補遺27「バルソムとは」

天孫族考補遺27「BARSOMについて、(付)三角縁神獣鏡の笠松形とは?」

◉BARSOMとは?

ゾロアスター教(通称だが、ゾロアスター=ヅァラトゥストラが一神教として纏める以前もあり、拝火教の方が一般的な呼称)に於いて、マギバラモン(聖職者)が祈祷の際、手に持った聖植物の束ねを、バルソムといった。

拝火教が世界の宗教の始原の一つであることから、現代の文化人類学では、他の宗教に於いてでも神職が手に持つ聖植物や聖枝・聖草をバルソムと呼んでいる。

この手持ちの祭具としてのバルソムは何の宗教的な機能を有するか?という点については、それぞれの宗教に於いての違いがあるが、整理すれば、

概ね次の三つに分類出来よう。

①聖植物の持つ神聖性や芳香などの属性によって祭儀の役割の一つを果す。

②その手採り物が神の依代だという考えに立つ。

③バルソムの伸びる範囲が一つの結界となる。

もっとも①の聖植物の持つ神聖性の由来も②に機縁するとも考えられる。また③も心性的には②に由来するのだろう。

処で、原点に於いて、BARSOMというのは、ゾロアスター教のバラモンの職階や専門パートの中で、祭祀空間の“浄め”の儀式を執り行う聖職者の事で、そのBARSOM神官が手に持つ祭具の聖植物をもバルソムと呼ぶようになったのである。(バルソムを持つ神官がBARSOMと呼ばれるようになったのではない! ブラジルウッドが取れる土地をブラジルと言うようになった事や、ヤクという竹管楽器の籥に似た鳴き声を出す小型の鹿が沢山住む嶋を屋久島と呼ぶようになった事等と類似する。逆に、鶏頭という草花は、無論その花が鶏のトサカ=鶏冠に似ているので“鶏頭”と名付けられたのであり、草花の鶏頭にトサカが似ているからそれを鶏頭と呼んだのではない事は明瞭だ。)

天孫族考で以下のように論述してきた。復唱してみる。

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ゾロアスター教のマギ魔儀は、聖草バルソムとして、今はよく分からないハオマ(大麻だという説もあり麻儀の当て字もある)を、祈祷の際に用いていたというが、月氏のバラモン=奈義は葱の華穂を手にとって宗教儀式を行なっていたのではないか?と想像される。

葱の華穂を宝珠=ニギタマと観ずる(つまりトーテムとする)月氏の主な部族(マギ・バラモン氏族を中心とする部族)がナギ(龢=和)族なのである。

葱宝珠自体は緑色の帽子状の華穂だが、菲(花葱)の方は紫色の毱状華である。これもまた一種の宝珠状態だと見れば、葱嶺に繁茂する葱韮類と菲類は共に、そこに棲む民族のトーテムになり得る存在であろう。

※葱嶺とはタジク語のパミール(ホータン語・ガンダーラ語ではソフィル)の事であり、葱韮類はパミール〜チベット高原が原産地である。

葱の防腐性は羊などの肉食には必須の薬味でもあった。

また葱は、食事の際に葉を摘んでも、茎の黄身の部分を残してあれば、またそこから葉が再生する性質がある。

つまり葱=龢族にとってこの葱の黄身茎は、氏族の再生産の為の肝要部になる。後世の和族のカバネ(姓)に於いて、龢を支える従属者が臣(オミ)というのは、この葱の黄身に由来するのだと、私は解釈している。

※勿論、葱は華穂が充実した種子(タネコ)でも、根茎(根子)でも増殖する。それは繁殖のシンボルでもある。

また聖草ハオマはソウマとの発音もあり、これは葱魔の音に通じるので、月氏はバルソム(神聖植物)として葱韮類の華穂茎を祭儀の手草にしていたのではないかという推理に繋がる。

※手草とは、能楽などの古典芸能でシテが手に持つ“手採り物”の事である。

我が国では葱はスメラギ(皇木)とされ、対して韮はアララギと呼ばれた。

霊魂の𩜙霊(和魂)と荒魂に対応する。

葱が皇家に関わる聖草(神聖植物・バルソム)だったという意識が天孫族に於いて共有されていたからである。

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◉BARSOMの発展

さてバルソムは、本来的には生きた植物の切り枝を複数本束ねて用いたと

いう。--------A

具体的には、タマリスクとかギンバイソウやザクロなど、その祭儀の土地に因んだ草木が使われたようだ。

現代の南インドに残るゾロアスター教寺院ではそこで入手できる椰子の木の枝葉を使うという。

※ キリスト教では棕櫚がバルソムになっている。バルソムの変遷などは、文化人類学の範疇だが、遺憾ながら“バルソムに絞っての研究はなされていない”とは、知り合いの文化人類学者の言である。

従って、この論考に纏めるものは、私が、種々の宗教学や文化人類学の書物で散見し書き記したものを編集したものでしかない。

始めは、このバルソムの束(ロッドと呼ぶらしい)は、紐で結ばれてはいないものだったが、やがて(取り扱いがし易いように)結束されたという。

(ある学者の言では、結束されたのは不祝儀の際の物だったというが、果してその通りだったかは、想像の域を出ない。)

※ また月桂冠などは、頭に巻いたバルソムである。

特に、浄めの儀式で聖植物を用いると云うのは、ゾロアスター教の創世記に関わるものらしい。

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オフルマズドは最初の3,000 年間にゲーティーグ界の諸存在者(天空、水、大地、植物、牛とカユーマルス、アダムとイヴ)を創造する。

 『イラン版ブンダヒシュン』では天空、水、山、植物、牛、ガヨーマルトの順に創造されることになっているから セム的一神教に由来するアダムとイヴは後代の書写生の加筆と分かる。

(東大 東洋文化研究所紀要第158 冊 青木健氏の著述)

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青木健氏は、古代ペルシャ研究の第一人者ともいうべき学者である。

※ オフルマズドとは、我が国では通例アフラマズダと云う。

さて、青木氏の紹介する処(どうやらゾロアスター教の古文献アヴェスター等によると)、神が創世した順番は、天空→水(海)→大地(山)→植物で、生物の始めは草木(植物)だったと云う。そこで、植物は神聖性が高い物になるので、マギ・バルソムが手に持って浄めの儀式をする物が聖植物になると解釈されている。動物は、植物を食べて育つので、植物が先に創生されたのである。更に動物(四足動物)の最初の創生は牛で、他の動物は牛から創生された事になっている。だから動物の中では牛が最も神聖だという。

(切り揃えた枝木の束に、牛の頭骨や角などを結びつけたバルソムがあるというのは、牛の神聖性による。)

植物製では無くなる

ところが、それが生木ではなく、切り揃えられた枝木の束や作り物によって代用されるようになっていく。そうして反復使用を可能にするために、植物材ではなく金属製の作り物にもなって行った。ササン朝ペルシャの王が持つバルソムは金属製の物になっていたらしい。--------B

(また本来のバルソムは左手で掴んだというが、次第に右手で持つ事も生じた。)

そうすると最早これは、王杖や王笏に発展する。--------C

(もっとも王杖にはエジプト起源説もある。)

※これらは、全て未だそれを持つバラモンや王の身に帯びる状態にあるのでこれを仮に第I類としておく。(第I類はA→B→Cと進化した。)

本邦でのバルソム

日本の家紋に結綿(ユイワタ)紋というのがある。これは、綿を束ねた形象の物である。一見、綿だから木綿(植物製)かと思えてしまうが、本邦で木綿の栽培が盛んになったのは、せいぜい安土桃山か江戸時代なので、結綿紋の綿は、木綿ではなく真綿であった筈だ。結綿紋の発生は中世前期にまで遡ると考えられるからだ。そして結綿は、神前で何かの儀式に使われた祭具の一種だと言われてきた。

これ以前は、麻(あらたえ)の束ねた物だったかも知れないが、それが絹糸(しろたえ)に変わったのであろう。

そうすると、これは上述の分類からすると、A〜Bに遷る途中の物なのかも知れない。

※但し、アラタエは麻ではなく栲(タエ)で、楮などの樹木の繊維を叩いて作った布帛(つまりは一種の紙である)で、麻は白妙だという考え方もある。

これは、製紙法が何時頃本邦に渡来したかの時期の問題にも関わってくる。

遺物上の最古の紙は、正倉院御物の美濃紙だという。と云う事は、奈良時代始め頃には、唐から伝来していた事になる。従って平安時代には、神社の祝などの装束は、この栲の布で出来ていたという見解もある。またその頃からは、幣なども粗栲(アラタエ)を切り裂いて榊の葉や枝木などに付けた。

しかし栲は紙に漉いて初めて実用上の物になるので、少なくとも奈良朝以前の飛鳥朝などの上古の神事で使われた幣は、麻の切り布を付けていた筈だ。

その証左には、幣の事を麻とも呼ぶからである。

上述のように、我が国の古神道では幣(麻)を用いた。これは勿論の事ながら、バルソムのヴァリエーションである。

また結綿よりも、幣の方が、祭具としては古い。

(但し紙だけの幣は平安時代以降の物である。)

幣は、榊や真木に吊り下げる。だからシデ(垂手;紙が使われるようになってからは紙垂と書く。四手と書くのは四方に立てて結界としたからだろうか。)

木枝ではなく、加工された軸=御幣串に垂らす物はBに近い。

榊と言ったが、神道の発祥地の一つと目される熊野では梛(木)を用いた。

神を凪ぐ物だから龢なので、これが原型に近い。しかし、九州王朝時代〜東征直後の河内王朝では、葱を束ねたものがバルソムで、それを扱ったのが禰宜なのである。

(禰宜の古名に種子や根子があるのは、既述から連想できるだろう。)

ところで今も神事で使う玉串というのは、バルソムそのものだ。

玉串は、どうして玉串と言うのか?

古代に於いて、勾玉を吊るした枝を祭具に用いたという説がある。

記紀の景行天皇の九州征伐に於いて、迎えに出た土地の酋長が、枝に掛けた鏡・勾玉・剣などの三種の神器を掲げるという場面が複数出てくる。

だから、祭事において勾玉を枝木に垂らすというのは、全く有り得ない事ではなさそうに思える。

だが、複数の勾玉を吊るした呪具というものは、遺跡出土品に見られない。

よく引かれているWikipediaでは、どう解説しているか?

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神話では、天照大神が岩戸隠れした際、玉や鏡などをつけた五百津真賢木(いほつのまさかき)を太玉命が捧げ持ったとの記述が、玉串の由来とされる。

「たまぐし」の語源については諸説ある。平田篤胤らは神話の記述のように玉をつけたから「玉串」だとし、本居宣長は「手向串」の意とする。

「たま」は「魂」の意とする説もある。実際には、神霊の依代が玉串の由来とされる。

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などと書かれるが、分かった様で分からない。

元来は繭玉飾りだったかも知れない。繭玉と言っても、繭其の物を枝木に吊るしたのではなく、繭をほぐし小さな結綿を玉状にして垂らしたものだ。

これが、変化して、繭玉ではなく、餅を枝木に付けた餅花になって今に残る。

餅花は繭花ともいう。だから元は繭玉でそれが餅で代用されたのだと分かる。

この繭玉飾りは、大きさは異なるものの、手採呪具としての結綿に限りなく近い。

繭から絹糸を取るのは、中国から西域の和田(ホータン)に伝わったという伝承がある。私説ではこのホータン出身の月氏の部族が秦hauatan氏である。

周知の如く、養蚕は秦氏が日本に伝来した。

しかし、繭玉を豊穣の象徴と見て、それをバルソムに付けて予祝祭儀を行なうのは、西域で月氏三族に共通の習俗になっていたかも知れない。

その頃は、本邦の様に榊ではなく、土地固有の胡楊やポプラの枝などが用いられたのであろう。

だが、少なくとも王家たる和族のバルソムは葱だった筈だ。葱はバルソムになるのか?という疑問を持つ向きもあろうが、今唯一中国に残るマニ教寺院では、葱の束ねた物を神前に捧げる。これは、西域にマニ教が広まった頃、タリム盆地に残存した月氏(俘囚月氏とも云うべきか)の焉耆に於いて、月氏のバルソムだった葱が、そのままマニ教のバルソムとして使われ続けた事によるものと思われる。

第II類のバルソムとその発展形

儀式での使用について、青木氏の著述では;

「儀式では、 バルソム バンドルは左手で保持するか、高さ約20 cmの金属製のスタンドのペアを横切って配置し、バンドルの両端に1つのスタンドを配置します。これらのスタンドの上部には三日月形のブレースが付いているため(また)ロッドが転がるのを防ぎます。三日月形は彼らに彼らの名前を与えます、 mah-rui、文字通り『  満月様顔貌』ダーデスターン・イー・デニグ 。スタンドは金属製でなければならないと述べています。」とある。

と云う事で、バルソムは、聖職者の手草から離れて、捧げ物化して行く。(幣も、神職が持たず、幣立てに飾るものが出て来る。)

「それを持つバラモンや王の身に帯びる状態にあるのでこれを仮に第I類としておく」と既述したが、聖職者の身体から離れたバルソム的なものを、第II類とする。(司祭の身体から外化したバルソムである。)

これを私はD〜Fと更に3種に分別する。

D 立柱祭祀

E 禾標(カヒョウ)

F (禾標の発展形としての)鳥居

この3種である。

「立柱祭祀」についてであるが、これは先ず生きている樹木をバルソムの拡張形と観念したものである。

初期的には、タリム盆地の湖沼地帯(紀元前〜AD3世紀頃までは、東アジアでの海進時代に重なり、温暖化現象で、崑崙や天山の雪が溶けて大量の水が河川に流れ出し、タリム盆地は湖沼群地帯であり湿原だった)の湖畔には、胡楊などヤナギ科の樹木が繁茂していた。

その内でも胡楊の枝が、バルソムとして用いられたり、湖畔の砂浜に挿されたりして、祭祀に用いられた。と同時に、聖樹・神木として神の依代と観念されるようになった。天孫族考補遺の一つで論考したように、青藏高原ではポプラが聖樹となった。

この観念は、西伝してギリシャに行き、ポポロ広場の位置を示す木としてのポプラの概念を生んだ。

乾燥化の始まった地域やステップ地帯では、生木の依代樹が得られないので、森林地帯から伐って運ばれて加工された“黄金の塔”(アルタンガダス)という頭頂に葱宝珠形をした立柱が、神の依代と見做された。中央アジアから蒙古に至るステップ地帯に広く普及する。

これが、北東アジア〜朝鮮では、いわゆる「蘇塗」という祭祀立柱になった。

一方、青藏高原では、支配者の宮居の入り口や祭場に、聖域を示す為に両側に木柱や鉾などが立てられた。これが禾標である。禾の文字を用いるのは、元来穂をつけた草本(禾本科植物)が立てられた時代があったからかも知れない。

これが龢を示す漢字の発想源になった事も、天孫族考で述べてきた。龠は木管楽器で、宮居から楽の音が聞こえる、という意味を表している。本邦の雅楽である。

この禾標も東伝して、中国に入るといわゆる「華表」という彫刻された石柱の対になる。

更に禾標は、南伝して、(原初の茶馬古道を)長江源流地帯に入ると、鳥居になる。

第II類の内、Dは、単柱だが、EとFは両木柱である。

禾標が石柱となり、その後建築の様式に取り入れられると、回教の西アジア征服下で、モスクのミナレットになって行ったと想像される。

◉BARSOMの図案化、三角縁神獣鏡の笠松形は何か?

日本民族はいつから図案化が得意になったかは分からない。

恐らく縄文土器の時代には、既に図案化すると云う現実物の抽象化が始まり、更に現実には存在しない空想物の図案化が始まったのであろう。

更に上古には、例えば巴の様な、弓具としての鞆を二次元図案化した“鞆絵”が出現する。もっとも巴は大陸側にも存在し、それは“鞆絵”ではなく渦巻きの図案化に起因する。しかも実物の渦巻きではなく、空想的な霊魂だ。

とは言え、図案化の才能は、なんといっても大陸にこそ開花していた。

西アジアに起源を持つパルメットや、後世になるが中国の双喜模様などは相当に図案化が進んだものだ。

こういう流れの一つとして、バルソムの図案化も生起したのだろう。

造形表現という面では、縄文土器の装飾と弥生土器のそれとではかなりの断絶を感じさせる。だが縄文人が大量に弥生人に置き換わったのではなく、恐らく弥生的な文化を持ち込んだ少数の渡来人はあったのだろうが、弥生の土器製作者集団には、縄文土器製作者が連続的に流入していたと思われる。(土師氏や陶氏にどれだけ縄文人の子孫が流入していたか?というマター。)

※ただ人類の美術的な表現の変化というものは、必ずしも漸進的ではない。

近代アートにおいても、立体主義(キュービズム)→フォービズム(野獣派)→抽象表現主義、という変遷は、その過程を同一人のアーティストが経過していたとしても、かなり飛躍的な変化に見える。

ピート・モンドリアン(代表作「ブロードウェイ・ブギウギ」)などは、途中で作風ががらりと変わった。またピカソの写実主義時代からキュービズムへの変化は、同一人とは思えないと言われて来た。

そう考えれば、銅鏡の背面装飾などは、神獣紋や草花紋・蔓草紋など比較的に具象的(例え空想上の動植物であっても)である。石製の華表ででも同様。

だがこれが唐草紋などになると抽象化が始まる。また具象的な事物でも図案化されたものが加わることがある。壁画などではその傾向が顕著である。

鳳凰などは、平面的な図案になったものが登場する。一種線書きの様なものさえあるようだ。

本邦で仿製された銅鏡などは、中国的な図像と、我が民族の縄文的なものや弥生的なもののミックスであり、必ずしも完全調和してはいない。

さて、岡本こうじ氏が指摘して来られた、三角縁神獣鏡の“笠松形”紋様についてであるが、これは抽象化・図案化する途中の表現の様に見える。

具象とすれば、実際上この様な形状の物体は想像しにくい。

そうすると、その数量の多さから見ても、邪馬臺国時代のものではなく、初期大和政権が、臣従の代償に、全国の豪族に賜与したものだろうと考えられる。

という事は、

1)見る側(受領側)から見て、王家の標章と分かるもの

2)単なる模様ではなく、ある種の神聖性を感じさせるもの

という要件に該当するものではないか?と推理される。

後鳥羽上皇によって、皇家の紋章として十六弁菊華が選ばれた後は、菊の紋はその2要件を満たすものと、臣民に受け入れられた。

そうすると笠松形(これは岡本氏の命名であろう)というのは、一体何を図案化しているのだろうか。

笠松形というのは、これが日本の家紋図案の一つである三階松紋に似ているように見えるからであろう。

しかし、この笠松形が元になって三階松模様が誕生したとは考えられない。

細かいニュアンスだけでなく、表現の概観の心性が異なる様に見えるからだ。

そういう意味では、ある人が言っているような、勾玉と(軸部が)剣で、下部の円盤状が鏡;つまり三種の神器の図案化だというのは、やはり違う様に思える。笠部はとても勾玉には見えないし、また重要な構成要素たる剣が隠れてしまうというのも自然では無い。やはりこの見方は穿ち過ぎだろう。

笠部はまた松には見えない。しかし軸部はやはり何かをつける軸木であろう。

岡本氏の研究では、笠部は3個が多いが、5玉になっているものもあるとの事である。しかし、この図案が具象性を失い、製作する職人が十分な理解を継承していない場合は、各パーツ(玉、軸、下の円盤)の意味が曖昧化してしまい、このため5玉に見えるものは、4玉と円盤が玉に同化した模様なのかも知れない。

そうすると、整理するなら、

複数の(一見笠松に見えた)玉を付けた軸木とその軸の根元の環状物だろう、という風に推理できる。しかも受領した豪族が、それを見て王家の標章としてありがたがる紋様、という事になるだろう。

私には、その様なものは、王家のバルソム(聖植物)の図案化としか思えない。

言ってしまえば、複数の玉は葱宝珠(葱華)で軸が茎、そして根元の円盤状は根茎(根玉)で、軸(茎)を掴んで3個の珠穂を付けた葱をバルソムとして祭儀を行なっていたのだ。

しかし、王家のバルソムである葱は当初は河内湖の東岸の日下(草香)でしか栽培されていなかったと思われる。(これがいわゆる河内ネギの原種で、長岡京の東の久我に冬至祭が移ると、それが九条ネギとなる。)

また葱を食物とする習慣は、西域から北朝に伝わり、隋唐時代に中国内地での食習慣に入ったものと思われる。

従って、三角縁神獣鏡を作った職人(南朝・呉からの渡来人と倭の職人)は葱宝珠を見たことがなかったであろう。

宝珠が仏教の縁起物として伝来したのも、隋唐からである。

そこで、皇家のバルソムの実物を説明した者(恐らく春日氏とか多氏)が居た筈で、彼らからは、「葱穂は松毬(マツカサ)に似ている」と教えられた。

だから図案化に当たっては、葱穂は松笠に近いものになったのではないかと想像される。また根塊も球状の物という説明をされたのであろう。

皇家のバルソムが葱宝珠だった事は、天孫族考の各所で論及して来た通りである。最たる証左が、元伊勢=籠神社と伊勢神宮内宮の囲み縁に据え珠という宝珠が設置されている事。更に皇室に伝わる輿に葱華輦と呼ばれるものがあり、頭頂に葱宝珠が飾られている;そしてこの蓮台は天皇の葬儀と伊勢の斎宮の御幸にしか使われない事、の二つである。

中世になって、本邦の氏族はこぞって家紋を持った。神聖な物には、梛木紋や結綿紋、更には鳥居紋、神社の神紋には八咫烏紋まである。

またほとんどあらゆる植物が家紋になっている。野菜でも、胡瓜や茄子までが家紋に使用されている。が、葱宝珠だけは家紋にされて来なかった。何か禁忌があったからであろう。(仏教的に五葷を避けると言っても茗荷紋までも存在する。しかし宮廷では、葱や大蒜=ニンニク食が密かに持続した事は、天孫族考で考究した通りである。)

他方で、繭玉が付いた玉串が笠松形のモデルではないか?とも疑ってみたがどうもそれでは根元の円盤の存在の説明が付かないし、繭玉なら笠松形よりもっと単純に球状にし、またそれらが枝分かれした態に描かれたであろうと考えられる。図像学的に合致し難いのである。

であるので、私はバルソムとして用いられた葱の束(アリウム・ロッド)が、松笠形模様のモチーフではないかと推理するのだ。

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