補遺25「文身と烏帽子」
天孫族考 補遺25 「渡来人の習俗・
入れ墨(文身)と烏帽子について」
◯入れ墨=鯨面文身について
最近再放送された英雄たちの選択「追跡!古代ミステリー “顔”に隠された古代人のこころ」 - NHK
(初回放送2021/10/20) で、大変面白かったのは、
弥生終期〜古墳時代になると、縄文以来の入れ墨の風習が「吉備と尾張にはまだ残っていたのに、畿内からは消えてしまった」という指摘だった。
「つまり、ここでそのまま何らかの習俗の変換を迫るような宗教的な革命が起こったのか?」というようなコメントが、番組出演者から出されていたが、
私からすれば、要は「入れ墨の習俗を持たない部族によって畿内が征服され、新来の部族の習俗には入れ墨が無かった」という事だとしか考えられない。
つまり、その番組内の要素からだけでは何処からかは不明だが、その何処からか畿内に新たな習俗の部族がやって来て習俗のヘゲモニーを乗っ取ったという事なので、“①出雲族が移住して来て三輪王朝を建てた”事か、“②幼応神を擁した九州王朝軍の東征“のどちらかを示唆するものだ、と私は考えるのである。
文身は、中国の史書では、江南の倭族に見られる習俗であり、倭人は呉越の地から日本列島に渡来した農耕民と、その習俗を同じくする淮河以南の海人とが渡来したものだ、という理解の一証左だとされて来た。
大陸の諸民族でも、呉越と吐蕃という環揚子江及びその源流と青藏高原地域(中国で言うところの南蛮の地域)が文身の習俗の盛んな地域である。
恐らく、縄文人も弥生時代の海人族もその地域から渡来して来た民族なのだろう。その後、列島には出雲族と天孫族が渡来するのだが、この二つの部族は文身の習俗の無い地域からの渡来だと考えられる。
魏志倭人伝には、(漁民には)鯨面文身の習俗があったと言及されているが、必ずしも、卑弥呼を含めて全部の倭国の人が全て文身しているとは言っていない。
◯日本人の冠帽の習俗について
中国南朝の梁書東夷伝倭人の条に、身分の上下に言及し、高位の人は帽子を被っていて、帽子の形は胡人のそれに近いと書かれている。
この事は天孫族考補遺4“胡公頭と倭人の冠帽”で論究した通りである。
だが、最近、故・網野善彦師の著「職人歌合」を読んでいて、古代から中世までの日本人の着帽習俗についての画期的言及があった事を再認識した。
中世日本人の一般に被る帽子は烏帽子である。
烏帽子は材質により高低の身分差の違いと、形状で“立ち烏帽子”と“折れ烏帽子”の二つの種類がある事が分かっている。
概して身分が高い人は立烏帽子で、職能人は折れ烏帽子(その最下層は、“萎え烏帽子”)が多い。
この烏帽子は一般に平安時代から室町時代まで(ほぼ中世)に、全国的に普及していたと考えられる。
網野善彦師に依れば、公家から武家、そして商工民、また家長の農民までほとんどの官人から庶民までの男性は、常に冠帽していたのだそうだ。
冠帽していないのは、坊主(僧侶)と男児と童子(童形の者)と下級の非人であると言う。そして、烏帽子は、裸になっても取ることなく、職人などが作業で片肌ぬぎや上半身裸や褌姿になっても、烏帽子を取る事はなかった。
博奕打ちが、賭博で巻き上げられてオケラになっても、烏帽子だけは残したのだそうだ。(左下の賽を振るのが博打)
なお行水や、寝屋で女性と生殖する時さえ、烏帽子はしたままだったそうである。
だから烏帽子を取るのは、罪人になって髻(モトドリ)を切られた時で、普通人がそういう刑を受ければ、身分は下級非人(賎民)に落とされるのだ。
つまり烏帽子を取るというのは、屈辱的な状態ということになる。
(罪の疑いを受けて入牢する時は、刑吏が一旦烏帽子を預かり、裁きの場に呼び出される時は、烏帽子を返される慣行になっていたそうである。)
因みに下級非人とわざわざ言ったのは、非人でも神人(大神社の下級の雑色)の様な“聖なる非人”が本来の非人であって、つまりは俗人では無いという意味であり、賎民では無かったので、烏帽子を被っていたのである。
牛飼童などは、非人ではないが、四十の壮年になっても童形のままである。
童形でいるのは、魔除けの意味合いもあるからとの解釈がある。
(天皇の葬列で葱華蓮を担ぐ八瀬童子も非人とされていたようだ。但し非人は既述の如く賎民ではなく神聖な者としての神人などもいた。八瀬童子も山門の青蓮院に属し、皇族の駕輿丁も務めており賎民ではないと考えられる。)
一方、魔物そのものも童子と言った。酒呑童子とか茨木童子などである。
※高天原で乱暴狼藉をした須佐男の想像図が蓬髪姿で描かれるのも、須佐男に童子の要素があったからだ。
そしてこの日本人が帽子を被る習慣は、古墳時代の人型埴輪から窺う事ができる。縄文時代の土偶では、髪型の巨大化した土偶や高く結髪したもの・布と思しき被り物をした女性土偶はあったが、着帽の物は見たことがなかった。
だから弥生以降古墳時代までの間に、着帽の習俗が我が国に渡来した事を示唆するものだ。(※だが、最近着帽しているのではないかと思わせる土偶が発見されている。→これについては別稿を起すつもりでいる。)
人型埴輪には、踊り埴輪、琴引埴輪などでは着帽が確認できないものが多い。(もっとも琴引埴輪ではかなり独特の髪型をし髪飾りを載せているものがあるので、その琴引はもしや女性だったのか?でなければ楽人に童子がいたのか? 琴引でも帽子を被っていると見えるものもある。)
兵装埴輪(挂甲埴輪とか短甲埴輪)では、帽子というより兜に近い物を付けている。(とはいえ、中世武士も甲冑を付ける時も頭には“侍烏帽子”という一種の折れ烏帽子を付けていたので、兜の中は無帽だったかどうかは確認出来ない。)
それ以外の風俗埴輪ともいうべき人型埴輪では、男性と思われる人物は様々な帽子を被っている。
一つの帽子は、朝鮮の伝統的帽子の一種であるカッ(갓)または笠子帽にも似ている。もっとも一般にカッ(笠子帽)は、李氏朝鮮時代に制定された規則で、材質や形状・装飾などが細かく決められて文官の身分によって使い分けられた。(李氏朝鮮の服飾の一つで、両班が頭にかぶる冠帽の一種。頭を覆う部分であるモジャと、顔を覆うつばの部分であるヤンテから成り立つ。)
しかし笠子帽自体の原型は、もっと古くからあったとも考えられている。
笠子帽は、文官の被り物だが、武官は戦笠という頭頂部の丸いヘルメット状の帽子を被った。中国で言う円頂帽のつば付きである。両者とも韓流時代劇にはよく登場する。
朝鮮では、身分のある者は冠帽し、庶民は無帽で普通頭髪をサンダラボッチに結んでいる。
烏帽子の原型は、以前天孫族考補遺で論考した胡人の帽子である。
だがそれも私説では、葱坊主(葱韮類の華穂)が原型だとした。正確には、龢の被る帽子に似ている華穂を付けるからそういう植物を龢→葱と命名したのである。それら補遺では、チベット仏教黄帽派のダライラマの正装の黄帽も
葱坊主から発展したチンタマーニ(珍宝珠)を象ったものなのだという事も考察した。
烏帽子をエボシと読む事については、後で考察する。
◯上古の美豆良という髪型について
古代に於いて、少なくとも身分の高い人は美豆良(角子、鬟、ミヅラ)という髪型をしていた、というのが一般的な理解である。(耳連→ミヅラだという。)
これが、冠位十二階の制定後は、官人の大人は冠帽し、美豆良は子供の髪型となって残った、とされて来た。
この転換が図示されているのが有名な伝法隆寺蔵「聖徳太子とニ王子の像」(現在、奈良国立博物館収納)で、太子は冠帽し、子供の王子達は美豆良姿である。これをもって、美豆良の典型とみなされているが、そもこの3人画像
は、日本人の描いたものではなく、唐人(もしくは百済人の説も)が、太子没後法隆寺の僧の話を基にして描いた想像図であり、同時代の資料では無い。
考証家の話では、三人の着衣も全く唐風だというのである。しかし、誰が描いたかは別に、その唐人の描画資料は、法隆寺側が提供したものであろうから、美豆良もその際に教示したものかと推測される。
この美豆良姿が、上古には貴人の髪型という固定観念が生じて、絵本の中の大国主命とか、降臨した天孫邇邇芸尊なども、美豆良姿で描かれて来た。
恐らくこの観念は、江戸時代の浮世絵や歌舞伎の時代物の衣裳の影響であろう。江戸期には既に一般の農商工民は烏帽子を被っていないからだ。
(江戸期でも、武士の肖像画などでは烏帽子を被っている。また刀工=刀鍛冶も烏帽子を付けて鍛刀の作業をしている。江戸初期までは商人でも萎烏帽子を被っていた例がある様だ。いや、それは隠居帽だという人もいるが。)
下は渡辺崋山作画の「鷹見泉石像」(国宝)である。鷹見は
古河藩家老職なので、三河田原藩江戸家老だった渡辺崋山とはほぼ同格である。
しかし私は、美豆良の髪型自体は、上古から存在したであろう事を否定するものでは無いが、その姿でいるのは童児であって、大人は美豆良の上に着帽しているのが通常ではなかったか!と考えるのである。
天孫族考の趣旨として、中央アジアを起源とする月氏三族(龢族、黄牛族、白馬族)が、日本に渡来した時に、既に彼らは、原郷にいた時と同様に冠帽の習俗を持っていたのではと、私は考える。
◯冠帽の習慣の起源
飛鳥時代に官人の冠帽の習慣が制定されたとしても(もっとも制定されたのは冠=カンムリであって帽子ではないのだが)、その後奈良時代を経て平安時代になってから俄に一般庶民に至るまで男は皆帽子を被っているようになる
というのは、新聞雑誌やマスコミの無い時代に、その普及のスピードが余りに早過ぎると思えるのだ。
奈良時代からは律令が制定施行され、庶民も徭役や番役で都に上がる事が生じたので、男性の幾ばくかは、都の習俗に触れたであろう事は想像するに難くない。とはいえ、都で見た冠帽の習俗を、田舎でも真似するというのはそこに余程の強制力か、或いは脅迫的な観念が無ければあり得ない。しかし史書やその他の文献でも、冠帽を強制したり、或いは俄に流行したという風な記述は見た事がない。
また網野善彦師が指摘したような庶民に至るまで冠帽が普及し始めた事に、王朝の時代に新たに言及した官文書や公家の日記なども無い様だ。
つまり、平安期に庶民に至るまで男子が何らかの帽子をかぶっている事は何も事改めて指摘すべき新たな習俗ではなかったという事になろう。
即ちそれは(冠帽子の習慣は)、実は上古の時代から、官人・常民男性に普通の習俗だったからではないだろうか?
だから、本当なら大国主命やヤマトタケルも、美豆良姿などではなく、何らかの帽子を被っていたのではないだろうか。
天孫族考の立場からすれば、龢波羅門(和族)も黄牛族(出雲族)も白馬族(秦氏)も月氏三族は、先祖が中央アジアにいた頃から冠帽子の習慣があり、大八洲(日本列島)に渡来した時には、着帽習慣のない海人族や縄文族の様な先住民が
いたのであろう。だから、古墳時代に相当する梁書倭人伝では、無帽(文身)の民と身分の高い新来の三部族系の冠帽子人とが併存していたのだ。
月氏三族はバラモン・クシャトリア・バイシャに相当する事を、天孫族考で繰り返し論述して来たのだが、その下に海人族(浦人)と縄文〜弥生の農民とがスードラとなり、蝦夷や隼人の俘囚や奴隷賎民がチャンダーラとして存在する5階層のカースト社会が、古代王権社会だったと考えて来た。
この内、大陸〜韓半島に起源を有する月氏三族は、渡来時から冠帽の習俗があったのだと思う。
つまり、王家の人々(波羅門)・中央貴族・地方官人(クシャトリア)・商工民(バイシャ)+渡来人の官人など(凡そ2割弱)の男性が着帽していて、それが平安朝以降の成年常民の烏帽子着用の習慣に連続して行ったと考えるのである。(中世になると阿曇氏の様な官人でなくても、”萎え烏帽子“を被った浦人の絵が職人歌合の図の中に現れる。賎民では無い者は、浦人・農民まで即ち百姓は皆烏帽子を被る様になったのだ。)
だが中世後期になると、下剋上が盛んになり、必ずしも京都の公家系武士の出ではない、地生えの武士が多くなると彼らは元々バイシャでなくスードラの階層の者だったので、着帽の何たるかの認識が無く、特に織田・豊臣の時代(織豊時代)から急速に烏帽子を被る習慣が失せて行ったのである。
その後、江戸時代から近代まで、官人軍人のごく一部を除いて冠帽の習慣が復活する事はなかったのである。(江戸期でも官位を得た武家は、公式には烏帽子を付けた。)
※とはいえ、明治から大正期に、役人や実業家・地方の議員・大商人などに山高帽の習俗が広まったのが、最後の冠帽流行だったと思える。あれは英国紳士などを真似た西洋趣味だったのだろう。
◯「烏帽子」をエボシという事の由来
烏帽子は、黒い色が烏色なので烏色の帽子だから烏帽子と説明される。
だが、漢字“烏”の音や訓にエやヱは無く、あるのはオかウでしかない。
だから、烏=エ+帽子=ボシではなく、熟字訓で3漢字熟語全体がエボシになると解釈されている。
では、烏帽子と漢字を当てた元のエボシというのは一体何を表したものなのだろうか?
これには決定的な解釈が無いのである。不思議と、その事の何故かを追究した学者もいないようだ。
既に
>> 私説では、葱坊主(葱韮類の華穂)が原型だとした。
>>正確には、龢の被る帽子に似ている華穂を付けるから
>>そういう植物を葱と命名したのである。
>>その補遺では、チベット仏教黄帽派のダライラマの正装>>の黄帽も葱坊主から発展したチンタマーニ(珍宝珠)を
>>象ったものなのだという事も考察した、
のである。
その延長からすれば、エボシとは、
①似宝珠=エ・ボシ 擬宝珠はギボシと発音する。
②葱坊主=ネギボウシュ禰宜帽子→(転訛)ネボシ→エボシ
---------あたりではないかと想起される。
いずれにせよ、月氏の帽子はそんなに高く屹立しているものでもなく、また色も必ずしも黒(カラ)ではなかったかも知れない。
それが、どこかの時点で、帽頂が高くなり烏色になった事で、烏の頭の形状に似ていることから烏帽子という用字になったのか?と推測される。
或いは、その過程で、日本人のトーテムとしての八咫烏への連想でも働いたのか、とも考えられる。
以前、天孫族考補遺で考察したように、古代中央アジアの諸民族の中には、烏帽子形の帽子をかぶっていた民族の存在が複数知られている。
一人龢族のみの特異な帽子形では無かったのだ。
アケメネス朝ペルシャへ朝貢した古ガンダーラの黄牛族も着帽している。
この烏帽子が典型的に残っているのが、神官(禰宜)の帽子である。仏僧は、インド伝来の教え(階級を超越する)に沿って、坊主頭になり、無髪だが、高僧は僧帽という高く盛り上がった帽子を被る。つまりこの時点で、本来無階層の筈の僧侶に位階が明示されるのである。その意味では、着帽が身分を表象するものだという事になる。
因みに仏教では、帽子と書いてモウスと読ませる。呉音であろうか? 詩公帽子とか観音帽子などの種類が宗派別に
ある。
◯中央アジアの諸民族の帽子
戻って、中央アジアの諸民族の冠帽習俗を考察してみよう。
その前提として、人類が冠帽するのにはどういう目的や理由があるのかを纏めておきたい。
①頭部の保護 ②防寒防暑 ③雪除けや風除けの為 ④儀礼上 ⑤部族の同一性の目印 ⑥毛髪からの目や鼻・口の邪魔にならぬ為(③とも近い)
だから、④⑤以外の目的なら、どんな形状の帽子でも良いのだが、④⑤の場合は、アイデンティティや身分階級の表象となる。
この⑤の理由に該当するのは、民族の交差点である中央アジアで、民族の何を識別するのは帽子の形になっていることだ。
中央アジアでは、現在のペルシャ(イラン)〜アフガニスタン〜パキスタンのラインより南側では、概ねターバンかその類似の頭巾を被る。しかし、ヒンズークシの北側の中央アジアでは、各民族ごとに、特色のある帽子を被っており、それが多少混血があっても、各民族の所属を識別する標識になっているのである。
◯ソグド商人の帽子
一時、月氏の末裔かも知れないとの説も出たソグド人の商人は、これもまた独特の帽子を被っている。しかしその形状は、我が国の萎え烏帽子をも連想させるものだ。下を折ってまくっているのが特徴である。柔らかな材質が使われている。中央アジアの民だから、恐らく羊毛フエルト製であろうが、元来はもっと帽子高があったのではないかと想像される。
◯月氏は帽子を被っていた筈だ
日本に渡来した頃の月氏三族の被っていたであろう帽子は、その後烏帽子に統一されて行ったのだから、やはり形状としてはある程度の帽子高があり、かつ 色も黒か茶系の物だったのではないだろうか?
そうすると、人型埴輪の一つに、そういう連想の湧く物がある。
決め手になる証拠が無いのだが、その後の展開を考慮すれば、そういう感じがするのである。
大陸から渡来した、出雲族や宇佐の秦氏や天孫族のリーダー達は、そういう着帽した人達ではなかったろうか?
但し、帽子でも、ツバの有無はかなりの違いがある。基本的には、西洋のいわゆる“銃士”の如く、また朝鮮の“戦笠”もであるが、ツバのある帽子は戦闘用である事が多い。またもう一つのツバの目的は防雨にある。雨傘の無かった時代に、多雨の日本列島へ渡来した人にとっては、ツバによって雨の滴下から顔を避けたのかも知れない。
だから、乾燥地帯の多い中央アジアや西南アジアでは、ツバのある帽子は一般的では無かったのかと考えられる。
例外は、鷹匠で、鷹を腕に留まらせる際に、顔を傷つけられぬように、ツバのある帽子を被っていた例がある。
とはいえ、人型埴輪にツバのある帽子を被る人の像があるというのは、古墳時代に実際にそういう冠帽をしていた人がいた事を物語るものだ。しかもこの種の埴輪の人物は腰に刀を帯びているので、やはり武人か貴族であったに違いない。
美豆良のみで無帽の人物埴輪は、いわゆる垂髪美豆良で、元服儀礼未前の;未成年男子だったのでは無いだろうか?
また、山型の帽子(中国で言う尖帽)姿の人物埴輪もあり、これを一部の学者は農夫の埴輪だとするが、私は必ずしも農夫には限らないと考える。
員弁の職人なども冠帽していた筈だからである。
一説に月氏から分かれたというソグド人の商人(日本でいう胡人商人)も冠帽している。山型帽子の埴輪の人物は商人だったのかも知れない。実際の処、上古には秦氏の水銀商人が、近江から伊勢に通った伝承があるのだ。
(秦氏の風体の如何についての記述も見たことがない。と言う事は、他と比較して特異な衣裳だったわけでは無いのだろう。)
従来の服飾史では、「古代には一般に男性は無帽で、貴人は美豆良を結っていた」というのが常識とされてきたので、冠位十二階が制定されて、官人が冠を被るまでは、古代人の帽子に関しての研究や記述もない。
しかし、習俗は、何らかの生活習慣の強制的な変化が無ければ、その保持者が移住して来て、先住民の一部もそれに倣った、という事でしか大幅に変化はしない。
中世の甲冑などは、源平合戦で坂東武者にも普及したと言っても、それは京都で発達し、そこの職人が技術を競って洗練して来たものである。それを都から赴任した源平両氏や武家藤原の出の者が、地方に持ち込み、また番役などで上京した坂東武士が採用して広まったのである。