補遺30「宝賀寿男氏の天孫族論」

天孫族考補遺30「宝賀寿男氏の天孫族の認識」について

宝賀寿男氏は、ノンアカデミズムの;民間の古代史研究家(それは私もだが)である。この人の大変なところは、長年に亘り古代氏族の系譜の研究を続け民間に残る様々な系図類から、その氏族の系譜の“本来の“姿の復元を試みて来た事である。(本来とは宝賀氏にとっての話だが)

それらの中で、天孫族に直接関わるのは、「天皇氏族―天孫族の来た道 (古代氏族の研究13)」と、「鴨氏・服部氏―少彦名神の後裔諸族 (古代氏族の研究18)」の二巻あたりであろうか。

宝賀氏の天孫族の由来については、その第18巻に纏められた記述が、いわば要約されたものなので、以下にそれを引用する。

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天孫族の概要

鴨族は天孫族の一大系統であり、これまでに天孫族の諸氏の由来や変遷について、「天皇氏族」「息長氏」などで考え記述してきた。多少ともの重複はあるが、その遠祖からの概略をまず簡単に触れておくのが、本書の読み方にとって便宜だと思われる。(本書とは古代氏族の研究18巻)

わが国の「天孫族」という種族は、東アジアの東夷に属するツングース系種族の流れであり、中国上古の殷族とも広い意味で同族とみられる。中国・遼寧省の遼西地方(遼河流域)に発し、紀元前二、一世紀には、韓地南部の伽耶(加羅)で高霊の地などに部族国家を建てていたが、紀元一世紀代の前半頃に南下し渡海して、九州北部の松浦郡唐津あたりに上陸した。そこから、唐津川に沿って南下し山間地に分け入り、佐賀平野に出てから今度は東行し、筑後の高良山北麓に「高天原」(「高の国」の義で、高羅、高良。「魏志倭人伝」に言う邪馬台国)という国を興した。北九州にあっては、天孫族の系統は肥前・筑紫などの各地にいくつか分かれたろうが、後裔に栄枯盛衰があってか、上古の日本列島では、北九州の筑前沿岸部から東遷して原大和王権を建てた神武天皇一族の系統のほかでは、天若日子の子の天目一箇神・少彦名神兄弟の後裔という出雲経由の二系統しか残らなかった。

平安前期の「姓氏録」では、「天孫」に分類されるのは、なかでもごく限定的で、出雲氏族、凡河内国造・三上祝の同族や隼人族、及び尾張氏族(天孫で火明命後裔と称するが、これは系譜仮冒であることに留意)くらいである。

物部氏族や少彦名神後裔氏族は、実際には「天孫族」の出でも、同書の「天神」のほうに分類されたことに留意される。

これら天孫族の系統の概略をあげると次のとおり。

韓地から倭地に渡来してきたのが、始祖神・五十猛神(素盞鳴神、角凝魂命)のときであり、その子の高魂命(高皇産霊尊)が筑後に遷り「高天原」を建て、その子の生玉命(生国魂神、天活玉命、天底立命。記紀神話の天照大神にあたる神だが、原態は「男神」に注意)の長子の天忍穂耳尊の流れが大和王権の初期王家(神武天皇~仲哀天皇とその同族)につながる。この本宗家の嫡統は、天孫族支流の応神天皇の大王位簒奪により、四世紀後葉に断絶した。

天忍穂耳尊の弟・天稚彦(天若日子。天津彦根命、天背男命、活津彦根命、天押立命、神櫛玉命と異名がきわめて多い)を祖とする流れには二系統あって、長子の天目一箇神(天夷鳥命、天御影命)の流れが 鉄鍛冶に優れ、軍事部族としておおいに展開した。古代氏族では、出雲国造・武蔵国造(ともに天穂日命後裔と称)、穂積臣・物部連 (饒速日命の後裔)、三上祝・凡河内国造・山背国造(天津彦根命の 後裔と称)など政治的に有力な大氏族を輩出した。

その弟・少彦名神の流れが、本書で主に取り上げる氏族系統であって、 神祇を管掌して生活関連諸物資の製造や文化的な諸技能をもつ特色ある古代氏族諸氏を輩出した。そのせいか宇佐国造家から分かれ出た息長氏族を除くと、総じて中小氏族が多い。 これらの諸氏の先祖神や系譜につい ては、少彦名神 (及びその近親神)を祖神だと必ずしも伝えず、所伝が多種多様で、遠祖神や歴代の 神々にも同神異名のケースが種々あって、そのため、同族意識が消えた事情があったのかもしれな い。 上記のように、この系統は『姓氏録』では「天孫」に分類されない。ここに記載の少彦名神の 系譜上の位置づけは、各種の系譜・ 所伝を総合的に考えた結果であって、その詳細は関係各氏のと ころで記述する。

天稚彦後裔の二系統では、ともに北九州から出て出雲にまず入り、そこから畿内方面などに遷って大きく展開した経緯がある。神武の大和侵攻の際には、これに降ったものと、抵抗して服従を拒 み東国方面に逃れたもの、との二様の対処策がとられた。《「鴨氏・服部氏―少彦名神の後裔諸族 (古代氏族の研究18)」より》

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この宝賀氏の見解では、

①天孫族の源流は、中国東部の遼河流域に発するもので、黄河文明の殷を建てた民族と同族である。

②その後、この民族は中国の春秋時代の動乱の余波で、遼寧から韓半島を南下し、(一時的には三韓の馬韓や辰韓にも居たが、結局弁韓の)伽耶諸国を構成した。中でも中心になったのが高霊加羅である。

③三韓の動乱時代に高霊にいた天孫族は、対馬海峡〜玄界灘を渡り、瑞穂国に渡来した。最初に渡来したのは松浦の唐津辺りである。

④唐津からは山越えして肥前に出て、その後東に伸張し、高良山麓を中心にした北九州国家を建てた。ここを基に、出雲経由と、瀬戸内経由で東征した二つの流れが生じた。後者が神武天皇の神話に纏められた動きである。

⑤神武の王統は、仲哀まで続くが、そこへ(元来は同族ながら)宇佐の息長系から出たホムツワケが畿内に浸出し、前王統の複数の皇女と婚姻し(婿入り)して、王権を簒奪し、新王統を建てた。この応神系が二つに分かれて、一つは仁徳〜武烈の皇統であるが、その男系が途絶したので、支流の継体が、前皇統の皇女を娶って即位し、それが今日まで続く皇統である。

---------と云うのが骨子である。

一瞬、①の主張での殷王家との同族論では、偽書として悪名高い「契丹古伝」と同様の、日中満同祖論かと危惧したが、宝賀氏の場合は少し違う。

契丹古伝では“中国の山東省辺りにいた東族が殷を建て、それが西族である周とそれに続く秦によって叩かれて燕に逼塞したが、そこから出たのが天族で、これが天孫族として、本邦に渡来した”とされたが、宝賀氏の見解では、遼河文化の創成部族が殷を建てたが、この遼河文化部族は、もっと西のいわゆる西域に遠い源流があるかも知れない?としている。

更に、殷〜燕の部族から、周王から朝鮮に封じられた箕子が出たが、これが衛満によって追放されて半島を南下した。これが列島に渡来した天孫族(王家)の先祖であると考えているようだ。

つまり、箕子こそが天孫族の祖先という事になるようだ。

そして半島を韓地と呼ぶのは、箕子が韓侯に任じられていたからだとする。

(最初に封じられた所は遼西の朝陽辺りだとしている。)

(では、日韓同祖論かといえばそうでもない。箕子の末裔は馬韓にあって、辰韓の王でもあったが、この部族が高霊加羅に移りそしてそれが列島へ渡海した後は、韓地には濊貊族系の部族が残ったが、これらは遠流が共にツングース系である事以外は、ほぼ別民族になっているとの認識のようだ。)

また④の様に北九州にあった原天孫族の王が五十猛(実はその別名が素戔嗚だとする)で、これが出雲〜山陰〜畿内に入り、現ヤマト王権を建てていたが、それが神武の東征で倒されて、鴨氏等幾つかの有力豪族は神武に服属した、とする。

従って、宝賀説では、出雲系もまた天孫族の一系統だという事になる。

(更に宇佐にいた息長氏系の応神が畿内に入って王権を簒奪したが、この宇佐系もまた天孫族の分流だとしている。そうすると宇佐の秦氏も実は天孫族の分族だという事になって来る。)

宝賀氏流では、旧縄文族と海人族以外の古墳時代を創る渡来人は全て天孫族だと云う事になるのだろう。

更に、宝賀氏は神武は令制の日向国からではなく、北九州の出身で、日向も北九州にあった地名だとする。そして神武からの欠史六代も伝承が失せているだけで実在すると考えているようだ。

宝賀氏は、このような見解から、江上波夫氏の騎馬民族渡来学説については疑問ながら、騎馬民族ではない農耕牧畜民である(ツングース系の)遼河文化人が、朝鮮〜伽耶(任那)〜列島へと移遷したのだから、江上説の一部は認めるべきだとも主張している。

しかし惜しむらくは

>>この遼河文化部族は、もっと西のいわゆる西域に遠い源流があるかも

>>知れない?

としているのに、そこの淵源の追究をしていないために、私が気づいた小月氏の東遷について行き当たらなかった事だ。

そしてその小月氏が、ヴァルナによる3分族(葱茈族・黄牛族・白馬族)により構成されていた事に着目出来なかったのである。(つまり3族はブラフマン、クシャトリヤ、バイシャ。その族長はオホキミ・牛佐・宇佐なのである。)

また高天原というのは、高良山麓の事で、初期の九州王権はそこにあったので「高の国」と呼んだ事に因む、としている。(また邪馬台国も其処だとする)

(※但し高良山は、中世から近世にかけて、高良山修験の一大修行地だった。高良山高隆寺は26ヶ坊を擁した。天台宗山門派(比叡山)である。また彦山〜宝満山〜高良山というのは修験の九州横渡の一つの筋であった。修験の地では往古の伝説が数多くでっちあげられており、この傾向は特に九州の修験者に多かったというので、伝承伝説は疑ってかからねばならない。)

だがそれでは、何故”高天原“が、タカ天の原ではなくタカマガ原と呼ばれるのかも解明されない。私の説では、高マギ(龢)ノ原;高いマガ(ブラフマン)のいる国原なので、タカマガノ原なのである。

またヴァルナの原理に着目していないため、姓(カバネ)によって、臣民が区類される理由が認識されていないのである。

箕子が天孫族の祖先で、そのまた祖先は燕更に殷だという、いわば殷日同祖論は、昨今宝賀氏以外も見受けられる。

しかし、今の中共の公安が作成している血液型データベースには、日本人の血液型も、犯罪者捜索用に多数登録されている様だ。これは滞中日本人の複数がスパイ罪の嫌疑を受けて拘束されたり、また在中日本人企業人などの本人や家族が病気で中国の病院に罹った時などに受けた血液検査が公安当局に渡っており、これら日本人の種々の血液型は分類されて、中国残留日本人孤児との同定もなされている様だ。しかし、その日本人の血液型が、河北省や山西省・遼寧省の中国人や満州人・鮮卑系中国人などに似ているなどという事は、中国事情に詳しい某友人に問い合わせたが、聞いたことがないという。

すると、もし箕子が天孫族の祖先であっても、その箕子の属した燕の末裔は今の中国には皆無になってしまっているという事になる。人口比で考えても、日本に燕の末裔の痕跡があってそれに類似した燕族の痕跡が中国本土から消滅しているなどという事の確率は低いだろう。

箕子は燕から離れたが、古来より賢人の誉れ高い人であり、そういう人を和人の祖先に見立てたいという潜在的な欲求が、箕子和人同祖論になったのだろう。

ましてや黄河文明の端緒を成した殷をも、和人の祖先に見立てたいというのも無いものネダリであろう。

或いは、箕子が中国の史書史伝類に言われるような、燕の貴族などでは無く、実は宝賀氏が言及されたように西域から来たのは箕子の祖先だったという事なのか。これはまたあり得ない。箕子が燕の人であった事は明らかだからだ。更に燕が殷の末裔だった事も多くの学者の通説である。殷が遼西文化人の子孫だった事も言われており、総合的に見て、箕子天孫族論は成り立たないと思われる。

また箕準が衛満に遼の地を追われた後、馬韓や辰韓に逃れたという説も、それを証する物がほとんど無い。箕準がかつて朝鮮と呼称された遼の地を治めたからといって、三韓の主人に自動的に推戴されるものでもないだろう。この説は薄弱である。

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