天孫族考補遺25補足「冠帽子土偶の存在」

天孫族考補遺25補足 冠帽子土偶の存在

帽子を被っているかに見える土偶

私は、縄文時代人は無帽だったと推定しました。

ところが土偶の中に、着帽していたのかと疑われる物があるのです。

このFacebook古代史研究会の吉田真二さんが、6月16日に、群馬の県立歴史博物館収蔵の安中の天神原遺跡の土偶について投稿されました。

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この土偶は1963(昭和38)年に安中市中野谷字天神原(天神原遺跡)で、県道拡幅工事中に発見されました。

腹部で2つに分かれていますが、接合してほぼ完全な姿になっています。

顔は面長で、やや上を向いています。眉と鼻がつながり高くなっています。眉の下に目が横線で引かれ、口も同様に表現されています。目のすぐ横に付いている突起は耳と思われます。頭頂部は横方向にくぼみ、被り物をしているか髪形を表しているように見えます。

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頭頂部が、平たく潰れた形になっているのは、①そういう髪型なのか?

②被り物もしくは帽子なのか?

帽子も広義の被り物ではありますが、土偶で被り物と言えば、女性の土偶で頭部に布を被っているのがあり、一般にはそれらを指して言います。

問題の安中天神原土偶は、額の部分に何か形象が付いています。

これは、1)髪飾りなのか? (直接額に張り付ける飾りかも)、普通に考えれば、 2)帽子についた徽章の如き物か

と思われます。

写真をアップして見ても判別できません。

もし帽子を被っているのなら、ソグド人風の前折れ帽子というよりも、後世の大黒天の帽子(円頂帽)などを連想する形状です。単純な袋状ではなく、被り口部分と頭頂部の二段構造になっているかに見えます。比較の為、後世の大黒天像を掲げておきます。

しかし問題の天神原土偶は、腹部で割れている〜割られているので、胃腸病の平癒祈願の呪術道具だったのかとも想像されています。

だが、その呪的な対象が、着帽しているのは何故なのか?

これは、当時の普通の民俗ではなく、冠帽子の特別な存在だったと推理する事が出来るでしょう。

縄文時代に、一般民衆に着帽の習慣があったとは思えないので、女性土偶以外の男性土偶は普通は無帽です。

で、縄文後期に着帽しているとしたら、それは稀に来る渡来人か伽耶からの行商人だったのではないかと思われます。民俗学でいうマレビトです。マレビトとは客人とも書かれ、訪れる貴種の人や福をもたらす人を指します。

弥生時代には、伽耶の商人が、金属器などを売りに来ていたという説が唱えられています。それが既に縄文後期には、稀に訪れる事があったのでは?と想像します。月氏の白馬族は、キャラバンを組んで欧州や北東アジアにまで行動圏を伸ばしていたので、当然韓半島にも来訪していたでしょう。それらの人の中に、日本海を渡ってみようという人が出てきても不思議ではないと思います。では、そういう商人は何を売りにきていたかといえば恐らく薬品(即ち後世云うところの漢方)だと考えられます。中世には漢方は専ら修験者が売りに回ったのです。薬品を売る修験は伊吹山修験が嚆矢であり、その後白山から立山修験に引き継がれます。近世の富山の薬売りは、その立山修験の流れを汲むものです。そしてこれら北陸道の修験は、古代には山門叡山に属するものです。しかも北陸修験はほとんど秦氏の系流です。秦氏は白馬族ですから、遠く古代の日本列島にまで足を運んだのでしょうか。なお中世の修験もそうですが、漢方を売るだけでなく医術の心得もあったようです。

だからそれらの来訪者は歓迎されたのだと思われます。

もう一つ、この土偶のモデルが縄文人そのものでは無いと思われるのは、鯨面文身が見られない事です。だからこの土偶のモデルは来訪した余所者であろうと考えます。

ところで、この土偶の出土した安中は、関東平野の北西の隅に当たり、信州の高原地帯への登り口の一つでした。後世の磯部〜横川〜碓氷峠ルート以前には、安中を経由して碓氷峠に至るルートも、東山道の主なルートの一つであったと思われます。(もう一つの主要ルートは南の下仁田を通る道です。)

それはともかく、縄文時代に、こんな所にまで、伽耶の商人が来たものか?

縄文時代は、閉鎖的な地域社会ではなく、黒曜石や翡翠の流通などの面から相当に交通が盛んだったと考えられる様になっています。また伽耶商人は、そういう翡翠や或いは日本列島に多い辰砂や水銀鉱を、また東国の毛皮等を買うために来ていたとも考えられます。

土偶は呪的な対象ですが、それは崇拝偶像だったり、雛人形同様のヒトガタだったりします。天神原土偶の場合は両者兼有だったと考えます。

ヒトガタ土偶の多くは、ある身体部分を傷つけたりそこで断ち割ったり、もしくは粉砕したり、破却状態で埋納されています。その傷つけた身体部の傷病の平癒祈願の呪具である場合が指摘されて来ました。それがマレビトの形態をしているというのは、祈願の成就を、非日常的な存在に託すという原始的な宗教行為だと考えられます。

ですから、天神原土偶が着帽しているとしても、それは縄文人一般に冠帽の習慣があったからではなく、むしろ逆で、冠帽が稀だった事を示すものであり、だから崇拝や祈願呪術の対象になったのでしょう。

冠帽の習俗はやはり弥生時代以降古墳時代までに、韓半島経由で(加羅から)冠帽を常態とする人々が渡来して来てから一般化したのだと考えます。

ところでこの天神原遺跡は、実は二至二分遺跡だと言われます。(二至は冬至・夏至。二分は春分・秋分。)

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群馬県安中(あんなか)市の天神原(てんじんばら)遺跡では、妙義山(みょうぎさん)の三つの峰のちょうど真ん中の山頂(金洞山)に、春分、秋分の日の太陽が沈むという。

天神原遺跡→時期:縄文時代中期末様(加曽利E4式期)~晩期前葉(天神原=安行3C式期)

 所在地:群馬県安中市中野谷字天神原地内

 春分日没 写真 1998年3月18日(春分日没)

写真「縄文ランドスケープ001 天神原遺跡」より、お借りしました。

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ここには三本立石の環状列石の極限的なものがあり、二至二分を意識した祭祀場だったのではないでしょうか。

だからそこに置かれた土偶はやはりヒトガタであり、祈りを聞き届けるマレビトだったのです。

注、大黒天と上古の伽耶商人

ヒンズー教のマハカラ(偉大なる黒い神、シバ神の別神)が、仏教に取り入れられて大黒天となった。本来は憤怒相の怖い表情の神だったが、チベット仏教などでは、護法神として次第に福を招来する神ともなり、柔和相の像も生まれた。それが東アジアに伝来すると商人の崇拝する利財神にもなる。

加羅(伽耶)に伝わって来たのは、仏教と同時か?或いはもっと原初的な福神の段階で、西域の行商隊などからもたらされていたかも知れない。

マハカラの名には、加羅を含むので、加羅諸国の商人の間で大黒天が商業神として普及して行った事も考えられる。

何よりも加羅の名は、タカマガカラ(高魔儀加羅、“魔儀=龢”族=“和族”の住む黒い大地、“黒崑崙=カラコルム”山脈の南側高地)に由来する。

龢族が流浪先・弁辰の地に高霊加羅を建てた時に、民族の故地に因んで、月氏は弁辰を加羅と呼ぶ様になったのだ。

加羅とは月氏氏族には、民族の原郷であり、神聖高地であって、ヒマラヤを越えて大黒天が神鳥・迦楼羅に乗って訪れる地である。だからカラは文明の地やパラダイス(浄土)をも含意するのである。

俗に言う唐天竺(カラテンジク)とは、唐土と印度を意味するのではなく、「唐天竺」一語で、高度な文明の地を指すのである。それが、唐によって中国が統一されてからは、文明国・唐Taoが我が国では“カラ”を意味する国と見做される様になった。その後明や清もカラと呼ばれた。

縄文時代には、加羅の地は未だ弁韓もしくは弁辰だった。従って、縄文時代にも伽耶商人が来ていた可能性があると言ったが、正確には「“(後世に伽耶と呼ばれる様になった)弁韓地域の商工業都市からの商人”が来島していた可能性がある」と言うべきであろう。

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