補遺31「韓という地名の考証」

天孫族考補遺31「韓という地名の考証」

☆韓(三韓の韓)は、何故こういう名称になったのか?

先ず、中国で漢字で表す「韓」の第一義は、春秋戦国時代の中国の小国である韓han の事である。(春秋時代の晋が三分して成立した国なのだ。)

第二義が、古代の“朝鮮”半島の南半の地域名であり、そこの住民族を韓族といったのである。そしてこの第二義でも発音上はhan である。

韓という漢字は、井桁を表す語だという。

中国の戦国時代の韓は晋の六卿の一人である韓氏が建てた国なので、その氏名をもって韓としたという。

では黄海東の(現中国と鴨緑江を挟む)半島の南の地域をどうして韓と云うのか?(またこの韓の字を用いる理由は何か?)

実はこれには定説がないのだ。

(※本来の古代の朝鮮はせいぜい遼東半島までで、漢の四郡が平城近辺にまで延びてそこまでが朝鮮の観念に含まれる様になったが、半島全体が朝鮮半島と呼ばれる様になったのは、遥か後世の李氏朝鮮の建国後の事なのだ。)

戦国の韓の一族が秦の統一戦争で負けて亡命して来たからだろうという様な説があるようだが、これには全く証拠がない。単なる想像上の曲説だとされる。

文字から(韓が井桁を表す漢字なので)四角い形状の地域なので韓と云うのではという説もある。しかし幾ら正確な地図のない時代であっても、韓の地が半島の南で井桁状に四角い形であるなどという認識は無かった筈だ。この説は、むしろ地図が出来た遥か後世に、韓の地を矩形と見立てた事からであろう。

氏族研究で著名な宝賀氏は、三韓は衛満に追われた箕子朝鮮の準王が亡命して来た地域であり、箕子が周王から韓侯に任じられたから、箕子の亡命地もまた韓の地と言ったのだろうとしている。しかし箕子が任じられたのは朝鮮侯であった筈であり、また宝賀氏がいう韓侯に任じられたのは朝陽付近だとする。しかしこの朝陽こそ古代中国で朝鮮と呼ばれた地域の一中心だったと思われる。(楽浪僑郡の朝鮮県だった。)よってこの説も首肯し難い。

また、日本で韓をカラとも読み、カラは和語では空(カラ)なので、倭人から見て、支配権の空白な(統一国家の無い)もしくは人跡が希薄な荒地の多い地でありカラの国だから韓(カラ)と呼んだのが、その地の国人や中国からの呼称もカラ→韓となったのではないかという珍説もある。

韓をカラと日本側が呼ぶ事があると云うのは事実だが、中国側からは韓を空となどと認識していないので、この説は成り立たない。

むしろ何故韓han をカラと日本人が読むのか(つまりこれは訓読なのである)の究明が必要なのだ。

中国側の見解では、韓は蛮の雅字表現だと云うのである。漢がいわゆる四郡を設置した時に、その支配域外の南の地域は、王化の及んでいない蛮地なので、蛮と呼び、三国時代に魏に朝貢して来た三韓の地を属国扱いで馬韓・辰韓・弁韓などと雅字の韓に変えて表したのだという。

帯方郡の南が韓の地なので、この説には一定の説得力がある。

またその四郡の真番郡の番も実は蛮だったが、漢の官吏を赴任させるのに、蛮地では不具合なので敢えて番の字に変えたともいう。

更に李朝が末期に大韓帝国と改称したのだが、その時に李氏が国民にした説明には、「韓とは成吉思汗の汗と同じで、“偉大なる君主”の事だ。よってその偉大な大韓帝国皇帝=李氏の統治下にある偉大な国土が韓の地なのだ」というのがあると聞いた。よし韓が汗に由来するのだとしても、汗自体は単に君主の意味=君なのであり、そこには“偉大なる”というニュアンスは無いのである。しかし第二次大戦後、共和国となった南朝鮮が「大韓民国」という名を選んだというのは、戦前の李朝のプロパガンダを信じていたのかも知れない。(現代の韓国ではどの様に説明しているのだろうか?)

また更に、韓は朝の対語だという説がある。朝は日が出てもまだ月が西の空に残っている状態だから、旁に月が使われているのだと。一方、太陽が南中する時に、光線の横に差している先が井戸の一番深い所に達する。最も深く届くのは無論夏至の正午である。光線の横糸=緯が井戸に差し込むので、南の地を表すのに韓の字を用いた。という穿った解釈である。しかしこの解釈で問題なのは、“韓”地は全く“朝鮮”と南北に分かれた概念となり、「北朝鮮は中国の属領なので、もし北鮮が瓦解したら、合併すべきは中国

吉林省側であって韓国ではない」という中共の主張を補強する事になってしまう事だ。

では一方で何故、和人は韓をカラと呼んだのか?カラは勿論空の意味ではなく、加羅(伽耶)の事である。

伽耶と加羅でどちらが古名か?という論点もあるようだが、私は古名が加羅で、それの転訛が伽耶だと考えている。

というのは、唐天竺という言葉があり、今はカラの部分に唐の字を当てているが、本来は加羅天竺だったと考えるからだ。

唐天竺の語は、唐やその先の(シルクロードの通ると思われた)天竺を含めて本邦から見て文明の進んだ地域、また珍重すべき文物が到来する元の国々というニュアンスで使われる。

だが、唐をそういう進んだ国としてカラと呼ぶのは本邦だけで、本来の唐の字にはそういうニュアンスもカラの読みも無い。

私説では、カラ天竺とは迦楼羅のいる国、即ち怪鳥ガルーダに乗ったシバ神のいる国;神仙の支配する国の事なのだ。

和人が、パミール高原からチベット高原に広まっていた頃、ヒンズークシやヒマラヤを越えた天竺は、肥沃な南国の大地であり、文明の進んだ国々であったので、そこをガルーダ(迦楼羅)で飛翔して行かねばならない憧れの地として迦楼羅天竺と呼んだのである。

また迦楼羅は日輪の遣いであるカラス=八咫烏と転じた。(迦楼羅は本来は黄金色の鳥なのだが、日輪を背景にすると陰となって黒く見える。)

実際、春になると、インド側で越冬した渡り烏がヒマラヤを越えて、チベット高原からタリム盆地に多数飛来する。

先進文明の地がカラである事から、和人が対馬海峡を越えて列島へ移住してからも暫くは、元居た韓の地がカラ=加羅となり、また中国に巨大な統一国家である唐が成立して、遣唐使を送るようになると、そこ文明国の唐を日本から見てのカラと呼ぶようになったと考えるのである。

天皇が玉座に座る時に被る大陸風の冠を「冕冠」という。

その復元イメージには、頭頂の飾りに八咫烏が飛んでいる。周囲の光輝は二十一日足である。(但し現存皇室御物の孝明天皇の冕冠では三十三日足。この日章の前飾りの立つ軸を特に“茎”と言っている。茎の上部に恰も輪状葉序の様に見えるものは本来は雲を象ったものであるそうだ。図の物は恐らく扶桑の葉であろうか。

この基本形以外に後醍醐天皇の冕冠は頭頂に赤い球陽が載っており、前立ちの茎やその上の八咫烏は無い。)

※因みに

>>即位を宣言する、「即位礼正殿の儀」にあたる儀式では江戸時代末期の孝明天皇の代までは「冕服(べんぷく)」と呼ばれる中国風の赤い装束が使われていましたが、明治天皇の時から日本風の「黄櫨染御袍」が使われるようになりました。<<

つまり、冕冠冕服は律令で定められた天皇の儀式の正式な服装だった。今の衣冠束帯は嵯峨天皇が宮中祭殿の祭祀の時に着用したものを、明治政府が天皇の正儀の祭服として採用した物なのだ。

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