補遺27追記(バルソム補足)
補遺27追記(バルソム補足)
以下は、天孫族考補遺27「バルソム(聖植物)について」のFacebookへのアップロード告知文に追記した内容ほかである。
◯ プロト(原)ゾロアスター教
プロト(原)ゾロアスター教というのは、BC7世紀頃にゾロアスターによって宗教改革される前の多神教的な形態で、祭祀される地域によって祀られる神や、同じ例えば水の神などでも、その名が異なったりしていた。
概ね、いわゆるBMAC(バクトリア・マグダリア文化複合)地域で広まっていた。
◯写真説明の追加「バルソムを持つ司祭像」
補遺27収載の写真で、ペルシャ風の神官が手に角材風の木の束を持つものがありましたが、説明が落ちていましたので、補足しておきます。
それは、紀元前4世紀のオクサス遺宝に見られる司祭の描写 。バルソムを手に持つ。このバルソムは既に切り揃えられた木束になっている。しかも原初はバルソムは左手に持ったというが、この像では右手に保持している。
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前1世紀のギリシャの地理・歴史学者ストラボンはゾロアスター教の聖なる火の神に捧げる儀礼について書いている。「祭司は毎日拝火神殿に入り、聖火の前で1時間ほども神秘的な歌をうたう。そのとき祭司は手に小枝の束を持ち、フェルトの帽子をかぶり、それを両頬から唇まで垂れ下げていた」(ハキモフ『タジク人の音楽文化』)。
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この記述は上述のタフティーサンギンのオクス(オクサス)神殿で発見された祭司の肖像につながると言われている。
「歌を唄う」というのは抑揚のある呪文朗誦であろう。
※オクサスとはアムダリア川のタジキスタン西南部の流れの事である。
なお、BC4世紀なら、既にアルケメネス朝ペルシャが開始されている時代であるが、この遺物の出たオクサスがペルシャに征服されていたかどうかは、定かではない。
◯ササン朝の王権神授
一方、ここに掲載した写真資料は、ササン朝での(224-241年)の、摩崖浮彫「アルダシール1世騎馬叙任式図」
(縦4.28m イラン、ナクシェ・ルスタム)
---------『世界美術大全集東洋編16 西アジア』
画面構成は左右対称で、向かって左に騎馬のアルダシール1世、右に同様に馬上のホルムズド(アフラ・マズダ)神が描かれている。
ペルシャ帝王は王位の標識であるディアデム(リボンのついた環)を頭につけ、頭上には大きな球体(宇宙を象徴)を戴いている。
神は城壁冠をかぶり、左手でバルソム(聖枝)を持ち、右手には正統な王位の標識たるディアデムを持ち、改めて帝王に授けようとしている場面である。
このササン朝での磨崖神像は、西アジアは既にヘレニズムの洗礼を受けており、神の肖像化が一般化していた事を示す。そして(司祭や王ではなく)神自らが左手にバルソムを持っている。本来のバルソムは神に捧げる物なので、
この神像は帝位に就かしめる儀礼を司る最高神官を神に見立てて描写したのではないかとも考えられる。
そしてこの神像の持つバルソムは、既に聖植物ではなく、あたかも王笏の様になっている。Wikipediaの「笏」の起源では、このレリーフを掲示しているのだが、私感では(西伝したバルソムは王杖と混淆して王笏化したが)東伝した中国王朝や大和での王族貴族の持つ(象牙製や木製の)笏は、単なる威儀具ではなく、その裏に鉋で剥いだ木の薄板や後には紙を貼り、発言予定内容のメモを墨書したり、という実用性半分の手持道具になっているので、既に機能が変質していると思える。笏は最早バルソムでは無いかに思えるのだが、日本の神道での宮司や禰宜の持つ笏は、むしろバルソム性を残している。
◯女王の王笏
この系統のバルソム→王笏の最たる物が、先日のエリザベス女王の国葬の際に、柩の上に王冠と共に飾られていた女王のダイヤモンドの王笏である。世界最大級のダイヤが嵌め込まれている。王笏は威儀具であり、実用的な機能は全くない。宗教上の祭礼用具でもない。
◯笏とは?(Facebookへの追記コメント)
いつもアドバイスを頂戴する友人から、また意見をされました。
曰く「君が、笏について言及しているが、今の人で笏を実見している人は少ない。実際笏の字を読めない人も多いのではないか」
そうですね。私だって、もはや神職が笏を持つのは伊勢神官のTV映像位でしか見ていないし、毎年初詣に赴く天満宮でお祓いを受けた時も、神職は御幣しか持っていませんでしたね。最近で笏を持つ貴人を拝見したのは、秋篠宮さんが立後嗣の礼を受けた衣冠束帯で手にしておられた姿の際でした。
笏は、日本ではシャクと訓じています。音ではコツですが、コツというと鹿卜の骨と紛らわしいのでシャクと言うようになったとされています。公家や皇族の正装では必携の“持道具”です。一般に最もよく目にする笏を持つ姿は、有名な「厩戸皇子とニ王子像」で太子が手にしています。
この絵は渡来中国人が、太子薨去後に法隆寺の僧などからの聞き取りを基に描いた物ですが、中国でも文官には笏
が使われていた様なので、描画者にも不思議ではなかったでしょう。
◯甲賀信楽の「文明をつなぐもの中央アジア」展について
関西の(天孫族考を縦覧してくれている)友人から、甲賀市で催されている遺物展覧会の紹介を転送して貰った。
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「MIHO MUSEUM(ミホミュージアム)」=滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷=が所蔵するコレクションを中心に、紀元前3000年ごろから中世までの中央アジア・西アジアの精神世界の転換を見ることができる秋季特別展「文明をつなぐもの 中央アジア」が、12月11日まで同ミュージアムで
開かれている。
中世初期のシルクロード交易の主役となった中央アジアのイラン系ソグド人が、東アジアや内奥アジアに残した足跡をたどる内容で、聖なる動植物をモチーフにした作品や、絢爛豪華な金・銀製品など約130点を、時代や特徴に合わせて7つの章に分けて展示する。
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そこで、同ミュージアムのホームページから、今般の展覧品内容を検索したところ、聖植物では「アイベックス花樹紋脚杯」(アイベックス=高山の鹿+花輪を付けた樹木?)が目を引く。実際この植物は何かは特定されていない。
アイベックスは写真では裏側に隠れている。
図案化された仮想上の花樹であろう。私が着目したのは、花が華穂になっており、それが複数付いた草木だというところだ。この図案になると、葱華である事は認識されず、想像上の花樹紋になっている。笠松形も含めて、図案化されて行く内に、原型から離れた紋様が様々に創成されたのだろう。葉序は対性の植物。
しかし、忍者の里であり近江信楽商人の故地での中央アジア展とは面白い。
また甲賀は、私は天孫族考で、日下(カガ)→久我、古賀→古河、甲賀、加賀となったとして、斎日壇が置かれた地だろうとした。(甲賀の日下は幸ヶ平=ハトガタイ=波濤ヶ平?ではないかと考えた。今は難読地名として有名な幸ヶ平の“幸ヶ”は元はコウガではなかったのか?)
その甲賀での今回の展覧会の情報には、より興味深いものがあった。
甲賀者はそこの飯道寺修験が忍者化したもので、戦国期に忍びの者がしばしば山伏の格好をしたのだがその濫觴であるとも言われる。飯道神社は豊受大神を祀り、その別当寺である飯道寺は水の神・弁財天を祀っていた。
ここの飯道寺修験衆徒や寄人・国人は、飯道神社の宮座の一員であり、また守護の佐々木氏の被官でもあり、宮座は即ち甲賀商人座でもあるという具合に、中世の多重身分の世界の一典型とも言える。恐らくその中には、古代の“造東大寺司”「甲賀山作所」の職人の末裔なども居たに違いない。今も水口細工などが有名である。