補遺40「川部と川勝について」
天孫族考補遺40「川部と秦氏の川勝の関係」
Facebookの「古代史研究会」のフォーラムで、箕岡義憲氏が允恭朝に設定されという川部について書いている。
このことに触発されて、川人の統括者とされた秦氏の川勝(その最も有名な存在は推古朝〜皇極朝に活躍した秦河勝である)と川部の関係について考察した。
四天王寺蔵と伝わる秦河勝像
川勝といえば、昨今問題になっている静岡県知事の川勝平太氏とリニア高速鉄道を建設中のJR東海との争いを想起する。川勝知事は元早大教授で、前知事石川氏のブレーンとして静岡県に招聘され、地元大学の学長などもして、その石川氏の後に県知事となったが、元々は関西出身で、京都を中心に多く分布する川勝姓の一族の出である。関西の川勝氏は大概古代の秦河勝の末裔を称している。(全国の川勝姓の氏族の46%は京都府在住である。丹波の川勝氏=下田氏が本流という。この一族は、関ヶ原戦の際に、西軍に付き、東軍の細川幽斎の籠る田辺城攻めに参加していたが、後に当の幽斎の推挙で徳川家に仕え、旗本として江戸にも複数の分家を持った。)
その本流かどうかは定かではない。が、川勝平太氏がもし秦河勝の末裔なら、静岡県や、リニアの工事で流量に変化があると知事が危惧している大井川とに、河勝は無関係では無いというのが、歴史の面白さでもある。静岡県中部東部は、皇極朝の昔、富士川流域で大生部多という巫覡に率いられた新興宗教集団が跋扈し、それを平定する為に、秦河勝とその軍団が投入された。そして現地占領行政の責任者になったのが、河勝の息子と伝えられる秦久能(ヒサヨシ)である。この久能の建立したのが久能寺で、ここに後世家康の亡骸が葬られて久能山東照宮となった。また大井川の流域もまた秦氏の支配地となったようで、その右岸を榛原郡という。榛原というのは、大和の宇陀の入り口の地域の名であり、その西側の長谷とともに、秦氏の故地である。
川人を統率する秦河勝の一族が、この時以来大井川流域の支配権を得たとすれば、今 川勝知事が、大井川の水利に嘴を挟む構図はまことに興味深い。
恐らく、この駿河の鎮圧に投入された軍団の西方軍は、大和榛原住の秦氏の一族であったと思われる。というのも後世このあたりの長者や国人武士には長谷川を氏名とする家が複数見られるからである。
更に大井川の中流域(東海道の金谷宿周辺)は、近世は金谷宿の庄屋職だった河村氏の勢力が強かったが、この河村氏も実は秦氏の末裔である。河村氏は、掛川東南郊の河村郷に因む名前だが、元は西相模の波多野氏の流れである。足柄の波多野氏は小田原北郊の有名な大雄山最乗寺の大旦那である。波多野氏は無論秦氏で、西相模の秦野盆地を中心に、相模川右岸地域から大山南麓に勢威を誇った中世の名族である。その波多野氏の一部が、室町時代の“上杉禅秀の乱”に介入した駿遠の太守今川氏に臣従して、今川領掛川の河村郷に移住した事から氏名を河村に変えたのである。
更に中世から近世にかけて、駿府(静岡)の町暦の中心になった駿府浅間神社もまた別当寺である建穂(タキョウ)寺が家康以来徳川家の保護下にあったが、この建穂寺も羽鳥(=服部)にあって、駿河の高野山の異名のある真言宗の古刹である。無論北駿府に多数の居住地の推定される秦氏にゆかりの寺院である。
こんな事が、多々ある問題発言にも拘らず再選を重ねる川勝氏の背景にあるというのはいささか深読みに過ぎるであろうか。
話を戻して、秦氏の中の川勝というのは何なのだろう。
◯川勝は秦氏の中で、川の治水に関わる職能民の統括をする頭人
古代の治水といえば、名高いのは淀川の中流の滞留湖である茨田池に堤を築いて放漫な氾濫や溢水から周辺の土地を護ったといういわゆる茨田堤の工事である。
茨田堤の建造には茨田連が関わったとされるが、その茨田連の頭人は元は茨田勝と言ったようなので、茨田氏は秦氏である。(勝はマサもしくはマサリと読む)
淀川下流域に住んでいた治水工事の職人集団(以前の員弁も含んでいたかも)が茨田氏か?と思われる。茨田氏は、出雲族系の員弁の出か或いは親天孫族系の秦氏の直系なのかは判然としない。
しかし、応神朝以降は、秦氏の地域的な勝として川勝の統率下にあったものと考えられる。
川勝は茨田氏だけでなく、畿内から越前などの川人部を統括していた。(中国地方=山陰・山陽の川人の統括実態については不明である)
治水は古代以来為政者に必須の業務である。
治水とは、①洪水対策、堰堤の築造、水制、水路の整備 ②飲料水や農業用水の確保 ③水上交通路としての河川整備(運河建設や“江”の利用なども)
※“江“とは古代の二つ以上の水系を連絡する水路や短絡陸路を言う。
秦氏の支配構造
①太秦→②(専門ごとの)大勝→③地域ごとの勝→④村ごとの勝と長(日佐)
だから茨田勝は③もしくは④だろう。③はいわゆる小勝。
◯川部の設置 允恭妃の名代部
川部を設定した記事は、『古事記」允恭天皇段に次のように記されている。
「木梨軽太子の御名代として、軽部を定め、大后の御名代として、刑部を定め、大后の弟田井中比売の御名代として、河部を定めたまひき。」
(一方、『日本書紀』には田井中比売の名代として河部を定めた記事はない。)
允恭妃の( 田井中比売 :皇后忍坂大中姫の同母妹)の名代部が河部で、その職掌は川漁に従事していた人々であるというのだ。
※古事記の記載上は妹とは弟姫なので、田井中比売は弟となっている。
木梨軽太子の御名代として軽部、大后(忍坂大中姫)の御名代として、刑部というのは、まさしく御名代だが、田井中比売の名代として河部というのは何故か?
これは田井中が、そも川合を意味する言葉であるかららしい。
新潟大の前之園亮一氏は、「古代の川部について」という論考で次の様に述べる。
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田井中比売自身も曾祖父と父も古大和川の近くに居住しているので、彼らは川とのつながりが深い家系であったと推察される。
ということは、この家系は古大和川や、また他の河川の首長や民を支配してきた公算が大きいのではあるまいか。それゆえに代々古大和川の近くに居住したのであろう。
つまり田井中とその家系が河川の民とその長を支配していたがゆえに、田井中比売のために川部を設定したのである。それが「田井中の御名代として、河部を定めたまひき」という「古事記」の一句の意味であると考える。
田井中比売の名代が川部と呼ばれたもう一つの理由は、彼女の宮殿の厨・家政機関に奉仕する人々や経済基盤の大部分が河川の民とその長によって占められていたからではあるまいか。というのは田井中比売の姉の忍坂大中姫の忍坂宮に仕えていた宍人部や刑部の元本となった人々も、もとは山野に生活す猪養の民であったからである。
《川部と宍人部・刑部の共通性 山野河川の民》
宍人部の起源伝承は、「日本書紀」 雄略天皇二年十月条に載せられている。それによると、雄略天皇が宍人部の設置を欲していることを知った母后の忍坂大中姫は、彼女の厨に仕えていた「人」の菟田御戸部と真鋒田高天の二人を宍人部として献上した。 この二人の名前は、忍坂大中に仕えていた厨人つまり宍人部の実態が、入れ墨をした猪養であることを表わしている。
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このような論述からは、“縄文人由来の川漁士や猪養の民などが王族によってその家政組織に組み込まれて、川部とか宍人部になった”と言う風な捉え方を、前之園氏がしているように見える。
但し、前之園氏は、川漁士や猪養の民などが王族によって部民として組織されて、その家政組織に組み込まれたとしてはいるが、その川部や宍人部が王族に奉仕するにしても、それら部民の個々がそれぞれ直接に王族の家政の宰領に統括されていたのか、それとも間接的な従属なのかどうかについては言及していない。また従属したのがその専門部民の全部だったのか、それとも一部であったのか、という点にも言及していない。
思うに、それぞれの土地ごとの川部(もしくは宍人部)には、その頭人がいて、また王族の家政の宰領者との間にも伴造的な大頭がいたに違いない。
川部の伴造は山城の(愛宕郡の)川造だという→これが川勝ではないだろうか?
なお近江の甲賀や高島には川直が居た。→これは小勝かと思われる。
一方川人部は、治水や河川交通に関わる。治水では員弁の使役も生じる。
員弁は元は物部の支配下にあったが、厩戸皇子の時に物部守屋が滅ぼされ、その後秦河勝の管掌下に移ったと見られる。西国の大工は太秦の広隆寺の檀家となっている。大工は員弁族の花形的な職人である。
では川部は一体いつから秦氏配下に移動したのか?
こちらは(員弁の様な出雲族系ではなく)元来、縄文系と秦氏系とでは無かったか?
◯川人部と川部は同じではないのでは?
古代の地名について研究をされている箕岡義憲氏は以下のように述べる。
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『続日本紀』の宝亀六年(775年) の記事に、 川部酒麻呂という肥前国松浦郡の人が記されています。この人は、天平勝宝四年(752年)に遣唐使の第四船の舵取りを勤めました。
「川部」は、允恭天皇の皇后の御妹田中之中比賣の御名代部として川人部の一部を割って設けられた職業部が元です。 河邊、川邊と表記されることがあり、 古地名として残っている場合があります。
海部が注目されがちですが、 川部も航海に関わっていたことが判ります。
※肥前国松浦郡と丹波国桑田郡南部の郷の分布図を添付いたします。 ご覧ください。
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として亀岡の近傍に川人の古地名があった事を指摘している。
ここで注目すべきは
① 「川部」は、允恭天皇の皇后の御妹田中之中比賣の御名代部として川人部の一部を割って設けられた職業部が元 (田中之中比賣=田井中比売?)
② 川部も航海に関わっていたこと(川部酒麻呂という肥前国松浦郡の人が、天平勝宝四年(752年)に遣唐使の第四船の舵取りを勤め)
----の2点である。
私もこの箕岡氏の文の趣意には賛成である。
元々(早い機会に)川人部は成立していた。それは秦氏の川勝(川造)の支配下にあった。川人部は河川漁のほかに水上交通(内水路運搬)等にも携わっていたのだと考えられる。
允恭朝に川人部の中から、主に川漁の民を中心に、田井中比売の御名代として川部が成立したと考えられる。川魚を田井中比売の一族に納める為である。
そこでその伴造として川造と、近江などに川直が設置された。川造は本来は川勝であったろうし、川直は小勝であろう。(秦河勝も、秦造河勝と書かれている場合がある。)
◯川人はいつから秦氏の川勝に支配されるようになったのか?
秦氏=和田(ホータン)人の内には、川人や河川工が居たと思われる。
タリム盆地には崑崙山脈やパミール高原から雪解け水が流入した。ホータンなどは白玉河(ユルンカシュ川)と黒玉河(カラカシュ川)の川股に位置している。
ここは、古来からホータン玉の産地だった。またタリム盆地東南部の河川からも玉が取れた。押し流されてきた石塊からの玉の選別採取や採取場の岩石などの制御に土木工事が必要となる。
また崑崙山脈北麓の複数の河川の流域では農業が営まれている。氾濫から田畑を護る治水事業が要求される。
これらの目的を果たす為に和田人(=秦人)の中に、いわば河川奉行人としての川勝の職掌が成立していたと考えられる。
※因みに天孫族考で分析した様に、秦をハタと読んだわけではない。元々ハタ人はホータン人という呼称だった。具体的には、タリム盆地に展開した月氏のバイシャ(=商工農民)である白馬族の中心都邑であるホータン(于闐=和田)に因る呼称なのである。それが、渡来の際に秦の皇室の裔であると僭称する為に、ホータンに秦の漢字を充てたのである。辰韓が秦韓と書いて、自ら秦人の亡命したものと僭称したのと同工異曲である。そして渡来の時その族長を弓月君と称した。弓月君は中世に中央アジアにあったと「資治通鑑」に書かれた弓月国とは無関係である。白馬族が、三辰の内、月辰を標識とした事に因むのである。白馬族がシルクロード交易に従事して、月氏の中で最も識られていたので、この白馬族を含む月氏(実は日氏)三族を誤解して月氏と総称するようになってしまったのである。
尚ハタのハは甲音系なのでpha =ファだと思われる。古代日本にはハヒフヘホの音韻は無く、甲音系pha か乙音系paしか無かったのだ。haは近世以降の音韻である。(国語学の学説では従来はハ行ア段には甲乙の区別が無くpaになっていたというが、私はこれは元来別だったと考えているので、イ段の甲乙類の区別に準じて、“甲音系pha と乙音系pa”と便宜上表現しておく。)
小月氏の東遷に従った白馬族(ホータン人)の中に、川勝の一族がいたのだろう。
これらが、伽耶では、(多氏の指示を受けて)洛東江河口の輪中を造成した。この頃の川勝は金官加羅に居たのではあるまいか? 亡命渡来した弓月君の渡来の時辺りに一緒に秋津洲に渡来して、畿内に定住した。山背の愛宕郡に居たという川造が川勝であろう。
だがそれ以前、豊後の佐伯湾辺りや筑後川付近にも小勝級が先行渡来して居住していただろうと思われる。何故なら大野川や筑後川河口にも輪中が見られるからだ。
天孫族考で分析した様に、輪中はホータン人が、メソポタミア方面との交易により西アジアで行われていた水制工法を学習して、恐らくホータン川やその下流タリム川などでも導入していたと推理されるからである。
(大月氏国に行った側にも川勝職がいたかもしれないが、今の処、大月氏〜クシャン朝の歴史的な論述に、治水に関わる逸話は確認出来ていない。)
川勝が治水に関わる職能だとすれば、治水者は古来為政者になり得る資格がある訳なので、我が国渡来後、川勝の出だった秦河勝が、他の職能の勝よりも抜きん出て勢威を拡大出来た要因の一つとなったのであろう。
元来採集狩猟生活者だった縄文人にも川漁をする人達は存在したであろう。しかしそれは渡来して来た専門職の川漁師集団に呑み込まれていったと思われる。
というのは秦氏は渡来以前から、部民の統率関係手法には長けていたからである。
◯秦氏の諸々の職能民とその統制
一般的な部民と伴造との関係に相当する;職能部の秦部とその頭人(秦人)の関係を考えてみる。
頭人には大勝〜小勝、日佐(長;勝の補佐人、訳人=オサビト)が各秦部ごとに存在しただろう。
そしてこれら全秦氏を統括する氏の上が太秦(宇豆勝)なのである。
大勝は、多数の職能別に存在したと思われる。
最も有名なのは川人部を統括した川勝である。
川勝〜川人部、渡守、川船頭、水車大工、舟大工、土堤造などを統率した。
他に有り得たのが以下の勝。
玉勝〜玉造部
朱勝〜造朱部(水銀朱)、探朱部、買朱人=水銀商人
織勝〜織人部
矩勝〜鉋鑿鍛冶(刃物師)、金尺造
布勝〜服部
麻勝〜麻作部
馬勝〜馬飼部
畑勝〜畑作部、畝造民
田勝〜稲作部、苗代作
金勝〜冶金部、金売部、鍛冶部、鋳物師、農鍛冶
湯勝〜温泉(ユ)堀部、湯守部
石勝〜石切部、硯師、砥石部、石工・石積
木勝〜木部、木地師、木(林)守、炭(焼)人
商勝〜商人部、物売人(行商)
陶勝〜焼物師、須恵部
酒勝〜噛処女、造酒部、杜氏
竈勝〜竈門師、窯造
釜勝〜釜鋳物師(塩釜や大釜)
弓勝〜弓作部、鞆師
墨勝〜墨壺作
塩勝〜塩造部
船勝〜船頭、水主
山勝〜鉱山師、穴掘
実際にこれらの(職能)勝が存在していた事を示す文献資料の個々には遭遇していないので、あくまでも推理上の概念である。
とはいえ、古くから水銀商人は秦氏であった。近江〜伊勢道を往来したという。
玉造などはホータン玉以来の秦氏配下専門部民のお家芸ともいうべきものである。また酒造方法を伝来したのも秦氏だと思われる。
河勝より遥か以前の宇豆勝に任じられた人に、雄略朝の秦公酒の名がある。国東半島の神社の祭礼に、我が国造酒の起源を標榜するどぶろく祭がある。国東は何と言っても宇佐の秦氏の勢力範囲である。酒勝が居たであろう。
更に秦公酒が宇豆勝になったというのは、酒勝は宇豆勝に属する職掌なのかも知れない。というのは、後世秦河勝にゆかりの神社に大避神社というものがあり、これを大酒とも書くので、大酒つまり大酒勝は宇豆勝である可能性が考えられる。(今日、太秦広隆寺の摩多羅神祭と伝わるものは、元は太秦の大避神社の祭事だったというのである。)
秦河勝(広隆)は偶々川勝の家に生まれたが、厩戸皇子と蘇我馬子の物部守屋討伐戦に参軍した事から、太子の腹心となって、造寺司としても数々の仏寺を造った。
造寺事業には、従来物部氏の統括下にあった員弁族の大工が、河勝の支配に移された事が大きく寄与している。員弁の転属はいわば論功行賞であったろう。しかし多くの商工民が秦部であった事から、人民統治上の便利さも意識されたのではなかったろうか?
◯秦河勝の終焉
河勝が何時何処で亡くなったのかは分かっていない。
これは、厩戸皇子亡き後、政治の実権を握った蘇我氏によって疎まれたからだと言われている。
蘇我氏が山背大兄王を討滅した時にも、厩戸皇子の腹心だった秦河勝が、上宮家(山背大兄王)の味方をするのではないかと警戒された。
また河勝が大生部多の富士川流域の乱を平定した軍事的な成功に蘇我入鹿が大層な嫉妬をしていたとする説もある。これが皇極3年(西暦644年)の事だったが、既に河勝は83歳だったという。(高齢の河勝に遠征を命じたのも、失敗を念頭に置いた蘇我氏の陰謀かも知れない。)
蘇我氏との衝突を避けて、老齢でもあった河勝は、実質的な政界引退の道を選んだと考えられる。
寝屋川にもう一つの太秦の地名があり、広隆寺のある京都(洛西)蜂岡の太秦の以前の宇豆勝の居地だとする説もあるのだが、そこに秦河勝の墓なる遺跡がある。
ところが、河勝の墓と伝わるのはもう1ヶ所;播州赤穂の坂越という所の海浜に生島という名の小島があり、ここが河勝の墓所だと播磨の人たちは信じている。
その伝説では、政争を避けた河勝がウツボ舟に乗ってこの島に漂着し、やがてこの坂越の浦で老没したので、播州の秦氏(ここは山城盆地や近江盆地と並んで古くから秦氏が入植していたという)がその亡骸をその島に葬ったというのである。
しかしウツボ舟というからには、河内?の海に流された時、最早河勝は亡くなっており、その亡骸を積んだ舟が偶々赤穂の島に漂着しただけだったのかも知れない。
だが普通に考えれば、河勝の墓所は広隆寺にあってこそ相応しい。けれども蘇我氏の事を慮って、敢えて寝屋川の山に葬った事にしたのではないだろうか?
(太秦広隆寺を蘇我氏に荒らされない為だったのか?)
或いは、遺品などを載せたウツボ舟が、赤穂に都合よく漂着したように見せかけて播磨で淋しく死んだ事にしたのだろうか?
河勝が逃避して蘇我氏から討滅されなかった事で、以降も河勝の子孫や秦氏が、滅亡を回避出来たのかも?と考えられる。
解釈すれば、本来はバイシャの職能民だった秦氏が、河勝の代に戦士化して新興のクシャトリヤになるのを、もう一つの先行クシャトリヤであった蘇我氏が、その(秦氏の)勃興を阻止したという事だろうか?
そしてこの後、蘇我氏はバラモンの王家である天皇家にも取って変ろうとしたとして、中大兄皇子によって滅ぼされるのである。バラモン側の逆襲である。と同時に、この乙巳の変を契機にして、下剋上した偽バラモンの中臣氏が、出世の階段につく端緒になったのだ。
大人しくなった秦氏は、中世には中央政界には進出せず、専ら仏教界の実権を掌握して行く。比叡山に天台宗を開創する最澄は秦氏の出身である。また真言宗を伝来した空海も、彼自身は佐伯連という下級クシャトリヤだったが、その師事した指導僧や周辺の僧侶の多くは秦氏であった。また空海は渡唐途中、宇佐に立ち寄り秦氏系の国東の山岳仏教を見て感化を受けたと言われる。白山の信仰を広めた泰澄上人もまた秦氏の出である。
秦氏は元来は商農工民なのでバイシャなのだが、出家し仏徒となる事で、バラモンの一つたろうとしたのだと私には思える。バラモンには成仏かもしくは輪廻転生が保証される(と信じられていた)からだ。
現実世界でのクラスアップを諦めて、精神世界での上昇を求めたのだろう。
(中世後期に浄土宗が、現世での救済の代わりに浄土での再生を説いたのと同様だと言えるのである。)