補遺38「藤原不比等と海女」

天孫族考補遺38「藤原不比等と海女」

藤原不比等と海人族

藤原氏の実質的な家祖であった不比等には、海人族との関係があるのではないか?という問題提起をしたのは、今は亡き梅原猛氏である。

それは、不比等の子であるとされる宮子と、男四兄弟の次男である房前の二人が公に伝わる母からの出自ではなく、それぞれ紀州と讃岐の(海人族系)海女が実母であるとする伝承が、濃厚に存在した事を指摘したのである。

宮子と房前の母は海女か

宮子は何と言っても、文武天皇の妃となり、首皇子(即ち聖武天皇)の生母となった;そして聖武即位後、皇太夫人の称を許され、かつ女性で最初に正一位の位を授与された人物である。

一方、藤原房前は、いわゆる藤原四兄弟の次男として、後世の藤原一族中で最も興隆した藤原北家の祖であり、大宝3年(703年)に巡察使に就任。後の霊亀3年(717年)に兄武智麻呂より先に参議となった。父不比等の死後に元明上皇の命によって内臣となる。不比等は武智麻呂より房前を後継者視していたという。

これら二人の異母姉弟が、ともに海人系だというのは、事実は証明し難いが、藤原氏と海人との潜在的関係を示唆するものだと思われる。

二人の海人との関係を窺わせる伝承を考証していこう。

藤原宮子の数奇な運命

宮子は、公には不比等と妻妾の賀茂比売との間に生まれた不比等の長女だという。

賀茂比売というのは、賀茂氏の息女だというだけであり、名は伝わらない。しかし賀茂比売は賀茂小黒麻呂の女だとされる(『尊卑分脈』『賀茂系図』)。

ただし、近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』では、年代が合わないとして小黒麻呂の祖父・鴨蝦夷の女に比定している。いずれにせよ、賀茂比売は架空の女性ではなく実在は信じて良いだろう。

不比等の幼少時の屋敷は山科だったので、丘一つ越えた山城盆地の東縁は賀茂氏の支配地であるから、不比等が賀茂氏の娘を妻の一人にしたというのは突飛な話ではない。

さりながら、ではこの賀茂比売なる女性が、宮子の実母かどうかは疑わしい。養女だった可能性は否定できない。

伝承では、宮子は紀州の海人の所生で、自らも少女時代は海女であったとされる。

その伝承とは、紀州の道成寺の「道成寺宮子姫傳記」という書物である。(但しこの傳記は江戸時代のものなので、甚だ信憑性は乏しいとされるものの、他に同種の伝承は中世にまで遡るという。まるきり後世に突発した話題では無さそうなのである。)

それによれば;宮子は紀州の海人九人兄弟の末の妹に産まれたという。海女の娘らしく、小さい時から潜水漁法が得意だった。生まれつき髪が長く美しかった。

ある時、海底から光が差して不気味だとの噂があり、その娘が潜って見ると海底に仏像を発見した。それを長い髪で巻き包んで岡に上げた。それは観音像であった。

(この観音像は木造だったという説もあるのだが、木造なら海底に沈むのは変なので、やはり金銅仏だったのだろう。)

髪長娘は宮という名だったというが、これは彼女が兄たちに粗末な祠を作って貰いそこに観音を安置して日頃信心に励んだので、その祠を観音の宮と呼び、その祠を護る娘なので宮と言ったのではないか?との説もある。

(また別の異説では彼女は生まれつきは禿頭だったが、観音の祠を護るようになると急に美しい黒髪が生えて来たという。)

ともあれ紀州で宮が観音を祀っているちょうどその頃、都・藤原京で奇瑞が起こる。

不比等の屋敷の南門(御所の門という異説もあり)に巣をかけていた小鳥が長い黒い糸を咥えているのを家人が気付き、それを巣から取って不比等に見せた。一目で女人の頭髪と分かるもので、なお長くかつ輝いて美しかった。

不思議なことがあるものと、参内して文武帝に報告すると、帝は大層興味を持ち、その黒髪の持ち主の女人を見つけよと命じた。

勅を報じて役人が各地に派遣された。たまたま紀州に来たのは不比等の腹心の粟田真人だった。黒髪の評判を聞いて、九人の海士のいる里に来かかると、何やら祠の前で美しい黒髪の女が祈りを捧げている。

帝が召しているので、同行するよう求めると、私はここの九人の海士の末娘なので、兄の許しが無いと他地へは行けぬという。そこで兄弟に訳を話すと、これはさては観音の御利益だろうから都に行けというので、宮は真人に連れられて不比等の屋敷に入る。

海人の娘そのまま帝に拝謁させるのは恐れ多いと、屋敷で一通りの礼儀を習わせまた不比等と賀茂比売の養女として、宮子姫と名付け、着飾らせて参内させた。

大層な美しさに帝は喜ばれて、妃にすることにした。

(ここまでは、和風のシンデレラストーリーである。)

さてこれで疑うべきは、本当に紀州から粟田真人が見つけ出して来た娘だったのかという事だ。実は初めから不比等の屋敷にいた海女出身の髪長娘を、あたかもその黒髪と小鳥の巣の奇瑞譚を作り上げて、参内させたのではないか?と疑われるのである。

とは言え、紀州に縁のある娘であった事は、次の話から推測される。即ち、宮子は「自分が上京後、あの観音様の祠が護持する者が失せて荒廃しているのではないか心配だ」と不比等に言ったので、不比等は帝に宮子の思いを伝えた。帝はこれを聞こし召して、直ちにその観音を祀る寺を建てよと不比等に命じた。

そこで不比等は、同じく腹心の紀道成に命じて、その観音を祀る勅願寺を建立するように命じた。道成は紀州に入り、率先して工事の指揮に当たったが、道半ばで材木の調達中に筏から転落して水死した。道成卿の遺志を奉じて関係者が突貫で

工事に当たり、寺は都の大寺と同規模の壮大な伽藍を持って完成した。推進者の道成卿の名を取って「道成寺」と命名された。文武天皇勅願の寺である。

→つまりここからは、道成寺の創建譚になる。

しかし、紀氏の系図に道成の名がない事から、同時代の紀麻呂の別名だと通説では解釈されている。(異説では、紀道成ではなく橘道成で、不比等の高名な後妻の県犬養三千代=光明子の母の、前夫美努王の子橘諸兄の縁者だったとも?というのは、諸兄の弟に佐為=スケナリが居て、その子孫は文成の様に成を通字とした名前が多いからである。)

宮子の伝承はここで終わらない。

宮子は文武天皇の皇妃の中で、唯一皇子を産むのである。これが首皇子であり、後の聖武天皇に他ならない。

この事も観音のご利益話になってくる。(そして聖武天皇の妃には異母妹の光明子が入内し、人臣の出で初めて皇后の位に登った。)

さて宮子にまつわる話は、ここまでのめでたしめでたしでは終わらないのだ。

宮子は首皇子を産むと、今でいう産後鬱になったとされ、正気を疑われる精神状態に陥ってしまう。(これは子供を産んでも皇族は自分で成育に当たられず、壬生の氏族に預けられてしまうのだが、海女出身の宮子は当然自分の手で我が子を抱けると思っていたのに、取り上げられてしまったのが、精神に異常を来した原因だという意見もある。今上陛下の雅子皇后も産後鬱になった。)しかし宮子の場合は極端なのである。

この為、彼女が我が子に面会できたのは、実に37年もの後、聖武天皇の即位後であったのだ。

この年、(長屋王事件後、藤原四兄弟の時代となり、彼らの没後政界の実権者となる橘諸兄や、遣唐留学生出身の吉備真備と僧・玄昉が進出していた。)

玄昉が心理療法を施すと宮子は正気になり、喜んだ聖武天皇と対面を果たしたのである。

その後は宮子の精神状態は安定したとみえる。しかし玄昉に対する信頼がいや増しになると、朝廷では、玄昉が宮子と通じたという噂が立つ。結局この噂の為に玄昉は失脚してしまう。この後の世の称徳女帝と法王道鏡の仲を先取りしたような話である。だが宮子が15歳で入内したとしても、皇子出産後37 年では齢50を越えてしまうので、当時の老年齢の常識からして男女の仲はあり得ないと思うのである。

ところで、この宮子の精神状態の乱れの理由は、単に我が子を抱けない苦しみからだけだったのだろうか?実は、宮子に皇子を儲けさせた後は、首皇子から遠ざけておいた方が良いとの思惑が、藤原氏側にあったのではないか?と憶測する人も

いる。これこそが、宮子が不比等の実子ではなく、養女であり、海人の出だという説の根拠にもなっている。藤原四兄弟からは、首皇子をコントロール下に置きたいが故に、実母の宮子の介入を警戒したのだとする。もし宮子が不比等の実子であり四兄弟は異母弟であるなら、藤原氏の栄達は共通目標である筈だからである。

しかしこれは必ずしも宮子養女説の決定的な根拠にはなり得ない。宮子が実子であって長女であるなら、確かに実母の宮子の意見に首皇子=聖武天皇が左右される可能性は大だったからだ。やはり実の姉としても(異母姉である)宮子に逆らい難いので、皇子とは離隔させておく作戦だったのではないか?

だから、初めて聖武天皇が宮子に面会したときも、玄昉の他に、内臣であった藤原房前が同席していたという話もある。房前は宮子の異母弟でもあり、従って帝の外叔父にも当たるので、同席したとしてもおかしくはないが、これを房前が見張りについたのだと取る向きもあるようだ。

ともあれ、宮子が紀州の生まれで、観音の護持者だった話も、実際は不比等の創作で、これを信憑性のある話にすべく、粟田真人や紀(橘?)道成らに共謀させたという事も大いにあり得るのである。また粟田氏は和邇氏同族で海人系でもある。海女を不比等に取り持ったのが粟田真人であっても不思議では無い。

先に「紀州に縁のある娘であった事は、次の話から推測される」と道成寺創建譚に繋いだが、むしろ紀州の産に仕立てるべく観音の発見の話を作ったのかも知れぬ。だからこそ、道成寺を立派に作る必要もあったのではないのか?

但しその当の房前にも海人族の実母の存在の噂が伝承している。

藤原房前

房前は、不比等の正妻である蘇我娼子(または媼子とも。  蘇我連子の女)の第二子だとされている。長男の武智麻呂、三男の宇合までが娼子の子だと、公にはされている。四兄弟の内、四男の麻呂だけは五百重娘 (不比等の異母妹で元天武夫人。

新田部皇子の母でもある)の所生だとされる。)

しかし、“『麻績氏系譜』では「中臣不比登」は「妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣」とし、それが房前公であったとしている。”という異説がある。

更に宇合も娼子の実子ではなく、宇佐に関係する秦氏の女性の所生であるのを娼子の子としたという説もある。そうなって来ると、天武夫人だったという身分の高い五百重娘の所生である麻呂だけは実際通りとし、三男までは意図的に同母兄弟としたという可能性も十分考えられるのである。

ここのところを謡曲「海人」は、淡海公(鎌足)が讃岐の海人に生ませたのが房前だという話を骨子にして構成されている。能楽は室町時代のものなので、鎌足と不比等の区別が曖昧になっていたのだろう。房前が不比等の子であるのは明白で

あるからだ。

だが、房前が無名の海女の所生だったという伝承があったのであろう。

「麻貫玉取」というのは、伝説上では「鎌足に大層美貌の妹があり、遣唐使が唐の高宗の皇妃に奉じたが、その女性が氏寺へ奉納する為に三つの宝を贈ったがその中に含まれる“面向不背の玉”という宝玉がありそれが帰国船が海難にあって水没してしまう:それを海底に潜って取って来た海女が讃岐の志度の浦の海人の娘だった。

その玉を取り戻す為に大臣が志度の浦に下向し、そこの海女と契った。海女は懐妊して男の子を産む。大臣は、海底に玉を引き込んだのは竜王の仕業であろうとして命懸けでその玉を取り戻す事を海女に頼む。卑しい自分と契った事を感謝して承諾する;海女は潜水時、海底の竜王に玉を奪われないように腋の下を切って、そこに玉を隠して浮上したのだが、その傷が元で死んでしまう」、そこでその海女を麻貫玉取という名で呼ぶという事なのだ。(麻貫というのは海女の着衣の麻布を切り裂いたという意味か?)

そしてその志度の浦の現地名が房前というので、海女の子にその名を付けたというのである。謡曲では房前が自分の母の事を知りたくて志度の浦にやって来て、母の亡霊と出会うという話になっているのだ。

鎌足の長男の定恵法師が遣唐留学生になった時に、この叔母に面会したという伝説もあるので、高宗妃になった鎌足の妹がいたというのは幾許かの信憑性はある。

天平元年(729年)の長屋王の変後は房前は参議に留まった。

これは房前は、長屋王排除を企図した他の三兄弟に比べて、皇親政治に理解を持っていたからだという。

長屋王事件の際には三男の宇合が長屋王邸襲撃の中心となった。この事で、長男武智麻呂の不信を買い、長屋王排除に積極的だった武智麻呂が聖武帝の信頼を得て出世していく。武智麻呂は左大臣にまで昇任する。

元々父不比等が自分を差し置いて房前を先に参議にしたのが武智麻呂には気に入らなかったのかも知れない。

--------------------------------------------

http://nozawanote.g1.xrea.com/03episode/episode88.html

では次の様に述べている。

西暦717年(霊亀3年)10月、藤原不比等は嫡子武智麻呂(38歳)の身分を変えることなく、次男房前(法的には庶子、37歳)を参議とし、武智麻呂に先駆けて朝政に参加させた。この起用は、「一定範囲の上級貴族から一人ずつという議政官構成の伝統を破り、藤原氏による複数議政官の端緒」となった。(野村忠夫『奈良時代の政治と藤原氏』)

 弟房前に遅れること4年、嫡子武智麻呂は、参議を経ずして中納言にのぼり公卿に列せられた。そして長屋王の変の直後には大納言に進んだ。さらにその2年後には宇合、麻呂が参議に任ぜられ、ここに藤原氏は10人の公卿の半数近くを占めることになった。

 不比等に政治後継者と考えられ、4人の兄弟の中で最初に公卿となったのは房前であった。しかし、彼は最期まで参議のままであった。それに対し武智麻呂は左大臣にまで上り、結果的には名実ともに不比等の後継者となった。

 そこには長屋王ら皇親勢力との協調路線を推進しようとする房前と、それを打倒して藤原氏主導の政治体制の確立を目指す武智麻呂との、藤原氏代表者の地位を争う対立があり、長屋王の変の結果、武智麻呂が勝利したのだという分析(木本好信『奈良朝政治と皇位継承』)もある。

--------------------------------------------

長屋王の謀反誣告事件が起きた時に、聖武天皇がこれに反駁しなかったのは、自らより出自の正しい長屋王の発言力に聖武が嫌悪感を持っていたからだと思う。

元来、元明天皇の次女である吉備内親王の夫であり、従って長屋王は義理の伯父に当たるのである。また吉備内親王の姉(元明の長女である)元正上皇は、聖武の前帝であり伯母で後見人でもある。しかも独身女帝の元正が密かに心を寄せていたのは長屋王であった事は、当時の朝廷内でも、かなり知られていたと思われる。実際、元正上皇は、聖武の後の皇位は長屋王の息子の内から選ぼうとしていた。

聖武が即位した後、宮子を大夫人と書き大御親と呼ぶという勅書を発しようとしたことがある。大御親とはそれまで皇太后に対する敬称であり、宮子は文武の夫人でしかない。(皇妃の身分は后、妃、夫人、嬪の四階級)

それを咎めたのが当時大臣の位にあった長屋王である。皇族出身ではない夫人に皇太后の敬称を使うのは、皇朝の慣例に背くというのである。

この論争は、結果的には、長屋王が、宮子の敬称を皇太夫人とする事を提唱して和解したのだが、聖武の心には長屋王が邪魔な存在に映ったことだろう。

宮子・房前姉弟の海女生母説について再検討

ともあれ、二人には海女生母説があり、その事で、他の兄弟姉妹とは異なる性格を帯びているかに見える。

先ず、宮子についてだが;

①本当に紀州の海人の娘なのか?

→これは幾らなんでも観音の奇跡を信じるのでない限り、紀州から小鳥が長髪毛を咥えてくるわけはないので、恐らく架空であろう。

②賀茂比売の実子ではないが、賀茂氏は(三島氏を介して)海人族との関係が深いので、賀茂比売の侍女の中に海人族の娘がいた事は考えられなくもない。

この場合、父親は不比等であって、文武天皇即位直後に、宮子は入内している。

ところが“文武天皇2年(698年)に不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた”とされており、藤原の氏名は本来は鎌足一代に賜与された特別な呼称だったのだが、それを中臣氏一族の中で、不比等とその子

のみが名乗れるようになったのである。これは宮子を入内させた功績によるものではないか。(この不比等系統のみが藤原を継承するというのは、鎌足の遺言だったという説があり、従って不比等は出仕時にそのまま藤原不比等を称していたという説があるが、これは後付けだと考える。)

不比等は従兄弟の中臣大嶋とともに草壁皇子に仕えた。

『書紀』に不比等の名前が出るのは持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。書紀には藤原姓だが、書紀はその不比等の影響下で編纂されたものだから、ここは鎌足遺言の時点で藤原氏を継承したとされていても、事実かどうかは判定できない。

従って、文武即位の時点では中臣連であった可能性がある。連姓の臣下は皇妃を出せないというのが天孫族内の不文律だった。そこで、宮子を入内させる時に、紀州での観音護持の話を作って、養女として入内させたという可能性が高い。

観音菩薩の申し子同然なのだから、文武の夫人に上げてもおかしくはない、という理屈なのだろうか。これを立証する為に道成寺建立を進めたのだろう。

一方房前の方はどうだろうか?

四兄弟中、不比等が最も期待を掛けたのが房前であった。これは他の兄弟と異なる出自が意識されたからではないのか?

無論「面向不背の玉」の話はあくまでも虚構であろう。しかし、この話は房前の特異性を強調する為の話になっている。

それは、武智麻呂同様に蘇我娼子の所生では埋没してしまうので、敢えて虚構の海女の子説を喧伝したのか?だが、大臣家である蘇我氏の所生を否定するのは、返って房前には不利である。とするとここはやはり名もない海女の息子であったのか?

さてこの宮子と房前の話を総合的に考えると、実は宮子と房前の二人の母は同じ海女出身の娘だったのではないかという疑いが生じて来る。幾ら不比等が(後述の様に)海人族に寛容だったとしても、次々に海女と契るほど、海女漁りをしていたとは考え難い。

しかし宮子の実母について考証した②の様に、賀茂比売の侍女だった海女に手を付けて、そこに一女一男を儲けたとは考えられないだろうか。

宮子を入内させた後に、同母弟として房前が誕生したのでは具合が悪いので、宮子は紀州の奇跡の娘であり賀茂比売の養女とし、房前は蘇我娼子の第二子としたのではないだろうか? というのが、私の推論の結果である。

何せ、不比等は自分を天智の落胤・持統の異母弟に見せかける程の策士である。

藤原氏(中臣氏)は元来は卜部氏(浦部氏)だった

不比等の時代まで、その関わりが生きていたかどうかは疑問であるが、父の鎌足の時代までは、相当に海人との関係が意識されていたと思われる。

というのは、鎌足:元の名は鎌子だが、この鎌の名は海人系にある通字である。

天武天皇の乳兄弟で葬送の誄びごとを読んだというのは凡海宿禰麁鎌もそうだ。

この凡海氏は葛城の忍海に因むと言われ、鎌はその探鉱や冶金に関わる氏族の名だというのが通説だが、実は荒蒲とも書かれるので、沿海の部族を思わせる処があるのだ。また阿曇族の和布刈神事の鎌を連想するところもあり、更に鎌足自身

もしくはその父親の中臣御食子は、鹿島の中臣氏の出だという説もある。

果たして冶金に関わる忍海氏と凡海宿禰氏が同族であるかはよく分からない。

だが凡海宿禰は海人(綿津見)を統括していた多氏の配下にあったようなので、鹿島の多氏の配下の卜部から昇格してきた中臣氏との間で、海人族系氏族と中臣氏の関係が持続していたとしても不思議では無いのだ。

こういう心理的な背景があって、不比等は海女出身者と契るのに抵抗が無かったのではないだろうか?

古代の話は実に不確かである

神話に近い神武からの十代はともかく、開化崇神垂仁の上古〜景行以後応神と河内王朝の時代、そして継体以降〜飛鳥時代辺りまでならともかく、藤原朝〜奈良時代に至っても、不確かな歴史が多々あるのだ。

まだまだ古代史は論考の対象になると思える。

しかし幾ら考えても、考古学的な証拠でも出て来ない限り、史実を確定させるのはなかなか困難な業であろう。

◯この問題を論考した動機

「天孫族考」を展開して来た私にとって、この“不比等と海女”のテーマは看過出来ないものだった。

というのは、私は、藤原氏が下剋上し、摂関家という事実上の副王権となり、政治の実権を握った時、古代(天孫族王権の時代)が終わり中世が始まった、と解釈して来た。その端緒的な手法は、藤原氏が天皇家の外戚となる事だったのだ。

そしてその手法の開始点が、正しく”藤原宮子“が文武天皇の夫人となり、日嗣の太子たる首皇子を産み、その首皇子に更に”藤原光明子“が嫁ぐという連層構造の外戚関係を藤原不比等が成し遂げた事であった。

従って、この外戚関係は一体どういう風に成立したのかの背景を検証しておく必要があると考えたのである。

勿論、天孫族という部族が、遥か中央アジアの日之下国(葱芘国=葱嶺)に起源を持ち、同系の黄牛族(出雲族)や白馬族(秦氏)と共に、この大八洲列島に渡来して、「日本」という国の根幹を形成したとは言え、先住民の縄文族や海人族を従えた古代国家の支配体制が正しいものだったなどと主張するつもりはない。

しかし、古代日本の形成の過程を知ることは、少なくとも中世までの我が国の民俗や生活意識、そして政治経済のプロセスや宗教状況などを理解する上で、必須の根底的な知識だろうと考えるからである。

同時に中世〜近世にまで引きずられた”藤原家は高貴な家柄だ“などという虚構を打破し、極めて特殊な存在である天皇家以外は、フラットな関係にある事を認識する事にもなるのだ。

This blog post is actually just a Google Doc! Create your own blog with Google Docs, in less than a minute.