天孫族考補遺25補足続、「冠帽子埴輪」
天孫族考補遺25補足続、「冠帽子埴輪」
国宝の冠帽合掌埴輪と百済武寧王の鏡
☆もう一つあった古代冠帽の例・氏族長合掌埴輪
8月の初め頃(8月4日 22:52)、Facebookの古代史研究会サークルに、
Yasushi Tatumi さんから、前月訪問されたという、群馬県高崎市にある綿貫観音山古墳の出土品を収蔵した群馬県立歴史博物館の紹介記事があった。
この古墳は上毛地区の代表的前方後円墳として凡そ50年も前に国指定史跡になっていたが、つとに有名になったのはその後の発掘で、豊富な出土品があり、その量のみならず質の高さが識者の高い評価を得たのである。今では、出土品は一括、国宝に指定されている。
以下は群馬県民歴史博物館のHPの記載である。
史跡指定 国指定史跡 1973年(昭和48年)4月14日
国指定重要文化財『群馬県綿貫観音山古墳出土品』1982年(昭和57年)6月5日指定
2020年9月出土品3,346点が国宝に指定された。その30日の官報に告示された。
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所在地 群馬県高崎市綿貫町字観音山1572
所有者:群馬県
築造年代 6世紀末~7世紀前半
形状 前方後円墳 2段築成
全長:97.24m 周濠含め:178m 周濠幅:143m
後円部径:61m 後円部高さ:9.4m
前方部幅:63m 前方部高さ:9.1m
埋葬施設
横穴式石室 両袖型
全長:12.65m 玄室長:8.12m
奥壁幅:3.95m 奥壁高:2.68m
羨道長:4.53m 羨道奥幅:2.40m 羨道奥高:1.39m
入り口幅:1.34m 入り口高:1.18m
出土品 【周堀】埴輪(円筒、人物)、土師器、須恵器
【墳丘】埴輪(円筒、人物、馬、器財、家、鳥)、土師器、須恵器
【埋葬施設】土師器、須恵器、刀、馬具、武器、鉾、冑、
小札、ガラス玉、鏡、耳環、水瓶、人骨、歯(群馬の森県民歴史博物館所蔵)
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私は過去、同じFacebook古代史研究会に連載中の「天孫族考」の補遺25で
大陸から渡来した月氏系三族(黄牛族=出雲族、白馬族=秦氏、龢族=天孫族・和族)は、その族長などの上層階級は帽子を被っていた筈だとの推論を立てた。綿貫観音山古墳出土の埴輪には、これを裏付ける意匠がある。
族長合掌埴輪がそれだ。帽子を被った被葬者族長の後継者と思しき人が胡座をかき、合掌して被葬者の冥福を祈っている像で、長頭頂帽子をかぶっている。そしてその反対側には、姫巫女と思われる女性貴人が、やはり正座して手を合わせ祈りをあげている。
そしてそれら両者(の埴輪)には侍者と思われる複数の人物埴輪が配されている。先ず族長後継者の背後には、従者と甲冑姿の立ち姿の武人埴輪がある。更には、騎馬像も控えている。従者と騎馬像は共に腰に剣を帯びた武人で頭は振り分け髪という髪型をしている。(通説では髪型とされるが、特殊な形の帽子であるとの説もある。)
姫巫女には背後に立つ侍女が盃を捧げ持っている。そして、両者の間には通称「三人童女」と呼ばれる;楽器を奏でていると想像される座った三人の少女達の埴輪がある。女性達の頭部は、通説では円環状に結った特殊な(後世でいう)島田髪だという。姫巫女とその侍女はそうだと私も思うが、三人童女の方の頭部の円形は、四川省奥地に残るベイマ(白馬)族の女性の被る円環帽に似ているとも見えるので、或いは族長(上毛野氏と想定されている)は和族だが、供部には白馬族(秦氏系)が居たのかも知れない。後述の様に、豊前の両毛郷は“秦王国”に隣接しているのだ。
参考 帽子を被る女性埴輪(観音山古墳の物ではない)
中国奥地の様々な少数民族の女性の帽子
これら埴輪は古墳の墳丘サイドの羨道入り口外にあり、葬送の儀礼を彷彿とさせる。
この合掌埴輪だけでなく、各地の埴輪には、類似の三角帽子を被った武人像が複数存在するので、やはり古墳時代には、大陸から渡来した支配層が冠帽していたという私説を裏付ける証拠だと考えるのだ。
◉上毛野氏について
また上述のYasushi Tatumi さんからの書き込みへのコメントに「毛野王国」のものだという意見が寄せられている。
だが毛野国造ならともかく、国王は有り得ない。(あたかも三輪王朝や九州王朝に加えて、各地に吉備王国とか北陸の高志王朝など、地方に色々な王国や王朝が並立していたという説もあり、それぞれ吉備王とか高志王とかが想像されている。邪馬臺国はそういう倭人の小村邑国家の連合体だとの考えもあるからだ。)しかし上毛野氏が、群馬地域に蟠踞して、また朝鮮半島への出兵にも参画していたようだから、大和王権の重要な構成氏族であったのは確かとしても、それは大和の王権の配下の臣であり、独立した地方政権ではない。
※なお出土品の中の銅鏡(獣帯鏡)は百済の武寧王陵出土品と同系の鏡であり、対外交渉上注目される。なお、獣帯鏡は、明治5年伝仁徳天皇陵が、雨で土砂崩れを起こし、そこから出土した鏡がほぼ武寧王陵出土の物と同形と確認されている。残念ながら明治初期の混乱でこの銅鏡は売られて今はボストン美術館の収蔵品となっている。→武寧王と鏡の件は後述する。
その銅鏡の存在を見ても、上毛野氏が単なる東国の田舎部族では無かった事を証明するものだ。
毛野氏は、姓も臣で大和王権の直臣である。
天孫族考でも言及して来た様に、その出自は豊前の国の両毛郷(上毛郷、下毛郷)で、多氏と共に相当早くから九州王朝の家臣になっていた。
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天孫族考本文では以下の様に書いた。
私は、上毛野氏とは(上毛野=上野国の宰領に任じられたから後の命名の様に見えていますが、)天孫族(=和族)王朝が北九州にあった頃に臣従した;豊前の上毛(ごうけ)郡に出自を持つ部族だったと考えているからです。
古くは豊前の三毛郡(みけのこおり)でしたが、後に山国川を境に上三毛郡と下三毛郡に分けられ、それが短縮形の上毛郡・下毛郡となったものです。
郡名として固まるよりも前に、上三毛・下三毛郡は合わせて両毛=上・下毛と認識されていたと思われます。
「稲荷山古墳は埼玉古墳群で最初に造られた大型古墳です。後円部の墳頂にある礫槨からは、銘文が刻まれた全長73.5センチの鉄剣が出土しました。
剣身の両面に合計115文字の金象嵌の銘文…」にある有名な「杖刀人の首」と宣言しているオワケノオミというのは、雄略天皇の舎人であり笠原直使主の祖先だとする説があるのです。その笠原直使主は、安閑天皇の代に隣国の上毛野君子熊と争ったという記事が書紀にあり、五王時代には関東に上毛野氏が進出していた事が分かります。
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東国征略では、東海道筋を多氏が、東山道筋を上毛氏が担当した。その平定地は前者が大野であり、後者は毛野である。ほかには安倍氏の征服した阿倍野や秦氏の進出した秦野がある。また春日氏の根拠地は春日野である。しかし大伴野とか、ましてや佐伯野は無いし、物部野などもない。
氏族名+野の地名の氏族は、どれも王権の武人軍団の征略した土地の名になっている様に思える。
例外は安曇野で、これは王権の指示ではなく、王朝以前に阿曇族海人が開拓した土地名である。
(“土地名+野”の方は、一般的に各地に見られる地名である。那須野、大原野、小鹿野などなど。熊野=隈野もこちらに入るであろう。)
※一方で下毛野氏についても、天孫族考の補遺で論述した様に、令制では兵部省の下級役人になり、鷹司(鷹匠)や公卿の御随身に起用されている。
鷹狩は中央アジアの習俗で有り、いつしか諏訪神社が鷹匠の尊崇対象になったことも過去に触れた通りである。恐らく諏訪社と鷹匠の繋がりは、東山道が両毛野氏の任地と畿内との往復路になってからのものではなかろうか。
豊前の三毛郷の両毛氏族は、多氏同様に古くから王権に臣従した氏族だったと推理される。
☆獣帯鏡について
この綿貫観音山古墳出土の獣帯鏡であるが、先述の如く百済の武寧王陵から出土した物と同系だと考えられている。
ところがその武寧王陵出土の獣帯鏡は、特別な注目を浴びた物であった。
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古代社会では王は太陽のような存在で、太陽は命の光と思われていた。 その光が普段は王の胸にぶら下がっていたと思われる銅鏡に反射され、その様子が地上に太陽が降りたかの如く見えたことから、鏡は王の象徴物となった。武寧王陵の中からは、このような銅鏡が全部で三つ発見された。しかしその中でも後に「宜子孫獣滞鏡」 と呼ばれるようになった青銅製鏡は、発見当時からその銅鏡が置いてあった位置のことで、歴史専門家たちの目を引いた。それは発見当時銅鏡の下に、王の後ろ髪を飾る黄金製の飾りが重なって置いてあり、 そのことから銅鏡があった位置が王の顔部分であったことが推測できるからである。 銅鏡の位置からして、王を棺に入れるとき、 王の後ろ髪は黄金製飾りで飾り、顔は銅鏡で覆い隠したのではないかと考えられる。
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と説明されているが、この事で思い出されるのが、これも以前天孫族考補遺で言及した美濃の大矢田神社の故事の事である。
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下照姫の兄の阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると阿遅鉏高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、大量(=オオハカリ)の剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。」(中略)
妻というのは下照姫の筈だから、その姫が兄の阿遅鉏高日子根と夫の若日子を取り違えるというのは理屈に合わない。神話だからしょうがないと言ってしまえばそれまでだ。
だから美濃の現地伝承では、若日子が来訪して自分のそっくりさんを見つけ怒った、という物語になっているのだ。
それでも変だというかも知れないが、これは喪屋の棺に入っていたのは実はご神体の鏡だったのではないだろうか?柩の蓋を開けたところ、鏡に写った自分の顔を見て、下照姫らは自分の葬式をしているのか?と怒った、という話なら理屈に合う。この美濃の地域では、日奉の式次第として、日の神の化体である鏡を、土中に埋納する習慣があったのかと思われる。ご神体埋納は出雲族の習俗ではないだろうか?
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と書いたのだが、武寧王の遺体埋葬時に鏡で顔を覆ったとするなら、その天若日子の遺体も顔に鏡が置かれていて、結果棺を覗いた阿遅鉏高日子根がそこに自分の顔が映ったので驚いたというのが、やはり下敷きになった伝承ではなかったのだろうか。
因みに、穂積押山が譲与した任那四県の相手こそ、時の百済の武寧王だった。
諸々考えると、綿貫観音山古墳の祭祀を執り行った後継の上毛野氏の族長は、やはり天孫族の貴族の習俗として帽子を被っていたのだと考えるのが妥当だろう。
◆武寧王と隅田八幡の銅鏡
ところで、武寧王と鏡というと、直ぐに連想されるのは、和歌山県の隅田(すだ)八幡神社所蔵の「人物画像鏡」の事である。その銘文に、
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直濊人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」
(癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、濊人今州利の二人らを遣わし白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」とあり、「癸未(503)年「男弟王」が「意柴沙加宮」(忍坂宮OR石坂宮)にいたとき、斯麻が男弟王の長寿を祈って鏡を作らせ献上した)
この「斯麻」は武寧王の諱・嶋のことであるとの見方が有力である。
時に、男弟王とは誰の事か?
2説ある。継体と武烈である。
継体だというのは、男弟王というのは、男大迹王の事であり、かつ男大迹は、越前時代から武寧王と懇意にしていたという説があるからである。この説では、王子嶋は、叔父の昆支王に代わって日本への人質になり浪速の客館に来て
いた時期がかなり長期にあり、その間に越前に居た男大迹と交流があったというものだ。二人を繋いだのは、河内の馬飼部荒籠だとする。荒籠は百済系帰化人とされるが、いわば二重国籍者の如き存在ではなかったろうか。難波京に来ていた母国の王子・嶋と、馬の供給先でもある越前の周縁王族である男大迹を取り持った可能性はある。後世の牛若丸と奥州藤原氏を中継した金売り吉次などの役割と同様に考えられる。牛若を百済の王子嶋、奥州藤原氏を男大迹と見た場合である。
一方で、時間的な関係からすれば、男弟王とは武烈であるとの見方も有力である。また忍坂宮に居たとするならそれは武烈だという。この説では、武烈が武寧王の義弟だったからだという前提に基づく。
そうなると武寧王は武烈天皇の姉婿になったのか?
もし、仁賢皇女の誰かの婿だったとすれば、手白香皇女の姉妹の誰かという事になる。
(手白香皇女は継体皇后であり、私は任那四県割譲に反対したと推理した。)
手白香皇女は仁賢皇后の春日大娘の娘である。
その春日大娘の母は、春日和邇童女君(オミナノキミ)と呼ばれる;和邇氏が宮中に上げた采女の童女であった。宮中の童女は、神聖な火や水を扱う役目の処女で、神祭に関わる氏族から出されたという。春日氏は仲ツ臣で、古代には日奉の神官を務める家柄である。その一族の和邇氏(和邇深目の子女)から采女童女として宮中に入っていたのだが、これが雄略の目に留まり、一夜の寵愛を受けた。この一夜限りの契りで和邇童女は孕んでしまう。
ところが雄略が一夜妊娠を認めなかったので、役無しとされた和邇童女は宿下がりして、河内の春日の郷で一女を産んだ。これが春日大娘なのである。雄略が認知しなかったので、この娘は当初父無し子扱いされた。
この話を耳にした時の大連である物部目が、雄略を諭して、父娘関係を認めさせて、晴れて春日大娘は皇女となり、後に仁賢の皇后に立てられたのである。仁賢は雄略の直系ではなく、未だ(後の武烈、春日大娘の唯一の皇子の) 小泊瀬稚鷦鷯尊が幼年なので、繋ぎの大王だったのだろう。だから雄略の血を引く春日大娘が皇后になり、応神王朝の直系に準じる扱いを受けた。(これは後の継体の皇后に手白香皇女が立ったのと同様である。)
この経緯を考慮すれば、春日大娘は物部目大連に恩を感じていた筈であり、また河内の春日は、物部氏の根拠地である弓削とも近い。
だから手白香皇女もまた物部大連の後継である物部麁鹿火とも近しい関係にあった可能性が高い。この関係で、手白香皇女は任那四県割譲について大連麁鹿火に難波の客館に居る百済使に会うのをやめさせたのではないのか。
もし武寧王が手白香皇女の姉妹の誰かの婿であれば、それは義兄弟に当たるので、その人に四県割譲をするのに反対するというのは一見不思議である。
しかし、手白香皇女の姉の誰かが、浪速客館に人質として滞在していた嶋(武寧王)の現地妻でしか無く、武寧王が百済王位を継承した時には、仁賢の皇女を百済王后に立てずに置き去りにしたのであれば、同母妹の手白香皇女がその姉への仕打ちを恨んでいた事も考えられる。
物部と背後の手白香皇女の四県割譲への反対は、応神以来の半島経営の放棄だとしての批判だったかと推理していたが、意外や私的な恨みもあったのかも知れない。
まあ表向きは、手白香皇女は雄略の孫であり、いわば応神〜允恭〜雄略という正閠の血を引く者であり、その王家の積年の苦労である半島南部任那経営を軽んずる事はプライドが許さなかった、という事にしておく。
手白香皇女の姉妹(仁賢皇女)は四人居るが、その誰かの言及は記紀に無い。何か、触れぬ方が良い事情があったのだろうか?(もし武寧王の現地妻でしか無く、国王就位の時は置いて行かれたのであれば、日本側からすれば余り名誉な事では無いので、記紀は敢えて触れていないのかも知れない。)
姉二人が高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ=『古事記』の高木郎女)と、朝嬬皇女(あさづまのひめみこ=『古事記』の財郎女)とである。
そして武烈の姉だが手白香皇女の妹が二人いる。樟氷皇女(くすひのひめみこ)と橘皇女だ。
四人の名はあってもその事績の記載が記紀には無いのである。
私はこの中で、候補になるのは長女の高木郎女(高橋大娘)では無いかと推理する。
その伝わる名の高橋は生育の氏族(高橋氏は阿部氏の一族で、河内に居留地があった。後世に高橋氏は阿曇氏と並び宮中の食事を司った。)
そして高木郎女というのは、成人後の別名かと思われる。
他の三人の皇女の生育地は河内では無いから、難波京に止め置かれて居たと思われる百済王子・餘嶋と関係が出来るとすれば、高橋大娘が最も可能性があると考えるのだ。そして高木郎女という名だが、どうもこの高木とは高木大神(高皇産霊尊)を連想させる。或いは、河内近辺に高皇産霊神を祀る神社があって、晩年そこの斎宮にでもなったのだろうか?
と考えて探すと、畿内の高木神社は、近江の野洲と、大和北葛城の二ヶ所にある。
後者は近くに春日神社もあり、古代に春日氏の関係した土地でもある事からこちらであろうかと思う。(母親が春日大娘であり、春日氏・和邇氏の系統であるからだ。)
確たる根拠はなく、小説の様な話だが、もし葛城の高木神社の斎宮になって晩年を送ったとするなら、高木大神即ち高皇産霊は任那の高霊加羅の守護神なので、若き日の武寧王の和人妃として、高皇産霊に陰ながら武寧王の戦勝祈願をして過ごしたと想像すると、何か切ないものがある。
この長女の境遇を手白香媛が見て、怒りを持っていたのか?
手白香媛は皇太后として欽明天皇の摂政をし垂簾の政を取ったとされ、相当に勝ち気な女性であったらしい。
(もっとも、この想像では、斎宮などと言ったが、そも斎宮という役柄の起源が何時にあるのかは不確かなのだ。伊勢の斎宮にしても、垂仁朝の倭姫命は伝説上の存在であり、実際の伊勢の斎宮は天武朝になってからであろうとの説もあるからだ。また雄略朝にも、皇女栲幡姫(稚足姫)を斎宮にしたという書紀の記事がある。だがこの姫は斎宮に赴く前に妊娠した事が発覚して自殺したという。
しかし、古代にはヤマトや九州各地に複数居たといわれる女酋長や、息長氏の姫巫女或いは倭迹迹日百襲姫などを考えれば、古代の神社に於いて神女という女性の司祭者が居た可能性は否定できない。沖縄に今も残る神司の巫女なども、そういう女性神祭者がかつて居たことを類推させるからだ。)