補遺40ノ2「山部と山勝」

天孫族考補遺40ノ2「山部と山勝〜山椒大夫とは山勝大夫ではないか」

山椒大夫について

山椒大夫は安寿と厨子王の姉弟の話として、誰しも聞いたことのあるものだ。

しかし、俗説とは違い、この話はなかなか奥が深い物語なのである。

ネットのgoo辞書では、

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さんしょう‐だゆう〔サンセウダイフ〕【山椒太夫】 の解説

①伝説上の人物。丹後国由良の富者で、強欲非道と伝えられる。安寿姫と厨子王 (ずしおう) の姉弟を人買いから譲り受けて酷使したが、逃亡した厨子王の敵討ちにあったという。名は、山椒売りの長者、または三つも山荘をもつ長者の意で、「山荘太夫」「三荘太夫」とも書く。

②説経節。五説経の一。その伝説を脚色したもの。江戸初期に流行。

③浄瑠璃・歌舞伎などの一系統で、説経節として語られた伝説を脚色したもの。浄瑠璃「三荘太夫五人嬢 (むすめ) 」など。

④(山椒大夫)森鴎外の小説。大正4年(1915)発表。山椒太夫伝説に題材を取り、安寿と厨子王の受難と姉弟愛を描く。

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と出てくる。(我々の俗知識の多くはこの鴎外の小説やその映画化作品に依拠している。)

山椒を売ったくらいで長者になるというのは納得がいかないので、三莊大夫だろうという解釈が生まれた。この莊は、上記の“山荘”ではなく、中世の荘園だと思われる。荘官として複数の荘園の管理を任せられた人間は居たようなので、それなら搾取のキツイやり方なら実入が多かろうから、長者になっても不思議はない。

但しここに抜けているのが、“山椒大夫とは散所大夫”という解釈だろう。

散所というのは、別所とも呼ばれる、非“常民”(必ずしも賎民と同じではない)の居留地の事である。そこには昔、遊芸の徒(傀儡師や白拍子)・梓巫女や説教坊主等が集散していた。別所というのは、本所に当たる大寺社がありそこが抱える別業地の意味である。

世界大百科事典では、

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山荘太夫

さんしょうだゆう

説経節の曲名。上中下3巻から成る。丹後由良(ゆら)の長者山荘太夫のもとで,譜代(奴隷)としてその過酷な運命に苦しみぬいた安寿と厨子王(ずしおう)姉弟の物語である。山荘太夫の追及をのがれて,摂津国天王寺(四天王寺)にたどりついた厨子王は,そこで賤しい身分を捨てて,もとの奥州五十四郡の主として復活することになる。この生命の転換と更新,それが行われる天王寺という場の構造と論理が,この話の枠組みをなしている。〈さんじょ〉と呼ばれる地名は各地にあり,算所,散所,産所,三荘,山荘などの字を当てているが,この語り物はその〈さんじょ〉に住む遊芸の徒,説経師によって語られたものである。

さんじょの太夫が語り歩いたものが,いつか物語の人物名になったものであろう。長者没落譚とする説もあるが,山荘太夫には下人を使う支配者の像と同時に家長の権力を行使する父の印象もあって,中世末期の土豪や名主(みようしゆ)のイメージが色濃く,他方2人の姉弟は徹底して差別されている。これは,この語り物が民話のレベルをこえて支配と被支配の対立を描き,社会構造を示唆したものだからであろう。また,身代り霊験でよく知られた金焼(かなやき)地蔵の奇跡を織り込んでいる。東北から畿内へと移動する地名の展開は,説経師の足跡を知る上で貴重な記録でもある。森鷗外の小説《山椒大夫》はこの説経の正本に基づいた作品である。       [岩崎 武夫]

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と解説している。

つまりこの解釈だと、散所の大夫という説教坊主が語っていた物語が、いつからか登場人物の名となったという事のようだ。

「散所大夫の語る説教譚」というのなら、その物語の名が散所大夫となったとする点に於いては、受け入れられるだろう。しかしそれが、物語中の重要登場人物の名にまでなってしまうというのはいささか納得が行かない。

散所の長吏が蓄財して長者化するというのはあり得るだろう。江戸期の非人頭の弾左衛門などは、配下の人間の稼ぎの一部を巻き上げてかなりの身上持ちになっていたというからだ。

しかし、そういう存在が、中世に既にあったかどうか?は分からない。それなら、まだしも三荘大夫という解釈の方が腑に落ちる。

しかし私は、この山椒大夫の実態は、秦氏の勝の一つである山勝ではないかと考えている。山勝大夫がサンショウダユウと読まれたのではないか?と。

山勝とは、川勝が川人の頭領であるように、山人つまり山仕事や鉱山に関わる民の頭領の事である。

山に関わる仕事というのは、いわゆる木樵や炭焼なども含め、山菜や山野の薬草を採取したり、薬草の栽培をする者、その薬草で薬を作り、売薬として売り歩く者等も含んでいる。それに土地によっては強力職などもあるだろう。

また木地師の一群もある。

更に猪養(猪飼)の民とか、竹細工師集団(こちらは竹勝の統括下にあったというが、各地の竹勝=小勝は個別化しており、竹勝の国勝はそも山勝だったと考えられる)なども山に関わる仕事である。

更に渡来人のもたらした専門職に該当する探鉱職や鉱山職なども山の仕事である。

場合によっては、掘り出した金属鉱石の精錬と鍛冶に売り渡す前の金属材の製造等に従事する人達までも含むものかもしれない。

古代の文献(記紀をはじめ諸国の風土記、万葉集まで)に登場する山に関わる民は、一般に山部もしくは山守部と呼ばれる。中でも万葉歌人の山部赤人が有名である。

山部については、Wikipediaが異常に?詳しいので、以下に引用する。 ※は鈴木による注釈。

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山部(やまべ) または 山守部(やまもりべ) は、朝廷直轄の山林の管理や産物を貢納する職業部(品部)。およびそれを管掌する氏族。

自営農民でありながら、時と場合に応じて、栗・竹・かつらなど、山林の所出物を貢献した。全国的に設置され、宮城十二門の門号にも陽明門として名を残す軍事的な部の民である。→※陽明門が山部の守衛門なのか?→この後に解説を引用する。

地方では「山部首」、あるいは「山部直」・「山部公」により統轄され、中央の伴造は「山部連」が担当した。山部連は天武天皇13年(684年)に八色の姓が制定されたことにより、宿禰の姓を得ている。

『古事記』によると、「此の御世に海部・山部・山守部・伊勢部を定め賜ひき」とある。本居宣長の『古事記伝』はこの「山部」と「山守部」と同一のもので、併記は誤りである、と述べている。→※ 此の御世とは何天皇の御代か?

『日本書紀』巻第十にも、「諸国に令して、海人及び山守部を定む」とある。

→※第十卷は応神紀で、応神2年から41年までの記述。従って上記の此の御世とは応神天皇の御代であろう。

この山部一族は、法隆寺に献納された「命過幡」(めいかばん)との関連性が問われている。

「幡」(ばん)とは、仏の威徳を荘厳(しょうごん、かざりたてること)するための寺院内外に飾られる旗であり、「命過幡」とは臨終に際して浄土へ往生することを願って行われる命過幡燈法(めいかばんとうほう)のための供養の幡である。そこには、施入の年月日や姓入者、供養される人の名が記載されている。

法隆寺の命過幡は20例ほど知られており、そのうちの4例に山部氏が携わっている。

・「辛酉年三月朔六日、山部殿の奴(やっこ)なる形見願ひのために幡を三宝のうちに進む」(斉明天皇7年、661年)

・「山部五十戸婦(やまべ の さと の ふ)」(天智天皇2年、663年)

・「山部、名は嶋弖古連(しまてこ の むらじ)の公(きみ)」(年紀不明)

・「山部連の公の奴(やっこ)加致(かち)の児、恵仙(けいせん)」(年紀不明)

平城宮木簡の和銅5年5月10日(713年)にも「山部宿禰東人(やまべ の すくね あずまんど)」の名が見える。これは大和の各郡から9人を集めるために用いられたものである。

天平19年(747年)に作成された『法隆寺伽藍縁起 并(ならびに)流記(るき)資財帳』によると、山林丘嶋(おかしま)の記載があり、寺院の所領として大倭・河内・摂津・播磨の26か所があげられている。大倭国では、平群郡屋部郷・坂戸郷、添下郡(そうのしもぐん)菅原郷の3か所が見え、そのうち「屋部」は「夜麻郷(夜摩郷、やまごう)」と『和名類聚抄』には記述されている。

『日本霊異記』上巻には、聖徳太子が病気で亡くなった乞食を、岡本村の法林寺の東北のすみにあたる「守部山」に葬り「入木墓」(いりきのはか)と名づけた、という物語が載せられている。守部山の位置は未詳であるが、「山守部」=「山部」のことと類推される。仁賢天皇と顕宗天皇は、この説話に現れる片岡山(傍丘磐杯陵、かたおかのいわつきのみささぎ)に葬られており、現在の香芝市あたりに比定されている。 その他、『播磨国風土記』や藤原宮跡・平城宮跡から出土された木簡によると、宍粟郡(しさわぐん)の「山部」の存在が確認でき、 天平6年11月(734年)書写の石山寺所蔵の知識経からは、播磨国 賀茂郡の「山直(やまのあたい)上麻呂」・「山直乙知女」・「山直恵徳」の名が記載されている。 正倉院文書にも山直一族が多加郡賀美(かみ)郷に住んでいたことが分かり、しばしば現れる写経生「山部宿禰針間麻呂(播磨麻呂、はりままろ)」の名前も示唆的である。さらに、上述の『法隆寺伽藍縁起 并流記資財帳』によると、法隆寺は播磨国揖保郡・印南郡(いなみぐん)・飾磨郡に併せて21か所の所領を有している。

これらのことは、606年に聖徳太子が推古天皇に勝鬘経・法華経の購読を行い、播磨国揖保郡(いいほぐん)に水田100町(『法隆寺縁起資財帳』では219町1段82歩、『上宮聖徳法王帝説』では300余町、『霊異記』では273町5段)を賜ったという記述とも併せて考える必要があるであろう。太子はこの水田を「斑鳩寺」(法隆寺)に納めたという。兵庫県揖保郡(いぼぐん)には斑鳩町が1951年(昭和26年)まで存在し、現在も太子町という名前である。 加えて、山部連が本拠地とした平群郡夜麻郷は、現在の法隆寺西院伽藍の東方にあたるが、西方の坂門(さかと)郷には、大原史(おおはらのふひと)が居住していたという。「坂門」は「尺度」(さかと」に通じ、『和名類聚抄』には、河内国古市郡尺度郷のことが掲載されており、清寧天皇は河内坂門原陵(かわちのさかとのはらみささぎ)に葬られている。 これらのことから、法隆寺のある大和国平群郡(現在の奈良県生駒郡斑鳩町)には、山部連一族が居住し、大勢力となっていた情況が窺われる。

播磨国は「山部」、「山部直」、彼らを管掌する「山部連」、及び上宮家や法隆寺と密接な関係な関係があったのではないか。

山部一族と大原氏との関連性も今後の研究課題であろう。

というのが岸俊男の意見である。

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ここまで詳細に記述しているからには、この項目を書き込んだ人の学識が忍ばれる。

時に陽明門と山部の関係だが、

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>> 陽明門(ようめいもん)は、平安京大内裏の外郭十二門の1つ。左衛門府が警固を担当した。

大内裏の東面、待賢門の北、上東門の南。大宮大路に面し、近衛大路に向かう。大きさは5間、戸3間だった。

延暦13年(794年)、宮城経営のとき備前国が造営し、山氏がこれを監したことがその名称の由来(やま → やうめい)。当初は「県犬養門」「山門」といった。門内に左近衛府の建物があったため「近衛御門」と呼ばれた。弘仁9年(818年)、額を改め、嵯峨天皇の筆額を掲げた。<<

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という事なのだが、陽明門は平城宮などにもあったのだろうか?

但し、「名称の由来(やま → やうめい)」で山(部)氏が建造の監修に当たったのでそうなったというが、山→陽明という転訛説には、一寸疑問がある。ヤマベ→ヤマメイ→ヤウメイの方がまだ可能性無しとはしない。また備前は播磨の西隣なので、山部が残存していたのだろうか?しかも久米部なら宮門守備に派出されていてもおかしくは無いが、ここではあくまでも「山氏がこれを監した」というだけの様である。

時にここで山部氏ではなく山氏となっているのは、次の事情による。(面倒なので、分かりやすい以下の説明を引用させて頂いた。)

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万葉集には「山部宿禰赤人」「山部宿禰明人」と書かれているので、確かに氏は「山部」が正しいのです。ところが勅撰和歌集などの平安時代の文献を見てみますと、ほとんどが「山辺(正字では山邊)赤人」と書かれています。これは桓武天皇(平安時代最初の天皇です)の諱(いみな。尊い人の実名)が山部親王であったことから、「山部」の表記を憚ったものと思われます。『続日本紀』という史書には、桓武天皇の諱を憚って山部の氏名(うじな)を「山」に改めさせたという記事があります。それ以後、山部さんは山さんになったわけですが、昔の山部さんは山辺さんに書き直された、ということではないかと思います。時代によって表記の変遷があり、平安時代の山部赤人は「山辺赤人」であったわけです。

     (やまとうたQ&A)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/qay9.html

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桓武天皇の諱が山部親王だったのである。と言っても、桓武天皇が生まれた時、父も白壁王といい、皇族の一人であった。それが称徳天皇の遺宣により皇太子となって践祚した。光仁天皇である。そのため王子の一人で官僚として大学頭の職にあった山部王も山部親王となったのである。山部王の名は、乳母である山部子虫の姓氏によったと考えられる。但し彼の実母は百済系の官人・和史乙継の娘・新笠である。乙継は高野朝臣となったので、新笠も高野新笠と呼ばれる。だから山部氏の邸宅で生育されたのではなく和史氏の屋敷だったと考えられる。

因みにこの和史氏は、ヤマトノフヒト氏である。和は旧本貫地が大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市佐保庄町大和一帯)に由来する。これは勿論天孫族=和族のワでは無い。漢氏が西漢(カワチノアヤ)」と東漢(ヤマトノアヤ)の2流があるのと同様であろう。河内を本貫とする田辺史氏に対して、史部でも異流の和史は大和を本貫とする史部という意味なのである。ヤマトは最上古には倭の字を当てていたが和族が奪権してからは和の字を用いる様になった。だから和史氏は、自称では百済の武寧王の末裔というのだが、和族による応神朝以降に帰化した韓族ではあるだろう。

(漢氏は漢の皇室の、秦氏は秦の始皇帝の末裔を僭称している。北関東高麗の郷で有名な高麗氏も高麗王家の末裔と自称している。しかし半島系の帰化人で、王家の子孫だと公認されているのは百済王氏だけである。)

従って、山部が”山部“であったのは奈良時代迄で、一時は”山“となり、その後は、”山辺“という表記になったという事になる。

さて、各地の山部は山部首(小勝として)が、そして山部直が(国勝として)管理し、更に上級監督は山部公連(山部宿禰)だというので、これが大勝に相当するのだろう。この構造は、川部のものと相似である。

また秦河勝は聖徳太子の腹心だったのだが、その聖徳太子と山部の関わりが指摘されるというので、太秦であった河勝が山守部の統括者でもあった可能性が考えられる。

ところで先述の大原氏は、知名度の高い京都洛北の大原の里ではなく、大和の大原(平群郡坂戸郷)に居住した氏族である。

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坂戸郷(坂門)        平群郡        天平19.2.11        747        〔法隆寺伽藍縁起并流記資財帳〕【坂門】法隆寺/伽藍縁起并流記資財事‖山林岳嶋等弐拾陸地大倭国参地/平群郡屋部郷一地、東限鳥方岳板垣嶺 北限渋谷、至於保伊知比石庭 西限石庭、至大谷須疑墓 南限寺領、 同郡坂戸郷岳一地、東限平群川 南西限久度川 北限志比坂路

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隣接地である;大和川を挟んだ斑鳩法隆寺の対岸片岡にあった西安寺の伽藍形式が、法隆寺若草伽藍や四天王寺との類似性が指摘されている一方、これを創建したのは百済系渡来人の大原史氏だという説があったのだ。

これについては、《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─王寺の歴史と文化─】第2回 斑鳩・片岡の飛鳥時代寺院と大和川●2020年9月27日(日)

に於いて、講師の岡島永昌(王寺町学芸員)氏が以下の様に述べている。

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まず、従来の研究でも指摘されているように、聖徳太子には片岡で飢者と出会う説話があったり、推古天皇から与えられた播磨国の地を法隆寺・中宮寺・片岡僧寺の3寺に分納したりする記事(「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」)があって、片岡とも関係していたことがうかがえます。さらに、大和川南岸にあった寺院のひとつである西安寺跡において、2014年度から王寺町が継続して発掘調査を進めたところ、現在の舟戸神社の境内地を中心に、南から北にかけて塔・金堂の基壇跡が良好に残る状況を確認することができました。しかも、塔跡は、法隆寺西院伽藍の五重塔と同じくらいの規模をもつ立派なもので、西安寺は南を正面とする四天王寺式伽藍配置でもって建立されていたことが明かになってきました。

その一方で、西安寺については、仁安3年(1168)「大原吉宗田地売券」(『平安遺文』)や竈神が祀られる久度神社から、渡来系氏族である大原史氏によって創建されたとする説が有力で、聖徳太子の関わりは太子創建とされる46か寺のひとつに数えられるに過ぎませんでした。しかし、王寺町が進めてきた発掘調査によって、西安寺跡から法隆寺若草伽藍出土瓦と同笵の飛鳥時代前期及び飛鳥時代中期の軒丸瓦が出土し、西安寺の創建に聖徳太子自身や上宮王家が関係していたことを想定できるようになってきました。

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とされていて、最初の創建はやはり聖徳太子か上宮王家(山背大兄王)が関与していると考えられる訳だ。更にこの西安寺は(一度焼けて?)再建されたらしいのだが、その跡地からの出土品から、再建には天武天皇が関わっていたと推定される様だ。

上記の岡島永昌氏は次の様に括っている。

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聖徳太子が建立した法隆寺若草伽藍は天智9年(670)に焼失したのち、7世紀末から8世紀初め頃に今の法隆寺西院伽藍が再建されましたし、『聖徳太子伝私記』に記録された法起寺塔露盤銘によれば、法起寺は7世紀半ばから8世紀初頭にかけて造営されました。では、誰が、なぜ大和川沿岸で7世紀後半以降も寺院の造営を続けたのでしょうか。その解明の糸口になるのが、西安寺跡から出土する忍冬蓮華文軒丸瓦と呼ばれる瓦です。

この忍冬蓮華文軒丸瓦は、蓮華文と忍冬文を交互に配置した文様で、西安寺特有のものです。そして、西安寺跡から出土する忍冬蓮華文と同笵の軒丸瓦が、神奈川県横須賀市の宗元寺跡から出土しています。森郁夫氏によれば、宗元寺のある相模国は天武天皇の子や孫の食封が多くあるところで、両寺を同笵瓦で結びつけたのは天武天皇ではないかと推測されています。

天武天皇といえば、天武4年(675)以来、頻繁に竜田と広瀬の神を祀るようになり、同8年(679)には竜田山と大坂山に関を置きました。竜田・広瀬ともに位置するのは大和川をつうじた交通の要地です。大和川沿岸の寺院が7世紀後半以降にも大規模に造営される背景には、国家による大和川交通の掌握があったのではないかと想定することができそうです。西安寺は今のところ、南向きの四天王寺式伽藍配置であったと考えていますが、南側は丘陵が張り出していて狭く、代わりに北側が広く、かつ丁寧に整地されている状況が発掘調査で確認できました。つまり、西安寺は、大和川のある北側に門戸が開かれていた可能性があり、やはり斑鳩・片岡の飛鳥時代寺院は大和川の交通と深く関わっていたようです。

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という事なので、大原史氏が関与していた形跡は薄くなった。

つまりこの点からすれば、Wikipediaの解説で“岸俊男氏の指摘しているという山部氏と大原史氏の関連”は無さそうに思える。

さりながら、大原史氏も渡来人系なので、もし山部が秦氏の一族なら、秦氏も渡来人なので、ここらで混線が起きた可能性はあるだろう。

他方、同じ平群郡夜部村の鎌倉時代の文献に秦氏の存在が窺われる。→※夜部村は現在の斑鳩町服部。

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建保2年.2.20        (1214年)

〔秦行常畠地売券〕沽却 売買畠新立券文事/合壱段者〈字江井〉

在平群郡夜部村八條九里丗三坪并同條里十九坪内

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この秦氏は果たして、山部に関わる秦氏なのかどうかは、時代が下り過ぎているので、推理できない。

◯山部赤人について

山部氏といえば、誰しもが想起するのは、万葉歌人の山部赤人である。

「田子ノ浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」

の歌は、万葉集歌の代表作として教科書にも載っている。しかも彼の歌は万葉集に何と五十首も採られているのである。古来、柿本人麻呂と並ぶ歌聖とされた。

しかし赤人は、身分が低い官人だった(幕末〜明治の系図研究家の鈴木真年に依れば官位が外従六位下・上総少目だったとしている)ので正史「続日本紀」などには記載が無いのである。

しかし赤人は、万葉集では山部宿禰赤人と出ているので、山部であった事は確かであろう。だが、山部の内でもそんなに高位では無かったろうから、赤人の残した歌を分析しても、山部の何たるかを示す内容は出てこない。山部氏の本業を離れて、聖武の宮廷歌人になっていたと考えられている。

だが諸々の伝承では上総の出身であったらしい。

千葉県東金市には赤人塚がある。赤人は上総国山辺郡の出身と伝わっているのだ。

また江戸時代の神代学者・山口志道は、「田子の浦」は、駿河湾に臨む田子ノ浦ではなく、現在の千葉県鋸南町であるとの説を発表している。つまり江戸湾を挟んでの富士の遠望だというのである。江戸湾越しの富士山の眺望がそんなにクリアにも見えるものかは、古代には邪魔な建築物や人家の出す煙や煤塵も無かったであろうが、何とも言えない。浮世絵の「富嶽三十六景」にも江戸近辺からの富士の遠望が題材となっているものが複数あるからだ。

また終焉の地と墓所は、2説ある。一つは大和の宇陀の額井岳の麓であるというもの。地元宇陀市の観光紹介では、

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榛原山辺三には山辺という地名と結び付けて山辺赤人墓と伝わる苔むした五輪塔があり、供花が絶えない。墓の脇には

「あしひきの山谷越えてのづかさに今は鳴くらむ鶯の声」の秀歌が刻まれた歌碑がある。

「山辺の赤人墓」

東海自然歩道沿いの山中に抱かれた場所にひっそりと建つ五輪塔。赤人の墓として伝わり、今もなお大事に守られている。上部の空輪・風輪が大きい特徴がある。

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とある。宇陀の榛原は秦氏に関わる土地である

もう一つは東近江市下麻生町に所在する。赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺(しゃくにんじ、あかひとでら)で、そこに今は隣接して山部神社が祀られている。近江の下麻生も秦氏にゆかりの土地なので、宇陀にしても近江にしても山部氏は、この頃はやはり広義の秦氏に属していたのかも知れない。

しかしこれだけでは、確たる推理は出来ない。

現在山部の苗字を名乗る家族は全国で5千人ほど。熊本県に一番多い様だが、ほぼ全国的に分布しており、そんなに珍しい苗字では無い。

またその変形と思われる山辺の苗字も、全国的に分布し、こちらは8千人ほど。

合計で1万3千人。これは日本人の1万分の1。

秦河勝が太秦(宇豆勝)で、冠位十二階の小徳というので、後世の正四位相当であったが、河勝の場合貢献度顕著であったのでその様な大夫(マエツキミ)の地位にまで進んだと思われるから、もし山部の統括者として大勝=山勝がいたとしても、恐らく従五位下程度だったろう。だから、赤人の外従六位下というのは、宮廷歌人としての活躍を認められたゆえだとして、ほぼ納得の行く官位である。

というのも、上総の少目は通例従八位下相当なので、従六位下なら7階等も上位であるからだ。

勿論赤人は、山勝や分国の勝(国勝)でさえ無いだろう。というのも、外官なので、員外官だったのかもしれない。或いは父親が上総国衙現地の下級官職を有していたという事なのかも判らない。ともかく、何が契機となったのかは不明だが、壮年の直前に、和歌に秀でた都人が国司庁に赴任して来て、赤人の歌の才を認めて、中央への登用を推挙してくれたのではないだろうか?

という事は、著名度はともかく、同時代に別に山部の伴造=山部公連がいた筈なのだが、具体的には誰だったのか?これは今のところ伝わらない。

また天平時代には山部氏で赤人以外の具体的な活動の記録や伝承は少ないようだ。

◯山部連についての記録

天平時代には山部赤人の活躍で、山部氏は著名となったが、それ以前では、天武朝に五十ばかりの連姓氏族に宿禰の姓を与えたという記紀の記事が伝わる。

ところが、その連の山部氏について、遥か以前、雄略天皇などの上古の時代に、(書紀)“顕宗天皇紀”には、曲水宴と山部連となる來目部小楯に関わる記述がある。

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[原文]

三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、詔曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。国之所以興者、惟賞功也。夫前播磨国司來目部小楯更名磐楯、求迎舉朕、厥功茂焉。所志願、勿難言。」小楯謝曰「山官、宿所願。」乃拜山官、改賜姓山部連氏、以吉備臣爲副、以山守部爲民、裒善顯功、酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔。

[現代語訳]

(即位元年)3月3日に後苑(ミソノ)に御幸し、曲水宴(メグリミズノトヨノアカリ)を催した。

夏4月11日。詔(ミコトノリ)して言われた。

「凡(オオヨソの=全ての)人主(ミカド)の民を勧め励ます方法とは、これ、官を授けることなり。国が興る方法は、これ、功を認めて、報償を与えることなり。ならば前播磨国司(ハリマノクニノミコトモチ)の来目部小楯(クメベノオダテ);小楯の別名は磐楯(イワタテ)という;は、探し求め迎えて、朕(ワレ)を(大王の位に)挙げた。

その功はすばらしいものだ。願うところあれば、はばかることなく言え」

小楯はかしこまって言った。

「山官(ヤマノツカサ)が、かねて願う所です」

そこですぐに山官に任命して、改めて山部連の姓を賜った。吉備臣(キビノオミ)を副官として山守部(ヤマモリベ)を民(カキベ)とした。善を褒め功を明らかにし、恩に報い厚く答える。寵愛(メグミウツクシビ)に優れており、(顕宗天皇)に並ぶものが無い。

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これは、安康天皇後の皇位争いに関わる話である。

安康天皇3年10月1日(天皇が既に暗殺された後)父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると、兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と共に弘計王は逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に、更に播磨国明石郡や美嚢郡の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変え丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役されて、長い間牛馬の飼育に携わる奴に身をやつしていた。

雄略の後、その子清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを聞き、喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。この時の発見者が播磨の国司だった来目部小楯なのである。

同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒み、兄弟間で皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。

(『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする。ここから最初の女帝を飯豊青皇女だとする見解も生じている。また億計・弘計の兄弟を匿っていたのは、実は同母姉の飯豊青皇女その人だという説もある。)

結果的に兄の説得に折れる形で(顕宗天皇元年元旦)弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子というのは、これ以降も例がない。

(という出来過ぎの兄弟愛から、雄略以前の兄弟間での流血の皇位争いに対照させて、顕宗・仁賢の二人の存在をアッピールする為の虚構であり、億計・弘計は二人ではなく一人の存在を脚色して二人にしたのだろう、などという異説もある。だがそんな異説を主張しても、結局記紀編纂直前の壬申の乱が、結果的に叔父甥間での皇位争いなので、わざわざ記紀で一人のオケを億計・弘計の二人に分割する寓意が意味をなさない!として、珍しい話だからこそ、虚構ではなく実話だという反論も出されているのだ。)

ともあれ、顕宗天皇から「来目部小楯が山官に任じられて、山守部の支配者となり、小楯は山部連の姓を賜った」という話なのである。

しかし、それまで小楯は来目部であり、山官に任じられる前は山守部では無かったと解することができるだろう。

推古朝で、物部守屋が討滅される前は、員弁(引佐部)は物部氏の統括下に置かれていたように、ある部曲を(必ずしもその専門職種に属さない)別の氏族を統括下に置く(伴造になる)という事があったと思われる。つまり官職としての山官に、小楯が就いたのだが、山部はそれまでも来目部とは別個に存在していたと考える。

来目部は無論秦氏ではない。

すると、何処かの時代に、山守部も秦氏の統括下に移ったという可能性が考えられる。それも恐らく、員弁を秦河勝の統率下に於いて造寺の便宜に益せしめたと同様に、木そのものを適宜(造寺の)必要に応じて調達する為に、山守部(山部)もまた同時に秦河勝の統括下に置かれたのでは無いだろうか?

来目部

コトバンクで引いてみると、

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久米部とも書く。大和政権下の軍事的職業部の一つ。中国・四国地方に多く東国には少ない。統率者(伴造(とものみやつこ))は久米直(くめのあたい)であるが、『古事記』以外の古文献はみな大伴連(おおとものむらじ)をさらにその上級の伴造とする。大伴部が西国に遅れて大和政権下に入った東国に多い事実からすれば、衰えつつあった久米直と久米部がある時期同時に大伴氏の配下に置かれたとも考えられる。記紀の久米歌(くめうた)は久米部の出陣・戦勝にあたっての歌謡で、のちに宮廷芸能となったものである。

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と簡略に記載されている。

ともかく佐伯連とともに大伴氏配下の兵部であり、久米は姓が直なので、佐伯より一段下位の氏族である。

来目とは何か?

三つの説がある。

一つは、来目が隈目であり、元来縄文人の一部(大部?)と同様に、目に隈取りをしていた事から来た名であるとするものだ。また来目部は九州から中国四国に多かったので、元々は熊襲で、それが和族の大伴氏に服属したものだとする。佐伯は元は非服属民で帰属後大伴氏の配下に組みいられて兵部になったとされる。佐伯も中九州から中国〜北陸に分布している。佐伯氏には黥面文身の習慣についての言及が見られない事から、来目部とは出自を異にしている。

また隼人舞と同様に来目部にも久米歌や久米舞があり、これは和族への服属儀礼の痕跡と考えられる事から、来目部もやはり旧非服属民だったのだろう。

二つ目の説は、来目とは“籠め”“込め”の意味であり、古代の防御柵(馬防柵)や垣根や土塁などを意味し、柵の守護人だと考えるものである。来目部は騎兵でなく歩兵であり、かつ弓射に秀でたというので、垣目越しの射撃が得意だったとする。

佐伯も“遮る”の意味から来ているというので、来目も守兵の意味合いだったのかも知れない。

更に三つ目に、「蘇我氏・春日氏に久米臣という傍流(分家というべきか)があることを考えても、久米はいうなれば、軍部というよりは、“歩兵”とか“足軽”とか、“補給部隊”とか、そういった部署名の色合いが強かったんじゃないかと。 」との説を唱える人もいる。

だから久米(給米?)なのか?

これは、来目部が出てくる記紀の記事で、料理に関わる話が多いことからも糧食部だとの推理を呼ぶようである。

しかし、兵隊と糧食は必須の関係なので、殊更に特異な事とするのは疑問である。

これらの各説を踏まえて考察すれば、元は身分の低い来目部の小楯が、顕宗天皇の時代、大部分無主の地だった山に対する支配権を要望したというのも、強力な反対者は(その時代には)いなかったと思われるので、無理筋では無かったのだろう。

では何故、そんな山地の支配権を要望したのか?そこにはどういうメリットがあると思ったのか?

浜・原・野・丘・山・岳の内、有主の地は原則“原“であった。浜は海人の共用地だった。野丘山は原の住民の入会地だった。また山には山人や、猪養の民の様な漂白民がいた。山の樹木は、原の住民の居宅用に、その民の属する村主の許可を得て対価なく利用する事ができた。またそれは寺社の建築用材にもなった。

また山野は、薬草の採取地としても重要だった。

こういう山林資源の権益に目をつけて、その支配権を要望したというのは、小楯にはエコノクラート的な資質があったのだろう。すると、一介の下級クシャトリアである来目部というより、バイシャ商公民の秦氏的な性格を感じる。もしかすると、秦氏の没落民が、来目部に組み込まれていた可能性もあり得る。

景行紀で豊後の禰疑野で反乱を起こしたというのも、豊の国の秦氏の一族だったというので、この敗戦後は、討伐した多氏とそれに従軍していた筈の大伴氏の配下での来目部に入れられてしまった一族がいたのかもしれない。

山林資源の権益には、山の鉱物資源開発認可権なども含まれていたかも知れない。

しかしこれらの権益は、大蔵の管理者である蘇我氏のテリトリーでもあったから、顕宗天皇の属した(私の命名した)第一応神王統(応神〜仁徳〜武烈まで)が終わり、第二応神王統(応神〜二俣王《稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ》〜継体天皇とその王統)では、有名無実化し、久米系山部連の山林支配権は薄弱化して行ったのではないだろうか?

そして実態は、従来からの山部である(恐らく秦氏系の部民)によって山守がなされていたのでは無いかと考える。

それが、厩戸皇子の物部討伐後、秦河勝の統括下に移ったという経緯が考えられる。そして、その後、宇豆勝たる河勝の下に、山部の国勝や地域ごとの小勝が任じられていたのだと想定する。

山椒大夫=山勝大夫は、だから丹後由良地域の山部の小勝だったのではないか。

因みに目下全国の山勝を苗字とする人は130人ほどいるらしい。

東京・神奈川・大阪などは大都市集住現象の結果であるが、山勝氏が多いのは広島と茨城の両県である。これは山勝が過去に存在した傍証でしか無い。それを直接的な証拠にする為には、広島や茨城の山勝さんの職歴を中世にまで遡って研究しなければならない。(残念ながら最早私の余命では全うできないだろう。後学の人に託すしかない。)

一方で、山勝の名称は「日本書紀」には見られない。これは山勝として歴史に残るような事績を残した人物がいなかったからであろう。それはやはり山の大勝職は、河勝によって掌握されてしまっていたからかもしれない。河勝終焉の地の伝説が、西播磨であるというのも、山部の本拠地が播磨である事との関係性が疑われるのである。

という事で、これまでのところ、山椒大夫=山勝大夫説は仮説の域を出ない。

◯最後の宇豆勝は秦河勝か?

秦氏の本流の一つかと思われる服部氏は、元来機織人だから、その統領の勝は、織勝だと思われる。

しかし、服部氏の出自である観世流の能楽師(観阿弥・世阿弥)らは、自分達の先祖は秦河勝だと主張しているのは、周知である。

そうすると、河勝は川勝であると同時に織勝でもあるのか?

これは、そういうのではなく、河勝が諸々の大勝を統率する宇豆勝(宇豆満佐、大々馬佐;馬佐は白馬族のシャー)だったので、服部などにとっても(恐らく山勝にとっても)大統領だったという事であろう。

しかし、河勝が、蘇我氏に疎まれてその終焉がひっそりとしたものだったらしい訳だが、その後秦氏の中で太秦に就いた人がいたという話は見られない。

無論秦氏自体は、その後もずっと残存し続けた。桓武天皇が長岡京から平安京への再遷都を企図した時に、山城盆地に先住の秦氏が協力したというのも有名である。

実際、平安京の最初の内裏は、秦氏の河勝の孫?の屋敷を接収して建設されたと言われ、その為屋敷神として、秦氏が祀っていた韓神などが、そのまま内裏の土地の守り神として残ったとされる。

だが、この河勝の子孫が、依然として全秦氏を統率する太秦の地位にあったとは、どこにも記述されていない。

恐らく、中央の政治権力との抗争を避ける為にか?河勝以降には、太秦が置かれなかったのではないだろうか?

太秦は、無論秦氏の諸々の大勝や国勝達の推挙で成るとしても、公には天皇からの任命(承認)を得るべき呼称になっていたと思われる。

河勝を太秦に任じた厩戸皇子以降は、天智や天武・持統朝などに於いては、蘇我氏ならずとも、秦氏の持つ潜在的な武力を抑制する方向に、政治的な思惑が働いていたのではないか。この事は当の秦氏もよく気づいていて、河勝の失脚以来は、打たれぬ様に出る釘にならぬ様に努めたと考えられる。

平安朝時代に、秦氏が政治の世界を避けて、宗教世界の権威への道を取ったのは、そういう力学の赴くところだったのだろう。

ノ2「山部と山勝〜山椒大夫とは山勝大夫ではないか」

◯山椒大夫について

山椒大夫は安寿と厨子王の姉弟の話として、誰しも聞いたことのあるものだ。

しかし、俗説とは違い、この話はなかなか奥が深い物語なのである。

ネットのgoo辞書では、

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さんしょう‐だゆう〔サンセウダイフ〕【山椒太夫】 の解説

①伝説上の人物。丹後国由良の富者で、強欲非道と伝えられる。安寿姫と厨子王 (ずしおう) の姉弟を人買いから譲り受けて酷使したが、逃亡した厨子王の敵討ちにあったという。名は、山椒売りの長者、または三つも山荘をもつ長者の意で、「山荘太夫」「三荘太夫」とも書く。

②説経節。五説経の一。その伝説を脚色したもの。江戸初期に流行。

③浄瑠璃・歌舞伎などの一系統で、説経節として語られたの伝説を脚色したもの。浄瑠璃「三荘太夫五人嬢 (むすめ) 」など。

④(山椒大夫)森鴎外の小説。大正4年(1915)発表。山椒太夫伝説に題材を取り、安寿と厨子王の受難と姉弟愛を描く。

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と出てくる。(我々の俗知識の多くはこの鴎外の小説やその映画化作品に依拠している。)

山椒を売ったくらいで長者になるというのは納得がいかないので、三莊大夫だろう

という解釈が生まれた。この莊は、上記の“山荘”ではなく、中世の荘園だと思われる。荘官として複数の荘園の管理を任せられた人間は居たようなので、それなら

搾取のキツイやり方なら実入が多かろうから、長者になっても不思議はない。

但しここに抜けているのが、“山椒大夫とは散所大夫”という解釈だろう。

散所というのは、別所とも呼ばれる、非“常民”(必ずしも賎民と同じではない)の

居留地の事である。そこには昔、遊芸の徒(傀儡師や白拍子)・梓巫女や説教坊主等が集散していた。別所というのは、本所に当たる大寺社がありそこが抱える別業地の意味である。

世界大百科事典では、

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山荘太夫

さんしょうだゆう

説経節の曲名。上中下3巻から成る。丹後由良(ゆら)の長者山荘太夫のもとで,譜代(奴隷)としてその過酷な運命に苦しみぬいた安寿と厨子王(ずしおう)姉弟の物語である。山荘太夫の追及をのがれて,摂津国天王寺(四天王寺)にたどりついた厨子王は,そこで賤しい身分を捨てて,もとの奥州五十四郡の主として復活することになる。この生命の転換と更新,それが行われる天王寺という場の構造と論理が,この話の枠組みをなしている。〈さんじょ〉と呼ばれる地名は各地にあり,算所,散所,産所,三荘,山荘などの字を当てているが,この語り物はその〈さんじょ〉に住む遊芸の徒,説経師によって語られたものである。

さんじょの太夫が語り歩いたものが,いつか物語の人物名になったものであろう。長者没落譚とする説もあるが,山荘太夫には下人を使う支配者の像と同時に家長の権力を行使する父の印象もあって,中世末期の土豪や名主(みようしゆ)のイメージが色濃く,他方2人の姉弟は徹底して差別されている。これは,この語り物が民話のレベルをこえて支配と被支配の対立を描き,社会構造を示唆したものだからであろう。また,身代り霊験でよく知られた金焼(かなやき)地蔵の奇跡を織り込んでいる。東北から畿内へと移動する地名の展開は,説経師の足跡を知る上で貴重な記録でもある。森鷗外の小説《山椒大夫》はこの説経の正本に基づいた作品である。       [岩崎 武夫]

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と解説している。

つまりこの解釈だと、散所の大夫という説教坊主が語っていた物語が、いつからか

登場人物の名となったという事のようだ。

「散所大夫の語る説教譚」というのなら、その物語の名が散所大夫となったとする

点に於いては、受け入れられるだろう。しかしそれが、物語中の重要登場人物の名にまでなってしまうというのはいささか納得が行かない。

散所の長吏が蓄財して長者化するというのはあり得るだろう。江戸期の非人頭の

弾左衛門などは、配下の人間の稼ぎの一部を巻き上げてかなりの身上持ちになって

いたというからだ。

しかし、そういう存在が、中世に既にあったかどうか?は分からない。

それなら、まだしも三荘大夫という解釈の方が腑に落ちる。

しかし私は、この山椒大夫の実態は、秦氏の勝の一つである山勝ではないかと考えている。山勝大夫がサンショウダユウと読まれたのではないか?と。

山勝とは、川勝が川人の頭領であるように、山人つまり山仕事や鉱山に関わる民の頭領の事である。

山に関わる仕事というのは、いわゆる木樵や炭焼なども含め、山菜や山野の薬草を採取したり、薬草の栽培をする者、その薬草で薬を作り、売薬として売り歩く者等

も含んでいる。それに土地によっては強力職などもあるだろう。

また木地師の一群もある。

更に猪養(猪飼)の民とか、竹細工師集団(こちらは竹勝の統括下にあったというが、

各地の竹勝=小勝は個別化しており、竹勝の国勝はそも山勝だったと考えられる)なども山に関わる仕事である。

更に渡来人のもたらした専門職に該当する探鉱職や鉱山職なども山の仕事である。

場合によっては、掘り出した金属鉱石の精錬と鍛冶に売り渡す前の金属材の製造等に従事する人達までも含むものかもしれない。

古代の文献(記紀をはじめ諸国の風土記、万葉集まで)に登場する山に関わる民は、一般に山部もしくは山守部と呼ばれる。中でも万葉歌人の山部赤人が有名である。

山部については、Wikipediaが異常に?詳しいので、以下に引用する。

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山部(やまべ) または 山守部(やまもりべ) は、朝廷直轄の山林の管理や産物を貢納する職業部(品部)。およびそれを管掌する氏族。

自営農民でありながら、時と場合に応じて、栗・竹・かつらなど、山林の所出物を貢献した。全国的に設置され、宮城十二門の門号にも陽明門として名を残す軍事的な部の民である。→※陽明門が山部の守衛門なのか?→この後に解説を引用。

地方では「山部首」、あるいは「山部直」・「山部公」により統轄され、中央の伴造は「山部連」が担当した。山部連は天武天皇13年(684年)に八色の姓が制定されたことにより、宿禰の姓を得ている。

『古事記』によると、「此の御世に海部・山部・山守部・伊勢部を定め賜ひき」とある。本居宣長の『古事記伝』はこの「山部」と「山守部」と同一のもので、併記は誤りである、と述べている。→※ 此の御世とは何天皇の御代か?

『日本書紀』巻第十にも、「諸国に令して、海人及び山守部を定む」とある。

→※第十卷は応神紀で、応神2年から41年までの記述。従って上記の此の御世とは応神天皇の御代であろう。

この山部一族は、法隆寺に献納された「命過幡」(めいかばん)との関連性が問われている。

「幡」(ばん)とは、仏の威徳を荘厳(しょうごん、かざりたてること)するための寺院内外に飾られる旗であり、「命過幡」とは臨終に際して浄土へ往生することを願って行われる命過幡燈法(めいかばんとうほう)のための供養の幡である。そこには、施入の年月日や姓入者、供養される人の名が記載されている。

法隆寺の命過幡は20例ほど知られており、そのうちの4例に山部氏が携わっている。

・「辛酉年三月朔六日、山部殿の奴(やっこ)なる形見願ひのために幡を三宝のうちに進む」(斉明天皇7年、661年)

・「山部五十戸婦(やまべ の さと の ふ)」(天智天皇2年、663年)

・「山部、名は嶋弖古連(しまてこ の むらじ)の公(きみ)」(年紀不明)

・「山部連の公の奴(やっこ)加致(かち)の児、恵仙(けいせん)」(年紀不明)

平城宮木簡の和銅5年5月10日(713年)にも、「山部宿禰東人(やまべ の すくね あずまんど)」の名が見える。これは大和の各郡から9人を集めるために用いられたものである。

天平19年(747年)に作成された『法隆寺伽藍縁起 并(ならびに)流記(るき)資財帳』によると、山林丘嶋(おかしま)の記載があり、寺院の所領として大倭・河内・摂津・播磨の26か所があげられている。大倭国では、平群郡屋部郷・坂戸郷、添下郡(そうのしもぐん)菅原郷の3か所が見え、そのうち「屋部」は「夜麻郷(夜摩郷、やまごう)」と『和名類聚抄』には記述されている。

『日本霊異記』上巻には、聖徳太子が病気で亡くなった乞食を、岡本村の法林寺の東北のすみにあたる「守部山」に葬り「入木墓」(いりきのはか)と名づけた、という物語が載せられている。守部山の位置は未詳であるが、「山守部」=「山部」のことと類推される。仁賢天皇と顕宗天皇は、この説話に現れる片岡山(傍丘磐杯陵、かたおかのいわつきのみささぎ)に葬られており、現在の香芝市あたりに比定されている。 その他、『播磨国風土記』や藤原宮跡・平城宮跡から出土された木簡によると、宍粟郡(しさわぐん)の「山部」の存在が確認でき、 天平6年11月(734年)書写の石山寺所蔵の知識経からは、播磨国 賀茂郡の「山直(やまのあたい)上麻呂」・「山直乙知女」・「山直恵徳」の名が記載されている。 正倉院文書にも山直一族が多加郡賀美(かみ)郷に住んでいたことが分かり、しばしば現れる写経生「山部宿禰針間麻呂(播磨麻呂、はりままろ)」の名前も示唆的である。さらに、上述の『法隆寺伽藍縁起 并流記資財帳』によると、法隆寺は播磨国揖保郡・印南郡(いなみぐん)・飾磨郡に併せて21か所の所領を有している。

これらのことは、606年に聖徳太子が推古天皇に勝鬘経・法華経の購読を行い、播磨国揖保郡(いいほぐん)に水田100町(『法隆寺縁起資財帳』では219町1段82歩、『上宮聖徳法王帝説』では300余町、『霊異記』では273町5段)を賜ったという記述とも併せて考える必要があるであろう。太子はこの水田を「斑鳩寺」(法隆寺)に納めたという。兵庫県揖保郡(いぼぐん)には斑鳩町が1951年(昭和26年)まで存在し、現在も太子町という名前である。 加えて、山部連が本拠地とした平群郡夜麻郷は、現在の法隆寺西院伽藍の東方にあたるが、西方の坂門(さかと)郷には、大原史(おおはらのふひと)が居住していたという。「坂門」は「尺度」(さかと」に通じ、『和名類聚抄』には、河内国古市郡尺度郷のことが掲載されており、清寧天皇は河内坂門原陵(かわちのさかとのはらみささぎ)に葬られている。 これらのことから、

法隆寺のある大和国平群郡(現在の奈良県生駒郡斑鳩町)には、山部連一族が居住し、大勢力となっていた情況が窺われる。

播磨国は「山部」、「山部直」、彼らを管掌する「山部連」、及び上宮家や法隆寺と密接な関係な関係があったのではないか。

山部一族と大原氏との関連性も今後の研究課題であろう。

というのが岸俊男の意見である。

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ここまで詳細に記述しているからには、この項目を書き込んだ人の学識が忍ばれる。

時に陽明門と山部の関係だが、

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>> 陽明門(ようめいもん)は、平安京大内裏の外郭十二門の1つ。

左衛門府が警固を担当した。

大内裏の東面、待賢門の北、上東門の南。大宮大路に面し、近衛大路に向かう。

大きさは5間、戸3間だった。

延暦13年(794年)、宮城経営のとき備前国が造営し、山氏がこれを監したことがその名称の由来(やま → やうめい)。当初は「県犬養門」「山門」といった。門内に左近衛府の建物があったため「近衛御門」と呼ばれた。弘仁9年(818年)、額を改め、嵯峨天皇の筆額を掲げた。<<

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という事なので、陽明門は平城宮などにもあったのだろうか?

但し、「名称の由来(やま → やうめい)」で山(部)氏が建造の監修に当たったのでそうなったというが、山→陽明という転訛説には、一寸疑問がある。ヤマベ→

ヤマメイ→ヤウメイの方がまだ可能性無しとはしない。また備前は播磨の西隣なの

で、山部が残存していたのだろうか?しかも久米部なら宮門守備に派出されていてもおかしくは無いが、ここではあくまでも「山氏がこれを監した」というだけの様である。

時にここで山部氏ではなく山氏となっているのは、次の事情による。

(面倒なので、分かりやすい以下の説明を引用させて頂いた。)

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万葉集には「山部宿禰赤人」「山部宿禰明人」と書かれているので、確かに氏は「山部」が正しいのです。ところが勅撰和歌集などの平安時代の文献を見てみますと、ほとんどが「山辺(正字では山邊)赤人」と書かれています。これは桓武天皇(平安時代最初の天皇です)の諱(いみな。尊い人の実名)が山部親王であったことから、「山部」の表記を憚ったものと思われます。『続日本紀』という史書には、桓武天皇の諱を憚って山部の氏名(うじな)を「山」に改めさせたという記事があります。それ以後、山部さんは山さんになったわけですが、昔の山部さんは山辺さんに書き直された、ということではないかと思います。時代によって表記の変遷があり、平安時代の山部赤人は「山辺赤人」であったわけです。

     (やまとうたQ&A)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/qay9.html

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桓武天皇の諱が山部親王だったのである。と言っても、桓武天皇が生まれた時、父も白壁王といい、皇族の一人であった。それが称徳天皇の遺宣により皇太子となって践祚した。光仁天皇である。そのため王子の一人で官僚として大学頭の職にあった山部王も山部親王となったのである。山部王の名は、乳母である山部子虫の姓氏によったと考えられる。但し彼の実母は百済系の官人・和史乙継の娘・新笠である。乙継は高野朝臣となったので、新笠も高野新笠と呼ばれる。だから山部氏の邸宅で生育されたのではなく和史氏の屋敷だったと考えられる。

因みにこの和史氏は、ヤマトノフヒト氏である。和は旧本貫地が大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市佐保庄町大和一帯)に由来する。これは勿論天孫族=和族のワでは無い。漢氏が西漢(カワチノアヤ)」と東漢(ヤマトノアヤ)の2流があるのと同様であろう。河内を本貫とする田辺史氏に対して、史部でも異流の和史は大和

を本貫とする史部という意味なのである。ヤマトは最上古には倭の字を当てていたが和族が奪権してからは和の字を用いる様になった。だから和史氏は、自称では百済の武寧王の末裔というのだが、和族の応神朝以降に帰化した韓族であろう。

(漢氏は漢の皇室の、秦氏は秦の始皇帝の末裔を僭称している。北関東高麗の郷で有名な高麗氏も高麗王家の末裔と自称している。しかし半島系の帰化人で、王家の子孫だと公認されているのは百済王氏だけである。)

従って、山部が”山部“であったのは奈良時代迄で、一時は”山“となり、その後は、

”山辺“という表記になったという事になる。

さて、各地の山部は山部首(小勝として)が、そして山部直が(国勝として)管理し、更に上級監督は山部公連(山部宿禰)だというので、これが大勝に相当するのだろう。この構造は、川部のものと相似である。

また秦河勝は聖徳太子の腹心だったのだが、その聖徳太子と山部の関わりが指摘されるというのは、太秦であった河勝が山守部の統括者でもあった可能性が考えられる。

ところで先述の大原氏は、知名度の高い京都洛北の大原の里ではなく、大和の大原

(平群郡坂戸郷)に居住した氏族である。

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坂戸郷(坂門)        平群郡        天平19.2.11        747        〔法隆寺伽藍縁起并流記資財帳〕【坂門】法隆寺/伽藍縁起并流記資財事‖山林岳嶋等弐拾陸地大倭国参地/平群郡屋部郷一地、東限鳥方岳板垣嶺 北限渋谷、至於保伊知比石庭 西限石庭、至大谷須疑墓 南限寺領、 同郡坂戸郷岳一地、東限平群川 南西限久度川 北限志比坂路

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隣接地である;大和川を挟んだ斑鳩法隆寺の対岸片岡にあった西安寺の伽藍形式が、法隆寺若草伽藍や四天王寺との類似性が指摘されている一方、これを創建したのは百済系渡来人の大原史氏だという説があったのだ。

これについては、《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─王寺の歴史と文化─】第2回 斑鳩・片岡の飛鳥時代寺院と大和川

●2020年9月27日(日)

に於いて、

講師の岡島 永昌(王寺町学芸員)氏が以下の様に述べている。

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まず、従来の研究でも指摘されているように、聖徳太子には片岡で飢者と出会う説話があったり、推古天皇から与えられた播磨国の地を法隆寺・中宮寺・片岡僧寺の3寺に分納したりする記事(「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」)があって、片岡とも関係していたことがうかがえます。さらに、大和川南岸にあった寺院のひとつである西安寺跡において、2014年度から王寺町が継続して発掘調査を進めたところ、現在の舟戸神社の境内地を中心に、南から北にかけて塔・金堂の基壇跡が良好に残る状況を確認することができました。しかも、塔跡は、法隆寺西院伽藍の五重塔と同じくらいの規模をもつ立派なもので、西安寺は南を正面とする四天王寺式伽藍配置でもって建立されていたことが明かになってきました。

その一方で、西安寺については、仁安3年(1168)「大原吉宗田地売券」(『平安遺文』)や竈神が祀られる久度神社から、渡来系氏族である大原史氏によって創建されたとする説が有力で、聖徳太子の関わりは太子創建とされる46か寺のひとつに数えられるに過ぎませんでした。しかし、王寺町が進めてきた発掘調査によって、西安寺跡から法隆寺若草伽藍出土瓦と同笵の飛鳥時代前期(6B)及び飛鳥時代中期(7Ab)の軒丸瓦が出土し、西安寺の創建に聖徳太子自身や上宮王家が関係していたことを想定できるようになってきました。

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とされていて、最初の創建はやはり聖徳太子か上宮王家(山背大兄王)が関与していると考えられる訳だ。更にこの西安寺は(一度焼けて?)再建されたらしいのだが、

その跡地からの出土品から、再建には天武天皇が関わっていたと推定される様だ。

上記の岡島永昌氏は次の様に括っている。

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聖徳太子が建立した法隆寺若草伽藍は天智9年(670)に焼失したのち、7世紀末から8世紀初め頃に今の法隆寺西院伽藍が再建されましたし、『聖徳太子伝私記』に記録された法起寺塔露盤銘によれば、法起寺は7世紀半ばから8世紀初頭にかけて造営されました。では、誰が、なぜ大和川沿岸で7世紀後半以降も寺院の造営を続けたのでしょうか。その解明の糸口になるのが、西安寺跡から出土する忍冬蓮華文軒丸瓦と呼ばれる瓦です。

この忍冬蓮華文軒丸瓦は、蓮華文と忍冬文を交互に配置した文様で、西安寺特有のものです。そして、西安寺跡から出土する忍冬蓮華文と同笵の軒丸瓦が、神奈川県横須賀市の宗元寺跡から出土しています。森郁夫氏によれば、宗元寺のある相模国は天武天皇の子や孫の食封が多くあるところで、両寺を同笵瓦で結びつけたのは天武天皇ではないかと推測されています。

天武天皇といえば、天武4年(675)以来、頻繁に竜田と広瀬の神を祀るようになり、同8年(679)には竜田山と大坂山に関を置きました。竜田・広瀬ともに位置するのは大和川をつうじた交通の要地です。大和川沿岸の寺院が7世紀後半以降にも大規模に造営される背景には、国家による大和川交通の掌握があったのではないかと想定することができそうです。西安寺は今のところ、南向きの四天王寺式伽藍配置であったと考えていますが、南側は丘陵が張り出していて狭く、代わりに北側が広く、かつ丁寧に整地されている状況が発掘調査で確認できました。つまり、西安寺は、大和川のある北側に門戸が開かれていた可能性があり、やはり斑鳩・片岡の飛鳥時代寺院は大和川の交通と深く関わっていたようです。

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という事なので、大原史氏が関与していた形跡は薄くなった。

つまりこの点からすれば、Wikipediaの解説で岸俊男氏の指摘しているという山部氏と大原史氏の関連は無さそうに思える。

さりながら、大原史氏も渡来人系なので、もし山部が秦氏の一族なら、秦氏も渡来人なので、ここらで混線が起きた可能性はあるだろう。

他方、同じ平群郡夜部村        の鎌倉時代の文献に秦氏の存在が窺われる。

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建保2.2.20        (1214        年)

〔秦行常畠地売券〕沽却 売買畠新立券文事/合壱段者〈字江井〉

在平群郡夜部村八條九里丗三坪并同條里十九坪内

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この秦氏は果たして、山部に関わる秦氏なのかどうかは、時代が下り過ぎているので、推理できない。

◯山部赤人について

山部氏といえば、誰しもが想起するのは、万葉歌人の山部赤人である。

「田子ノ浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」

の歌は、万葉集歌の代表作として教科書にも載っている。しかも彼の歌は万葉集に何と五十首も採られているのである。古来、柿本人麻呂と並ぶ歌聖とされた。

しかし赤人は、身分が低い官人だった(幕末〜明治の系図研究家の鈴木真年に依れば官位が外従六位下・上総少目だったとしている)ので正史「続日本紀」などには

記載が無いのである。

しかし赤人は、万葉集では山部宿禰赤人と出ているので、山部であった事は確かで

あろう。だが、山部の内でもそんなに高位では無かったろうから、赤人の残した歌を分析しても、山部の何たるかを示す内容は出てこない。山部氏の本業を離れて、聖武の宮廷歌人になっていたと考えられている。

だが諸々の伝承では上総の出身であったらしい。

千葉県東金市には赤人塚がある。赤人は上総国山辺郡の出身と伝わっているのだ。

また江戸時代の神代学者・山口志道は、「田子の浦」は、駿河湾に臨む田子ノ浦ではなく、現在の千葉県鋸南町であるとの説を発表している。つまり江戸湾を挟んでの富士の遠望だというのである。江戸湾越しの富士山の眺望がそんなにクリアにも

見えるものかは、古代には邪魔な建築物や人家の出す煙や煤塵も無かったであろうから何とも言えない。浮世絵の「富嶽三十六景」にも江戸近辺からの富士の遠望が

題材となっているものが複数あるからだ。

また終焉の地と墓所は、2説ある。一つは大和の宇陀の額井岳の麓であるというもの。地元宇陀市の観光紹介では、

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榛原山辺三には山辺という地名と結び付けて山辺赤人墓と伝わる苔むした五輪塔があり、供花が絶えない。墓の脇には

「あしひきの山谷越えてのづかさに今は鳴くらむ鶯の声」の秀歌が刻まれた歌碑がある。

「山辺の赤人墓」

東海自然歩道沿いの山中に抱かれた場所にひっそりと建つ五輪塔。赤人の墓として伝わり、今もなお大事に守られている。上部の空輪・風輪が大きい特徴がある。

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とある。宇陀の榛原は秦氏に関わる土地である

もう一つは東近江市下麻生町に所在する。赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺(しゃくにんじ、あかひとでら)で、そこに今は隣接して山部神社が祀られている。近江の下麻生も秦氏にゆかりの土地なので、宇陀にしても近江にしても山部氏は、この頃はやはり広義の秦氏に属していたのかも知れない。

しかしこれだけでは、確たる推理は出来ない。

現在山部の苗字を名乗る家族は全国で5千人ほど。熊本県に一番多い様だが、ほぼ

全国的に分布しており、そんなに珍しい苗字では無い。

またその変形と思われる山辺の苗字も、全国的に分布し、こちらは8千人ほど。

合計で1万3千人。これは日本人の1万分の1。

秦河勝が太秦(宇豆勝)で、冠位十二階の小徳というので、後世の正四位相当であったが、河勝の場合貢献度顕著であったのでその様な大夫(マエツキミ)の地位にまで進んだと思われるから、もし山部の統括者として大勝=山勝がいたとしても、恐らく従五位下程度だったろう。だから、赤人の外従六位下というのは、宮廷歌人としての活躍を認められたゆえだとして、ほぼ納得の行く官位である。

というのも、上総の少目は通例従八位下相当なので、従六位下なら7階等も上位であるからだ。

勿論赤人は、山勝や分国の勝(国勝)でさえ無いだろう。というのも、外官なので、

員外官だったのかもしれない。或いは父親が上総国衙現地の下級官職を有していたという事なのかも判らない。ともかく、何が契機となったのかは不明だが、壮年の直前に、和歌に秀でた都人が国司庁に赴任して来て、赤人の歌の才を認めて、中央への登用を推挙してくれたのではないだろうか?

という事は、著名度はともかく、同時代に別に山部の伴造=山部公連がいた筈なのだが、具体的には誰だったのか?これは今のところ伝わらない。

また天平時代には山部氏で赤人以外の具体的な活動の記録や伝承は少ないようだ。

◯山部連についての記録

天平時代には山部赤人の活躍で、山部氏は著名となったが、それ以前では、天武朝に五十ばかりの連姓氏族に宿禰の姓を与えたという記紀の記事が伝わる。

ところが、その連の山部氏について、遥か以前、雄略天皇などの上古の時代に、(書紀)“顕宗天皇紀”には、曲水宴と山部連となる來目部小楯に関わる記述がある。

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[原文]

三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、詔曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。国之所以興者、惟賞功也。夫前播磨国司來目部小楯更名磐楯、求迎舉朕、厥功茂焉。所志願、勿難言。」小楯謝曰「山官、宿所願。」乃拜山官、改賜姓山部連氏、以吉備臣爲副、以山守部爲民、裒善顯功、酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔。

[現代語訳]

(即位元年)3月3日に後苑(ミソノ)に御幸し、曲水宴(メグリミズノトヨノアカリ)を催した。

夏4月11日。詔(ミコトノリ)して言われた。

「凡(オオヨソの=全ての)人主(ミカド)の民を勧め励ます方法とは、これ、官を授けることなり。国が興る方法は、これ、功を認めて、報償を与えることなり。ならば前播磨国司(ハリマノクニノミコトモチ)の来目部小楯(クメベノオダテ);小楯の別名は磐楯(イワタテ)という;は、探し求め、迎えて、朕(ワレ)を(大王の位に)挙げた。

その功はすばらしいものだ。願うところあれば、はばかることなく言え」

小楯はかしこまって言った。

「山官(ヤマノツカサ)がかねて願う所です」

そこですぐに山官に任命して、改めて山部連の姓を賜った。吉備臣(キビノオミ)を副官として山守部(ヤマモリベ)を民(カキベ)とした。善を褒め功を明らかにし、恩に報い厚く答える。寵愛(メグミウツクシビ)に優れており、(顕宗天皇)に並ぶものが無い。

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これは、安康天皇後の皇位争いに関わる話である。

安康天皇3年10月1日(天皇が既に暗殺された後)父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると、兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と共に弘計王は逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に、更に播磨国明石郡や美嚢郡の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変え丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役されて、長い間牛馬の飼育に携わる奴に身をやつしていた。

雄略の後、その子清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを聞き、喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。この時の発見者が播磨の国司だった来目部小楯なのである。

同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。兄弟間で皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。

(『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする。ここから最初の女帝を飯豊青皇女だとする見解も生じている。また億計・弘計の兄弟を匿っていたのは、実は同母姉の飯豊青皇女だという説もある。)

結果的に兄の説得に折れる形で(顕宗天皇元年元旦)弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子というのは、これ以降も例がない。

(という出来過ぎの兄弟愛から、雄略以前の兄弟間での流血の皇位争いに対照させて、顕宗・仁賢の二人の存在をアッピールする為の虚構であり、億計・弘計は二人ではなく一人の存在を脚色して二人にしたのだろう、などという異説もある。だが

そんな異説を主張しても、結局記紀編纂直前の壬申の乱が、結果的に叔父甥間での

皇位争いなので、わざわざ記紀で一人のオケを億計・弘計の二人に分割する寓意が

意味をなさない!として、珍しい話だからこそ、虚構ではなく実話だという反論も

出されているのだ。)

ともあれ、顕宗天皇から「来目部小楯が山官に任じられて、山守部の支配者となり、小楯は山部連の姓を賜った」という話なのである。

しかし、それまで小楯は来目部であり、山官に任じられる前は山守部では無かった

と解することができるだろう。

推古朝で、物部守屋が討滅される前は、員弁(引佐部)は物部氏の統括下に置かれて

いたように、ある部曲を(必ずしもその専門職種に属さない)別の氏族を統括下に置く(伴造になる)という事があったと思われる。つまり官職としての山官に、小楯が就いたのだが、山部はそれまでも来目部とは別個に存在していたと考える。

来目部は無論秦氏ではない。

すると、何処かの時代に、山守部も秦氏の統括下に移ったという可能性が考えられる。それも恐らく、員弁を秦河勝の統率下に於いて造寺の便宜に益せしめたと同様に、木そのものを適宜(造寺の)必要に応じて調達する為に、山守部(山部)もまた

同時に秦河勝の統括下に置かれたのでは無いだろうか?

◯来目部

コトバンクで引いてみると、

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久米部とも書く。大和政権下の軍事的職業部の一つ。中国・四国地方に多く東国には少ない。統率者(伴造(とものみやつこ))は久米直(くめのあたい)であるが、『古事記』以外の古文献はみな大伴連(おおとものむらじ)をさらにその上級の伴造とする。大伴部が西国に遅れて大和政権下に入った東国に多い事実からすれば、衰えつつあった久米直と久米部がある時期同時に大伴氏の配下に置かれたとも考えられる。記紀の久米歌(くめうた)は久米部の出陣・戦勝にあたっての歌謡で、のちに宮廷芸能となったものである。

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と簡略に記載されている。

ともかく佐伯連とともに大伴氏配下の兵部であり、久米は姓が直なので、佐伯より

一段下位の氏族である。

来目とは何か?

三つの説がある。

一つは、来目が隈目であり、元来縄文人の一部(大部?)と同様に、目に隈取りをしていた事から来た名であるとするものだ。また来目部は九州から中国四国に多かったので、元々は熊襲で、それが和族の大伴氏に服属したものだとする。

佐伯は元は非服属民で帰属後大伴氏の配下に組みいられて兵部になったとされる。

佐伯も中九州から中国〜北陸に分布している。佐伯氏には黥面文身の習慣についての言及が見られない事から、来目部とは出自を異にしている。

また隼人舞と同様に来目部にも久米歌や久米舞があり、これは和族への服属儀礼の痕跡と考えられる事から、来目部もやはり旧非服属民だったのだろう。

二つ目の説は、来目とは“籠め”“込め”の意味であり、古代の防御柵(馬防柵)や垣根や土塁などを意味し、柵の守護人だと考えるものである。来目部は騎兵でなく歩兵であり、かつ弓射に秀でたというので、垣目越しの射撃が得意だったとする。

佐伯も“遮る”の意味から来ているというので、来目も守兵の意味合いだったのかも知れない。

更に三つ目に、「蘇我氏・春日氏に久米臣という傍流(分家というべきか)があることを考えても、久米はいうなれば、軍部というよりは、“歩兵”とか“足軽”とか、“補給部隊”とか、そういった部署名の色合いが強かったんじゃないかと。 」

との説を唱える人もいる。だから久米(給米?)なのか?

これは、来目部が出てくる記紀の記事で、料理に関わる話が多いことからも糧食部だとの推理を呼ぶようである。

しかし、兵隊と糧食は必須の関係なので、殊更に特異な事とするのは疑問である。

これらの各説を踏まえて考察すれば、元は身分の低い来目部の小楯が、顕宗天皇の時代、大部分無主の地だった山に対する支配権を要望したというのも、強力な反対者は(その時代には)いなかったと思われるので、無理筋では無かったのだろう。

では何故、そんな山地の支配権を要望したのか?そこにはどういうメリットがあると思ったのか?

浜・原・野・丘・山・岳の内、有主の地は原則“原“であった。

浜は海人の共用地だった。野丘山は原の住民の入会地だった。また山には山人や、猪養の民の様な漂白民がいた。

山の樹木は、原の住民の居宅用に、その民の属する村主の許可を得て対価なく利用

する事ができた。またそれは寺社の建築用材にもなった。

また山野は、薬草の採取地としても重要だった。

こういう山林資源の権益に目をつけて、その支配権を要望したというのは、小楯にはエコノクラート的な資質があったのだろう。すると、一介の下級クシャトリアで

ある来目部というより、バイシャ商公民の秦氏的な性格を感じる。もしかすると、

秦氏の没落民が、来目部に組み込まれていた可能性もあり得る。

景行紀で豊後の禰疑野で反乱を起こしたというのも、豊の国の秦氏の一族だったと

いうので、この敗戦後は、討伐した多氏とそれに従軍していた筈の大伴氏の配下での来目部に入れられてしまった一族がいたのかもしれない。

山林資源の権益には、山の鉱物資源開発認可権なども含まれていたかも知れない。

しかしこれらの権益は、大蔵の管理者である蘇我氏のテリトリーでもあったから、顕宗天皇の属した(私の命名した)第一応神王統(応神〜仁徳〜武烈まで)が終わり、第二応神王統(応神〜二俣王《稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ》〜継体天皇とその王統)では、有名無実化し、久米系山部連の山林支配権は薄弱化して行ったのではないだろうか?

そして実態は、従来からの山部である(恐らく秦氏系の部民)によって山守がなされていたのでは無いかと考える。

それが、厩戸皇子の物部討伐後、秦河勝の統括下に移ったという経緯が考えられる。そして、その後、宇豆勝たる河勝の下に、山部の国勝や地域ごとの小勝が任じられていたのだと想定する。

山椒大夫=山勝大夫は、だから丹後由良地域の山部の小勝だったのではないか。

因みに目下全国の山勝を苗字とする人は130人ほどいるらしい。

東京・神奈川・大阪などは大都市集住現象の結果であるが、山勝氏が多いのは広島と茨城の両県である。これは山勝が過去に存在した傍証でしか無い。それを直接的な証拠にする為には、広島や茨城の山勝さんの職歴を中世にまで遡って研究しなければならない。(残念ながら最早私の余命では全うできないだろう。後学の人に託すしかない。)

一方で、山勝の名称は「日本書紀」には見られない。これは山勝として歴史に残るような事績を残した人物がいなかったからであろう。それはやはり山の大勝職は、河勝によって掌握されてしまっていたからかもしれない。河勝終焉の地の伝説が、

西播磨であるというのも、山部の本拠地が播磨である事との関係性が疑われるのである。

という事で、これまでのところ、山椒大夫=山勝大夫説は仮説の域を出ない。

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