補遺28「鴨(賀茂)氏の謎」
天孫族考補遺28「鴨氏(賀茂氏、加茂氏)に関わる謎」
◯天孫族考で言及した鴨氏
私は、天孫族考の論究の中で、
“鴨氏は九州王朝以来の、和族の従臣であり、中下層のバラモン階層であっただろう”と述べて来た。
これは水巻久我神社を賀茂氏が管掌していたからだ。
また“その和族のバラモンは、最高位が大王家と皇親家(王族)であって、高位神官層が春日氏であり、中下位神官層が多氏と鴨氏だろう”とも推理した。
しかし、上古まで存在したバラモン層は皇家を除いて、藤原京時代〜平城京時代に次々と凋落して行った。
王族系の武内宿禰直系の大臣家5氏も、雄略朝に葛城本宗が滅亡し、継体朝までは巨勢氏が大臣を務めていた。その後は葛城氏後継を標榜する蘇我氏が大臣職を襲位していたが、その本宗が乙巳の変で滅亡。
残っていた倉山田氏が浄御原朝までで姿を消す。→大臣の職位は藤原氏のものとなる。
春日氏は海人系和邇氏族の中核氏族だったが、粟田氏・柿本氏・小野氏等に分解し、本宗の春日氏は、氏神春日神社さえ新興の藤原氏に横領されて、衰微した。平安時代には春日氏自体の活動は目立たない。
多氏の古来の職務(壬生・近侍・近衛・祭祀補助)は殆どが中臣氏とその被官や忌部氏などによって置き換えられた。唯一残ったのが、宮中楽部職である。
上古の和族バラモン層で残ったのは無論皇家であるが、臣下で宮中に関わる形で残ったのは、平安時代初期には多氏と(陰陽道と賀茂神社の祭礼関係での)賀茂氏・鴨氏と小野氏くらいになっている。
本来の中下位バラモンに代わったのは、中臣氏と忌部氏、そして各地の神社祭祀に従事した社家神職である。地方には、阿蘇氏や鹿島氏の様な多氏系の神職も残った。
◯平安時代以降まで残った鴨氏
鴨氏は、秦氏と共に、早くから山城へ拠点を移した。秦氏が京都盆地西北部と山科及び近江を勢力下に置き、鴨氏は賀茂川沿いに盆地東部に蟠踞した。
両氏は、京都盆地内で、協力的な関係を持っていたと思われる。
秦氏が、大和地域にも勢力を持っていたのに対して、鴨氏は奈良中央政界との距離を置いた事で、藤原氏のバラモン層の敵視と簒奪の害を逃れて、平安時代以降も、神官層として命脈を保った。
だが賀茂(鴨)氏が、その後も一定の勢力を保ち続けたのは何故だろうか?
秦氏の場合は、積極的に藤原氏に接近し、長岡京〜平安京遷都に於いても積極的に下支えをして評価された。だが、政界には進出せず、逆に宗教界を牛耳る事で、永く命脈を保った。(元来は仏教系である“八天稲金”の神社の内、出雲系である天満宮を除けば、全て秦氏系である。また天満宮も、天台宗系寺院である事を思えば、中世後半以降は秦氏系宗教の範囲に呑み込まれてしまった、とも言える。また祇園社も天台系である。)
そういう中、賀茂社は、中世においても、京都盆地東部では、祇園社と並び勢力を保ち続けた。神仏混淆の時代、賀茂社にも神前読経僧はいたが、社の運営は専ら祠官家(社家)が権力を握り続けていたという事は、神仏混淆の進んだ伊勢神宮以上に神職が権威を持っていた、という点では特異である。
一応、雷神であるから厄除けの効験が謳われ、また場所柄、王城鎮護の社と見做されたのである。祇園社が京都の民衆の信仰を集めたのに対し、賀茂社は皇族・貴族(公家)の尊崇を集めた。文学中でも光源氏も賀茂祭の勅使を務めている。通常勅使は近衛中将が任じられた。明治以前は、一般民衆は賀茂祭には関われなかったのである。
賀茂祭が例祭化したのは、欽明朝からだとされ、葵の飾り付けの起源もその時代にあるとされている(神社の縁起)。つまり祭礼と皇家の関係は、平安時代よりはるか以前の上古であると言うのだ。
雄略天皇の即位の年(457年)「騁射(うまゆみ)」を行ったと『書紀』が伝える。5月15日の賀茂祭(今は葵祭)には、文武天皇が「民衆を集めて騎射を禁ず」の記事が『続日本紀』に記されるなど、古い歴史を持つ日本古来の馬術に関わる祭事とされる。正月七日の宮中行事であった「白馬節会(アオウマノセチエ)」も平安時代に白馬になるまでは、青馬(鴨の青い鳥羽に似た毛色の黒色系の馬)が用いられていた。白馬になってもアオウマノセチエという呼称が残った。今は宮中行事でなくなり賀茂社で催すようになったが、賀茂祭での競べ馬や流鏑馬といい、賀茂社には馬に関わる祭事が多い。
また、洛北の大寺である鞍馬寺との間で、鴨川上流の貴船川沿い森林の伐採権を巡る争いにも勝っている。鞍馬の大衆よりも賀茂の神人の方が武力的に勝っていたのだろうか? それ以上に背景に政界の支持があったのだろう。
貴船神社は賀茂社の末社である。
また中世には、地方にも賀茂神社の末社があり、かつそこは恐らく賀茂社の荘園になっていたのだろう。大寺院の様に、皇族や藤原氏の一族が門跡になっていたのでもない賀茂社なのに強勢であり続けた。
一体、この様な強い勢力の源泉はどこにあったのだろうか?
賀茂の祭神のご利益が祇園社の様に劇的であったという話は聞かない。
京の町衆の圧倒的な支持は祇園社の方にあった。
もっとも、古くは賀茂社の祟りがあったというので勅祭神社になったという。
また賀茂社には、葵祭などに勅使が送られたり、嵯峨天皇代に皇女の斎王が置かれたりした。勅使派遣だけなら他の大寺社にもあるが、皇女の斎院は伊勢神宮以外にはない。
勅祭の賀茂神社の社家というだけでなく、賀茂氏は宮中で主殿寮と主水司の官人として、清涼殿周辺の掃除役や天皇の入浴用の湯を用意したり、飲用の水や氷室の管理といった雑役を担っていた。下役ではあるが、主上近く仕えたのだから、信用をされた氏族だったのだろう。
鴨氏及び賀茂社というのは、日本史上の隠しポケットの様な存在に見える。
◯鴨氏の来歴(ルーツ)
Wikipediaなどでは、賀茂氏には3つの系統があるとしている。(しかし、この系統3つという見解は、疑問が多い。)
3つというのは、
①最もよく知られている京都の賀茂神社の社家である鴨氏
→これを天津神系鴨氏(天神系とも)という。
賀茂神社や久我神社の神職家である。“賀茂県主”系 ともいう。
(県主は、国造よりも古い地方首長であるとされる。)
祖神は賀茂建角身命。これは神武天皇の先導をした
八咫烏でもある。
②葛城鴨氏
→国津神系(地祇系)。高鴨の鴨氏。
高鴨神社を斎く。“鴨君”の姓を有する。★
祖神は事代主命、大鴨積命(大賀茂津美命・
大賀茂都美命)。★
更に伝説の大田田根子の同族だという。
つまり三輪祭祀系となる。★
役小角も賀茂役氏だとする人もある。★
中世の陰陽道の賀茂氏はこの系統だという。★
③備前加茂氏
→“鴨直”の姓。吉備真備の同族という伝承がある。
だが、ここは賀茂神社の荘園だったとされるので、 ①の分流か?
しかし備前に賀茂神社が勧請されるより前に加茂氏 が居住していたという話もある。
そういう意味からは②の分流かも知れない。
但し①も、賀茂建角身命が神武天皇を先導した後に、一旦葛城を経由して山城に出たという事になっているようだ。だから、①と②も何処かで錯綜が起こっていると思われる。神名の賀茂建角身命と大賀茂津美命とは酷似している。
つまり(後に山城に移った)賀茂氏が、天孫族とともにヤマトに進出した時に、同族の鴨氏が先行して(饒速日の時代にか?)葛城の高鴨地方に居たという事かも知れない。
息長氏にも出雲族と共に先住していた一族が居たと私は考えたが、それと同じようなものだろうか。
秦氏にも出雲族の三輪王朝時代に先住していた部族があったと思われる。
つまり、月氏の中での和族と出雲族との共通下層バラモンなのかも?と想像する。→だが次の様な、驚きの宝賀氏見解がある。
◯鴨氏は少彦名神の後裔氏族だとする宝賀寿男氏の説
「古代氏族の研究」で著名な宝賀寿男氏のシリーズ本の最終刊第18巻は、「鴨氏・服部氏―少彦名神の後裔諸族」であり、その紹介説明文は、
“「古代氏族の研究」シリーズ最終刊。少彦名神の後裔とされる鴨(加茂)氏、忌部、服部、三野、鳥取、三島、玉造、鏡作、弓削などの同族の中小諸氏を取り上げ、出自やゆかりの人物、神社、苗字などを解説する”
となっている。
この宝賀氏の見解では、鴨氏は少彦名の後裔だという。普通は大国主との関係から見て少彦名も出雲族系だと考えられて来た。だが宝賀氏は元来は天孫族だったとしている。しかも一般には、秦氏であると見られて来た服部氏も同系だというのである。
但し、もし出雲系なら先述の②の高鴨系の鴨氏に相当するのだが、それでも少彦名系の鴨氏が葛城に居たと宝賀氏は見ている。
また、宝賀氏が挙げた忌部氏・三野氏との関係は少彦名神を共通の祖神とするからなのだそうだが、鳥取氏以下諸氏は、先述の③の範疇にも関わってくるのかも知れない。
☆宝賀氏の“鴨氏は少彦名神の後裔氏族の一つだ”という見解について
宝賀氏は、
a)先ず少彦名神は大国主の国造り(出雲の事なのか?)に協力した後、伝承では常世の国に飛来したと言う事になっているが、飛来した先は畿内であり、そこでは別の数々の神名で呼ばれて、(主に畿内の)中小氏族の祖となった、としている。
b)その異名は、(天孫族としては)天日鷲翔矢命。(鴨氏の祖)鴨健角身命。(三島氏ほかの祖神)三島溝咋耳命。(その他の氏族の祖神として)陶津耳命、天湯津彦命、思兼神、大加奈止美命、天見通命、多祁美加加命、斎主神、経津主神、大山咋命?
→※コリャ、少彦名というより多彦名である!
なお少彦名神の兄神は天御影命(天目一箇命、天夷鳥命ほかの別名)で、妹神に息長大姫大目命(天日矛の妻神)と天細女命(穂高見命の妻)がいるともしている。
※兄神を大国主とする異説もある。
c)そしてその(異名の少彦名かまたはその子神かが)カミヤマトイワレヒコ(即ち神武天皇)の大和入りを(葛城の鴨にいた頃?)手助けをした事で、八咫烏と称されるようになった。八咫烏というのは、どうやら天孫族には鳥類をトーテムとする部族が多かった為である、とする。
d)その内賀茂氏については、少彦名が出雲にいた事で出雲にも賀茂神社があり分族が居たらしい。しかし元来は天孫族の係累として、一旦北九州に渡来し、その後に出雲に行ったと見ているようだ。つまり少彦名は元々出雲族ではなく天孫族なので、神武の東征を支援したという事らしい。
e)その後、少彦名の後裔の鴨氏族の系統は、一旦木津川の加茂に滞在後、川沿いに、葛野川(桂川)と叡山西麓(後の愛宕郡)を流れ下る川(つまり賀茂氏が移住後は賀茂川と呼ばれる川)の合流点を経由して、現在の上下賀茂の地に落ち着いた、としている。
※cにある八咫烏が、結局少彦名神の事になるようなので、
八咫烏は鴨健角身命だけでなく、三島溝咋耳命でもある(b)というようにもなって来るようなのだ。
従って、宝賀氏の見解については、“そも少彦名神が、九州→出雲→畿内と移動して来て、多数の中小氏族の祖になった;それはそれぞれの氏族の祖神として多数の異名で呼ばれている”という仮説を肯定できるかどうかによって評価が分かれる。
更に、天孫族の王朝は神武〜景行・成務・仲哀で終了し、少彦名の11代後裔である品遅別が、成務天皇の皇女達と婚姻した事で大和王朝を簒奪して応神天皇となった、との見解を宝賀氏は持っているようだ。
応神が仲哀の皇子ではなく、そこで王朝交替があった事は、かなり常識化しているが、応神を少彦名神の後裔としているのには驚いた。また品遅別は記紀では垂仁皇子であり、誉田別(品陀別と書かれる事もあるが)=応神とは別の人格の筈だが、宝賀氏はこれを同人と見做しているのか?
ともあれ、少彦名神は神功皇后東征の後、淡島神社に祀られたので、畿内に無縁だとも言い切れない。しかし、その神が、どのようにして、そうも多数の氏族の祖に成り得たのか?ほとんど同族とは思われない氏族である。
婚姻を重ねたのか、遍歴を重ねたというのか?
「これらの多数の神々を祖神にする各氏族は、神名が異なるので、自分達は同族だと思えなくなって行ったのだ」とも説明されている。
宝賀氏は自らの新撰姓氏録や神社の縁起やその他の古伝類を渉猟した結果でそういう見解に達したという事のようなのだが、私には(例えそれらの異名の内、幾つかが本当に同神異名だとしても)それらが少彦名神に統合されるという根拠が確実なものだと信じる事はできそうもないのである。
しかも、宝賀氏は、素戔嗚命は角凝魂命が本来の名で五十猛神もその別名であり、高皇産霊神はその子神、天照大神は孫神(別名が天活玉命)だとする。
従って素戔嗚命系も天孫族になるらしい。とすると、大国主は素戔嗚命の子孫ではなく在来地方神(国津神)の一つになる様だ。
従ってどうも宝賀氏には出雲族が先住していた渡来系だという観念は希薄なようである。かなり独特の古代史観だと言えよう。
また宝賀氏の見解では、元の葛城の高鴨にいた鴨氏は山代に遷住し、その後の地に入り込んだのが賀茂君一族で事代主を祖神とするものであり、上記の②の内の★を付けた賀茂族はこの系統であり、役小角の役氏や平安時代に陰陽家となった賀茂氏はその系統の出自だとしている。
従って、ここでは、かかる見解もあるという事を押さえて論考を進める。
◯鴨氏と少彦名神に関係があるのか?
さりながら、鴨氏と少彦名神を結びつける縁を、上賀茂神社の縁起や行事で探しても私には容易には見つけられない。
僅かに、末社の一つに鎮守社という名があり、祭神は大国主神・少彦名神とされているのみである。摂社末社は多数あり、その一つにしか過ぎない。
(賀茂川対岸には、上古に出雲郷という名があった様なので、その2神は地主神として祀られているのかも知れない。)
摂社の最後に須波神社という聞き慣れぬ社名があったので、よもやと思ったが、これは阿須波神=足羽氏の斎く神で、東国の市原にも同名の神社がありこちらは万葉集の防人歌で有名である。
「庭中の 阿須波の神に 小柴さし あれ(吾)は斎はむ 帰り来までに」
(庭の中の阿須波の神に小柴を挿し、私は身を清めて祈りましょう。 あなたが無事に帰って来られるように。)
---------– 『万葉集』巻二十・防人の歌 –
※小柴は玉串のようなバルソム(聖樹枝)であろう。
更級日記の菅原孝標娘もこの神社に詣でて旅に出たと言うので、旅行の無事を祈る歌枕になっている。
足羽とは足羽川の名が残る様に越前の氏名である。
この阿須波とは大彦の子孫を称する足羽氏のことだとされる。“越前国からはるばる上総国までやってきたので、旅の神とされたのではないか”と言う人がいるが、あくまでも想像の域を出ない。
そも大彦の実在性は希薄だからである。
そして本家と思われる越前の足羽神社の祭神はと見ると、主祭神は男大迹王つまり継体天皇である。その継体が宮中にも祀られていると言う地神である「大宮地之霊(坐摩神)」を勧請し治水事業の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされている。
縁起によれば、〈別称〉坐摩神(いかすりのかみ)は以下の五柱の神の総称である。
・生井神 (いくいのかみ)
・福井神 (さくいのかみ)
・綱長井神 (つながいのかみ)
・阿須波神 (あすはのかみ)
・波比岐神 (はひきのかみ)
※これらが宮中に祀られているので勧請したというが、実際は男大迹王が天皇となってから、逆に足羽の地から宮中に勧請したのであろう。
五柱それぞれの神の神威は別々だが、阿須波神はこちらでも旅の無事を祈る神だとされる。
些か気になるのは、足羽神社の境内社にも少彦名神が祀られている事だ。
少彦名命の霊験は、医薬の神であるが、海の向こうから来迎しかつ(国造りに協力した後)常世の国に飛去った事になっているので、旅の神であるとされるのかも?とは考えられる。
しかしこれだけでは、賀茂神社の神の何たるか?=つまりは鴨氏の由来にしかと繋がるものは乏しい。少彦名との関係も濃いとは言えない。
◯注目すべきは久我神社
だが、ここで注目は、以前も天孫族考で言及した様に、摂社の一つ=境外社の久我神社の存在である。“式内社、山城国愛宕郡久我神社”がそれである。
但しこの久我神社(今の京都市北区紫竹下竹殿町)は、有名な桂川下流の伏見区の久我神社とは別の神社であるが、祭神は共に賀茂建角身命(下鴨神社の祭神で、鴨氏の祖であるとされる:賀茂御祖神)である。
そちら(紫竹の久我神社)の由緒書は次の様になっている。
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京都府京都市北区紫竹下竹殿町に鎮座する式内社で、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、江戸時代以前は「氏神社」・「大宮」と称していました。一説には賀茂別雷神社が朝廷の崇敬を受け、国家的な神社としての性格を帯びるようになったため、賀茂氏が別に祖神を祀って一族の私的な祭祀の社として創建したのではないかとも言われています。
『山城国風土記』逸文には、賀茂建角身命は大和の葛城山から山城国の岡田(現在の京都府木津川市加茂町/「岡田鴨神社」が鎮座する)を経由し、木津川を遡って桂川と鴨川の合流地を経て「久我国の北の山基」に鎮まったとあります。この「久我国の北の山基」とは賀茂別雷神社付近の地を指すと思われますが、そこを中心に広く「久我」と称した可能性もあります。(☆)
また、桂川と鴨川の合流地には当社とは別に式内社の「久我神社」が鎮座しています。そちらの久我神社の由緒は諸説ありますが、賀茂氏が創建したとする説もあります。
どのような経緯があったのかは不明ですが、いずれにしても「久我」なる地名は京都盆地における賀茂氏の定着の原点とも言えそうです。
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☆この解説は、「久我」が“日下=日ノ本”だということが分かっていない為に、半知半解になってしまうのだ。
しかし、上述の由緒にある“桂川と鴨川の合流地を経て”との伝承通り、伏見の(山城国乙訓郡久我の)久我神社こそが、元来の山代の久我神社であった事は、天孫族考で論考した通りである。
久我は天孫族の祭日壇である日下(草香)の事であり、恐らく山代の久我は、長岡京遷都の時に、祭日壇として意識されたものであろう。周囲に樹木の多かった事で「森の宮」と呼ばれたが、ここは醍醐山頂から迎日する聖地なのである。(というより、この久我がある事を勘案して、その西側に長岡京が設営されたというべきだろうか?)
後世この近くにあった屋敷を拠点にした事で、村上源氏の主要な一族が、久我源氏と呼称し久我氏を名乗ったのは有名である。
そこで、その本来の山代の乙訓郡の久我神社の由緒書の方を見てみよう。
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京都府京都市伏見区久我森の宮町に鎮座する式内社です。久我と書いて「コガ」と読みます。
当社の創建については以下のようにいくつかの説があります。
1、桓武天皇により長岡京に遷都した際に王城の艮の守護神として鎮座した。
当地を拠点とした氏族である久我氏(村上源氏の久我家とは別)が祖神である「興我萬代継神」を祀って創建した。
2、賀茂氏が大和から木津川を経て当地「久我国」に祖神を祀ったのが当社で、後に鴨川を北上して今の「賀茂御祖神社」「賀茂別雷神社」を創建した。
この内1について、「興我萬代継神」なる神については『三代実録』貞観八年および貞観十六年に見える神で、一説にこれが当社を指すとも未知の国史現在社とも言われています。ただしこの神が久我氏の祖神であるとする資料は見当たりません。
3、一方、『先代旧事本紀』には饒速日尊の降臨の際に随伴した神々の中に「天神立命(山代久我直等の祖。天背男命とも)」と「天世乎命(久我直等の祖)」がいたことが記されています。両者は別系統のようですが、当社の境内社の「歯神社」に「天神立命」が祀られていることから、当社を創建したという久我氏は前者である可能性が考えられそうです。
また2については『山城国風土記』逸文における賀茂社の鎮座伝承を前提としています。
『山城国風土記』逸文(大意)
日向の曽の峯に天下った賀茂建角身命は神日本磐余彦の御前に立ち、大和の葛城山の峯に宿り、そこから遷って山城国の岡田の賀茂に至り、木津川に沿って下り、桂川と鴨川の合流するところに至って鴨川を見まわして言うには「小さいが石川の清川(スミカワ)である」と。これによって「石川の瀬見の小川」と名付けられた。
その川から上って久我国の北の山基に鎮まり、その時から賀茂と名付けられた。
葛城山に天下った賀茂建角身命は木津川と鴨川を経由して現在の賀茂御祖神社・賀茂別雷神社に鎮まったことが記されています。その途中、桂川と鴨川の合流するところ、即ち当地付近に至ったことが記されており、これに関連して当社が創建されたことは考えられるかもしれません。その前に至った「山城国の岡田の賀茂」についてはこの伝承を前提とする木津川市加茂町北に式内社「岡田鴨神社」が鎮座しており、一方の当地でも同様に神社が創建されたことは考えられることでしょう。
事実、現在の御祭神は「建角身命」「玉依比売命」「別雷神」であり、賀茂系の神社として祀られています。
ただし『山城国風土記』の記述を素直に読めば、「久我国の北の山基」は鴨川を遡ったところで、賀茂社の鎮座する地を指すと理解するのが自然です。また賀茂別雷神社の境外摂社に同名の式内社「久我神社」があり、『山城国風土記』に見える「久我国」がどの範囲を指していたのか疑問があります。
このようにいくつかの説が考えられますが、例えば久我氏が祖神を祀っていたところ、当地を重要な拠点とした賀茂氏が新たに祖神を祀って、久我氏の祖神である天神立命は境内の隅へ追いやられ、さらに後に長岡京遷都の際に王城鎮護の神として崇敬を受けるようになった、などと複合的な歴史を考えることもできるでしょう。(現在の案内板はこのような筋書きで書かれている)いずれにせよ京都近辺でも有数の古い歴史がありそうです。
本殿の左側(西側)に二棟の境内社が覆屋に納められています。手前から「稲荷神社」、「春日神社」です。
本殿の右側(東側)には三棟の境内社が覆屋に納められています。手前から「清正公社」、「八幡宮」、「天満宮」です。
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と、こちらも、一知半解の解釈になっている。
つまり久我源氏以前の、山代久我氏(久我直など)は、ここが久我だった為に、地名氏として久我を名乗ったのであろう。興我萬代継神はその祖神か。
(久我氏が居たから久我では無い!その逆なのだ。)
一方、伏見の久我神社の摂社に春日神社があるというのは、九州王朝〜河内王朝に於いては、斎日壇(日下=草香=久我)の斎官は春日氏であり、鴨氏はその助祭職を務めていた事の名残であろうと考えられる。
桂川下流の久我に至る前の山城岡田の加茂は、三笠山界隈を一根拠地とした春日氏のテリトリーなので、こちらも春日氏配下の賀茂氏だろうと思われる。
どうやら、後世の錯綜があるが、先住していた葛城の鴨氏と、春日氏と共に応神東征後に近畿入りした賀茂氏の2系統があるのだろう。
河内王朝の東征時に、春日氏(和邇氏)の水軍は、日本海〜氷上水界経由で播磨に出現し、神功皇后の中央軍と合流。その後春日水軍は淀川〜木津川水系を遡上して、後の奈良坂側からヤマト入りしたのだろう。
この地域に春日氏の影響が残り、後世、小野氏や粟田氏などの和邇系氏族の根拠地があったのは、その為だと考えるのである。
三輪王朝時代から先住していた鴨氏については、以下の考察も参照する。
◯葛城の一言主神と鴨氏
更に、葛城の高鴨神社については、一言主神に結びつける一説がある。
Lumi氏という人がネット上に、高知の土佐神社の祭神について以下のように
見解を述べている。分かり易いので引用させて頂く。
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参照→ http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo24.htm
賀茂探求(24)一言主神について
written by Lumi on 00/05/06 23:02.
私が味鋤高彦根神が葛城と関わりの深い神ということに気づくきっかけにな ったのは一言主神に関する一件でした。
一言主神は味鋤高彦根神とともに高知県の土佐神社に祀られていますが、この事情について、示唆する文献を下記にまとめて引きます。
「古事記」雄略天皇の項 天皇が葛城山に登った時、天皇の一行と同じ程度の人数、同じ程度の衣 装・装備の一行と出会った。天皇が「この国に私の他に大王はいないのに私と同じような格好はするのは誰だ?」というと、向こうも同様のことを言い返して来た。
怒った天皇は部下に矢をつがえさせると、向こうも矢をつがえた。
そこで天皇が「まずお互いに名を名乗ろうではないか。戦うのはそれからでいい」というと「私が先に聞かれたから先に名を名乗ろう。私は善いことも悪いことも一言で言う神、一言主神である」と言った。
天皇は畏まって、自分達の着ていた衣服や武器を全て一言主神に献上した。神はそれを受け取り、天皇の一行が山から降りる時は丁寧に送ってくれた。葛城の一言主神はこの時初めて示現なさったのである。
「日本書紀」雄略天皇の巻 天皇が葛城山に狩りに行ったとき、長身の天皇とよく似た人と出会った。
天皇が「どちらの君ですか?」と訊ねると「私は神である。先にあなたが名乗りなさい」というので、天皇が「幼武尊と申します」と答えると 「自分は一言主神である」といい、天皇と神は一緒に狩りを楽しんだ。
「日本霊異記 」役の行者が葛城の峰と吉野の金峰山との間に橋を架けようと考え、葛城の一言主神に仕事をさせた。すると一言主神はあまりにこき使われるのでこれを嫌がり、天皇に「小角は謀反を企てている」と讒言した。
そのため小角は伊豆に流された。
※続日本紀の文武天皇3年5月24日の記事では讒言したのは韓国連広足になっている。だが広足は役行者の弟子であったと書かれている。
「土佐国風土記逸文 」
次の文書にも引用されているので略
「続日本紀」称徳天皇
次の文書にも引用されているので略
土佐国式社考/谷泰山著(1705)
「延喜式・都佐坐神社」これは当国の一の宮であり、いわゆる高賀茂大明神である。八頭花鏡を御神体とする。
土佐国風土記にこう書いてある。『土佐郡に土佐高賀茂大社がある。その神名は一言主尊である。重遠が按ずるに、旧事紀に素戔嗚尊の子なりという。一説には大穴六道尊(大国主神)の子の味鋤高彦根尊ともいう』
「続日本紀」にはこう書いてある。高野の天皇(称徳天皇)の天平宝字八年 (764)、法臣円興、その弟の中衛将監従五位下、賀茂朝臣田守等言う、 昔、大泊瀬の天皇(雄略天皇)葛木山にて狩りをする時老夫があった。しばしば天皇と獲物を獲り争った。天皇はこれを怒って、その人を土佐国に流した。先祖の主神が老夫に化成していたのを放逐したのである。これが高鴨神である。
結局のところ、同じエピソードが、最初古事記の記述では一言主に対して天皇が畏まっているのに対して、日本書紀の記事では同格になっており、続日本紀では天皇が一言主を流罪にしたことになっています。時代とともに葛城の一族の地位が低下していったと解釈する人もあります。
ともかくも上記続日本紀の記述の続きでは、その雄略天皇の御代に流罪にな っていた一言主神を葛城に戻すことを許したことになっています。そして、土佐神社には引き続きその和魂(にぎみたま)が祀られることになります。
この一言主神の出自について、旧事本紀は、素戔嗚神の子供で、大国主神・ 大年神・稲倉魂(うかのみたまのかみ、お稲荷さん)らの兄弟であるとしています。古事記では一言主神は雄略天皇の所まで出てこず、大国主神は素戔嗚尊の五世の孫になっています。
土佐神社ではこの付近の伝承が入り乱れて、一言主神と味鋤高彦根神は同じ神であるという説も出ているようですが、やはりそれは混乱というものでしょう。伴信友は「瀬見小河」の中で土佐神社の御祭神を味鋤高彦根神とするのは「高鴨」という名前につられた誤謬であり、この神社の御祭神はやはり 一言主神ただ一座であろうと推定しています。
私は、一言主神は味鋤高彦根神よりもむしろ事代主神にゆかりの深い神、ひょっとしたらその別魂かも知れない、という気がしています。
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この方の分析にあるように、どうやら一言主神は、出雲族系(即ち雄略とは別の先王朝である三輪王朝系)の神のようである。
この事からは、やはり葛城の鴨には、三輪王朝時代から鴨氏の一族の根拠地があったのではないかかとの想像を呼ぶ。
私見では、“応神軍団(実際は日之下建=武内宿禰と神功皇后の九州王朝の東征軍)がヤマト入りした時に、盆地西南部(後に葛城氏が駐留したので葛城の名になった西南部山縁部地域)にいた先住鴨氏が、東征軍の先導役を務めて(これが八咫烏伝説になった。また三輪王朝の王家の一族だった物部氏も東征軍側に寝返り)、寝返り氏族は新王朝でも存続を許された”のであり、これら諸氏族は天孫族の先鋒隊としての饒速日伝説を仕立て上げたのだろう。
(寝返り氏族の姓は連、もしくは直である。但し和族陪臣の連もいるのではあるが。)
ところで応神を擁した神功皇后+武内宿禰の東征軍の先導をしたにせよ鴨氏が何故八咫烏に準えられたのであろうか?私見だが、この時の鴨氏は後に烏帽子と呼ばれる事になった黒い先端が窄まった頭頂帽を被っていたからではないだろうか。先の天孫族考補遺で、大陸から渡来した月氏系部族は帽子を被っていたという仮説を出した。恐らく武内宿禰などは古墳の埴輪などに見られるような長頭円頂帽を被り、多氏の水軍や大伴氏の陸戦隊もそれぞれ何らかの帽子を被っていたが、それらは古代西域人(胡人)が被っていた様な;必ずしも黒ではない帽子だったと想像される。その中で鴨の羽色にも似た黒の尖帽は目を引いたと思われる。これを見て東征軍は、聖鳥八咫烏の化身と思ったのではなかろうか?
前述宝賀氏の著書にあった注目点は、鴨氏の同族に神直氏がいて、この“神”はカモと読むという指摘である。鴨氏には、土師氏の一族との関わりがある様なので、その名の鳥の名を称するのは、往古に葬送儀礼に拘ったからではないか?(鳥があの世との橋渡しをするという観念は色々な民族に存在するものだから)と考えた事がある。飛鳥時代以降仏教が普及して、葬儀にも仏教的な考え方が入って来て、平安時代には鴨氏の葬送儀礼に関わる役割は無くなったのだろうかと。賀茂川水系の八瀬童子が天皇の葬送に関わるのは過去に鴨氏の関係があった事を暗示しているのでは無いか?とも考えたのである。
しかし宝賀氏の指摘の様に、神→鴨という転形なら、鴨氏が神祭に関わる事の原点を想像出来る。
つまり出雲系王朝(三輪王朝、大倭)でも高鴨氏は祭祀氏族の列にあったということかも知れない。そして、日下(久我)の祭祀の神主である春日氏の助祭として、天孫族九州王朝(応神系河内王朝、和族)とともに畿内入りした後住の賀茂氏が、先住の鴨氏と混淆して、平安時代以降の賀茂・鴨体制に落ち着いたとも考えられるのだ。即ち鴨氏は元来下層のバラモン階層であり黄牛族の出雲系王朝に随従したバラモンも神(鴨)氏だったのかも知れない。
この事からは同様の黄牛族クシャトリアの建国した新羅などでも祭祀氏族に鴨氏の同族がいた可能性を想像させる。だが新羅の上古の祭祀は、新羅が本邦より早く仏教化した為に、伝わっていない。ただ韓民族の神聖空間の蘇塗に立てられた柱に鳥の留まっている鳥杆が、その鴨氏の古代祭祀を伝来しているのかも?とは言えないだろうか。
また宝賀氏は、三輪王朝時代の三野の国造に神骨氏がいたといい、この神骨とは鴨大根の事であり、神骨氏も鴨族だとしている。しかしこの氏族の始祖の神骨命と鴨氏の祖神である賀茂建角身命の名を比較してみると、建=武は美称であり(恐らく八咫烏と呼ばれて東征軍の先導をした事に因む)中身は賀茂角身である。骨と角身は実は同じで、黄牛族(出雲族)の聖獣である牛の頭の角を意味していると私は考える。北近江の黄牛谷という地名の谷間では牛を供犧にした祭礼が行われていた形跡がある。その近隣に根拠を持つ息長氏が祭祀したものとされて来た。
神骨とは“聖なる牛角”の表現であろう。即ちこの鴨氏族系統の神骨=鴨角身=賀茂角身であり、鴨系の同族であろうと私も首肯する。往古には鴨系氏族が摂津〜三野(美濃)辺りまで散住していたのだろう。
応神朝以降の河内王朝の時代に、東海道筋の三輪王朝系部族を征略したのは多氏系の水陸の軍団だった。美濃も飛鳥時代までにはすっかり多氏系になり地名には多氏に因む美濃太田や美濃大野の名が残っている。宝賀氏が三野鴨族の根拠地の一つだとしている安八郡なども、大海人皇子が壬辰の乱の時には、多品治が軍兵を集める土地柄になっていた。
その様に考えれば、春日氏と賀茂氏が桂川下流の久我に来た時に、既に後世の上賀茂の地の対岸の出雲郷には山代の鴨氏が先住していて、結局貴船川と高野川の合流点に賀茂・鴨両氏が同族関係を確認して拠点を確保して今に至った、と解釈出来るのでは無いだろうか?
また鴨氏が何故葛城から山背へ遷住したのか?については従来あまり触れられて来なかった。この理由を考究してみたが、確たる証拠は無いものの私見では、壬申の乱の際に鴨氏が日和見していたからではないだろうか。
或いは、近江朝廷で多氏に代わって宮廷祭儀に関わっていたのかも知れぬ。
鴨氏の凋落に代わって飛鳥浄御原〜藤原京・平城京の時代に抬頭したのが忌部首である。忌部氏は、壬申の乱の際に、大和古京の争奪戦で大海人軍の将軍であった大伴吹負に忌部子人・色弗(色夫知)兄弟が参軍した事で急速に取り立てられたのである。宝賀氏に依れば忌部氏も鴨系氏族だと云うが、私には同族ではなく、鴨氏の祭祀の下働きをする使部でしかなかったと思う。
忌部首は、宮中祭祀に必要な物資祭具を専門の職人部(それらは元来は秦氏の一部族)から調達する業務の統括を担っていたのだろうと思う。バラモン階層で言えば、大神官(神主=大禰宜)が春日氏・禰宜が多氏、祝が賀茂氏、雑掌が忌部という階級構成だったと考える。だが賀茂氏が壬申の乱後に欠落したので、忌部が下剋上したのだ。天武・持統系朝廷では忌部の活躍が目立つ。この頃丁度秦氏も河勝の後、太秦の勢威が衰えて、地方の祭具を調製する職人を秦部から引き抜いて忌部に変える事が出来た思われる。
(しかし天智系の桓武の時代になると、山城に先住していた鴨氏が復権する。そして忌部の活躍は平安朝時代に衰微してしまう。これは忌部が中臣氏とも対抗する姿勢を持った事で、藤原氏から忌避されたからでもあるだろう。)
神功皇后の(開化〜垂仁王朝の最後の王者だった)忍熊王の抵抗を鎮圧するのに、過去の天孫族考で論述した様に、和邇系(つまり春日氏系)水軍が、氷上の水界の江を渡って畿内に出現して戦いに決定的な役割を果たしたというのだが、その氷上郡は近世に至るまで春日の里と呼ばれて、春日氏の根拠地だと認識されていた。その氷上にも賀茂郷があるのだ。
春日氏が賀茂氏を随伴したというのは、この両氏の緊密な関係を示すものだ。
さらに、その“忍熊の反乱”に神直氏も加担していたという伝承もあるらしい。
だから先住の神氏が摂津〜山背に蟠踞していて、応神朝になってから神の名を憚って鴨に改名した可能性はあるだろう。そも鴨と言いながら、賀茂氏には鳥の鴨を暗示するアイコンは無いのである。その代わりに各地の賀茂神社や久我神社は共通に八咫烏をアイコンにしている。
一方韓民族の蘇塗の立柱祭祀の鳥杆に留まる鳥型は鴨に見える。この観念の流れからは鴨は神聖な鳥なのである。神鳥という点は八咫烏も図像学的には共通の性格を有する。
◯間人連
また宝賀氏によれば、鴨氏同族に山背国を本拠地とした間人連(間人宿禰)氏が居たという。この事で連想したのは、神(鴨)氏もまた広義の“間人”ではあるまいか?という事である。
和族のバラモンでは、春日氏や多氏が古くは仲ツ臣と呼ばれた事を大和岩雄氏が考究されていた。仲ツ臣とは神と人との間を取り持つ役割の臣との意味であるが、後世中臣と改名した元は卜部氏(後の藤原氏)が、その役割だけでなく、氏神までも含めて簒奪したのである。
一方、こうして鴨氏の来歴を辿ってみると、賀茂氏・鴨氏は古くは神氏であり、和族の中下層バラモンだっただけでなく、黄牛族(出雲族)のバラモンでもあった可能性があり、その役割が仲ツ臣と同様に神と人との間を取り持つ役だったから、その役割を称して“間人”と言ったのかもしれないと気付かされた。
更に鴨氏が秦氏とも密接な関係を持っていた様なので、鴨氏は下層バラモンとして、和族(天孫族)・黄牛族(出雲族)・白馬族(秦氏)の3氏族(私の云う天山三族、即ち月氏三族)の何処とも神人の仲介者たる間人として係わりを持っていたのかも知れない。この事こそが、鴨氏が三本足を持つ八咫烏であると主張する事に繋がっているのではないだろうか。
◯皇家が賀茂社を尊崇する所以はどこにあるのか?
先述したように、桓武朝では鴨氏が(忌部に代わって)復権した。
皇家が賀茂社を尊崇するというのは、詰まる処、賀茂の神が八咫烏だった事に行き着くのではないだろうか?
天孫族考の中で、私見として、「八咫烏は大陸で日神の遣い鳥だとするが、月氏ではその三本の脚が、龢族(バラモン=和族)・黄牛族(クシャトリヤ=出雲族)・白馬族(バイシャ=秦氏)の3部族を象徴するものだ」と述べた。
八咫烏は賀茂神社の祭神のアバターである。(神紋は二つ葵葉。これはもしかすると、葛城の鴨と山城の賀茂の2系を暗示するのかも知れぬ。因みに上下賀茂社は、上賀茂神社と下鴨神社と表記するのが正しいとされる。
なお、下社が賀茂御祖と言うので、こちらが元来の賀茂社であり、上社は下社の賀茂建角身命の娘神である活玉依姫が丹塗矢に化身した男神に感精して産んだ賀茂別雷神を祀る。男神は日吉大社と松尾神社に祀られている大山咋神だとの伝説がある。)
そして摂社には久我神社がある。久我神社の神紋も八咫烏である。
だが久我神社こそ日下神社であり、九州王朝と河内王朝つまり日之下国の祭日壇なのである。
日下=久我/古賀を中国人が音訳したのが、狗奴國である。中国には鼻濁音が無いので、ク・カ゜(ガの鼻濁音、nga)をク・ヌ(nu)と聞いたのである。
実は、春日氏が衰微した後、鴨氏が山代の久我神社を護持し続けた事も、鴨氏の勢威の隠れた源泉になっていたのでは無いだろうか?
桓武朝以降に日下=久我信仰が薄れて、代わりに平安京の太陽信仰は比叡山とその西麓の賀茂神社にとって変わられたとも考えられる。比叡山は秦氏系であり、賀茂氏はその秦氏と婚姻関係も含めて仲の良い間柄だった。比叡山
信仰から派生した日吉神社の祝は賀茂氏系の祝部氏が担って来た。
河内王朝応神王統〜継体統の日下は、河内の日下(草香)→明日香(明日下)→平城京春日→山城久我へと移動して行ったと考えられるが、仏教の普及後は主に大日如来の信奉に代わって行った。
和族の伝統が急速に薄れたのは称徳女帝の時代である。この頃は宮廷も含め信仰は仏教一色となる。和族の伝統を忘れさせたのは、元来和族(天孫族)では無かった藤原氏の意識操作もあっての事だと考えられる。
神道から仏教への遷化は平安朝時代にも推進される。これは支配者側では藤原氏が、そしてそれと連携した秦氏系の僧侶側(最澄や空海)によって強力に形而上・下で進行する。修験道の成立によって、仏教が神道を圧倒したのは、結果的には藤原氏にもマイナスでは無かった。
[補説]鴨氏の氏名について
先述では、鴨氏は元は神氏であり、憚って鴨氏と改名したのだろうとの推理を述べた。祭儀に関わるのだから“神”氏だろうという意味合いである。しかし幾ら神祭に関わる氏族だとは言え、春日氏や多氏といった上司に対して憚る事は無かったのだろうか?と改めて考えるうちに別の事に思い至った。
私は九州王朝でも、鴨氏に当たる部族は中下層の神職だったろうと推理したのだが、そう言えば、日神祭祀の下働きに奉仕した日下部はまた鴨系だという説がある。日神祭祀の下働きには日下部のほか日置部とか日奉部とか複数の部民がいた。
一方律令の神祇伯の下僚には神部(カンモリノツカサ=神守司)があった。平安朝になってからは神部には中臣と忌部が人を出している。
神守とは、上古の宮廷職制の古名で、主殿(トノモリ)とか主水(モンドリ)・掃部(カニモリ)とか言ったのと同様である。春日氏の下で神守を務めていたのが、神守(カンモリ)氏でカンモ→カモと転訛したのでは無いだろうか。神守なら職掌名だから憚るも何も無いのである。
※神部をカントモノベ=神品部と読むこともあるが、これは後名で、掃部がカニモリ(カモン)であって、この古名は豊玉姫の海岸の鸕鷀草葺に関わる神話から出た“蟹からの守り”=蟹守から来ているのであるが、蟹守部でなく掃部と書いてカニモリと読ませていることと同様である。
更に注目すべきは、平城京宮跡から出土した木簡には、複数の氏族名を列挙した物があり、その中に鴨氏を「鴨祢疑」と記した物があった。祢疑は後世の表記では祢宜であり神官の事である。だが他の氏族は、連や忌寸などと書かれているので、鴨氏の“祢疑”は姓の扱いになっていると知る事が出来る。つまり鴨氏はやはり神守の専従氏族だというのであろう。
同じ木簡に、高向調という表記があり、これは漢人の高向氏であるが、高向氏の姓は、村主や使主だが調使(略して調、租庸調の調を運送する役職)という役名も姓として使われた様なので、鴨祢疑も同様である。
「鴨はネギを背負っている」というのはここに由来するのだと分かる。
◉追記
私見では、日本民族と八咫烏の関わりは、月氏がヒマラヤ北麓にいた頃に起源を持ち、その後小月氏が東遷して遼の地に辰国を建てた時に、固定化したたアイコンではないかと示唆して来た。辰国は私のいう天山三族の日辰・北辰・月辰の三辰を奉斎する国体であり、その象徴が八咫烏の三本脚だったのだと推理する。