補遺32 「再び出雲族の五十について」

補遺32 「再び出雲族の五十について」

以前、「天孫族考の第17章(続)第2節   出雲族について」に於いて、“伊都国の元の国だった伊西国は慶尚北道清道郡伊西面にあった国だった”という事に言及した。その時に伊西という名が、我が国での出雲族に関わる五十の語源だったろうと述べた。

ここでもう一度、出雲族と五十の関係について考証してみたい。

それで目下のところ出雲族に関わる言葉を列挙してみる。

A 伊西国→伊都国 五十(イト、イソ)

B 五十猛(イソタケル/イトタケル)、五十迹手(イトデ)

C 五十鈴姫、五十鈴川

D 伊勢、伊豆、伊予、壱岐?

E 伊雑宮、伊奢沙別(五十茶狭沙別;気比大神→都怒我阿羅斯等伝承)

F 出石→天日槍伝説、五浦✖️(語感のみ)、

  磯良▲、厳原?

G 石上(←五十神?)

H 江津間(江妻)、倭妻、出雲(←五十集物)

I 五木、樹、斎槻

伊奘諾、伊奘冉 (※ 冉は冉蹊国の冉、冉蹊は清道と

  同義)

   ※五十龢、五十冉か?

この小論の趣旨一としては、Jの諾冉両神は実は出雲族の神ではないか?という点についてである。

伊奘諾・伊奘冉両神は、国(土)産みの神であるとされ、また天照と素戔嗚の姉弟神の親神ともなっている。しかしその後の高天原神話では、伊奘冉が軻遇突智の火神を産んだ事で焼死?して根の国に行ってしまい、その跡を慕って先ず伊奘諾が根の国に行ったのだが、腐った伊奘冉に驚いて現世に逃げ帰った事、又死んだ母伊奘冉を嘆いた素戔嗚が根の国に行きたいと言い張った事などの話に出てくる以外は、諾冉両神は登場して来ない。

国産みの後日談・大国主の国生みは出雲族に関わる神話である。

だとすると、諾冉両神も、実は五十諾・五十冉であって、元来は素戔嗚に関わる神ではなかったのかという疑いが生じるのである。

神生みについては神皇産霊や高皇産霊と機能がダブっている。

これは、皇統譜で三輪王朝が九州王朝の孝昭・孝安と、景行〜河内王朝の間に挿入されたのと同様に、高皇産霊の後に諾冉両神が挿入されて、神統譜が加上再編されたのではないか?と考えるのである。

出雲族から天孫族が国譲りを受けるについて、ここも

“一系”神話を適用したという事なのだろう。

と考えてみれば、諾冉両神に長年違和感を感じて来た理由も分かったように思える。

お祓いの祝詞(祓詞=はらいことば)で、

「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事 罪 穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す」

と聞く時にも、違和感があった。“掛けまくも畏き 伊邪那岐大神”というのは、果たして天孫族の神なのだろうか?との疑念である。

第一、伊弉諾の創世神話には海洋民族的な匂いがする。本来天山三族だった天孫族も黄牛族も大陸の真っ只中の民であり、海が神話や伝承に存在するわけはない。

白馬族は遠方交易で、ペルシャ湾や黒海・地中海・渤海湾などを見る機会はあったであろうが。しかし三族が海に出会ったのは三韓に入ってからであろう。そこで濊族のような江南系の海洋民と混住し、文化接触が起こり、海洋民族の創世神話も知ったのだろうと想像する。

(※ただ伊弉諾冉神話が記紀に取り入れられたのは、ここでもまた日本民族が列島内で独自に進化して来たという趣旨を貫徹する為の傍証にしたかったのであろう。)

熊野神社の速玉神(一般には素戔嗚)は、伊弉諾と同神だという説もある。

と云う事は、元々は、黄牛族(出雲族)の祀っていた神だったが、国譲りの後に、龢族(天孫族)と共通の祖先神の如くに、取り入れられたのではないか?と思えるのである。

こうして考えて来ると、海人族の中にも、元来は出雲系海人族もあったのではないか?と考えつくのも自然であろう。

そうすると海人族の神である磯良も実は五十羅であって、天孫族に臣従した黄牛族系海人(これが阿曇だろう)があったのだと思える。

陸での物部氏と同様だ。従来は物部の物とは武器(剣と武具、石上神社の倉に収納されていた)であり、それを管理する物部の伴造だと説明されてきた。

しかし出雲=五十集物だとすれば、その五十集物を管理する、即ち出雲族の宝倉の管掌者ではないかと考えられる。

一方、伊西国のあった辰韓の(現在の慶尚北道)清道郡の清道であるが、この言葉は、なんらかの聖廟の参道である事を意味していると思える。

(伊西面iseo-myeon は、釜山と大邱の間にある村落。)

伊西国にあった聖所(和風にいえば神社)が何を祀っていたものかの記事は、三国史記などにも無いようだが、五十の語源である事からしてそれは五十猛もしくはその祖神である素戔嗚を祀ったものではなかったろうか?

(韓語には五十猛など無いだろうから、牛頭天神など言ったものか?)

今本邦での清道で有名なのは、山笠祭で有名な博多櫛田神社の清道である。

櫛田神社の祭神は、主祭神が伊勢から勧請された大幡主神(別名大若子命)だとされるが、実際は副祭殿である祇園社の祭神素戔嗚命であり、だからこそ妻神の櫛稲田姫の名が付けられているのだろう。

つまり博多人のいう櫛田大神とは素戔嗚の事にほかならない。

と云う事は、博多にあったという奴国も伊都国同様に、黄牛族(出雲族系)の小国家だったのか?もしくは櫛田神社が祀られるようになったのは、伊都国が奴国も併合したという説があるが、その併合後に祀られたのか?(これらの

場合はいずれでも、博多湾付近は出雲族の勢力範囲だった事になる。)

だが或いは王朝時代に疫病調伏の為に祇園社として勧請されただけなのか?

(どの可能性もあり得るだろう。)

ここで、もう一度、「出雲とは何処にあったのか?」というマターを論じておきたい。

「天孫族考の第17章(続)第2節   出雲族について」に於いては、“令制の出雲(通常現在我々が「出雲」の国と認識している現在の島根県):これを出雲Aとすると、それ以外に古代に於いて出雲Bがあって、この出雲Bが、出雲族

から天孫族に政権が交代した後、出雲Aが最初からの出雲だとされた”としてその出雲Bとは、三輪山麓にある出雲であると考えたのである。

そしてその出雲Bを含む(後世の奈良)盆地の東部がヤマト(山門)であるとも考えた。でこのヤマトの一部にある出雲は、倭褄(ヰヅマ)の意味なのかも知れない。

従来の学説では、出雲Bは出雲国造が上京した時に滞在する屋敷があった所だとされて来た。

これは出雲国造が特殊な地位の国造なので特別な待遇だったともされた。

しかし、ヤマトの政権にとって特別な地位にあった国造は他にもあった筈だが、その国造の支配地を冠した地域名は、類例が無い。

だから私はヤマトにあった出雲(即ち出雲B)が元来の出雲で、天孫族が東征後、根の国(島根)の杵築郡に、意宇郡司を出雲氏と改名させてその意宇郡も併せて出雲国として、出雲氏に国造を任じると云うややこしい作為を成したのだろうと考えたのである。

前回の考究ではそこまでだった。

しかし、更に出雲Cがあると着想した。

出雲Cは、出雲B+山国(熊野・吉野)の事である。

山国に対して(出雲Bの)山門(ヤマト)が存在するのである。

と、ここまで考えて来て、更に出雲Dがある事に気付いた。

それは、出雲C+伊勢・志摩・南方(南紀)である。三輪王朝時代まで、伊勢や南方(ミナカタ)までが出雲族系の領域だった考えられて来た。建御名方や、雄略朝の反乱の首謀者とされた伊勢の朝日郎などは出雲族だと解されるから

である。

そしてこの出雲Dこそが、凡倭(オオシヤマヰ)と云う凡国即ち大国であるからこの出雲Dの主が実は大国主なのではないか!という着想である。

つまり、出雲神話や大国主の神話とは、後世の記紀神話では出雲Aの出来事とされたが、それは実は出雲D=凡倭国に関わる神話だったのだ!という事。

だから大国主とは出雲Dの主、後世の大物主(であり大倭国魂神?)なのである。

そしてここまで考えて来ると、出雲Eというものまで考えられる。それは、出雲D+尾張+越の地域である。だから阿彦の乱の平定に伊勢の大若子命が赴いたという伝説も生じるのである。となると、その大若子命の別名大幡主というのは、大国主の異名かとも思えてくる。

そして、この出雲E+吉備・石見・長門・奴・伊都の連合国家がヤマト大倭(ヤマトオオヰ)=邪馬臺なのである。

そして上古のいずれかの時代に、大国主の霊は大和に置かない方が良い(祟りがある)からとして、意宇と杵築を併せて出雲Aが作られ、出雲CDは無かった事にされたのであろう。意宇の国造だった宮向臣(この氏族は、和邇氏の一族かとも考えられる)が、新成の出雲Aの国造に任命されて、大国主を封じ込め鎮撫する役目を与えられたのだろう。

そしてそういう特別な役目に任じられた出雲臣が、出仕した時には出雲Bの屋敷に住むという事にして辻褄合わせが行われたのだと考えるのである。

この事を勘案すれば、大国主は出雲Dから出雲Aに国替えされたのだが、これこそ“逆の国譲り”であったと言えるだろう。

ただ出雲Aに出雲族が全く関係の無かったかというなら、そうではない。

黄牛族は、私説では鬱陵島〜隠岐を通って石見や三瓶山地域(今奥出雲と云う地域)に渡来したと考えているからだ。

丹波や山城に残る出雲の地名は、その黄牛族が木の国やヤマトに移遷した経路だったのか?それとも出雲Aが成立後にそこに残住していた出雲族の土地か、或いは出雲国造の食封地(の如き禄地)に設定されたものか?

通説のように、出雲臣の上京の途中滞在地に設定された名称なのか?

この辺りは、今のところ判別が出来ていない。判別の為の参考になる資料に未だ遭遇しないからだ。

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