもする。(葉芒ススキ=薄も稲同様の禾本科植物で、稲の方はススキに似た穀草だが、稔が多く生るから点を2つ付けてスズキという、などとの曲説もあるようだ。)

因みに田舎を何故イナカというかと言えば、実は稲架(ハサ)が立つ所がイナカで、一方町とは、①市の立つ所、市場→町場。 ②市は祭りに合わせて立つので、祭りを高市と書いてタカマチと呼ぶ様に、祭りがあって人が集まる所:祭場が町だ、という両説がある。

しかし既述の如く、昨今では農業機械の普及で、稲架が見られなくなって来たので、日本から田舎が消えたとも言える。しかし、では全て町になったかと言えば、そうでなく、「人いないか?」の過疎化が進行しているのだ。

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