補遺37「謎の摩多羅神」

天孫族考補遺37「謎の摩多羅神」

〜〜志多羅神上洛騒動とエエジャナイカ蠢動〜〜

天満宮は天満宮寺という寺院であって、神道系の純神社ではないと述べた際、北野天神を祀るに至る直前に、九州からシダラ神の神輿を押し立てた民衆が山陽路から上洛してくるという騒擾事件があった事に言及した。

        〈志多羅神上洛騒動(天慶8年:945年)〉

志多羅(シダラ)とは、手を打ち、足を踏み鳴らし、鼓を叩き、鉦を響かせ、簓(ササラ)を擦り、囃し歌い舞い踊ること=設楽。

※この設楽の囃子言葉を次の様に紹介している書もある。

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「月は笠着る 八幡は種蒔く いざ我等は荒田開かん

志多良打てと神は宣う 打つ我等が命千歳

志多良米 早買ば酒盛らば その酒富める始めぞ

志多良打てば 牛はわききぬ 鞍打敷け 佐米負わせん」

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※記録媒体も無い時代にこんな歌詞を採譜出来たものだろうか?恐らく後付けなのであろう。

この志多羅神は、又の名(本来の名?)を「摩多羅神」というらしい。

というのも、シダラ神とは、単に“設楽の神(歌い踊って祭り上げている神)”というのであって、個別的に志多羅という固有名称の神ではないのである。

その時に民衆が舁いでいた具体的な神輿は、「自在天神」「宇佐春王三子(ウサハルオウサンシ)」「住吉神」などとと書かれた額が掲げられていたというからだ。その神輿の一つに「摩多羅神」の額もあったのだという。

つまりあくまでも設楽して舁いだ神輿の一つだった筈だが、全体を志多羅神と称した為に、どれもが摩多羅神だという風に敷衍され混同されてしまったのであろう。

(念仏宗と言っても、念仏を唱えるからそういうのであって、祭祀対象の仏は阿弥陀如来であり、阿弥陀教というのが正確だというのが参考になる。)

では一体この摩多羅神という聞きなれない神名はどういう神なのか?

Suganoという方が、ブログhttp://www.susano.kingchin.jp

で、次の様に書いておられた。

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謎の 京都太秦・大酒神社の摩多羅神(マタラシンorマタラジン)

京都右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある大酒神社(おおさけ)の牛祭は京都三奇祭の一つ。かつては神社祭であったが、現在は、広隆寺が行っている。そのため、広隆寺の「牛祭」と広く言われるようになってきている。十月十日(夜8:00頃)に奇妙なお面をつけて牛に乗った摩多羅神がお出ましになる。赤鬼、青鬼、二人づつ先導にして、広隆寺西門から出て行列をする。やがて、山門の前を通り、東門より境内に戻る。薬師堂の前の祭壇を牛に乗ったまま三周したあと、祭壇に登り、赤鬼・青鬼とともに祭文を読みはじめる。独特の節回しで長々と厄災退散を祈願する。その間も、祭の世話役や見物人などから、やじが飛ぶ。最後に、祭壇から薬師堂の中に駆け込んで終わりとなる。摩多羅神の祭りは、かつて「おどるもあり。はねるもあり。ひとえに百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)に異ならず。(太秦広隆寺祭文)」と言われ、昔は、かなり乱痴気な祭と言われているが、今は整然とした儀式である。摩多羅神のいでたちは白衣装束に紙をたらした冠をかぶり、その頭巾には北斗七星を載いている。この奇相でおかしな摩多羅神、サンスクリットないし、インドの俗語であるといわれるも、その語彙は特定できない。また、仏教の守護神とされているが教典にも定かではな い。どちらかといえば道教神のようだ。しかし、この神名はどこを調べてもよくわからない。天台の学僧であった覚深(かくじん)は、将軍・徳川吉宗のころ(1738年)に、「天竺・支那・扶桑の神なりや、その義知りがたし。支那の神にあらず、また日本の神にもあらざれば、知らざる人疑いを起こす輩もあるべきことなり。」(摩多羅神私考)と述べている。摩多羅神の本性はすでに謎に包まれていたのである。

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ここで、興味深いのは、“菅原道真死後、太宰府周辺から湧き起こった集団が道真の(自在天神の)神輿とほかの(宇佐神・住吉神と摩多羅神の)神輿3基の計4っつを押し立て、歌い踊りながら上洛しようとした事件があった”わけだが、それは遥か千年以上も昔の事であるのに、その摩多羅神の祭礼らしいものが「太秦の牛祭」として現代に至るまで伝来している事である。

◯摩多羅神とは?

摩多羅神は、天台宗の後戸神と言われる。円仁が唐からの帰国の際に世話になった山東半島の新羅人の居留地=新羅坊に祀られていた赤山法華堂の祭神か、もしくは帰国船内で船の守護神だった神ではないか?などとも言われている。その加護により円仁は仏教迫害に転換した唐から無事に帰国出来たという話になっている。

そのため、仏法の守護神として天台宗寺院の祭壇の背後に祀ったとされる。

(この由来から、いわゆる後戸〈ウシロド〉の神と称される。※→異説あり)

しかし、この神は一方で荼枳尼天だとも言われ、稲荷神とも習合している。

一説では、荼枳尼天(ダキニテン)は摩多羅神の眷属の二童子の一体で、も一体は弁財天だともされる。

※だが、中世の異神や変成譚の研究者である山本ひろ子氏は、摩多羅神は後戸神として常在するのではなく、祭祀の特別な時空にその都度勧請されるものだという。山本氏の弟子を自称する本田晶子氏は次の様に言う。

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『異神』で著者は、服部幸雄氏の有名な「摩多羅神は後戸の護法神である」というテーゼに正面から反論を加えた。

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また純仏教神ではなく、インドの神が新羅に伝来したものという説を唱える人もいる。上述のSugano氏もその様に言及している。

そういう様な説では、摩多羅とは摩多+羅であり、摩多はMataで印欧語の“母”を意味する語素であり、羅は“太陽神Ra”だとされる。即ち母なる太陽神という事になる。

こうなるとイメージは天照大女神に繋がってくるのである。(そういう文脈の延長で、摩多羅はミトラ神にも重なる。)

そうならば、天孫族考の観点からは、これをどう消化すべきかを論考しておかねばならないだろうと、私が思ったのも当然である。

異説で摩+多羅だといい、摩はやはり母(日本語でもモという音がある)であり、多羅はTaraでこれも印欧祖語で女神なのだという。

釈迦の母を摩耶夫人というが、この摩耶も同様か?

そのTaraについて、先述のSugano氏は、更に次の様に言っている。

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TARA・タラについてさらに深く知るには、じつにアリアン民族の深層に古来からある女神信仰にふれなければならない。

 毎年、ギリシャのアテネで開かれていた古代の祭で、タラマタ(Taramata)の祭(母なるタラの祭)があった。きわめて放縦な乱行の風習のため「どんちゃん騒ぎ」-Rioting の異名をとったといわれている。

タラマタが「TARAの祭り」であり、ターラー女神を祀ったお祭りだったことになる。---------※①

意外なことにインドから中東、ヨーロッパ、アイルランド、また、中国、日本にいたるまで、原初の太地女神タラがおられる。アリアン民族に共通に見いだせる原初の大地女神の名、「テラ」は、ラテン語で「テラ・マーテル」、ヘブライ語では「テラー」、ゴール語では「タラニス」、エストリア語では「テュラン」。すべて、タラと語源が同じであり、これらの全地域で最初で最古の、もっとも偉大なものとされた。---------※②

日本神話の神アマ・テラも「テラ」の文字が見えるのは偶然だろうか。これは、うそのような話だが、鎌倉・室町時代には摩多羅神と天照大神と同根視する密教の信仰があった。---------※③

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※①のアテネの「タラマタの祭」というのは、私は浅学にして聞いた事がなかった。アテネ神を祀るパンアテナイア祭の事だろうか?

但し、時代の何時かは分からないが、タランテラの祭というものがあったらしい。これは毒蜘蛛のタランチュラを魔神として祭り上げてその毒から身を守る事を祈念した祭だという。しかしこれはテュラン+タラの重複語で、むしろその音からの連想が毒蜘蛛タランチュラになったのではあるまいか?

※②にいうテラが印欧語族の女神を意味する共通語源だとの主張は信憑性が高い。というか多くの知識人がそういう説を唱えている。

※③については、

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叡山真如蔵『玄旨灌頂私記』によると、「摩多羅」とはサンスクリット語であり、その意は「大日如来(大=人間の六大=地、水、火、風、空、識を、日=人間の六識を表す)」であるという。そして摩多羅神とは「六識ノ心王=(六識の心の主体)」であり、脇の二童子は「六識ノ麁細ノ心數(大小の六識の在り処)」を表す。また、摩多羅神が小鼓を鳴らすのは「細念の姿」を、舞うのは「麁強の念」を表しているという。一説には摩多羅神は「八識心王」を、丁令多は「七識ノ念」を、爾子多は「六識念」を表すという。他には、「摩多羅神ハカミカトヨ歩ヲハコベ皆人ノネガヒヲミテヌコトゾナキ」という歌が歌われたという。

※丁令(禮)多・爾子多(尼子多とも)は脇の二童子の名。

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この摩多羅神=大日如来=天照大神の本地という関係から生じた説だろう。

ところが、このような解釈と異なる説がある。東西の神話や宗教の研究、就中古代仏教史の研究を続けて来られた彌永信美氏に依れば、

“サンスクリット語でmatarah は、matr(母)の複数形で摩多羅はその漢字音写だ”というのである。従って摩多羅はある単独の神ではなく、(しかも男神でもなく)複数の母性を持つ女神の総称で、漢字で表記すれば諸母天とか七(もしくは八)母天というべきだと言う。

世界の神話には地母神という概念もあり、諸母天はその地母神の幾つかの変容相だという風に考えられなくもない。

この摩多羅神=諸母天つまり複数の女神説は、江戸時代に先述の覚深も推論していたようだ。こういう文脈から、摩多羅神には鬼子母神とか帝釈天をも含ませて考える説も出ている。

しかもこの摩多羅神は、伝播の途中で摩訶迦羅(マハカラ)天=大黒天とも習合したようだ。私は俗説により、お寺の奥さん(?)を大黒さんという習わしがあるのは、女将さんが大黒柱の近くに座るからだと解して来たが(特に日本では大黒天は大国主と習合したため当然男神と思って来たが)もしかすると大黒天は諸母天(マタラ天)の一つで、元来は女神だったのかも知れない。

だから摩多羅でなく荼枳尼天といい、そこに尼の字が使われるのは、荼枳尼が女神だからではないだろうか?それだからこそ、母子狐の伝説と習合して稲荷=荼枳尼天の眷属が狐になったのかも?とも考えられる。

※インド古語でのマハとは大なるを意味し、カラは黒なので大黒天になる。

マハーカーラはヒンドゥー教ではシヴァ神の化身であり、戦闘・財福・冥府という3つの性格を持つ。 日本伝来の大黒天はその内の在福の神・福神に特化している。

更に円仁が摩多羅神を祭祀したといい、赤山禅院を設けさせてそこで信仰を広めたために有名になったとはいえ、密教の神としては既に最澄や空海が摩多羅神を伝来していたという説もあるのだ。

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乗因の『東叡山縁起』によると、摩多羅神は最澄が勧請し、玄旨帰命壇の本尊であり、天海が東照三所権現の一つとして崇めたことが記されており、さらにそれに続く朱引部分には、「摩多羅神を貶す『僻僧(=霊空光謙などの安楽律派)』がおり、彼等は『摩多羅神の存在の根拠は中国に見られない』と主張しているが、重視すべきなのは異朝ではなく本朝での習合である。」と記されている。

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(上記の天海とは無論徳川三代の黒衣の宰相・天海大僧正の事である。)

なお、上述の“玄旨灌頂”とは、密教寺院に設けられた摩多羅神を祭祀した玄旨帰命壇の前で催された、僧侶の師匠弟子の奥義相承の秘儀の事。

※ 【玄旨帰命壇】げんし‐きみょうだん

〔日本国語大辞典〕の解説

中世の天台宗で行われた秘法。摩多羅神を本尊として、秘密裏に師から弟子に奥義を口伝するもの。のち真言宗の一派立川流の影響を受け、愛欲貪財の邪教と化し、江戸中期に禁圧された。

「ブリタニカ日本語版」で補うと、“摩多羅神を祀りその壇前において仏祖の玄旨と修行者の帰命に関する公案を与え,修行者に答えさせて,秘密裏に印可して最高秘密の伝法としたもの。のちにはみだらになる傾向を帯びてきたため,元禄年間 (1688~1704) に禁止され,典籍は焼却された。”

これは、中世末から近世初期に、玄旨灌頂が師弟間の衆道の外道に落ちてしまったからである。古代史の範囲を外れるので、ここではこの問題にこれ以上は立ち入らない。立川流というより“城弍汚川”流の醜聞に亘るからだ。

これでは灌頂ではなく浣腸の話になってしまう。

但し俗説では摩多羅を魔羅と多羅だとし、前者を男根、多羅を女陰(もしくは男のお釜:総称して盥=タライ)などとするものもあるらしい。

話を戻すが、先記の説によれば、円仁が山東半島の赤山法華堂で初めて出会ったのでなく、彼が叡山にいた頃に知っていた摩多羅神に山東半島で再会した事になる。

この初期の摩多羅神=大日如来説は、時代と共に変化して、中世には金毘羅神と同じだという説や、大日如来の変化としての阿弥陀如来の事だとされて、念仏宗とも混淆して行くのである。

◯踊り騒擾事件

平安前期の志多羅神上洛騒動、鎌倉期の一遍上人による踊り念仏、そして江戸末期のええじゃないか騒動。これらに共通するものは何か?

平素の日本人の起居動作からは飛んでいる様に見える“踊り騒ぎ”だ。

田楽や神楽なども舞踊だが、これらはある秩序空間内で演じられる。海人の磯良舞などでもそうだ。これも一種の神楽と見る事が出来る。これらの舞踊の原点は神話の天鈿女の命の岩屋戸前の踊りだとされる。しかしそれとて、岩戸の前に設えられた祭壇上の踊りである。形を変えていうなら、これらは、ある結界内の舞踊である。近世初期の出雲阿国の歌舞伎踊りも河原に設られた舞台上という意味で、その範疇に入る。

しかし、踊り騒ぎの場合は、限定された空間内に留まらない。日常的な空間に飛び出した騒ぎ(歌舞音曲)であり、言い換えればその踊られる日常空間が歌舞によって、俄に非日常空間化してしまうという異様性がある。

これは空間の変成(ヘンジョウ)とも言える。

摩多羅神と歌舞音曲の関係については、次の様な見解があるらしい。

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実俊の『摩多羅神軌儀』によると、摩多羅神は「妙観察智・根本万法」の元の神であるとされ、かつその体は「元品無明」であるとされる。摩多羅神が錦装束や黒冠を着け、歌を歌い鼓を打つと、二童子が立ち舞うという。その二童子は、空であり肩に青色の錦を打ち懸け「弊零」を着る「丁禮多」と、仮であり赤色の錦を打ち懸ける「爾子多」であると説明される。二童子は倶に左手に茗荷を持ち「指々利子爾子々利指(理体惣持の梵語)」、右手に竹葉を持ち「蘇々呂蘇蘇爾ソソロ蘇(智慧惣持の梵語)」と歌う。中間にいる摩多羅神が座り鼓を打つのは、“「十波羅蜜の鼓」を打ち「十界を舞」い、「二徳」を施すこと”を表しているとされる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E5%A4%9A%E7%BE%85%E7%A5%9E

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しかしここ迄来ると、こんな説は衒学的な後付け説だとしか思えない。

但しこれに関わっては、次なる言説がヒントになろう。

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主に天台系寺院の常行堂に祀られる摩多羅神にとって、八月は年頭の修正会に次ぐ活躍のとき。堂衆らが後戸で跳ね踊り、めちゃくちゃにお経を唱え、「ゲニヤサバナム(まことに障礙してほしい)」と摩多羅神を驚発する、大念仏会「天狗怖し」の行われる時節。 (山本ひろ子著『異神』第二章)

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※ゲニヤサバナム→(まことに障礙してほしい)というのは、山本氏の解釈だが、「げに(現実に)娑婆なむ」であり、“まことにこれこそ娑婆の現実だ”という事で、「サバサバする!現世の骨頂」という高揚感の嘆声だというのが

一般的な解釈だろう。“天狗怖し”とは“天狗をもおどろかせる”突飛な動作を指していう。

またこの跳ね踊る人をハネト(跳ね人)や羽根子というのである。

※青森ネブタで踊り狂う人々もハネトと呼ぶのはこの延長である。

歌舞伎の達陀は二月堂の修二会の僧達の踊りを模した物

この様に、摩多羅神と踊り狂いには強い連関が見られる。

また私は、特に平安の志多羅神上洛騒動と江戸幕末のええじゃないか騒擾の二つは、それぞれ、古代から中世へと、近世から近代への時代の大変革期に先立つ予兆ともいうべき事件として注目した。

更に一遍の踊り念仏は、鎌倉時代中期の事とはいえ、執権政治の確立期に向かおうとしている頃(やはり変革期)に起きたものである。

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弘安二年(1279)  信濃国佐久郡伴野の市庭の在家にして,歳末の別時のとき,紫雲はじめてたち侍りけり.抑抑(そもそも),をどり念仏は,空也上人,或は市屋,或は四条の辻にて始行し給けり.......それよりこのかた,まなぶものおのずからありといえども,利益猶あまねからず.しかるを,いま時(に)いたり,機熟しけるや. 同国小田切の里,或武士の屋形にて,聖,をどりはじめ給ひけるに,道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ,次第に相続して一期の行儀と成れり。~中略~「おどりて念仏申さるる事けしからず」と申せば、聖、「はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの のりのみちをばしるひとぞしる」

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  ※聖とは勿論一遍上人の事である。“はるこま”は春駒。

平安末期に空也上人が念仏称えの一つの形として創始したものだ。それを一大民衆運動のレベルにまで高めたのが一遍であった。

鎌倉時代も、源氏三代までは、武家政治の開始とは言え、実際上京都の院+朝廷+摂関という中世前期の政権との二重権力構造の時代だった。

それが、北条執権治世になって漸く武家中心政治が確立したのである。

という理解は、あくまでも上部構造としての政治過程の事柄でしかない。

この時期は、下部構造では平安時代以来の荘園制が解体して行き、荘園と武家領の二つが併立しつつも、荘園の実際上の支配権を武家側の地頭や守護が奪権して行く過程である。こういう時期は最下部構造の民衆世界は混迷を極めて行ったものと思われる。その民衆の不満が、新興クシャトリヤの武士の暴力の前では反抗運動や反乱にまで達する事ができず、念仏踊りの狂乱でガス抜きされたのである。

こういう下部構造が革命的に上部構造を転覆し得ない環境で起きている狂乱騒擾事件として見れば、平安の志多羅神騒動と江戸期のええじゃないか騒擾とも相通するものがあると言えるだろう。

踊り念仏の場合は仕掛け人が一遍だとはっきりしている。

しかし他の二つの騒動は仕掛け人がはっきりしない。

ただ幕末のええじゃないかについては、意図的に伊勢皇大神宮のお札を降らせた者たちがいた筈である。実際に私の高祖父の従兄は秋葉宗の先達格であったが、管轄する東遠州の大井川筋の街道で「指示を受けて配下の山伏達に皇大神宮のお札をばらまかした」と言っていたそうである(=祖父の話)。ではその指示は何処から来たかと言えば、石清水八幡の神職から、鳳来寺山や秋葉山の山伏に指示が出て、お札も配布されて来たと言う。

幕末に石清水八幡宮の神職層は、国学を信奉し勤皇派の中核の一つとなっており、それ故に禁門の変の時には石清水が長州藩の屯営になったのである。

ところが、道真死後間も無くという平安前期の時代の志多羅神騒動については、この種の扇動者がいた事を示唆する記録はあるらしいのだが、それが具体的にはどういう階層の人であったかについてははっきりしない。

しかし、摩多羅神と道真の神輿が山陽路を、踊り狂う民衆を伴いながら上洛の途についていた事は、平安貴族等が書き残した日記などに記されている。

但し、摩多羅神騒動は、都の一歩手前の山崎で突如対岸の石清水八幡宮へと方向転換し、そこで神輿を八幡宮に奉納して収束してしまう。

検非違使の手下など公家側の放った密偵が、群衆に混じりこんで「石清水へ行こう!」と叫び、群衆はその声により八幡宮へと向かい、その神前で鎮静されてしまったのだろうと推理する。

伝承では、群衆の中にいた一人の巫女が「神輿は八幡宮で祀れ!」と託宣を大声で言ったとされているのだが。

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遥か西国に発したとされる神輿の行列が、日々道行くに連れ数を増し、対岸の山崎郷辺りでは老若男女数千万(!?)にまで膨れ上がって、熱狂的に歌い踊りながら、石清水八幡宮へと一斉に雪崩込んだ。

放生会の準備に勤しんでいた八幡宮の側でも、これは創建以来の大騒動、何としても穏便に鎮めなければ・・・ということであったに違いない。

かくてこの志多羅神は、村々の豊饒を約束する福神(フクノカミ)としていわば"公認"され、石清水八幡宮に鎮座することになった。

現在水分社(ミクマリシャ)が鎮座する、石清水八幡宮東門の傍らに、かつて志多羅社という摂社があった、と謂う。

      ---------平野一郎氏のブログ「八幡巡礼」より

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扇動者と鎮圧側(為政者、この場合は藤原氏を頂点にした朝廷政権)との間でなんらかの裏取引もあったのではないだろうか?

というのも、この直後に、民衆の願いを聞き届けるという体裁で、北野の地に、道真を祀る天満宮寺が開創され、しかもその殿舎の建設費を負担した事で、天満宮寺は政権側の藤原家を加護する寺院だとされるのである。

神輿行列が摂津を淀川上流へと上って行った過程で、おそらく三島も通過しているはずだ。すると、ここでも八咫烏が働いたのであろうか?

この天慶8年という年は、紀貫之の没年である。漸く一部識者が平仮名を使い出した頃だ。恐らく一般庶民の識字率は数%以下であったろう。にも関わらず、神輿が神名を書いた額を掲げていたというのは信じ難い。もし本当にそんな字が書かれていたとすれば、地方官級の下級貴族かその一族が扇動者に加わっていた事になる。だが私はこの額を載せていたというのは、後世の附会や想像ではなかったかと疑うのである。太宰府近辺を出た時は、神輿は一基だけであり、当然それは道真の神輿だったろう。それが、都に近い摂津辺りに来て、複数の神輿に増えたのではないか?いや、もしかすれば神輿が太宰府から来たというのもデマであり、河内にあった菅原(土師)氏の田荘辺りから、道真の残党が仕立てたものだった可能性も無しとは言えぬ。

(土師氏の所領は藤井寺の道明寺にあった。文楽の「菅原伝授手習鑑」でも道真が配流の別れに立ち寄った伯母の覚寿尼の土師寺がそこだった。)

それが摂津路から山崎街道に出て、群衆がシダラ!シダラ!と囃した。そのシダラ(設楽)の意味が理解されぬままに、音の近い摩多羅神と紛れたという事もあり得ると考えるのである。→※設楽=シダラについては後で論考。

踊り念仏も、反権力というレベルに達する前に、一遍の死と遊行寺の開創によって、宗教活動の枠内に留まり、爆発点に達する事はなかった。

念仏踊りは、各地の盆踊りや笠踊り等の民衆芸能化して行き、いわば骨抜きされた状態になっていく。念仏が再度エネルギーを集約するのは、信長などの下剋上した武家勢力によって弾圧され、一向一揆となって対峙した;戦国末期の事である。

この場合は、織田信長の武力によって大阪石山本願寺が苦戦し、漸く一向宗側が鉾を収める事で終息して行く。

一方、ええじゃないかは扇動者がその目的を達したと見た時、即ち討幕軍が進発する直前に俄に終息するのである。その観点からは、ええじゃないかは最も意図された、一見自然発生に見せかけた、謀略の仕掛だったと言える。

しかし、いずれにせよこういう民衆の精神エネルギーが一見臨界点に達したと見えながら、最終的には革命に成らずに終息してしまうのは何故か?

山本ひろ子氏について述べる本田晶子氏は次の様に言う。

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摩多羅神は常行堂という、堂に集う人々の結社の神であったことを。摩多羅神が勧請された部屋での、神と堂衆らとの緊密な交わりを。神威発動の様態と〝部屋〟とは不可分の関係であることを(第七章)

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実に、摩多羅神は結社の触媒となるものだったのだ。しかしその結社は所詮宗教的行事の空間とその延長下の(日常空間の一時的な)変成空間に於いてのみ存在するものだったので、変成の闇が夜明けと共に消え失せた時に、摩多羅神も只の木彫りの神体に立ち戻り、それまで狂乱していた民衆も、すっかりその乱舞の興奮を忘れて、平常心に戻ってしまうのだと思われる。

だが、こういう乱舞は幕末までで終わり、近代に於いては、夢幻的世界とはほど遠く、米騒動の様な単なる物理的な暴動にとって変わるのである。

第二次大戦前の河内地方の河内音頭や、戦後ではバブルの時代のディスコのお立ち台で狂乱の踊りを見せた若者、原宿のかつてのタケノコ族とか、ほんの昨今までのソーラン踊りの群舞には、踊りのエネルギーはあっても、結社のそれは無い。単なる一時の仇花である。また今ブームになりパリ五輪にも採用されたブレイキン(ブレイクダンス)は決め事の中のものでしかない。

※一時流行った踊る宗教というカルトも同様である。但し、それは昭和21年という終戦直後の混乱を背景に、天皇制を利用した軍部独裁の超国家主義の雁字搦めだった体制の崩壊時に、行き場のない一部民衆のエネルギーを集熱したものではあった。教祖北村サヨが創始した天照皇大神宮教である。

◯流行神

このようなある時代の変革期に突如として現れる新興の宗教的狂信を流行神(はやりがみ)という概念で括る事がある。

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流行神(読み)はやりがみ

突如として出現し、ごく短期間に爆発的に流行して熱狂的な信仰を集める神や仏の総称。よく知られているものに、7世紀に現れた常世神(とこよがみ)、10世紀の志多羅神(しだらがみ)、11世紀の福徳神、それに近世の鍬神(くわがみ)や幕末の「ええじゃないか」などがある。その性質上、信仰圏は地域的に制約されるが、かならず霊験(れいげん)をつくりだし喧伝(けんでん)する宗教者の存在が認められる。流行神の出現形式は、〔1〕天空飛来型、〔2〕海上漂着型、〔3〕土水中出現型に分けられるが、なんらかの社会的緊張感が高まる時期と符合することは注目される。なお、近世には、経済的基盤の不安定な寺院が、持仏(じぶつ)などに現世利益(げんぜりやく)的な霊験を付会(ふかい)して流行神を仕立て上げ、信者を獲得するといったこともみられた。     [佐々木勝]

      出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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そこで、大化の改新の前に出現したという常世神と近世初頭に出現したという鍬神についても見ておこう。

常世神とは、皇極紀に記される東国富士川周辺で、大生部多が拡めたとされる新興宗教で、揚羽蝶の幼虫=芋虫を、富と長寿を約束する神だとして尊崇させたという。

これを邪の教だと飛鳥の朝廷が考えて、秦河勝に鎮圧を命じたのである。

大生部は壬生部の一つであり、多氏が管掌していた。そこで多氏と仲が良く事情にも通じた秦氏が鎮圧の任に当たることになったものと考えられる。

河勝はこの時は既に高齢だったと思われ、先鋒は専ら子息の秦久能が務めた。久能が戦後現地駿河国に土着して屋敷を構えた所の背後の山が久能山なのである。また久能が屋敷を作るために原野の草を刈った辺りを草薙と言った。この草薙は、中世以降に記紀盲信の修験者によってあの日本武尊の遺跡とされる。草薙の剣の故事と習合したのである。

河勝は、当時の駿府が富士川と沼津の間にあり、遠江の国府である見附(磐田)と余りにも離れていて連絡が悪いので、安倍市のあった安倍川の畔に移し、代わって伊豆国府も三島の地に北上させた。これが後世、律令によって固定された遠駿豆の体制である。

これらの征圧行動によって、天龍川東から伊豆迄が秦氏の勢力圏となった。

河勝起用の理由については、河勝の秦氏が養蚕業の本家であり、糸も吐かぬ芋虫を崇拝する輩は、邪宗であり敵だからとする説もある。これはいささか穿ち過ぎであり、むしろ崇仏派の河勝だから、邪神教の大生部多とその信者鎮圧する任に当たらせたのであろう。

江戸初期に、中部・東海地方に流行した「鍬神(くわがみ)信仰」は、伊勢の御師(おし)が、神田の種下ろしに使ったという鍬をご神体にして、村から村へ送りながら踊り歩くという現象で,豊穣を祈願する祭りとみなされて

いる。これはやがて流行するようになった〈お蔭参り〉や幕末の〈ええじゃないか騒動〉の現象にも通じていく。これも幾つかのヴァリエーションがあったと思われる。

江戸中期の国学者の天野信景著『神祇祭祀略記』を紹介している人に依れば

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当文には意味をなさない語句があるので、写本の可能性があります。

元禄十六年癸未(1704)の秋、美濃国恵名郡神野村より鍬神とて祭り申し、村駅を伝え上州高崎に至りし、有司(※役人)怪しと追い返して禁ぜられし、ー其の初めは大神宮神田(ミトシロタ)の神事に用いし物とて桑の木の鍬形を師祷家(御師?)近世近き国里に販附を土民田圃を持ち回り豊作を祈り、村より村へ送り渡し戯芸を能(よ)く祝い、終りには其の処の神祠に納め置きなどす、

根元本鍬を神として祭るのみあらず、村民愚かわしく神の如く崇む、世の人諸社の大麻等を、謀計の奸民他、計なく祭り渡らせし也、鍬神の名さえ申し来たりて民の惑となりしべし

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という事で、やはり田楽などの伴奏が演じられたようだ。元禄十年代は綱吉治世下であるが、元禄15年は赤穂浪士討入り事件があり、翌16年末には、M8クラスの元禄関東大地震が起きて、小田原〜湘南地方と房総地域が壊滅的な被害を受けるのである。鍬神の流行は大地震前ではあったが、柳沢吉保が専権する政治体制で、犬公方綱吉の乱世の時代だった。(生類憐れみの令の苛政は元禄7〜8年。)後世なら百姓一揆になるような農村の諸矛盾も、未だ発火せずに鍬神祭りのような形でガス抜きされたものと想像する。

流行地は中部・東海地方とあったが、実際は東海〜北陸で、尾張・三河・伊那・信州・美濃から北陸富山にまで及んでいる。

後世その騒ぎの後に氏神として祀り、御鍬神社として現存するものもある。しかし農事の神だとは知られるものの、今はその謂れを知る者は少ない。

また南信・飯田の日吉地区では、お鍬祭りが風流踊りの形で伝来している。

◯設楽=しだら、シタラとは?

一応の解釈は、situraeru-raku →sitar-rak→sita-ra→ sidara という音約であるというものだ。(以前、沖縄の地名に勢理客と書いてジッチャクと言うものがある事を紹介したが、設楽=シダラはそれに匹敵するくらい飛んでいる。)

異説には、節楽(フシラク)→セツラク→設楽→セタラ→シタラの変化であるというものもある。節は拍子を取る事なので、拍子楽でもある。この実態が手拍子だったという事だろうか。

辞書的には、

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しだら 《「したら」とも》

1 歌や舞に合わせて手を打つこと。手拍子。

2 手拍子を打って歌う子供の遊び。

しだら‐うた【しだら歌】 《手をたたきながらうたう歌の意》

1 伊勢神宮で、鳥名子 (となご) 舞のときにうたわれた歌。

2 平安時代、しだらの神を祭るときにうたわれた歌。

 ※ となごまい 【鳥名子舞】

伊勢神宮で六月十七日に行われた童男・童女十八人でする舞(鳥名子は伊勢神宮に奉仕して雑役をする女性をいった)。

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というのである。※鳥名子に神宮の稚児も加わっていたのだろうか?

多武峰の常行三昧堂の摩多羅神祭祀でのお囃子歌は、

〽︎やァ摩多羅神は仏かな 仏かな

〽︎やァ仏かな参れば願ひを 観て給ふ 観て給ふ

というような歌唱を手拍子で繰り返すというものらしい。(無論2拍子)

ある識者は、シダラは元はシタラで、

シタシタシタラ、シタシタラ(pan pan papa pan, pan papa pan ⌧) という手拍子の事だという。

だから“ふしだら”は、シダラを外れている=調子外れ→規則破りから来ているとの説もあるのだが? (シダラナイ→ダラシナイも同類だとか。)

三河国に設楽郡という郡名があり、ここの出身の国侍が設楽氏を名乗った。それで、この地名の設楽はどうして付いたのか、古来謎だとされて来た。

先述の山本ひろ子氏は、設楽郡(と隣接する信州伊那地方南部と)に伝来する花祭りや霜月祭りに登場する白山が、あの世への次元ワープの入口・出口であると考えた様で、この白山という白衣で設られた天幕が、天台宗寺院の常行堂の修正会で摩多羅神を勧請する“部屋”と同義なものだとみなす。

そして白山入りから出て再生する時に奏でられる音曲が設楽なので、この設楽祭りの行われる地域に特に設楽郡の名が付いたという解釈なのだろう、かと思われる。

三河設楽郡の東根村郷土資料の花祭りについての説明を引用する。

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豊根村に土着した修験者たちが、花祭りの原形である大神楽を創出した目的は、修験道の教義を村人たちに理解してもらうことでした。

修験道の教義は、人々の災いは人の犯した罪汚れによって起こるとされ、罪汚れを払い新しい自己となること(生成・再生)を説くものでした。

そのため大神楽では、村の子が神の子として誕生し、無事に成人する〔生れ清まり〕(生成)の儀礼と、60歳をむかえた神子が、仮に死んで彼の世である白山に籠り、生まれかわって此の世に誕生する〔浄土入り〕(再生)の儀礼が、数々の芸能を交えて行われました。

修験者たちは当時都で流行していた歌謡(うたぐら)・舞・能(禰宜・巫女・翁・鬼)といった芸能を大神楽に採り入れ、村人たちに修験道の教義である、生成・再生をわかりやすく演じて見せたのです。

その後、大神楽が短縮された形の花祭りが誕生すると、大神楽の中心祭事であった〔生れ清まり〕(生成)、〔浄土入り〕(再生)の儀礼は削除され、祭りの目的は解り難くなりましたが、舞庭に呼び降した神仏と村人とが交遊する〔神遊び〕をとおして、この祭りの目的が生成・再生にあることが強調されました。

神仏と村人たちが交遊する〔神遊び〕の主体は、舞庭で舞われる数々の舞にありますが、花祭りの舞庭には舞台はありません。舞を舞う舞手も村人と同じ位置で、同じ空間で舞を舞います。舞手たちは舞庭に降臨した神仏が依り付いた神仏です。村人たちは、神仏の顕現した舞手と共に舞うことで神仏と交遊し、神仏から穢れを祓われ清められ、新しい生命力を授かるのです。

また鉞を振るって舞う鬼と共に舞う村人たちも、鬼の強力なパワーを授けられ、強力な身体と魂を得て生まれかわる、生成・再生を体感するのです。

花祭りは村人が神仏の憑依した舞手や、強力な鬼と共に舞うことによって、新しい自己への生まれかわりを体感する再生の祭りです。

 (中略)

舞庭には舞手と村人を隔てる舞台などはなく、舞手と村人が一緒になって舞います。ですから花祭りの舞は、芸能としての舞ではなく、舞手に神仏が依り付くことに力点がおかれています。

回って回りかえす同じ所作を何度も何度も繰り返し、繰り返して無我無心になった舞手に神仏が依り付くのです。

青少年の舞、鬼の舞、舞手たちは降臨した神仏が依り付いた神仏です。

村人たちは、神仏の顕現した舞手や鬼と共に舞うことで神仏と交遊し、神仏から穢れを祓われて、新しい生命力を授かるのです。

花祭りの特色はこうした人と神仏との共演、交遊にあります。日本の祭りの多くは見る祭り、見せる祭りですが、花祭りは祭りに参加し、神仏と共に舞うことで新たな生命力が授けられる全員参加の祭りです。

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この花祭りは、村落内の舞庭で演じられるものだが、この群舞が移動の形態になったのなら、平安の志多羅神を奉じた群衆を想起する事が出来るのではないか。

(志多羅神騒ぎは、平安末の長和ニ年にもあったという。この時は、群衆は京都の船岡山まで来て、そこに祀り上げて鎮まったという。織田信長を祭る建勲神社があるが、それは後世のことなので、今はそこの摂社になっている妙見神社がこの平安末の志多羅神が鎮まった神祠ではないかと思われる。古くは摩多羅神が妙見=北極星だという信仰理解もあったからだ。)

☆摩多羅神=秦河勝説について

以上の諸説の他に、中世後期に能楽師達(金春善竹や世阿弥)が云い出した;"摩多羅神は秦河勝だ"という説がある。

これは秦氏系の出自を持つ(観世親子は伊賀の服部氏出身)能楽師達が、申楽の起源について、摩多羅神祭祀に於ける舞踏を見て、太秦の広隆寺(河勝の本名は秦広隆だという)の牛祭の摩多羅神と広隆寺の創建者である河勝を結びつけて提唱した説である。

即ち、この説では、申楽の創始者もまた秦河勝だとするのである。

しかしこのような能楽師らによる説は、明らかに逸脱であり、我田引水と言わなければならない。

河勝がいわゆる文武に優れた人であり、また大和武士団の長谷川党の開祖と考える説があり、こちらの方は信憑性が高そうである。

だが武芸も中世には一つの芸ではあったが、他方で河勝が芸能の祖だとする歴史的な痕跡は乏しいのである。

さりながら、白拍子や白丁、傀儡子などの芸人が秦氏の統括下にあったとする論もあるので、芸能と秦氏の関係を一概には否定できない。

(武士団では無い長谷川には、江戸期に歌舞伎舞台の大道具方などを伝承した長谷川舞台集団などもあるからだ。) また川勝は当然に河原の支配権も有するので、河原者の芸能者が秦川勝の支配下にあったと言うのは当然だろう。

(秦川勝の支配は、土堤にも及んでおり、全国の渡守は秦氏の部民だったという事も想起される。)

とはいえ能楽師の説は、元来下層芸能民であった思われる能楽の徒が、自らのルーツを貴種に求める願望の反映(箔付け)でしかないだろう。

但し、修正会・修二会の舞踏や、毛越寺や叡山など、特に明治以降談山神社となる多武峰の聖霊院妙楽寺の、常行三昧堂の摩多羅神の祭祀に於ける大衆(いわゆる山伏と同じ修行僧)の舞踏・舞踊や、その時の延年の舞・三番叟の翁舞などに猿楽の原点を見出す考え方もある。

またそれら山伏芸の延長下に成立して行く各地の神楽や民謡等もまた、猿楽の一つの源流か傍流と考えられる。

だから能楽師が摩多羅神祭を能楽の源流と見る見方は間違ってはいない。

だが、そこから一挙に秦河勝へ短絡するのは付会である。

☆天海の勧請した東照宮の摩多羅神

先にも引用した;

“乗因の『東叡山縁起』によると、摩多羅神は最澄が勧請し、玄旨帰命壇の本尊であり、天海が東照三所権現の一つとして崇めたことが記されており”

というように、東照宮は勿論主祭神は神君・徳川家康だが、そこに天海は、摩多羅神を共祭した。もう一柱は山王日吉権現。これが天海の展開した山王一実神道というイデオロギーだ。

※ 世界宗教用語大事典(中経出版)に依れば

さんのういちじつしんとう 【山王一実神道】

山王神道・日吉神道・天台神道などとも。天台の教理と比叡山の地主神日吉山王(大山咋神)とを結びつけて創始した神道。最澄の唱道と伝え(異説あり)天海が力説した。山王の名は中国天台山国清寺の鎮守神の名。滋賀県大津市の日吉大社は最澄創始の山王権現として有名。猿が使者といい祭礼も申の日に行う。その独特の鳥居を山王鳥居という。山王曼荼羅もある。

それは摩多羅神の霊力を借りて東照神君による関東支配・江戸支配を一つのコスモロジー(神的宇宙)として完璧化しようとしたものだという。

京都の比叡山に対置したのが東叡山寛永寺である。延暦寺に対して寛永寺。

ただし、ここでは摩多羅神は体制護持の神格となり、民衆の下方からの熱を解放するエネルギー源とはほど遠い。

第一、一般民は東照宮に魔羅多神などというよく分からぬ神が共祭されている事自体を理解していないのだ。

もしかすると、天海は、摩多羅神が民衆のエネルギーを集めて徳川の体制を覆す事を未然に防ぐ意図までもあったのだろうか?

なお本来の山王神道では、主神は大己貴神であったが天海はその位置に家康の霊位を据えた。家康が大己貴神の変化だとでも言うのか。また天海は日光東照宮の奥の院の多宝塔に、仏舎利の代わりに家康の遺骨の一部を収めた。あたかも家康は釈迦の生まれ代わりでもあるかの様である。

これは天海に於いては、伊勢神道の天照大神と豊受大神の皇大神宮に日光山の三所権現を同等以上のものとして対置しようとするものであったという。

天海は幕府の奏請により慈眼大師の法号を賜っている。

(天海と弟子でもある家光は、精神的衆道の関係にあったとする説もある。)

しかし幕末のええじゃないか騒動は、その天海が抑制しようとした伊勢神宮のお札が天から降ることによって始まるのだ。

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