補遺36「神社の分類私論」

天孫族考補遺36「日本の神社分類」私論

神社を分類するのには、かつての(昭和前期までの;明治〜太平洋戦争まで)官幣大社〜国幣小社・郷社・村社などの社格による分類や、祭神による分類などが考えられる。

しかし中世〜近世までの神仏習合の時代に特異な“仏教系神社“が存在したので、ここでは、それとそうでない物を区別して、非仏教系と仏教系、及び民間系の三種に分類してみる。

明治後期に神社整理というものが行われたのだが、明治40年の国の調査では国内の神社は大小合わせて凡そ19万社もあったという。そして整理の結果、明治末には(4万3千社が減らされて)約15万社弱になったという。

一都道府県あたり(平均で)3万3千社にもなるという勘定である。(と言ってもその中には路傍の稲荷の社や庚申堂や天白などの小祠も含まれている。社殿が備わっているような;一般的な印象での「神社」だけではない。)

この内幕末に神職が存在したのは全国で凡そ2千社(→これについては異論が多いので、後述する)だといい、全神社の1%しかなかったというので、99%の神社は、寺院付属の神社や、巷間や屋敷内の小祠であり、その多くは修験者が管理したり、村の宮座員や町内隣組の民間人が共同もしくは設置した一家で維持したりしていた物である。

A)純神社=神道系(非仏教系) Authdox Shinto Shrine

  ◯別格  皇祖神 伊勢神宮

       上下賀茂社、吉田神社

  ※さりながら、神仏習合の時代、伊勢神宮にも神宮寺や学問寺が寺院として存在し、かつ朝熊修験も扈従していた。朝熊修験が後世伊勢修験となり、近世には伊勢詣の御師となる。

近世まで賀茂社にも神前読経に従事する社僧が存在したが、これは読経専職であり、運営にはタッチしていない。

  ◯古社及び式内社 

   通常、律令分国ごとに一宮、二宮、三宮、四宮が認   定され(延喜式に記され)、神職が任じられていた。

   神職は、(神仏習合の時代には必ず別当寺があったので、別当の僧侶の推薦で)多くは神祇管領の吉田家が補任免状を出した。しかし凡そ三百社は白川神祇伯王家の直門人として白川家が免状を与えた。

   式内社は殆どがいわゆる古社だが、延喜式に載らない(式外)古社も相当数存在した。

(但し、本当に古社かどうかは、夫々の事情によ真偽がある。)

また式内社も中世後期には戦乱などによって荒廃して、地域内に複数ある神社に紛れてしまったり社名が変わってしまった物もあり、これらの神社の内で”式内社は此処と想定される物“を論社という。

B)寺院運営社(寺営社・非神道系神社)=仏教系

     Buddism Shrine (Buddist Management Shrine )

 非神道系神社とは、

①神職が居ないか居ても宮仕や祝などの雑掌職でしかない

②基本的には寺院に付属し僧侶や修験者によって運営維持されている

   その様な神社・神祠を言う。

簡単に言えば寺営社。

これらには、稲八金天(稲荷・八幡・金毘羅=琴平・天満宮)+祇園・山王(日吉)・氷川・天王(津島)・三島・住吉・浅間などのほか、

修験の運営する熊野・白山・戸隠・羽黒・淡島・秋葉・蔵王・猿田彦などがある。

これらは明治以前は神仏習合の仏教系神社であり、神道系の純神社ではない。

また、近世には、江戸幕府の方針として、「神社は原則的に別当寺の管理統制下に服さねばならない」という法規制(神社禰宜神主法度)があり、(例外が伊勢神宮と上下賀茂社と吉田神社、)実際には神道系純神社も含めて、神社は僧侶の支配下にあった。→これが廃仏毀釈の潜在心理的要因となった。

もっとも、別当寺や神社の境内に併設された神宮寺(神宮寺は別当寺である物や、別当寺は別に存在してただ神社の運営に当たる社僧が駐在する坊院でしかない物、の別があった)は、近世になってつまり徳川幕府によって俄に制定された物ではなく、中世を通じて徐々に形成された習慣である。

修験系の寺院の運営する神社である伊豆権現や箱根権現などは既に平安後期には別当寺によって維持されており、神職はいなかった。佐太神社など山陰の(日本海沿岸の)神社には修験系が多く、出雲神楽など山伏神楽を伝える神社は

殆どがこの系統の物である。

また八幡宮寺も鎌倉時代には、鎌倉鶴岡八幡ではほぼ僧侶による運営であり、石清水八幡では若干の神職が存在した。また本来は古社である諏訪社も中世には神宮寺など仏教伽藍があり、神前読経を担う社僧が存在した。

春日神社は古社だが中世には興福寺の併設神社のようになって行き、社僧の方が一般神職より上位聖職者だった。

稲荷神社は多くが、例えば豊川稲荷の様に、寺院かその境内社だったが、本社である伏見稲荷神社だけは白川伯王家直門譜代として、神主が任命されており、神宮寺の社僧の上位にあった?と言われる。

住吉神社には、古くからの社家として津守氏がいたが、近世には恐らく祭事の時に参列するだけで、普段は僧侶しかいなかった。これは歌舞伎の著名な外題である「夏祭浪花鑑」の中の台詞でも確認できる。

大三島の大山祇神社も、河野氏系の大祝は今治側の四国本土に在住し、神社の運営は南光坊などの天台宗寺院の僧によって行われていた。

牛頭天王を祀る津島神社は近世には津島講の参詣で有名だが、神宮寺の宝寿院ほか4坊宇が境内にあった。そも津島神社の開創は空海だという伝説がある。

宝寿院には牛頭天王の本地だとされた薬師如来が祭られていた。中世には山伏もいた様で、彼らは近世には津島講の御師となった。神紋が木瓜だが、これを織田家がアレンジして織田木瓜とした。信長が上洛後、同じ牛頭天王を祭神とする洛東祇園社も木瓜を神紋にしたという伝承がある。

天神社も天満宮寺という寺院だった事は先般天孫族考番外で述べた通りである。

仏教系神社の本社(総本宮)の多くは社僧支配の比較的大きな神社であり、また中規模の物は地方に勧請された物で別当寺に併設されていた。また小規模な物は殆ど天台宗もしくは真言宗の寺院の境内社である。

ところで、中世後期以降、僧侶が記紀に触れる機会が多くなると、記紀学習が修験者に一つのブームとなった。

また他方で、修験の各宗派共に、根底からの勤皇派だったので、記紀神代編に掲載されながら神社に祀られていない神代の神々《邇邇芸命や木花咲耶媛、猿田彦、彦火火出耳尊や鸕鶿草葺不合尊や玉依姫命など》、それに神功皇后や武内宿禰・日本武尊なども、彼らの伝承地に神社を開いたり、既存の神社に合祀したり祭神を改めたりが盛んに行われた。彼の神々を祀る神社の多く、特に南九州の各地の神社と関東の日本武尊の神社はこの運動の結果開創されたものが大部分である事を承知しておく必要がある。

C)民間系神社(民営社) Civil Management Shrine

町民や村民などによって維持されていた物で、殆ど神職が居ないか、或いは祭事の時だけ、近隣の神社の神職に依頼して出張して貰ったり、もしくは土地に在住する里修験が護摩焚きや祝詞上げや読経をした。

しかし多くは、民間人(町民や村人)が交代で神職に代わって当番を務めた。

宮座や講を組織していた場合もある。

宮座では柳生神社や伊勢神島の八代神社などが有名である。

規模によって、郷社・村社・氏神といった地域の中心的な神社や、共営社といって、町内・隣組で維持運営している物や、屋敷神のようにある一家で設置した神祠(これも、本来存在する神社から勧請した物と、竈神や門神、大黒天などの様な純屋敷内の神とがある。後者では祠も無く、ただ神棚や幣だけの物が多い。これになると最早神社とは呼べない。)

   

共営社には庚申や天白、田の神や水神社など吉凶・商売や農事に関わる物、恵比寿神社の様に漁民の共営神社などがある。

神社や神祠以前の物として、剥き出しの磐座や虫送りの竹竿飾りなど、民間習俗で神道前段階の物もある。ただそこに祠や鳥居が立てば小祠となる。

と、ざっとABC三種に分類してみた。

このほかに、出自別の分類がある。

神道的には、天津神と国津神、蕃神(渡来神)の3分類(これに区別付け難い異神を入れれば4分類)が考えられるが、

次の様な出自別の分類もあり得るだろう。

①縄文系  石神(シャクジン)、荒脛巾(アラハバキ)など

②倭族海人系 海神阿曇(海津神)、大山祇、綿津見、天児屋根命など

③弥生系  田の神、水神、風神、雷神など

④出雲族系 素戔嗚、大国主、事代主、諏訪社など。海神磯良(五十羅)もか?

⑤秦氏系  宇佐神、松尾神社、伏見稲荷、白山神社、白髭神社

⑥和族系  和族王家や各氏族の祖先神、彦山神社、天照大神、春日神社など

⑦仏教・道教系  蔵王神社、庚申(青面金剛)、金毘羅神

⑧その他  出自が確定しにくいもの、賀茂社など

※④⑤⑥が渡来した小月氏三族の祀る神々である。

◇江戸期にいた神職の数は?

先述では、江戸期にあったという19万にも及ぶ大中小の神社神祠の中で、“神職がいたのは2000社という推計”だが、これは必ずしも確実ではない。

江戸中期に、白川伯王家が、吉田神社に対抗して直門人を増やして50余国で300〜400社にまでなっていたという。それが全体の2割だとすれば、吉田系も含めて全体では2000社くらいになるというので、一見その2千社という数

は推計値としてあり得ると思える。

但し、この何社という数は、(当然ながら)必ずしも神職の数とは一致しない。というのは、1社あたりの神職が何人いたかは、神社の規模によっって異なるからだ。今の神社本庁の制度化と違い、江戸期までの神職の職階や職名は、

神社によっても違いが大きかった。

神主・大宮司とか大祝(オオハフリ)等の誰かがトップにいて、次位は宮司か大禰宜とか、その下に権宮司・禰宜・権禰宜・祝などがあり、さらに下位の雑掌職が複数人いた。

よって、中規模の神社では5人程、大神社では10人以上ともなる。

そして、この内白川家もしくは吉田家によって補任状を受けるのはどの職階までなのか?或いは補任申請は、1社あたり一括で行うのか新規に昇任した者だけなのか?補任免許料は人数当たりか、もしくは1社当たりなのか?

実はこういう事がはっきりしないのである。

吉田神社は後世の芸事の家元の様になっており、その免許料が神主一人当たり1両くらいで済んだのか?もしくは神主は5両以上も取り、また別に禰宜までの各人補任料も払わねばならなかったのか?

(白川家の場合は、門人になる形なので、1社の代表一人が補任され、下位の神職はその門人の又弟子という扱いだったようだ。)

ただ幾ら幕府の神社禰宜神主法度に依拠するとはいえ、吉田家の補任料収入は莫大だったと想像される。勿論、推計千数百社の神社が、毎年神官の交替があるわけではないので、数年に一度の申請だとしても、毎年300社からの申請

があるとして、仮に5両平均取るなら年当たり千五百両にもなる。これでは摂関家の年収も上回るオイシイ商売である。

この為、国学者からは、“(別当寺の)坊主と結託して暴利を貪るケシカラン吉田”と非難を受けて来た。しかも白川神祇伯家と違い卜部出身の吉田家は、白川家に代わって神祇伯管領長上という名義での振る舞いだったし、また江戸幕府の宗教統制に加担していたという側面もあり、勤皇派から白い目で見られた。

そこで、免許料を幾ら取りしかも何社に与えていたかは吉田家はずっと秘匿し明治になって廃仏毀釈の風が吹き荒れると、一緒の襲撃さえ恐れたのである。

しかも明治政府によって、吉田家の神職補任権は完全に否定され、僅かに吉田神社単独の神職として残ったのである。

こういう状況があったのに、幕末に勤皇派(例えば十津川郷士隊など)によって襲撃されなかったのは、吉田神社が賢所などの(後世のいわゆる宮中三殿)祭祀を、皇室や白川家に代わって執行していたからである。吉田神社を襲うならば、その祭祀殿も傷つける恐れがあったので、憚られたのであろう。

実際、孝明天皇までは熱心な仏教信者だったから、皇祖皇宗の神道的な祭祀は吉田神社に任せきりで、皇族は仏教的な忌日法事や盂蘭盆行事しかしていないという事情があったのである。

江戸時代には伊勢神宮への神嘗祭への勅使発向は復活した(後光明天皇による)。

かかる事情から、吉田家の文書は秘匿され、また補任申請側の別当寺の記録も廃仏毀釈で焼却され、上記の数的な把握は、不確かな推計に頼るしかない。

また白川家も明治期に没落し、その蔵書類は何と新興宗教の金光教が買い取り当該教団の在岡山県の図書館に収納されている。

しかし識者によれば、白川家文書には、吉田神社の補任の実態に言及した記録は、目下のところ見つけられていないとのことである。(磯田道史氏など岡山の事情にも詳しい古文書研究者の解読を期待したい。)

もう一つ別の資料から、江戸期の神職の数を推計してみる。

これは幕末に、勤王派別働隊にもなった草莽志士隊の内、神職が中心になって組織した遠駿豆三州の志士隊についてである。

遠州報国隊の記録では、参加した神職90名となっている。これが在遠州の神職の7割にも及ぶというので総神職数は約130名。これには鍵取役・下社家などという雑掌(下位神職)も含まれるようだ。そうすると60余州で、約9千人弱。神職が1人という小社もあろうから、平均4人なら2200社に神職が居たという勘定になるので、先述の“約2000社には神職が居た”という説は、案外に遠く離れた推計ではなさそうに思える。

そうすると全国にあった大中小の神社で、神職のいたのは1%という事になってくるのである。

だが諸神宮や大社級では、20人以上も神職が集まっていた所があろうから、実際に中小の神社当たりの神職はもっと少なくなる理屈なので、私は神職のいた神社数は、2000には満たず千数百社くらいとするのが妥当だろうと考えるのである。という事は、旧分国のある地域で、百社ある内、神職の居た神社は一社あるかなしかの密度だったのが実態であろう。(今でも、中小の神社については、その地域の最も由緒ある神社の神主が数社の神主を兼務しているのが実状だ。)

更にその2000社の内、純神道系は一千社もなかったと思われる。式内・式外を合わせてであるが。神職が居ても仏教系・修験系だった神社が凡そ半数位はあったと考えられるのだ。

但し、これらの神職数の推計には、別格の伊勢神宮は含まれない。というのは、伊勢神宮は内宮下宮合わせて(江戸期には)360人もの神職がいたからである。だが、伊勢の神職は、神宮から直接朝廷に補任の要望をする建前であり吉田家の介在はないのである。

ところで江戸期に神職が別当寺の僧侶の支配下にあったとはいえ、神職にはそれなりのメリットはあった。というのは、一つには神職は世襲が出来たという点。もう一つは、神職は身分制度上、士分だった。郷士とか公家侍と同じである。苗字帯刀が許された。また妻帯・世襲も保証されていた。第一お賽銭も入る。

僧侶の場合、真宗では妻帯を認めたが、一般には妻帯不可であるので、寺院の権益を子孫に伝えられなかった。(修験や道者は半俗なので妻帯して子を持つ事が出来た。)

◇江戸期の寺院勢力

他方、幕末には成人男子の1%が僧籍にあった(本来の僧侶と修験者を合わせてであるが)というので、仏教系は神道系に比べて圧倒的に多い。

江戸時代は、里修験まで含めて、僧だというので、町奉行支配ではなかった。寺社奉行支配である。と言っても、幕府では寺社奉行は大名職であり(つまり数万石以下の小大名が任じられて)大概奏者番を兼務していた。町奉行には役宅即ち町奉行所があるが、寺社奉行所という特別な役所は無い。それは寺社奉行の中屋敷などに寺社奉行の事務を扱う中老職や目付がいて、何人かの下士や中間手代を使ってその任務を果たしていたのである。つまり町奉行所の様な専門職の与力同心がいたのではない。だから、寺社の治安維持などにまで人を割く余裕もなかった。ただ江戸府内では(町方は寺社に不入だが)火付盗賊改方の役人だけが寺社にも立ち入る事が出来た。

天領(幕府支配地)では、遠国奉行や代官は寺社取扱担当の手代を置いていた。

大名領では、中老職相当の寺社奉行が任じられていた。だから大名領でも寺社奉行所というものはなかったのである。

この為、治安維持の役人の目が届きにくいので、寺ではしばしば博徒が部屋を借り受けて賭博場を営んだ。賭博場のショバ代を寺銭というのは、博打場に借りた寺への部屋代の支払いに根拠するものだ。

江戸期の寺院の勢力が神社のそれを圧倒した理由は、無論幕府の神社禰宜神主法度によって、一般の神社は必ず別当寺を定めてそこの僧侶の支配下に服さなければいかなかったからだが、ただそれだけでは無い。

キリシタンの禁制を徹底するために、宗門改制度が出来て、公家以下全国民が必ず仏寺の檀家にならなければならなくなったのである。公家と武士を除き、庶民は結婚や養子縁組には必ず檀家寺の発行した証明書が必要になった。士分でも公儀や大名旗本の家臣以外は全てこの規制が適用された。又、旅行や墓参伊勢詣などで居住地を離れる時には道中手形が必要だが、庶民の場合その手形は檀家寺が出す書付だったのである。(無論、幕臣はその支配役職が、藩士は藩庁が道中手形を出した。公家は所司代が出した。)

ところが神職は先述の如く士分ではあったが、事道中手形に限っては、別当寺が振り出したのである。神職は、見習の時には、伊勢神宮や賀茂社など神職の多い神社へ修行に行くこともあったが、その様な時でも、必ず別当寺に願って道中手形を出してもらわねばならないのである。

また神社の賽銭箱への志納銭の開封も大抵は別当寺の役僧の権限だった。

こういう僧侶優位神職劣位の習慣が江戸時代の二百年以上続く内に、国学の流行と共に、何故日本の古来の宗教である神道に従事する者が、蕃神である仏教に従事する僧侶の支配下になければならぬのか?という疑問が恨みとなり

明治初年の廃仏毀釈へと繋がっていくのである。

(因みに修験について言えば、ある地域の触頭もしくは触頭代の先達が道中手形を出す事ができた。これは山伏の横行の都合上であったが、屡々悪用される事があった。幕末に勤皇の志士などが山伏に化けたり、伊勢講や秋葉講に紛れて江戸京都間を往復するのに利用されたのである。)

純神道系神社と仏教系神社を区分したからと言って、私は決して前者より後者を劣位なものと考えているわけではない。

どちらにせよ中世以来近世までの約千年間に神仏習合は、本邦宗教界というより、(形而上の)精神世界を律していたスタンダードだったからだ。

そしてその精神性の浅深という点では、アニミズムに起源する純神道系では神を単に畏敬するしかないのに対し、仏教哲学を背景に持つ仏教系神社の教理は、それなりの奥行きや次元の複雑性を有しているからだ。

明治になって神仏分離になっても、神道界は、旧仏教界のそういう精神性を何とか取り入れられぬものかと試行して来たのである。だが、それは神道を唯一皇国史観の下で、天皇を生き神とも仰ぐ様な、“準一神教化”してしまう挫折を余儀なくされた。第二次大戦後その超克の為に、國學院や皇學館の神学者らが大いなる努力をして来た。

そして今やそれは、神仏習合の見直しという段階に進んでいるのである。

 

           

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