補遺25続々 再度「古代日本人は冠帽子民族だった」
補遺25続々 再度「古代日本人は冠帽子民族だった」
Facebookの古代史研究会に投稿された冠帽子埴輪について、「ユダヤ人埴輪」だとのコメントがあった。
そこで私は次の様にレスした。
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これは月氏龢族=天孫族の高位者の服装と冠帽です。勿論ヤマトタケル(日之下武命)もこうした帽子を被っていたと思います。(中略)ですから群馬や千葉など、天孫族の従臣である上毛野氏や多氏などの古墳でも、冠帽子埴輪が出土しています。決して中東などの服飾ではありません。我が国古代の族長クラスはこうした服飾をしていたのです。
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画像のような頭頂帽をユダヤ人の物とするのは間違いです。確かに現在のイスラエルのユダヤ教の一派の人たちがああいう黒い頭頂帽を被っています。しかし、「十戒」などの昔のハリウッド映画や、「ソロモン王とシバの女王」などを見ても、ああいう頭頂帽を被る人は見られません。あの帽子は、中世にカスピ海と黒海・アラル海の間にあったハザールという王国の風俗です。ハザール人は(一部は真性?ユダヤ人が居住していた可能性は否定出来ないのですが)王族や国民の殆どはチュルク系民族です。今のブルガリア人もチュルク系ですが、それらとオスマントルコなどとは、ウラル山地方面の出自ではありますが、別々の部族だったとされています。このハザールは南のビザンチン帝国(キリスト教)やカスピ海の東方のイスラム教から自立する為、王家がユダヤ教を国教にしました。この為ハザール人はユダヤ教徒なのですが、このハザールの一部の人達の服飾があの(我々がユダヤ帽と誤解する)頭頂帽なのです。ハザール人はユダヤ教徒ですがユダヤ人ではありません。ラテンアメリカの先住民やインディオは皆ローマカソリックに改宗しましたが、彼らをローマ人とは呼びません。インディオの一部も、ユダヤ教徒の一部宗派と同じようなハットを被っていますが、彼らをユダヤ人と思う人はいませんね。ハザールが滅亡した時に、ハザールユダヤ教徒の一部が、東欧〜ドイツ方面に移住しました。これがいわゆる東方ユダヤ人(アシュケナーディム)の一部です。その人達がシオニズム運動に共鳴して今のイスラエルに移住してきました。この為目立つ頭頂帽を被っているので、彼らの帽子をユダヤ帽などと呼びますが、正確にはハザール帽なのです。
※こう云うと、「そうか、ユダヤ人埴輪ではなくハザール埴輪だ」などと早とちりする人が出かねません。しかしハザールは、7〜10世紀の国家なので、埴輪に影響する事はあり得ません。もし関連があるとするなら、ハザールの居たカスピ海周辺に鍔付きの帽子の風俗が残っていたが、その淵源を辿ると、我が国の冠帽子埴輪の部族もそういう風俗を持つ文化と接触があったらしいという事でしょう。
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ハザール人の後裔の一派とされるクリミア・カライム人の写真がネットにありました。この部族はユダヤ教徒で、ウクライナ人からはユダヤ人だと思われていました。この写真では、帽子はトルコ帽の様に見えますが、鍔はないものの下部に縁取りが付いています。衣裳はやはり相当にトルコ風です。しかし、頭部だけを見るとユダヤ人かと見間違えます。でもカライム人はユダヤ教徒ですがハザール人でチュルク系民族です。
※写真が発明された後の物ですから、19世紀以降の写真だと思われます。
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天孫族考補遺25「文身と冠帽」で、詳述した様に、“上古の日本人には冠帽子習慣があり、それが中世のほとんどの男性が烏帽子を常用している事に繋がった”と私は考えた。
ところが、群馬綿貫山古墳出土の族長合掌埴輪などの様に、少なくとも身分の高いと思われる埴輪像では、帽子に鍔があるのが普通になっていた。
同古墳の従者と思しき人物埴輪は頭の上に額部の左右に大きく分かれた“髪型”があり、私はその従者埴輪の左右の耳の下にまで垂れる美豆良との関係でそれは髪ではなく庇部が左右に割れた平たい帽子ではないか?との推理を述べていたのである。
さりながら、(飛鳥時代に冠位十二階の制が定められて後からだというのだが)和国の帽子には鍔や庇のある物がなくなった様だ。烏帽子には庇やまして鍔は付いていない。
そこで疑問は、
①この鍔のある帽子はどこに起源があるのか?
と、もう一つ、
②何故日本人の冠帽からは、庇や鍔が消滅したのか?
との二つである。
☆日本での鍔無し帽子の消滅
そも烏帽子さえも、平安時代から鎌倉時代までは、貴族から下級庶民までが、男子は皆常に烏帽子を被っていたのに、下剋上の室町時代以降は、武士も烏帽子を被らなくなり、これが庶民にまで波及して、ほとんど冠帽子習慣が無くなったのである。
江戸期に冠帽していたのは、京都の公家と神職と刀鍛冶などの一部の職人だけになった。身分制秩序の崩壊があったからだとされる。(というのは、普通常識的理解なのだが、帽子の歴史研究者によれば、実は江戸時代は帽子の形状の宝庫であり、それが喪失したのは明治初期のザンギリ頭の時期だとする。そしてその後、シルクハットや山高帽子・ハンティング帽などが登場して、今日に繋がるのだそうだ。※但し、そういう江戸時代にも鍔付き帽子は無かったと思われる。)
その様な中、織豊時代には、南蛮人が鍔付きの帽子を被って来日した。それでこの鍔のある帽子を南蛮帽とか南蛮頭巾と呼んだのである。
有名な正親町天皇の臨御された織田軍の京都馬揃えの時に、信長は兜ではなく南蛮帽をかぶっていたらしい。
さて、先述の疑問点②については、概ね以下の様に理解されている。
“推古朝に冠位十二階が定められ、官吏は公には制度化された冠を被るようになった。”(恐らく私的には、多様な形態の帽子を被っていたと思われる。これは、古墳時代の人物埴輪に、いわゆるソグド帽のような鍔無し帽子を被っている物が多数出土しているからだ。但し、官位のある者は制定された冠を着したので、公には鍔無し帽を被ることが急速に停止されたのだろう。言い換えれば、古代に鍔無し帽子を被っていたのは上位者だけだったという事だ。)
天武朝に漆紗冠と圭冠とができたが、後者が発展して烏帽子となったと言われる。
これをコトバンクで引いてみる。
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圭冠(読み)はしはこうぶり
精選版 日本国語大辞典 「圭冠」の意味・読み
はしは‐こうぶり ‥かうぶり【圭冠】
〘名〙 上辺中央を圭頭(はしは-がしら)につくったかぶりもの。はしはかぶり。はしこうぶり。けいかん。
※書紀(720)天武一三年閏四月(北野本訓)「唯し男子のみは、圭冠(ハシハカウフリ)(別訓 はしはかふり)有らば冠して」
けい‐かん ‥クヮン【圭冠】
〘名〙 上代のかぶりものの一種。布帛製で長方形の袋状の上辺中央をとがらせた形が圭(けい)に似るところからの名称。はしはこうぶり。
小学館デジタル大辞泉
「圭冠」の意味・読み・例文・類語
はしは‐こうぶり〔‐かうぶり〕【×圭▽冠】
上代のかぶり物の一。漆塗りの布帛ふはく製で、上は円くとがり、下が方形をしたもの。後世の烏帽子えぼしに似る。けいかん。→けい‐かん〔‐クワン〕【×圭冠】
⇒はしはこうぶり(圭冠)
世界大百科事典(旧版)内の圭冠の言及
【烏帽子】より
…日本における男子の被り物の一種で,早く奈良時代から着用され,江戸時代に至った。天武天皇のとき漆紗冠(しつしやかん)と圭冠(けいかん)の2種ができたが,この圭冠が後世の烏帽子の祖であると古くからいわれている。中国でも4世紀ころから絹紗(けんしや)を用いてつくった紗帽(さぼう)があり,上下一般に用いられてきたが,こうした慣習が日本に流入したものと考えられる。…
【冠】より
…これらの冠は大会,饗客(きようきやく),斎時などに用い,別に黒の絹でつくられた鐙冠(つぼこうぶり)という,当時の壺状鐙の形をなしたものがあった。その後,冠の裂地には二,三の変改があったが,天武天皇のときに新たに漆紗冠(しつしやかん)と圭冠(けいかん)とが制定され,前者は唐制にのっとったもので,冠の前後に四つの纓(えい)がついており,前纓は平時は上にあげて髻の前で結び,後纓は垂らすか,あるいは髻の上を結んだひもにはさんだ。これが後世の冠の祖となったもので,当時の形態を知るものに法隆寺伝来聖徳太子の像がある。…
※「圭冠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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一方「圭」とは、何か?は;
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意味
①たま。天子が諸侯にあたえる、先のとがったたま。 ②かど。また、かどだつ。「圭角」
圭の解説 - 小学館 デジタル大辞泉
けい【×圭】
[人名用漢字] [音]ケイ(漢)
1 先端が三角になった玉器。「玉圭」
2 圭の形をしたもの。「圭角/土圭・刀圭」
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そも、これは玉を珍重する中国での話である。
しかし、その玉としての圭(玉圭)の様な円錐状の帽子が圭冠だったという事なのである。圭冠というもの、更にその後継とされる烏帽子も形状固定剤として漆が使われていたというのだが、これは身分のある者に限定され、庶民は単に円錐袋状の麻布製の帽子を被っていた。だから中折れになったり(「折れ烏帽子」という)潰れてしまったり(「萎え烏帽子」)していたのだ。
一方並行して、頭襟(トキン)という物があった。山伏が頭に載せる宝珠状の帽子である。古くは頭全体を覆う様な大きい物があったが、段々縮小し、江戸期に(今も見られる様な)ごく小さな形のものになった。
また、源平時代以後、兜を被らない下級武士が頭に被る烏帽子を畳んだ「侍烏帽子(サムライ・エボシ)」」というものが生じた。戦闘中に邪魔にならない様に折り畳んだものだという。
江戸時代でも、上級武士の肖像画では侍烏帽子を被っている。一方、老中とか大老などは大名であるので立烏帽子を被る。
烏帽子は通常は男性の被る物だが、例外として中世の白拍子とか江戸期の舞踊では女性が被っている事がある。
女性は、外出の際は衣被(キヌカツギ)と言って、それ用の長い布やもしくは打掛などの実際の着物を頭に被ったのである。また中世には女性の外出時には笠を用いる事が常態化した。笠の下に被き布を用いて顔を隠すことも多かった。近世には女性も頭巾で顔を隠す事があったが、頭巾は巻いた布であり帽子では無い。
という事で、鎌倉時代〜南北朝時代くらいまでは、男性は職業の如何に関わらず(常民は)常時烏帽子を着用した。被らなかったのは、童子と非人(の一部?)だけである。
さて、では古墳時代の上層人の埴輪に見える鍔付き帽子は、一体どこに起源があるのだろうか?
これが先の第①の疑問点である。
☆鍔付き帽子の起源
これは、帽子自体の起源にも関わるようだ。
古代の西アジアや中東・南欧(ギリシャなど)の諸民族は時に帽子を被っていたという事が、古代の壁画や陶器などに描かれた絵などから分かっている。
古代エジプトでは四千年ほど前には、王は王冠を被るが、従臣や庶民は横広がりのある帽子を被っていたのが、当時の絵から見受けられる。但し、高位者は頭を坊主に剃り上げて、人毛や植物性の毛で作ったカツラを着用していたらしい。しかしエジプトでは鍔付きの帽子を被った絵画はどうも無いようだ。
またアケメネス朝ペルシャでは、ペルセポリスの諸民族朝貢のレリーフが有名で冠帽子民族は多数登場するが、その中に鍔付帽を着用しているものがあったかどうかは?記憶がない。円錐形の帽子を被る民族は複数出ていたが、帽子の下部に円周状に縁取りがされた物はあったように記憶しているのだが、鍔は見ていない---------?
鍔の有無で再度検証してみないと断定は出来ないが、ペルシャでは鍔付き帽子は無かったのかも知れない。
またササン朝の王が神アフラマズダから王位のシンボルの円環を授与される石壁レリーフでは、神は三角状の長頭頂帽を被っているが、王は王冠を被っており、共に鍔付帽子では無い。
一方、古代ギリシャの神ヘルメスの像などは、“ペタソス”という平たい帽子を被っているが、これは明らかに鍔付き帽子の一種である。但し帽子の鍔は普通はある一定の幅か;多少の増減のある幅が頭周部を取り巻いているのだが、ペタソスの場合はかなり不定形の様に見える。
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ヘルメス(Hermēs)
ギリシャ神話で、オリンポスの十二神の一。 ゼウスとアトラスの娘マイアとの子。 神々の使者を務めるほか、富と幸運の神で、商業・発明・盗人・旅行者などの守護神。 ローマ神話のメルクリウス(マーキュリー)にあたる。
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ヘルメスは旅行者の守護神なので、日除効果のある鍔付帽子を被っているのだろう。
ギリシャ民族は、現在はギリシャ半島とマケドニアなどに住んでいるのだが、オスマントルコが来襲するまでは、アナトリア半島の西部もギリシャ民族の居住地だった。トロヤやペルガモンとかエフェソスなど現在はトルコ共和国のエーゲ界沿岸にはギリシャ人の遺跡が多数残っている。又黒海沿岸にも植民都市を有していたという。
だから、ギリシャ民族は黒海周辺あたりの異民族との文化接触で鍔付き帽子を使う様になったのかも知れない。
恐らくは、この鍔付帽の起源は、中央アジア地域の何処かにあるかと思われる。
大航海時代のスペインやポルトガルは鍔付き帽子を着用している。だがこれは地中海世界の風俗だったかと思われる。これがフランス〜イングランドやアイルランドやベネルックスにも伝来した。
(北欧やゲルマンには鍔付帽の風俗は知られていない。)
面白いのは、ジョン・フォード監督の映画「騎兵隊」などを見ると、一般人はカウボーイだから鍔付き帽子を被っているが、軍人は将校は鍔付きだが下士官以下は庇だけのあるキャップをかぶっている。ここでは、帽子の鍔の有無が階級に関係しているというのが、日本古代の鍔付き帽子との対応で興味深い。
韓国映画の「広開土王」などは見た事がないが、そこでは鍔付きの帽子を被った人は出ていたのだろうか?
一方、李氏朝鮮時代の文官の私服では、鍔付き帽子を被っている。また武官の帽子も小振りながら鍔付きである。
それ以前の高麗とか新羅時代にはどうだったのか?浅学にして、被り物や帽子に言及した資料には出会っていない。
我が国の中世には、騎射笠という物がある。これはいわゆる流鏑馬笠とか、笠懸(笠駆)とか犬追物に被る笠である。近世の陣笠というものもこの延長にある。陣笠などは素材剥き出しでなく塗笠という漆塗りの物である。そしてこれらの騎射笠は、弓を射るのに邪魔にならぬように端反笠といって、顔の上に掛かる庇が上側に反り返っているものだ。この形状は、先に紹介したヘルメスのペタソスにも似ている。
笠も帽子も基本的には直射日光の暑熱を避ける為のものだ。
笠は乾かした植物繊維(芦や竹)を編んで作られる。笠とは“日翳し”の翳(カザ)し→カサとなったものだ。庇も実は同じ語源“日翳し”である。
一方、帽子は植物性にしろ動物性にしろ布を材料に作る。だがその元来の原型は皮革だったのではないだろうか?
鷹狩の本場はキルギスだと言われる。キルギスの鷹匠の写真には革製の帽子を被っているが、これには庇が付いている。鷹を腕に留まらせる際に、自分の顔を爪で傷つけられないようにするためだろう。目前だけでなく、後頭部にまで周るつまり鍔になっている物もある。
だが我が国の鷹匠や鳥取部は帽子を被っていたが、庇や鍔のある物を被る図は、目下のところ見た事がない。
鷹匠も先述の笠懸の笠同様の物を用いていたという例はあるらしい。
だからキルギスの鷹匠の帽子が元になって庇や鍔付き帽子が考案されたというのではなく、その逆だろうと考えられる。
つまり元々、庇や鍔付き帽子が存在していて、その応用が鷹匠の帽子なのだろうと推理できるという事だ。
従って、鍔付き帽子が考案されたのは、キルギス以南、タリム盆地以西、トハリスタンからカスピ海あたりまでのステップ地帯の南部地域ではないかと推測している。
この地域は元はスキタイの活動域だった。スキタイの後裔がサカ(ギリシャ人の云うサカイ、中国でいう塞)である。
そこで、このスキタイやサカが鍔付帽子の起源地ではないか?という説を唱える人がいるようだ。
“スキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルバシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスと呼ばれる双頭の戦斧を携えていた。”
このスキタイ式の三角帽子は、カザフスタン出土の黄金仮面が有名である。私は、印象でしかないが、“この王侯の三角帽子はどうも鍔付帽子とは文化の性格上から異なる系統の物ではないかと思うのだ。
ソグド人の墳墓などから(旧来の鍔無しの帽子ではなく)鍔付帽子の残欠でも出土すれば別だが、材質的に腐食しやすいのであまり期待はできない。また壁画なども、この地域は後世ほとんどがイスラム化したので、仮に鍔付き帽子を被っている人物の描かれた壁画などがあっても、偶像破壊に遭って現存し難いのである。
私個人的には、いわゆる吐火羅(トハラ)人の風俗の中に起源があり、それがタリム盆地や崑崙山脈北麓高原やパミールに伝来したもので、月氏三族が取り入れた帽子のスタイルではないか?と推理する。
特に、ホータン人(白馬族=秦族)はシルクロードの交易の民なので、隊商に於いては庇付きの帽子を被っていて、特にそのリーダーは鍔付き帽子を被っていたのではないだろうか?
そう考えれば、古墳時代より後世だが、秦河勝などは鍔付帽子を被っていた可能性がある。
後世のソグド帽やトルコ帽は鍔無し。またターバンやモスリムのシュマーグ(レヴァント地方・イラク・アラビア半島)・グトラ(グトゥラ/ゴトラ/ギトラとも/ アラビア半島の湾岸諸国)・クーフィーヤ(パレスチナ)などの被り物類があるがこれらは帽子というより頭巾である。これらには鍔や庇が付いている物は無いようである。
15世紀半ばであるから、中世の事だが、モンゴル系のクリミヤハン国の騎馬軍団の中に、鍔付帽子ではないかと見える物を被った戦士がいる。モンゴル人は中央アジアを渡って黒海北部にまで征服の足を伸ばして来たわけだから、その途中で鍔付帽子の風俗を取り入れた部族があったのだろう。