補遺28追論「三島神社と三島鴨族」
補遺28追論「三島神社と三島鴨族」
◯三島鴨神社と三三島神社
三島神社という名の神社は全国に数千あるが、その内
①伊予大三島の大山祇神社、②伊豆国府三島の三島大社、③摂津島下郡(高槻)の三島鴨神社の3社を“三三島神社”という。
この内、②の伊豆三島大社は、現在は内陸の(今は三島市)田方郡にあるが、元は伊豆半島南部の海辺にある賀茂郡(推定では下田市近辺) にあったとされ、伊豆七島を指す御島に因むともいうが、海人系の神社であり、大山祇が祭神である事からも、①の系列だとされて来た。
しかしその旧存在地が賀茂郡であるからには、鴨氏にも関わりがあるとの推測もされ、③との関連を指摘する人もある。
もっとも、③の祭神は大山祇と鴨事代主神なので、鴨氏が祀る大山祇神社と言うことになる。
本来的には、海人族系の大山祇と、出雲族系の事代主では、系統が異なる筈なのに、両系が③では交錯しているのが興味深い。
天孫族考補遺28「鴨(賀茂)氏の謎」で言及した様に、葛城の鴨氏と同所の一言主神に接点がある事が想像されるのだが、この一言主神というのが、事代主(辞代主とも書く)と同じ神であるとの説を唱える人がいる。
国譲りの神話では、大国主に国譲りを勧めたのが事代主で、抗戦派が建御名方だとされている。
神武東征神話で九州軍の道案内をして八咫烏と言われたのが鴨氏だが、その葛城の鴨氏が一言主=事代主を斎くというのは、天孫族と鴨氏の関係に重なってくる。
③の三島鴨神社で(鴨族に近いと思われる)三島溝咋氏が、事代主を祀るというのは、葛城の鴨氏との相似性を感じさせる。
淀川水系の支流である安威川の湿原に位置する摂津の三島は、当然淀川を経由して浪速の海や瀬戸内海に舟運で繋がる。(三島江との地名もある。)
この地域は、前掲の補遺28でも指摘した様に、神功皇后の東征の際に、日本海から氷上の水界経由で攻め込んだ北路軍の春日氏(和邇氏)系の水軍の進出路であり、従って京都伏見の久我神社の位置に山城の“日下”も設けられ、恐らくその斎官を春日氏の使臣である賀茂氏が務めたと思われる。
この侵出路もまた葛城の鴨氏系統の先住の鴨族が、後来の賀茂氏に協力したとすれば、そこで九州の北岸の和邇氏の水軍と共に来寇した伊予の海人族(その祀る祖神が大伊予海人津見oo-iyo-amazumi =大山祇)との混住の結果、事代主と大山祇の共祭が生じたものかと考えられる。
②の伊豆の三島大社も①の大三島大山祇神社も、ともに中世には修験者の管掌する寺(別当寺)の支配下にあったので、海山伏の思想の影響下にあり、そこでは大山祇が主な海神と見做されたので、①と②はそういう観念のバイアスによって変調された部分を共有する可能性がある。
また②の伊豆の三島神社の旧跡は、東国経略の東海道軍であった多氏水軍(春日氏の同族)の経由地であり、大之浦(遠江国府)〜小田原〜常陸の中継港も置かれた土地柄である。
またこの賀茂郡の三島神社は御島であり、神津島に祀られている物忌奈命が本来の祭神とする説がある。島の郷土紹介には次の様にある。
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物忌奈命神社について
927年に略完成した延喜式神名帳に掲載された式内・名神大社です。当社ご祭神の母神を奉る阿波命神社と共に現在の部下に於いて名神大社は当地の二社のみです。物忌奈命は事代主と女神阿波命の子神だとされます。
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しかし阿波命の名が示す様に、この神は阿波忌部が伊豆や安房に進出してからのものであり、東国進出は多氏の方が早かった筈なので、私はこの三島=御島=神津島(或いは伊豆七島の何れか)という説は採らない。
◯三島溝咋一族と神武天皇の皇后伝承
さて、三三島神社の相互関係は上述の如きものなのだが、ここで最大の関心事は、その摂津三島に蟠踞した鴨氏同族と思える三島溝咋一族が、神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴媛命を出したという伝承が何を意味するのか?という疑問である。
神話上の皇統譜は神武の婚姻を通じて、五十鈴姫の祖神である事代主神という出雲族系の神統譜に繋がるのである。
実際の天孫族の東征の結果成立した新王朝の応神は、やはり婚姻を通じて三輪王朝系の氏族とも繋がっている。
応神の皇妃の内、品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇Bの孫王)の3王女(同母姉妹で、母は尾張氏系の建稲種命の女・金田屋野姫命)である高城入姫命、仲津姫命、弟姫命と、応神が後継指名したという菟道稚郎子皇子の母・宮主宅媛(和珥氏;こちらは和族系)などである。
菟道稚郎子が誅された後に仲津姫の子である大鷦鷯命(仁徳)が即位したので記紀では仲津姫(別名が中姫命)が応神の皇后だったとされた。
しかし私は、仁徳は応神の同母弟(母は神功皇后)だと考えているので、中姫は仁徳の養母の様な立場だったのではないかと考えている。仁徳の成育の地は知られていないが、摂津三島ではなくヤマト地域の何処かと思われる。(この場合のヤマトは山門=出雲ではなく後の大和盆地。)
ところで景行天皇Bとは、九州王朝の景行天皇Aと並行していた垂仁の子の五十瓊敷入彦命 (イニシキイリヒコノミコト、記紀では景行の兄としている)の事である。五百城入彦皇子の父であり品陀真若王の祖父。
だから品陀真若王もいわゆるイリ系大王の一族であり、崇神・垂仁と同系の三輪王朝の王族。それで品陀真若王にも五十◯◯入彦の如き名があった筈だ。しかし誉田別(応神)=品陀和気の舅になった事で、品陀真若=品陀間別?の様な名前を付けられたのかとも考えるのだ。
更に、五十瓊敷入彦が景行Bならば、五百城入彦が成務Bに相当し、孫の品陀真若王が仲哀Bに相当する。そうすると、品陀真若王は応神(誉田別)の岳父だから、応神が仲哀の子だという伝承に繋がるのかも知れない。
(であれば仲帯日子は贈り諱とも考えられる。)
仲哀Aは架空の天皇で、垂仁王朝の王子級が北九州にヤマト大倭国の一大率として赴任してきた五十◯◯大率彦で、その頃は既に日之下建によって伊都国は征服されていた事を知らず頓馬にも弑されたと考えたのだが、品陀真若が仲哀Bならその子女を誉田別が娶る事で、三輪王朝の系統をも後継する口実になるというものである。
天孫族考で何度も述べたので略述にとどめるが、景行天皇Aは孝安大王の皇子で、彦太忍信命(佐賀の武雄のオシロ=今の小城)を宮居にしていたので別名が屋主忍男武雄心命(諱は大帯日子忍代別)。私説では、孝昭・孝安・景行・成務・日之下建までが九州王朝であるとした。
※だが彦太忍信命と忍男武雄心命は父子だというのが通説である。この場合は彦太忍信命は孝安天皇なのかも知れない。孝安は神話の山幸彦のモデルである。
佐賀とは斎日壇である日下(コガ)のヒノモト国の主要三賀(左陸、中陸、右陸=右賀=遠賀)の一つである。(陸はクガ=久我)
中賀は吉野ヶ里の北の山上にあったが、和族が伊都国を併合してからは、山の北麓に移され(後世の安徳台)、そこから流れ下るのが中賀川=那珂川である。
右賀は遠賀湾の右岸水巻の水巻三山に囲まれた古賀の台にあった。遠賀は右賀の転訛。右賀を守備するのが岡ノ宮(岡田宮)で、景行Aの嫡男である大稚帯日子=成務A=大碓命が居たが、父の処に入内する筈の妃を奪った為に、弟の小碓命=小稚帯日子=日之下武命によって誅され、小碓は右賀の水巻の宮でその女性・砧媛を娶り父には渡さなかった。父が亡くなってから、小碓は佐賀も継承し一時武雄に移ったと考えられる。そこ武雄で砧媛の妹姫だとされる豊媛を妃に迎えた。
私はこの豊媛こそが神功皇后その人では無いかと考えた。そして姉の砧媛との間に出来た子が、後世大臣家の5氏族(葛城、巨勢、平群、紀、蘇我)になったと推理した。大碓と小碓(ヒノモト童男=小稚)は双子だったとされ、又成務Aと武内宿禰は同年齢の主従だという。成務の没後(架空の仲哀を挟んで)応神〜仁徳まで仕えたという武内宿禰こそは小碓=日之下武命に他ならない。
※最近吉野ヶ里遺跡について、その領域の中心線の北東方向が冬至の月昇に合致するという研究成果を発表していた学者がいた。
この学者東海大の北條芳隆氏は
「太陽と比較して、満月は年に何回も昇るので暦を創るのに役立った筈」
と言っている。特に冬至の満月は、太陽よりも高く昇るので古代人には感激性が強いという。これは黄道(太陽の架空の天空上の経路線)と月の通る白道の斜角の差異によるものだ。
北條氏は天文考古学という分野の研究者だそうだ。
吉野ヶ里は弥生時代から造営された遺跡であり、弥生時代人は既に、月の運行を基準にした農事暦を持っていたといい、他の弥生の遺跡にも同様の月の出入りを意識した建造物配置が見られるそうだ。(弥生どころか縄文の三内丸山遺跡にも、月の出入り観測の遺構と思しき物があるらしい。)
だが、吉野ヶ里は邪馬臺国vs狗奴國の時代、狗奴國=日下国の版図にあり、その遺跡の北方山上に斎日壇である日下(コガ)があった事に着目している学者はいないので、単に吉野ヶ里の遺跡内地域のみに目を向けて、往古よりの満月の出入りのみが視野に入るのである。
左右中とも、斎日壇である日下と居住地域は隣接していたが、後者の範囲を外れた所に前者が置かれていた。
聖域性が高かったからと考える。