補遺35「等彌の霊畤とは何か?」
天孫族考補遺35「等彌の霊畤とは何か?」
Facebookの「古代史研究会」のフォーラムで、先日K氏が、“【古代の祈りの聖地】宮中祭祀 大嘗祭起源の鳥見山の霊畤(れいじ)[まつりのにわ]等彌(とみ)神社 奈良県桜井市"という記事を上げていました。
そこで、私はK氏に「トミの霊畤が古代祭祀の跡にしても、どうしてそれが大嘗祭の起源になるのでしょうか?何かトミの霊畤での祭祀に大嘗祭の過程と共通のものがあるのでしょうか?」と質問したのです。
K氏の回答は「霊畤は大嘗祭(あるいは新嘗祭)を行なう場所という解釈」だという事でした。
しかし、K氏はこれは当該の等彌(とみ)神社に掲げられていた次の看板に書かれている事を単に引用されていたのだろうと思います。
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鳥見山中霊畤について
「日本書紀」によると、この鳥見山付近は、神武天皇が
「橿原宮で即位後四年、皇祖天つ神を祭られた」と
「霊畤」の由来を記しています。(巻第三)
「霊畤」とは、「まつりのにわ」を意味し大嘗祭を行う場所をいいます。
また、鳥見山頂付近は、南北朝時代に成重西阿氏が築いた鳥見山城の跡と云われています。
鳥見山中霊畤顕彰会
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そこで私は、以下の様に再度書き込みをしました。
桜井市の等彌(トミ)神社の神体山である鳥見山の山上にあるのが等彌の霊畤です。これが、神武が即位4年に東征の戦いに於ける天神(高天原の天照や高皇産霊)への感謝を祈念して設けたという(日本書紀)「トミの霊畤」です。(実は神武にまつわる霊畤の候補地は4つあって、このトミの霊畤はその有力候補地ではあります。)
この鳥見山は、神武東征の神鳥・八咫烏の伝承と習合して、鳥見という名になっています。
そしてこの鳥見山の別名は斎場山でもあるので、そこが何らかの斎場=霊場であることは想像できるのです。
しかし、神武が行ったという祭祀が大嘗祭の起源になったなどというのは、ごく一部の人たちが想像で言っているだけであり、そも霊畤という中国風の表現と、純日本風の穀霊(稲魂)を祀る大嘗祭とは概念的に相容れません。
私はこの「等彌の霊畤」は別の目的を持つ斎場だったと考えているのですが長くなるので、本日のところはここまでにして、後日天孫族考の補遺として“小文”をアップすることにします。
という事で、この補遺35がその“小文”に相当します。以下は文体を改めて、である調で。
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☆トミの霊畤とは何か?
先ず、この「神武の天津神祭祀の霊畤」というものは、宇陀(榛原2ヶ所)と東吉野及び桜井の4ヶ所が候補となっている。
この内の桜井が、もっとも有名な、等彌(トミ)神社の神体山である鳥見山の山上にある霊畤である。
これが一般に神武の聖蹟・鳥見の霊畤として知られているものだ。
では、この霊畤とは一体何か?
そも「畤」そのものが、斎庭(ユニワ)・斎場を表す漢字なのである。
中国に於いては天壇や地壇また五帝(東西南北中の神)を祭祀する場所を表す字である。
これに霊をつけて霊畤というのは、“神霊を祀る場所“の意味である。霊とは魂でもあるが御霊でもある。だから霊畤とは、何らかの霊魂を祀り鎮める斎庭(ユニワ)だったという事である。
他方、私はこの天孫族考の中で、「和族(天孫族)の日神を祀る祭場・斎日壇が日下であり、和語ではヒノモト、音読した“カガ”が日賀や久我・古賀・加賀などと転訛し、和族の支配地の各地に設けられた斎場だとして来た。やがて藤原朝に於いて国号をヒノモト→日本と改めて定めて唐朝(実際には、武則天による一時の周朝だったが)から承認を受けた、と考えた。
しかし、上古における斎場には、書紀記載の「霊畤」なる物が存在する。
言葉の元の意味からは、私の指摘した日下=斎日壇も一つの霊畤である。
しかし、各地のカガ・コガなどが霊畤と呼ばれた形跡はない。だから、霊畤という斎場の観念と“日下(コガ)〜草香”の斎日壇の観念は系統を異にする物であろう。
その霊畤の最も有名なものがその桜井の等彌神社の後ろ山=鳥見山の頂きにある「鳥見の霊畤」である。
そもこのトミの地もしくはトミの山が鳥見と表記されるのは、神武東征の神鳥・八咫烏の伝承と習合して、鳥見という名になっている。
というのは、繰り返しになるが、神武が即位4年に東征の戦いに於ける天ツ神の支援への感謝を記念して設けた斎場だという(日本書紀)からだ。
即位後にまで八咫烏が出現したのかなどというチャチを入れるのは置くとして、鳥見山の別名が斎場山でもあるので、そこが何らかの霊場である事は想像できる。
しかし、この鳥見山は万葉集には“跡見山”の名で出てくる。跡見の地名を読み込んだ歌が万葉集には三つも収載されているので、奈良時代の標準的な表記では跡見山だったと考えられる。
跡見とは獣や走禽の足跡を辿るという猟師の言葉に起因し、転じて“何らかの行為や事績の回顧をする事”の意味となる。→ここの処は後述。
そして、この鳥見山の霊畤は北に三輪山を臨む地なのである。(昨今は、山上の叢林が伸びて三輪山への視界が遮られているようだ。三輪山を望む事が霊畤の所以だということが分からなくなったからだ。)
更に等彌(トミ)神社の摂社には、出雲系の神と思われる祭神が多い。そも、三輪山の東南麓(地図上では“柿の葉ずしヤマト”と出ている箇所の右上方向)が桜井の「出雲」なのである。
(麓の等彌神社は主には上下の津尾神社によって構成されていて、上津尾は天照、下津尾は八幡神と春日神が祭神だが、これは後世の付会だと私は考えている。)
また書紀の饒速日に関する記述には、河内の河上の地に降臨した後に、鳥見白庭に遷ったとしていて、鳥見山の霊畤登頂の途中にある白庭がそこだとも言われるので、やはり和族(天孫族)のヤマト進出以前の王家に関わる遺跡なのであろう。
(饒速日命はその後、地元の豪族?長髄彦の妹を妻とし、一族の主君のようになったという伝承がある。でその饒速日の妻が登美夜須毘売というので、これも鳥見山のトミに所縁がありそうだと思われる。もっとも、生駒には饒速日の墳墓という伝説のある塚もあり、そこは白庭台という
地名で、鳥見白庭とはそちらの方だという説も唱えられている。)
だから、霊畤は、応神のヤマト平定後に、先の王朝の祖神である三輪山の神(つまり大国主)を祀った鎮魂霊場ではなかったか?
神社建築の開始以前のもので、後世の出雲に鎮められたという杵築大社(出雲大社)の観念に繋がるもの(元出雲)ではなかったろうか。
凡そ霊畤などという難しい漢字の用法は、相当に漢字知識の造詣が深くなった奈良朝以降の産物だとしか思えない。とても上古にこんな漢語が通用していたとは考えられないのである。
恐らく、書紀の編纂時に、伝説の斎場を、三輪王朝の跡見の遺跡として神武伝説に取り込んだものではなかろうか?と考える。
だから私は、霊畤は日下とは別系統の斎場だと考えるのである。
ただ、応神〜河内王朝の出自の地である九州を除き、日下・久我や古賀の地名や遺跡も大和盆地ではほとんど失われている。
私は、その理由の一つには、天武朝以降の日本の対外的主張の転換に根拠があると考えるのである。
天智天皇以前は、大和王権は、その出自の根拠を韓半島南部の任那であるとして、南韓全域の宗主権を主張してきた。
それで新羅の南韓統一・西伐に対して、百済の後援国をもって任じ、派兵をも繰り返して来たのである。
しかし、白村江の大敗後、国内では近江朝廷と大海人陣営の対立抗争となり、その戦役に勝利した天武朝が成立すると、王権は半島への宗主権の主張を放棄して、「和族は大陸由来の民族ではなく、列島内九州で独自に(縄文〜弥生族から)進化した固有の民だ」という主張に転換した。
そして記紀において、なるべく固有の民と固有の領土という観念の措定に専念した。勿論、唐に日本への領土権を主張させない為である。
この為、日下は日向へと観念転化され、祖神も固有の天照としてその祖廟は日昇の聖地でもある伊勢に設定し直した。この理由で、各地の日下もまた徐々に皇大神宮の末社という形に変えていく政策を取って行った!と考えるのである。
この過程で、原始的なシャマニズム形態の斎日壇である日下は、社殿を持つ神社形態の祭祀施設へと転換されて行ったのである。
一方で、トミの霊畤も、山陰に新たに設けられた出雲に、壮大な社殿を設けて、杵築大社として昇格させたのだろう。
このロジックの下で、王権の太宗は、北九州日下から来た応神ではなく、南九州日向からの神武である事、
ヤマトに応神以前に成立していた(後世に出雲系とされる)三輪王朝も神武を祖宗とした王権であり、応神もその血統の子孫である事にして、
(また継体をも応神の末孫であるという説明によって)
いわゆる万世一系の(それも日本列島固有人種民族の)王統を架設したのである。
だから韓半島加羅→日下国(狗奴国)→和(龢)族の国という本来の王統の由来は、ほとんど記紀から抹消された。無論加羅以前も。
否むしろ、そのような本来の王統の由来を隠蔽する為にこそ記紀があるのかも知れないのだ。
そこで、従来の大倭を連想させる国名は消して、積極的に(また日下を陰に隠して)日の本=日本という国号を宣明したというのが、旧唐書に記載された、日本への改名の由縁であろう。
しかし事情を分かっていた一部上級貴族には、それはヒノモトという本来の国名への回帰でもあったのだ。
◯万葉集に見られる跡見について
後世、跡見の霊畤が(神武〜八咫烏の連想から)鳥見の霊畤へと解釈転換されたとはいえ、先述の如く、奈良時代の貴族たちは、やはりそこを跡見と認識していた。それを証するのが万葉集の歌である。そこには共通して跡見という表記とその根拠になる認識が共有されていたと思えるからだ。
先ず最も有名なのが、当時典鋳正(テンチュウノカミ;大蔵省に属する典鋳司イモノツカサの長官。典鋳司とは金属の鋳造と瑠璃器の塗錺細工をする役)であった紀鹿人が、大伴旅人の庶弟である大伴稲公(イナキミ)を、その田荘であった跡見庄に訪ねた時の歌(旋頭歌)である。
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典鋳正 紀朝臣鹿人の、衛門大尉大伴宿禰稲公の跡見庄(とみのたどころ)に至りて作れる歌一首
射目(いめ)立てて 跡見の丘辺(をかへ)の 瞿麦(なでしこ)が花 総手折(ふさたを)り われは行きなむ 寧楽人(ならびと)の為
巻八(一五四九)
《射目を立てて跡見を置く 跡見の丘のほとりのなでしこの花。その花をたくさん手折って私は行こう。奈良の京で待つ人のため。》
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「射目(いめ)」は獣を待ち構えて射る場所の事で、この歌の場合は、獣の通った跡をうかがうとの意味の「跡見」にかかる枕詞として使われている。この歌では、跡見は専ら“獣や走禽の足跡を辿るという猟師の言葉”の範囲で使われている。
ここで注目すべきは、いつの頃からかは不明だが奈良時代には、桜井の跡見は大伴氏が居住している田荘だったという点である。この時代は既に物部氏は失脚してしまっているから、(藤原氏を除けば)最も強力な武人集団だった大伴氏が跡見を保持していたというのは、跡見の霊畤が出雲族によって悪用されるのを妨げる意図あっての事ではないだろうか?
※田荘(タドコロ)は律令以前の豪族の私有地。皇族の場合は屯倉である。
枕詞になっている“射目立てて”が跡見の原義の範囲だと言ったのだが、これと同じ発想の朗詠が、詠人不詳で、万葉集に載せられている。
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うかねらふ 跡見山 雪の いちしろく
恋ひば妹が名 人しらむかも
巻十(二三四六 )
《跡見山に降り積もった白雪のように、はっきりと人目につくような恋の態度を示したら、人びとは私の恋人の名を知ってしまうだろうか。 》
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「うかねらふ【窺狙ふ】」も枕詞である。狩猟の時、鳥獣の足跡を辿って狙うことや狙う人を「跡見(とみ)」ということから、同音の地名「跡見山」にかかるのである。
つまり、跡見はやはり猟場に関わる言葉と解されている。
更に稲公(稲君)の姉である坂上郎女も、同様に跡見を歌に詠んでいる。
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大伴坂上郎女の跡見の田庄(たどころ)にして作れる歌二首
妹が目を 始見(みそめ)の崎の 秋萩は
此月ごろは 散りこすなゆめ
《始見の崎の秋萩は、ここしばらくは散ってくれるな。けっして。》
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※“始見”は“見初め”とすれば女性の心に託しての解釈だが、これを“初見”と読んで、「始見の崎」を神武の霊畤の祭祀の開始を言ったという解釈もある。→この解釈では、既に書紀に載る霊畤がここ跡見だとされていたという前提での理解となるが、穿ち過ぎと私は考える。
坂上郎女のもう一首は、
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吉隠(よなばり)の猪養(ゐかい)の山に伏(ふ)す鹿の 妻呼ぶ声を 聞くが羨(とも)しさ
《吉隠の猪養の山で、そこをねぐらとしている鹿の、妻を求めて鳴く声、 その声を聞くのは心がしみじみとして懐かしい限りである》
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ともし【羨し】:①慕わしい。心ひかれる。 ②うらやましい。
なので、私は、
“鹿が妻を求めて鳴く声を聞けば、求められる女性が羨ましい”
と解したい。
吉隠は、跡見の辺りの地域名だが、やはり狩猟の狩人の隠れ場をいう言葉なので、跡見と同義と考えられる。
また“猪養の山”も跡見の山を指している。
このように、複数の跡見に関わる歌が万葉集に収められたのは、編者の一人に擬定されている大伴家持(旅人の息子だが、叔父の稲君と親しかったという噂がある。無論坂上郎女は叔母。)にとっても、跡見が所縁の地だったからである。もっとも、坂上郎女や家持の住まいは、跡見からは5里程離れた竹田の田荘にあったと考えられているが、親族の所領なので度々訪問したのであろう。
これらの跡見の山は、やはり跡見であって鳥見の山とは特定されていない。
そうすると、跡見の霊畤が鳥見の霊畤と解釈されるようになったのは、奈良時代ではなく、平安時代以降の事だったのではないか?と想像される。
この辺りは桜井にあったという内山永久寺の大衆(後世の天台宗本山派修験)の活動テリトリーだったので、中世から近世までの間に、記紀神話の熱心な信者だった修験達によって、八咫烏との習合解釈が為されて、跡見→鳥見となった可能性が大きい。
また宇陀にある鳥見山が、そのまま鳥見山なので、むしろ神武の伝承に結びつけるのなら、そちらの方が相応しいような気がする。と言っても、神武と云い八咫烏と云うので、所詮は神話でしかないのだが。
いずれにせよ、八咫烏が鴨建角身命だとするなら、鴨氏の居住地との関係がなければならないのだが、今のところ桜井の跡見と鴨氏の関わりは未詳。