補遺27続追記「もう一つのミッシングリンクDNA」
補遺27続追記「もう一つのミッシングリンクであるDNA」
これまで、天孫族のミッシングリンクとしてのバルソム(聖植物)という切口を考証して来た。それは一つの物的証拠だと考えたからだ。
そういう意味では、もう一つの物的証拠ともいうべきものに、民族の共通的なDNAの問題がある。
◉DNA分析の進展と日本民族の起源
昨今のDNAの培養技術の進展によって、ごく少量のDNAからもその組成分析が可能になった。またコンピューターの
進化により、画期的に短時間でのゲノム解析のデータ化が実現した。これはある面では、犯罪捜査にも画期的な情報源となっただけでなく、進化生物学や、とりわけ古代の人類学にも有力な手法となった。
その結果、本邦の各地の県人・郷土人と、古代の縄文人や弥生人らとの比較が盛んになった。また同様に、本邦人種と、半島人や大陸のツングース系や漢族系・蒙古系・山西省などの中国北西人(鮮卑系)や江南(呉越)人などとのDNA比較がなされて、日本人はどこに近いのか?などという議論が流行している。
但し、この様な比較議論をするに当たっては、サンプルをどこでどのように採取するのか? つまり比較対象を、いかなる観点で行うか?を先ず検証しない限り、ただの意味のない比較になってしまう。
複数の比較対象がどう違い、どう近似しているか?をそのデータが明証したとしても、だからそれでどうなのか? 次につながる論拠にはなり得ないのである。
この流行の果てで、「日本人の現代人のDNAは縄文人のそれと大きな違いはない。つまり現代日本人は、概ね縄文人の子孫である」というような立論がなされて、遂には「日本人は縄文人が列島内で独自に文化発展して来たのであって、渡来人の影響は少ない」などという発言さえ出て来た。
だが、よくよく考えれば、「現代日本人は概ね縄文人の子孫である」というのは当たり前なのである。一時は弥生文化を持ってかなりのボリュームの新渡来があったという仮説があったが、今ではごく少数の弥生文化を持った渡来者があったとしても、その文化(稲作や金属器文化など)を縄文人が受容し、縄文人多数がそのまま弥生人になった!と考えられる様になった。
(もっとも弥生人は、列島側から半島南部に渡航した縄文人が、現地で金属製錬や金属器加工法また稲作などの農業技術を会得して“開化した倭人”であるとの見解も昨今出されているのだが) 弥生人は文化の基底が、縄文人と同様に、大陸南方系の文化・言語を持った人々;つまり倭人や海人族系であった為に、列島内にスムースに溶け込んで、一体化できたと考えられるようになった。
そして弥生時代末期から古墳時代初期にかけて渡来した民族は、私の分類では、白馬族系の商工民や黄牛族系出雲族、そして豊国の秦氏、北九州への天孫族という主に月氏系三族と、東遷の途中で各部族に帰属した東アジアの一部部族であり、その後河内王朝時代から飛鳥時代にかけて三韓の動乱から亡命して来た百済系などの帰化人を含めても、当時の列島人の中での割合はそれらを全て合わせても恐らく2割にもならないと考えられているのである。
それら渡来の人々も列島先住の人々と雑婚して、そのDNA的な特徴も希釈されたと考えられる。
とはいえ、微妙な差異は残り、現代の各県人同士の比較でも、ある程度の特色が見られるという。
さて、ここからが問題なのだが、このDNA分析を何を証明する為に用いるかで、その有用性が著しく変わって来る。
「現代日本人は概ね縄文人の子孫である」というテーゼの証明のためなら、もはやこれはその通りだという結論に近い結果が得られているのだ。
しかし、その“概ね”ではない;ある程度の確度で渡来人系や天孫族系だと推測されるごく一部の人種の氏族の人たちは、一体どこの国のどこの地方の民族とDNAが近似しているのか?を調べることは、日本人の中に混住した渡来系
の人々のルーツを考証する物的証拠と見做されるのではないか?という問題意識につながるのである。
よく、「平均的日本人のDNAは、半島人や中国人とは著しく異なっている」などと言われるが、これは当然で、既述の如く、平均的な日本人はそのまま縄文人〜弥生人の末裔だからである。
ところが、天孫族の王家である天皇家やそれに直接従臣した和族の各部族の人達のDNAをサンプリングしない限り、“天孫族は何処からきたのか?”の謎は解明できないのである。
従来DNAの分析に当たって来た古生物学者には、こういう問題意識がないし、また比較対象をどこに求めるべきか?の歴史学的な知識は勿論無いから、問題が解明されていかないのは当然なのだ。
※但し、昨今古代史研究者の間で話題にされるY染色体の
ハプログループについてだけでなく、もっと広汎にSNP
や白血球のタイプ等もに注目しなければならない。
(SNP:一塩基多型とは、遺伝子の多様性の一つ。遺伝情報を担う最小単位である「塩基」が1カ所だけ変わることで、髪の色や飲酒への強さのような身体の特徴も変わる場合がある。SNPの遺伝型を調べることで疾患の罹りやすさや体質の特徴を知ることができる様になった。)
ハプログループ偏重の弊害は、Y染色体という男性にのみ
保有される染色体を調べるわけだから、当然男系の系統しか辿れない事だ。ところが、もし私説の様に、天孫族のルーツが葱韮嶺(日之下高原=高天原)にあるとすれば、その主たる氏族は(その後継である婼羌=葱芘羌や、更にその後の蘇毗=東女国まで)長く女系制社会だった様なので、当然女系の染色体つまりミトコンドリアDNAの分析も重要になってくるのだが、この事が軽視されている。
このような闇雲な、無目的な調査の段階でも、日本人のDNAがチベット人のそれによく似た組成構造をしていることが従来指摘されて来た。(Y染色体ハプログループ近似)
一般に、チベット人と日本人は、共に仏教徒であるとはいえ、あちらの主な宗派の黄帽派ラマ教は、我が国の仏教宗派のいずれとも、それほど近似していない。黄帽派は、清朝の時代は、中国から蒙古満州にまで広まっていたのだが、その宗教文化は我が国のそれとはかなり違っている。
少なくとも文化人類学的には差異が大きい。
では両者のDNAの近似は何処から来たものなのか?
それを私論では、共に月氏に由来する部族が混入しているからだとした。
◉月氏の三分流
月氏はその発祥地であるソフィル(タジク語ではパミール:太陽神ミトラ足下の国=日之下)高原から青藏高原(崑崙南麓のアクサイチン)に進出し、更に最盛期にはタリム盆地や、西南はガンダーラ東部辺りにまで居住域を広げていたと考えられる。それが、匈奴の西進を契機に三分した。
(もっとも、匈奴の支配下に隷属した者たちを加えれば四分になるが。)
①タリム盆地北部及び西部に広まっていた部族は、天山山脈を越えて、所謂天山北路方面〜今のキルギスタンに移動した。これが、中国で言うところの大月氏である。
大月氏はやがて南遷してバクトリアを征服後、5つの分国になり、その内の(クシャトリヤの)貴霜国が分国を再統一した。これがクシャン朝である。
クシャン朝では、最盛期にはガンダーラからタリム盆地西部のホータン(和田)までを版図にしたのだが、ササン朝ペルシャによって滅亡し、その後にはアラブ回教徒の寇掠にあって、月氏系の人民はほぼ雲散霧消したと考えられる。
→従って、大月氏系の子孫のDNAなどを調べたくても不可能である。
②第2の分流は、中国人のいう小月氏である。タリム盆地南部(後の西域南道方面)にいた月氏は、青藏高原東方面の羌族の支配地に入って混住した。月氏羌である。月氏羌は、羌族の部族の様になり、それは元の月氏の出自に
よって、3部族があった事が中国の史書に記されている。即ち(バラモンを中心にした)葱茈羌、クシャトリヤの黄牛羌、バイシャによる白馬羌である。
これらの内から、匈奴との戦闘を回避して、黄河を下って東遷した集団が出た。葱茈羌(和族)、クシャトリヤの黄牛羌の多くは東遷に加わったものと考えられる。(人口の多かった白馬族は半分くらいは残存し、隣の氐族にも混住し、後世まで残って一部が漢族に追われて四川省の奥山で少数民族となって現存する。四川省の白馬族自治県である。☆)
黄河を下った民族は、黄河中流域から更に陸路を東遷し、西遼河上流から遼河上流方面に拠点を得て集住した。三族が共立した国が辰国である。辰国は、戦国末期〜秦漢動乱期に、中国北東部の燕国の箕子や衛満などの進出によって追われ(朝鮮)半島を南遷して、三韓の都市国家群を成した。馬韓・辰韓・弁韓である。辰韓はクシャトリヤの黄牛族の斯羅國を含む地域連合であるが、斯羅國の征略の動きに反発した他の辰韓系人民が、大八洲列島に渡り、後世の出雲族の基になった。やがて彼らは、先住していた縄文族と倭人である海人族を糾合して、列島最初の統一的連合国である大倭を形成した。(これがヤマトを中心とした三輪王朝である。)
一方、弁韓の一都市国家を形成していた和族の高霊加羅は、斯羅〜新羅の統一運動に反発して、一部が北九州に移住し、遠賀川から内陸部に進出して佐賀平野〜筑後川流域までの中部九州を征略して日下国を立てる。(魏志にいうところの狗奴國である。)やがて、日下国は北九州を統一し、中国地方を勢力下に収め、東征してヤマトの三輪王朝を滅ぼして大和とする。
河内湖の東岸に日神祭祀の祭日壇=日下(草香)を設けた。これが河内王朝である。(それが今にも続く天皇家の血統である。☆)
③第3の分流は、(私の命名した)中月氏の系統である。
匈奴の西進後も、崑崙山脈を南壁にして抵抗を続けた。やがて東接する羌族とも連合した。中国のいうルーチャン(婼羌)である。
付図は、後漢書にある婼羌が精絶国(後世のニヤ)を攻めて、穀類を強奪した事を説明する図。恐らく後漢より後に描かれたものだろう。諸都市国家の南はほとんど婼羌に至ると描写されている。婼羌の版図が広大であった事を示す。また後世は砂漠の埋没遺跡に過ぎないニヤが穀類の豊富な土地だった;つまり砂漠化以前だった事が分かる。
婼羌は、やがてやはり中心となったカーストによって三つに分かれる。
クシャトリヤは、多くがチベット高原西部(ヒンズークシ北麓方面)に象雄(シャンシュン)国を立てる。この流れは、一部がフェルガナ盆地方面に出て昭武九姓となる。
また象雄国は吐蕃のチベット統一によって併合されるが、その一部はインド北西部にまたがるラダック(日土)国となる。
バイシャは故地であるタリム盆地西部のホータンに戻り、于闐国となる。(これがほぼ、その後“和田”と中国で表記する都市国家である。玉の産地。)
葱茈羌は婼羌の中核であり、その為蘇毗羌とも呼ばれたが、その後、チベット高原東部に蘇毗国(ソンパ・唐でいう東女国)を建てる。しかし、やはり吐蕃のチベット統一によって征服されるが、一部は東に逃れ、今は四川省奥地のギャロン蔵族自治区の丹方県に残存している。☆
ここがかの有名な美人谷のある地域である。なおバルソムとしてヒノキ科のコノテガシワが尊ばれている。
この月氏の分流を俯瞰すれば、もしDNAの比較をして相似性が認められるとすれば☆印を付けた三部族になる。
即ち、小月氏系での和族、四川省の白馬族、中月氏系での四川省のギャロン蔵族の三つである。
◯本邦で有意味なDNA調査はどんなものか?
日本での秦氏の血脈があれば、それは白馬族との近似性を示すはずだが、純秦氏系という氏族は、京都の川勝氏くらいだろうか?しかし彼らも交雑してその月氏系血脈は希薄になっているだろう。
出雲族(黄牛族)に至っては、物部氏本系の滅亡後雲散したと考えられる。(今の出雲人は必ずしも出雲族では無い!)
諏訪氏が出雲族系だというが、諏訪神社社家が果たして本当に物部氏の末裔といえるのだろうか?
和族も天皇家以外は、春日氏や大伴氏などは歴史の波の中に消滅した。僅かに多氏系が、一つは宮廷楽部に、また阿蘇神社の宮司氏族として残っているので、このDNA調査なら、和族の血液組成を推理できる可能性がある。
一方天皇家は、度重なる藤原氏(対馬の浦部=海人族)との通婚で、相当に月氏の女系の血脈は希薄化していると思われるのである。これは、旧宮家などでも同様である。その事情は旧伏見宮家の様な歴史の古い家柄でも同じだろう。
私説では古代に於いて天孫族の女系の血脈を保持する役割を有していたのが息長氏だったと考えている。
なお、少し前ではあるが、以下の様な記事もあった。
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2006年に発表されたある研究では、DE-YAP(xE-SRY4064)に属するY染色体が羌族 6/33 = 18.2%、回族 4/35 = 11.4%、甘粛省蘭州市漢族 2/30 = 6.7%、新疆ウイグル自治区イリの漢族 1/32 = 3.1%、満州族 1/35=2.9%、広西省河池市巴馬ヤオ族自治県ヤオ族 1/35 = 2.9%、新疆ウイグル自治区イリのウイグル族 1/39 = 2.6%、シボ族 1/41 = 2.4%から見つかっている。
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即ち、羌族の保有率は何と2割弱。桁違いである。羌族には日本民族との間に強い近似性がうかがえるというのだ。
(これは、Y染色体のハプログループに限っての話だが。)
月氏国の分流=小月氏3部族が羌族に寄留していた。非小月氏の羌族は十数部族だとされる。その遺民がその2割弱の人口比に相当するのだろうか?
回族は寧夏省の回教徒で、往古の西夏の地である。西夏に降った蘇毗の部族の痕跡ででもあろうか?