補遺26「上毛野氏の謎と藤原不比等」

天孫族考補遺26「上毛野氏に関わる謎と藤原不比等」

先般来、高崎の綿貫観音山古墳の事を話題にしたが(天孫族考補遺25補足続)、その際に、この古墳の被葬者は、古代に毛野国造だった上毛野氏の族長級だろうと述べた。

族長合掌埴輪という、上毛野氏族長の後継者が被葬者を弔っていると見える冠帽武人埴輪は、他に例の無い物だ。正に国宝である。

この合掌埴輪を正面姿で見てみると、その合掌の形は両手の指を組み合わせる印形である事が分かる。云うところの外縛合掌印である。

和族のバラモンは通常は未開蓮合掌印という両手親指を合わせて他の四本の指をすぼめるように合わせる印形を結ぶ。と云う事は、上毛野氏はバラモンではなく、天孫族の内のクシャトリヤ(戦士階層)だったと考えられる。

外縛合掌印は真言密教では、帰命金剛印といい、山伏が徐魔の為に不動明王の降臨を祈願する時に用いられた。また印形で九字(臨兵闘者皆陣列在前)を示す時の真ん中「皆」の印でもある。金剛界は闘争界だと考えれば、外縛合掌印は、クシャトリヤに相応しい印形だろう。

和族の印形が未開蓮合掌印であるのは、その印形そのものが龢(ナギ、この簡約字体が和)であり、龢の状態に入らせる(懇らう)魔儀を取仕切るバラモンがネギ(禰宜)である。禰宜の冠帽に似た華穂を付ける草を葱と名付けた。

(未開蓮合掌印は仏教的には胎蔵界のものである。)

天山三族の内、残るもう一つ;秦氏はバイシャ(平民階層)であるので、平の合掌印(堅実心合掌印)を結ぶ。両手を普通に合わせた印形である。奈良〜平安時代、僧侶の多くが秦氏から出たので、本邦仏教徒の結ぶ合掌印の標準形となったと考えられる。

さて、その上毛野氏を調べてみると、幾つかの謎に行き当たる。

史書の編纂に関与した上毛野氏は本宗の人か渡来系上毛野氏か?

上毛野氏には実は二つの流れがあるのだ。

◯天武朝で、「帝紀」と「上古諸事」の編纂に上毛野三千が参加した。

◯持統朝で、有力豪族18氏に墓記の提出を命じた

→これは史書の編集資料にする為だという。日本書紀の資料になったのか。上毛野氏が含まれている。

これらの史書編集に参画したのは、本宗である東国系上毛野氏なのか?田辺史系の上毛野氏なのか?という疑問が生じる。

というのは、ある時期から、上毛野氏には、百済からの渡来人の田辺史氏からの改姓者が多数混じっているからだ。

※そも田辺史は藤原不比等の成育に関わった氏族である。

百済系渡来氏族とされるが、逆に一時百済の救援に派遣された日本人将兵やその残留子孫が百済の官庁に勤めて文書作成管理の技術を身に付けたのだが、百済の滅亡により再帰朝した者達があり、それが史人だという説がある。

百済救援(対新羅戦)には、何度か(本宗の)上毛野氏が投入されている。

上毛野荒田別・鹿我 (巫) 別とその子世代の竹葉瀬、田道の兄弟や、もう少し後に上毛野君稚子。

(田道は帰国後、本来の職務の蝦夷討伐で戦死と伝わる。)

これらの中で、百済滞在時や、残留後に、百済の官人の子女と婚姻して二世三世を儲けた人がいたのかも知れない。

長屋王の変で、上毛野の本宗が壊滅したという説がある。変後、六人の配流者が出た。その中、同系の下毛野氏から虫麻呂が流罪になっている。

→そして中央に残った上毛野氏の多くは、田辺史系の上毛野氏に変わったのだというのだ。

長屋王の変では、討手側にも上毛野氏同族であるという佐味虫麻呂がいた。(この時、衛門佐の官にあった。)

→この佐味虫麻呂はどちら系上毛野か?

佐味氏も上野国に根拠地を持っていた。この面では一見東国系に見える。

長屋王邸の討手の総指揮者は藤原宇合(式部卿)であった。

もっとも、渡来系上毛野氏も後世(郡司などで)東国に入り根拠地を得た人々もいた様だから、一見では東国(本宗)系か渡来系かはわからない。

天平勝宝2(750)年3月、中衛の(員外)少将田辺史難波等に上毛野君の姓を賜与したとある。(続日本紀)→これが公式には百済渡来系上毛野氏である。

しかし、この時期よりも以前に、後に上毛野氏名になった田辺史氏の中にも記録上では上毛野の名で記載されている人がいたと思われるのだ。(特に可能性があるのは、文武朝〜孝謙朝までの間で、事績当時は田辺だったが、続日本紀成立時には、既に上毛野になっていた人が居ただろうから。)というのは、続日本紀などは、はるか後世の平安初期・延暦16年(797年)に編纂された史書だからだ。

奈良朝以降の都での上毛野氏はほぼ田辺史系(エセ?)上毛野であろう。上記の例を見ても、渡来系にも文官だけでなく武官もいた事が分かる。

田辺史に生育された藤原不比等は、春日氏・鹿島(多)氏の仲ツ臣の職責と、氏神である春日神社まで乗っ取った。(鎌足は内臣にもなっている。)

一方でその田辺史氏が上毛野氏を乗っ取ったというのは、やはり背後には藤原氏の意図が隠されていると考えられる。

上毛野氏は記紀の伝承では、崇神の皇子である豊城入彦命を祖としているが、東国の上野(上毛野)国は任地であって、本貫地ではない。

元来は、豊の前ツ国の山国川中流域の、上・下三毛郷が本貫地である。元は上毛氏であり、それが平定した地が上毛野。(多氏の平定地が大野であるのと同様。)

豊前には、かつて中臣郷があり、これは上古には卜部郷で、豊後の多氏の被官となって、中部九州の平定→(武内宿禰の)東征→多氏の東国平定に従軍した。これが鹿島の中臣氏となった。畿内に春日氏とともに残ったのが摂津の中臣の祖である。

上毛野氏の本貫地と、卜部=中臣の居住域が、豊前で隣接していた。この事で、中臣=藤原側で忌避される何らかの理由があったのかも知れない。

(藤原氏の下剋上前の実態?を知られたくない等何かの事情があったのか?)

藤原宇合は遣唐使の途次に宇佐を訪ねており、その後元の名の馬養を宇合と改名したのである。宇合は宇佐の秦氏からどんな情報を得たのか?

その後、藤原氏は平安京建設まで秦氏との親交を深めている。

上毛野氏の姓は臣ではなく君

上毛野氏の姓(カバネ)は、君もしくは公である。

臣と君の違いは何か?王家から、随近氏族として特に君の姓を許された臣が君だと考える。

姓とは株根に由来する語で、和族=龢族の聖草(バルソム)が葱で、その頭穂が葱帽子=龢なのだが、これを支える茎の黄色くなった部分=黄身(キミ)であり、オウ・ミと読めば臣になる、という事は天孫族考本文で論考した通りである。黄身=王臣。臣下=身下。

藤原不比等の出自の謎

不比等は史とも書くようで、彼を生育した田辺史(大隅)に因んだ名だというが、では13歳で(11歳の説もあるが)田辺史に預けられるまでの幼名とか諱は何と言ったのか?

兄の定恵(僧籍に入り、遣唐使の学僧になった鎌足の長男)は本名は真人だと分かっているが、次男の不比等の実名が伝わらない。

この兄弟は一応は同母兄弟だとされ、彼らの母は、鏡王女(鏡王の娘、額田王の妹)もしくは車持与志古娘だとされているが、どちらが真説か不明である。

どちらにせよ、その母は元天智の妃の一人で、それを鎌足が拝領したのだが、その時既に妊っており、天智は「男の子なら汝の世嗣とせよ、女の子なら朕が認知して皇女とする」と言ったのだという伝承がある。果たして生まれたのは男子だったが、それが長男の定恵なのか次男の不比等なのか?両説があり、またこれは後世不比等の異例の出世を理由づける為の箔付でしかないともいう。(というのも天智御落胤説は当の藤原氏側が主張しているからだ)

もし、どちらかが御落胤とした場合、定恵なら、①次男は同母兄弟となる②真人が出家したのは、本来の鎌足の子ではないので、後継を実子の不比等に譲ったのだという。だが不比等が御落胤なら、①少なくとも真人は異母兄になり、(つまり定恵の母は、拝領妻の鏡王女ではなく、与志古娘だったのかもしれない)②真人が出家したのは貴種である不比等に嫡子の座を譲る為であった、という解釈になる。

だが、二人とも御落胤ではなく、母が鎌足の拝領した天智の妃だったから、後世の箔付でそういう主張をした(天智の崩御後はその真偽を確かめる術など無いから)との考えが最も妥当なのか?と思える。

不比等が持統天皇と対する時、異母弟だと装う事のメリットは大きい。

その本当の母が車持与志古娘だとすると、車持氏は上毛野氏の同族である。とすれば、上毛野氏は、与志古娘の産んだ子が鎌足の実子か、それとも天皇の御落胤かの秘密を知っていた可能性があり、これが藤原氏が東国系上毛野氏を抹殺したいと考えた本当の理由なのか?

なお、不比等が11歳の時に鎌足が死去するが、死の枕辺に不比等を呼び、自らの賜った藤原の氏名は不比等が名乗るようにと遺言したという伝承もある。従って、中臣氏の一族で藤原の名は、不比等の子孫だけが名乗る事になったのだとされている。が、これも信憑性は高くない。というのも、天武朝で同族の中臣大島(直大弐・神祇伯が極官)が、やはり藤原朝臣を名乗っていたからである。しかし持統朝になり、不比等が権勢を振るうようになると大島は再度中臣に戻っている。これは持統の意志?が働いたのか?

田辺大隅は、近江朝廷に仕える為に隣接した山科に邸宅があり、不比等はそこで約十年を過ごしている。藤原氏の氏寺は、当初は山科にあった山階寺で、これが後に平城京に移されて興福寺になった。山科の邸宅は田辺史の邸とされるが果たしてそうなのか? 鎌足の別宅であったのかも知れない。

いずれにせよ、田辺史氏は不比等の恩人であり、その後の国史や律令などの執筆に田辺史の事務能力が十分活用されたのであろう。

その功も、田辺史に上毛野氏を名乗らせることに繋がっていると考えられる。

高市皇子は不比等に暗殺されたという噂?

持統10年(西暦696年)7月、太政大臣であった高市皇子が突然 42歳で“病死”した。翌年2月持統の孫(草壁皇子の嫡男)軽皇子が立太子された。そして同年8月、僅か14歳の太子が持統からの譲位で天皇に即位した。文武天皇である。

高市皇子自身は皇位を欲していたとは思われていない。しかし太政大臣の位にあり、また天武の長男として、壬申の乱の勝利の功績者として皇親の長の位置にあったのは間違いない。それは、次期天皇を誰にするか、群臣の意見を纏める地位にあった。これは草壁亡き後、孫の軽皇子に皇位を継がせるという強い願望を持つ持統には目障りであったろう。

この為、持統が草壁皇子の「黒作懸佩刀(くろつくりのかけはきのたち)」を藤原不比等に渡して、高市皇子を黙らせるように命じたという噂がある。

藤原氏の内の伝承では、問題の黒作懸佩刀は、草壁に仕えていた20代の頃の不比等が、将来軽皇子を守るように託し、直接不比等に下賜した事になっているらしい。しかし、この時不比等はまだ無名であった筈だからこの伝承は後世の作り事であろう。

持統から官職に任じられたのは、ずっと後の31歳で、しかも従五位下という下級官人だった。しかし、そんな下級官人に持統が草壁の佩刀を渡したのは近江朝廷で、幼児の不比等が鎌足の邸宅にいた頃から皇女時代の持統と顔を見知る間だったのであろうか? 鎌足は、天智の為に蘇我入鹿を刺殺した。

いつか不比等が、讃良皇女(持統)の役に立つ日が来ようと、鎌足が皇女に告げてでもいたのだろうか?

実際に不比等がその刀剣で高市皇子を刺殺したのか?佩刀を見た高市皇子が持統の真意を察して自ら死を選んだのか、は分からない。

しかし、高市皇子の死は、大津皇子の粛清に続くものであり、他の異母兄弟の皇子達を沈黙させる効果を果たした。

実際、高市皇子が生存していれば、軽皇子の前に、年長の叔父の皇子達の中から、例え中継ぎ的にせよ天皇が選ばれていた可能性が高い。

持統が不比等を選んだのは、父天智の謀臣だった鎌足の後継者であり、またもしかすると天智の落胤として、自分の異母弟であったかも知れないからだ。

黒作懸佩刀の行方

さてこの草壁皇子の黒作懸佩刀には謎を呼ぶ要素がある。

軽皇子(文武天皇)が即位すると、不比等は拝領した「黒作懸佩刀」を天皇に献上したという。ところが、文武天皇もわずか11年の在位で25歳の若さで崩御してしまう。持統上皇は、文武の嫡男である首皇子の成長を待つ間に、草壁妃である(異母妹でもある) 阿閇皇女を即位させる。元明天皇である。

文武崩御後、「黒作懸佩刀」は再び藤原不比等に下賜され、その後(時期不明ながら:不比等の死の直後という説があるがその場合藤原家から)文武の遺児・首皇子に献上されたと言い、首皇子は元明の後、文武の長女である元正天皇を挟んで、即位する。聖武天皇である。

即ち黒作懸佩刀は(草壁皇子)→不比等→文武天皇→不比等→聖武天皇と伝えられた刀といい、聖武崩御後に、光明皇太后が正倉院に納めさせた、というのが表向きの伝承である。

恐らく上記のプロセスの何処かで黒作懸佩刀は、ダミーにすげ替えられたのだと思われる。というのは、壬申の乱後の関係者で皇族に近いところに居た人でなければ、草壁皇子の佩刀の真贋など識別出来なかっただろうから。

最初に(草壁自身?もしくは)持統から不比等が手渡されたのは、確かに本物の黒作懸佩刀だったのだと思う。

ここからは私の想像だが、皇族一家の年長者だった高市皇子は無論その佩刀が草壁の物だったかは認識し得たに違いない。だから、それで持統の意図を察する事が出来たのだろう。本当に不比等が刺殺したなら、もう少し大騒ぎになったかも知れないのに、高市皇子家からは病死だと届けられた。これは彼の生前の功績に鑑みて、持統が選択肢を与えたのではないだろうか?

即ち、意向に沿わない場合は、謀反人となり、幼い長屋王や妃達も連座させられる。しかし病死を選べば、高市の一族は無事であり、また高市の亡骸も高い地位の皇族として手厚く葬られる事になる、と。

既にこの問題に取り組まれた先学諸氏にも、この後不比等から軽皇子に献上された黒作懸佩刀は、既に不比等によってすり替えられた物だったと考えておられる人がいる。

これを秘匿する為に、藤原氏は、春日氏の氏神であった春日神社を乗っ取り、更に“剣神たる鹿島の神”を勧請したのだと考える。鹿島の大神の下なら、複数の刀剣を収蔵していても不思議は無いからだ。多くの春日神社の宝物の中に黒作懸佩刀の本物は紛れ込ませられたと思える。

この刀剣の存在こそ、持統の密命を受けた藤原氏のレーゾンデートルたる物であるからだ。

以前鹿島神宮の事を論じた時、鹿島神は多氏の祭祀していた海神・武甕槌(甕:ミカ、津:ヅ、霊:チ、つまり海底にある海難鎮めの甕の神霊の事)であるのに、春日神社での合祀に当たり、出雲神話に出てくる武甕雷(建御雷神)に変えられた事に言及した。武甕雷は雷神であり、別名は武布都神という剣神なのである。

問題の佩刀は、聖武没後他の遺愛の品々とともに正倉院に収められた事になっているが、どういうわけか、その後光明皇太后によって引き出されて正倉院側の記録では除物の扱いになっていて、行方が知れないのだ。

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正倉院は、聖武天皇の遺品を七七忌に際して、光明皇太后が献納したのに始まる。それらの遺品の目録が「国家珍宝帳」である。

ところがその内7点には、持ち出されたことを示す除物の付箋が付けられており、これらの行方はその後わからなくなっている。

7点とは封箱、犀角匣、陽宝劔、陰宝劔、横刀、挂甲、黒作懸佩刀である。

①封箱 封印の箱で、中には聖武からの結納品の信幣(ラブレターとも)。

②犀角匣 中には碧瑠璃数珠など数珠11連。

③④陽宝劔、陰宝劔 刀剣類の筆頭に位置するもので、世の平安を司る刀。

⑤横刀 ヨコタチと読み、帯で腰の横に佩く刀。

⑥挂甲 小さな鉄板・小札をとじ合わせた鎧状の防具。

⑦黒作懸佩刀

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これらの内、陽宝劔、陰宝劔は、現代になって東大寺から発見された。

2010年、東大寺盧舎那仏須弥壇の周辺地中から発見された2剣が、X線撮影で陽宝劔と陰宝劔であることが確認された。光明皇太后が国家の平安を祈願して埋納したものと考えられる。

黒作懸佩刀は公的には聖武の崩御後、光明皇太后から正倉院に納められたのだが、それが除物になっているのは、光明子が、藤原氏の身内からの教唆で、正倉から取り避けて、恐らくこれもまた春日神宮の宝物殿に秘蔵させたのではないだろうか?

但し、この佩刀は実物が失せているので、その長さや黒作りの実態等の詳細は不明である。だが近代に於いて古美術の復元模造品を多数手掛けている 市村雲龍作の模造刀があり、イメージを掴む事が出来よう。

こうして、持統王統の秘密を共有した藤原氏は、その後、異例の繁栄を維持する事になる。バラモンの天孫族の王家が、結果的に天孫族の元来の臣では無い(対馬の卜部を出自に持つ)藤原氏に牛耳られ、遂に摂関政治という形で政治の実権を奪われた時、日本の古代が終わり、下剋上の繰り返される中世に突入したというのが、私の考えである。

草壁の佩刀は、草薙の剣に代わる三種の神器か?

一説に依れば、この黒作懸佩刀は、天武持統王統の;男性天皇に伝世される三種の神器の一つだったとされる。本来の三種の神器の刀剣は、熱田神宮にある草薙の剣である事は勿論なのだが、天武の代に草薙剣が祟るという事件があり、天武もその祟りで身罷ったという風説が唱えられた。

この為、藤原不比等が、草薙剣の代わりに、その草壁の佩刀を代替にしたというのである。

しかしそれが伝世の宝刀になったのであるとすれば、では何故光明皇太后が、一旦正倉院に納めた佩刀を除物にしたのだろうか?この説は弱い!

また聖武の後は、女帝の孝謙だったからスキップしたと云うなら(つまり男性天皇の伝世神器だと云うなら)一時は孝謙を継いだ淳仁に伝世されていてもおかしくはない筈だ。もっとも淳仁は廃帝になったので、その刀剣は取りあげられて、その後行方不明になったか?淳仁廃帝の騒ぎのうちに行方不明になってしまったのか?それでまた熱田の草薙の剣が復権したとでもいう事なのか?いずれにせよ、ここで行方不明になる位の物なのでは、とても三種の神器の代わりになっていたなどとは言えまい。

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