補遺41「黄牛族とアメウシ」
天孫族考補遺41「黄牛族とアメ牛」
◯黄牛族について
天孫族考の補遺18で考察したのは、大月氏国の5翕侯国の内、貴霜翕侯国が後にガンダーラに遷都したクシャン朝であった事である。月氏の中で、クシャトリヤの建てた都市国家がタリム盆地に複数あり、これが匈奴の西方侵出で東西に逃避した。西へ行って、月氏の他の2部族(葱茈族、白馬族)と共に大同団結して建国されたのが、大月氏国である。一方、崑崙山脈南麓沿いに逃げて羌族に混住したのが、小月氏と(中国から)呼ばれた部族だが、その中には元々はタリム盆地東部に展開していたと想像される月氏クシャトリヤ部族があり、これは黄牛族という。
黄牛族は、無論黄牛をトーテムとし、拝火壇の供犠にも用いていた。
天孫族考で何度も言及したように、ゾロアスター教では、天神アフラマズダが最初に造化した動物が牛であった。(この為、ゾロアスター教に起源を持つインドのバラモン教やその後継であるヒンズー教でも、牛が聖なる動物になっているのはよく知られている。)馬や鹿、羊などは牛から造出された事になっている。
因みに、月氏の部族別分住が発生した比較的早い時期にクシャトリヤである黄牛族は先ずパミール高原の南麓方面のガンダーラ地方に移住しており、果たしてタリム盆地に降りて行ったのとどちらが早かったかは解明されていない。
ハチの分蜂の際には、新しく生まれた女王蜂と共に巣別れするのだが、黄牛族や白馬族(秦氏)の場合は、葱茈(龢=和=奈義)族の女王一族の女系家族を1組若くは複数組連れて、新天地へ移住した。この女系家族を“置き龢”と呼んだ。本邦古代にも息長氏というのは、こういうバラモンの龢族の血を残していく為の措置だったと考えられる。
だから、出雲族(黄牛族)にも秦氏(白馬族)にも息長氏が付帯したのである。
ガンダーラに居た黄牛族は、アケメネス朝ペルシャの属国となっていたようで、ペルセポリスの神殿レリーフの各民族の貢納図にも、ガンダーラ族が描写されている。その特徴は、①貢納したのはやはり牛であった事、②貢納の使者は独特な筒状の帽子を被っている事であるのも、既に天孫族考で指摘した通りである。
後世、そのガンダーラも大月氏国の版図となり、カニシカ王の時代にはクシャン朝の首都地域にもなったと考えられている。
ところで、小月氏の黄牛族もまた、小月氏の一部?が、匈奴の攻撃を避けて黄河を下り、内蒙古を経由して遼の地へと大東遷するのに連動して移住した。
そうして、東遷した小月氏の三族が共同して遼地に建てたのが「辰国」だったと考えられる。
辰国の名は、葱茈族(和族)が日辰を、黄牛族が星辰(主に北極星=北辰)を、白馬族が月辰を信奉していた事によるものであろう。(北辰信奉は後に妙見信仰となる。)
しかし、この辰国は、西方からの中国系民族と、北方からの扶餘系民族の圧迫を受けて更に南遷し、韓半島南部に移住して三韓の構成民族になった。
但し、辰国の黄牛族の中には、扶余に入って大官「牛加」になった者達もいた。
黄牛族が主に移住したのは辰韓であった。
辰韓では、同じ黄牛族の中で、統一戦争に乗り出した斯羅とそれに対抗した伊西国や(元馬韓の)牛頭方などの部族との紛争が深刻化し、戦闘に負けた部族は海を渡って秋津島
(大八洲=後の日本列島)に移住した。これが後世出雲族となった部族である。
だから、出雲族は辰韓系ではあるが、新羅(斯羅から改名)系では無いのだ。
とは言え、新羅もクシャトリヤであり黄牛族であるので、そのトーテムは黄牛であった。(新羅を打倒して後世成立した高麗はツングース系であるが、打倒対象だった“敵”が黄牛族新羅だったから、弓射の的に敵の標・黄牛の頭部の絵を用いた。牛的という。)また新羅の殺牛祭祀の習俗も確認されている。
また列島へ渡来した黄牛族=出雲族も、牛がトーテムだったと考えられる事も、既に天孫族考で指摘してきた通りである。
さて、ゾロアスター教の原初に話を戻して、牛が聖獣であった事を再認識する。
その原初には聖獣が「牛」という話になっているのだが、これはかなり早い段階で、牛でも特に「黄牛」という事になったと思われる。
この黄牛は、我が国ではアメ牛と呼ばれる。
そこで次に、黄牛がアメ牛と呼ばれるのはなぜか?またアメ牛という表現は何処から出た表現だったか?これらを考究してみる。
◯アメ牛とは
黄牛を和語では“アメウシ”という。
今ここで論じようと思うのは、一つには何故黄牛をアメウシと呼ぶのか?
もう一つは、月氏天山三族のクシャトリアを黄牛族というのは何故か?
(金牛族や白牛や黒牛・赤牛などでなく何故黄牛なのか?)
この二点である。
先ず、何故黄牛を和語でアメウシと訓じるのか?という点を考究しよう。
黄にアメという読みは無いので、これは恐らく“飴色の牛”という意味合いだろう。
そも飴(タイ、あめ)は、中国で発明された。
飴が本邦に渡来したのは、飛鳥時代以前とされる。日本書紀の神武紀に大和高尾の地で、水無の飴(つまり糖※)を作ったとされる。
神武紀は現実性が乏しい仮想の伝承だと言うので、この記事はそのまま信用はできないが、記紀の作られた養老年間(奈良時代)には、既に古くから飴というものの存在が知られていたのだという事が(間接的に)推理される。
※ところで中国では日本で言う水飴が“飴”で、水分を飛ばした固形物を“糖”と呼び区別している。日本では水飴も固形の糖も、ともにアメという。固形のアメが米偏に唐の字を旁にするので、唐時代に一般化した産物かとも思われる。
そも飴は、穀類の澱粉を加水糖化して作られる。成分は麦芽糖と葡萄糖である。
中国的には飴の味は甘味の一つといい、甘の字をアマイと訓じるのは和語である。
飴が甘味だから飴の字は、訓ではアマイ(甘い)→アメー(飴)となったのである。
飴の味だからアメー→甘いとなったのではなく、その逆であろう。
何故なら飴が発明される前から、人間には甘いという感覚はあった筈だ。蜂蜜を食する習慣は相当古いし、果物にも熟れて来て糖度を増して甘いものは幾つかあったであろう。だから飴が出来てから、甘いという観念や言葉が生じたわけでは無い筈である。
黄牛をアメウシと呼ぶのは飴ができて以降の事であろうと一般には理解される。いわゆる鼈甲飴の色が、いわゆる“飴色”に相当するからだ。
水飴は相当に早く西伝し、西洋でも作られたがそちらは固形物の糖にするのが一般的な甘味料である。砂糖(蔗糖)も中世末期までは貴重品であり、有平糖とか金平糖は、信長時代に南蛮人が到来した物だという。
では、この和語のアマイという言葉の語源は何なのだろうか?
カライの場合は、中央アジア祖語の黒色(カラ)を意味する。日本ではカレーは黄色香辛料のターメリックがたっぷり加えられている為に、カレー色というと黄土色だが、インドでは、もっと黒い汁が一般的で、だからカラーい(黒い)香辛料がカレーなのだ。
因みに今日では辛い物は唐辛子だと思い込んでいるが、唐辛子は中米原産で、大航海時代になって世界に普及した。勿論日本や中国には南蛮人が持ち込んだ物であり、味覚的には最も後から加わった要素である。
(しかも朝鮮に唐辛子が入ったのは太閤の朝鮮侵略の時なのである。)
だが甘物というのは、甘い味のする食品類を漠然と指す言葉であって、具体的な代表になる食品はない。というか、糖類の味がアマイになるわけだ。(強いて言えば砂糖黍の汁が具体的な甘味ではある。水飴は勿論甘い物だ。)
つまりアマイというのは、具体的な物からの発想では無い。今日では逆転で、飴の味のような味覚をアマイと認識するようになった。
(或いは砂糖はアマイので、砂糖を調味料にして多量に含む物が近世以降には甘味物になった。)
転じてアマイは、規制が緩い事をも指す。アマイ態度などという形容もある。縛りが緩い、厳格では無い事をいう。しかしこれはアマイという観念の派生であり“規制の緩い味覚”?がアマイというのではない。逆である。
このアマイという表現の始原を考究した者は少ない。
私は、これはやはり天(アメ)に因む表現だと考える。
何故天が味覚に関わるのか?
アマイという事は、元来は果物の味覚であり、その後飴が考案された時に味わった人は、これまで果物では味わっていたかもしれないが(古代の原産の果物類は概して糖度が今より低かった)飴を舐めた時には、“天にも昇る気持だったから、天イ=アマイ”なのかも知れないと考えたが、これではいささかこじつけに過ぎるだろう。
しかし神話では天井(天井:テンジョウではなくテンイ)即ち天上世界にある幻の井戸水、その味覚、それが天井=アマイという事なのではないか?と思われる。
従って黄牛族の黄色の牛(アメウシ)というのは、実は天の牛(天牛=アメウシ)の事になるのではないか?
つまり飴色というのは、天を連想させる色であり、だから月氏の三族にとっては、天牛は黄牛になるのだろう、と推理する。
ところが中国では、道教で五行:木火土金水の内、大地の色は黄色だとする。東西南北中の中央の色であり、だから黄土色ともいう。無論中国では古来から黄土高原からの砂嵐に悩まされて来て、河北では土の色は黄土色である。
また牛を神聖視するのはゾロアスター教由来なので、中国にはそういう観念はない。河南の水牛も含めて中国では牛は土牛である。牛は褐色と意識される。
天牛と土牛では文字通り天と地ほども違いがある。
またタリム盆地の砂漠化は4世紀後半以降だから、それ以前の大地は緑だった筈だ。月氏には牛と黄土は無関係。
またパミール高原から崑崙山脈北麓の青海・清蔵高原は黄土地帯では無いので、土は土色(褐色か黒褐色)だったのだ。
牛を神聖視するのは、中央アジア〜インド《南伝》と新羅と大倭(オオヰ)出雲族《東伝》である。
東伝では、牛頭天王や天神や善光寺の牛の様に、出雲族系文化の残る地域とか信仰領域とかに今も残っている。新羅でも黄牛がトーテムだった。
従って、飴をアメと呼び、甘味をアマイという習慣もまた、中国の文化圏の物で無く、疆外の月氏の文化の痕跡だと思われる。
西洋でも、例えば英語で甘いのをsweet という。このsweet は単に味覚だけでなく、sweetheart (恋人)とかsweet kiss などと言う。
sweet kissといっても、口や唇を吸い合っても甘い蜜汁が分泌されるわけではない。これは気分がsweet になるという事だ。
sweetheartというのも、接触によってgoing to the heaven (昇天する)というのをsweetな心地になると表現したものだろう。
このように西洋でもsweetとheavenには関連があると私には思われる。
もっともsweet heavenという熟語はない。が、heavenly sweetという表現はあり、これは日本語の表現「天にも昇る気持」にも通じる。
※因みに語源辞典では;古期英語 swete(甘い)⇒ ゲルマン祖語 swotus(甘い)⇒ 印欧語根 swehd-(甘い)が語源。
また派生して、ラテン語 persuadeo(説得する)⇒ ラテン語 per-(完全に)+suadeo(好ましく思わせる)⇒ 印欧語根 swehd-(甘い)が語源。「甘い言葉でその気にさせることsuade」がもともとの語源。英語 dissuade(説得して止めさせる)と同じ語源をもつ。
一方で、sugarの語源はSarkaraで、古代インドのサンスクリット語でサトウキビを意味。なので、sarkar →sugar 。サッカリンも同源。だから、swehdとsarkarには直接的な関係は無い。
またamai とswehdにも表面上同一要素は見つけられない。
◯甘いというのは母乳に関わるのか?
私の指摘した、甘い=天(アマ)説の他に、母乳の味をアマイと言うのではないか?という説がある。
これは、琉球語で母をアンマーといい、朝鮮語ではオモニというので、アーリア人祖語の母を表すマーに由来するとされる。(和語では母はハハやカカであり、このマーの系列の言葉ではない。縄文語由来か?)
で母乳が甘いから、マーやアンマーからアマイという言葉が派生したというものである。(幼児語の“うまうま”の方は甘々であろう。)
一見、妥当性がありそうだが、母乳は脂肪酸成分が中心であり、乳糖は含まれるものの、乳糖は甘いと感じられるほど甘くない。砂糖の1/5程度の甘味しかないというので、乳糖より果糖の方が遥かに甘い。実際、果物の熟した物を味わえば、なるほど甘いと感じる。
従って私は、甘い=母乳味説を肯定はできない。
乳児が母乳を好むのは、そこに含まれるオキシトシンの効果によるものだ。この物質は安心成分と言われる様に、精神安定物質だからである。その解説では;
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オキシトシンの主な作用としては、抗ストレス作用、摂食抑制作用が挙げられます。 抗ストレス作用については、例えば、抑制系のニューロンで知られるGABAニューロンを活性化するなどして、恐怖刺激に対するすくみ行動を抑制することが、動物実験を通じて明らかにされています。
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黄牛族も白馬族も日本へ渡来し始めた時には、対馬海峡を牛馬を載せて渡海できる程の舟が無かったので、渡来民だけが先に移住し、その後上古の大和王朝の時代になってから牛馬がやっと渡海されたのだとされる。
魏志倭人条には倭(ヰ)には牛馬がいないと書かれたが、本当にいなかったのか、魏使の見える範囲にはいなかっただけなのかは分からない。
少なくとも応神朝とか河内王朝の時代には牛馬が入って来て、その利用が急速に拡大していったと考えられている。確実な三輪王朝時代の古墳に馬具があるかは未詳だが、もしあれば初期ヤマト時代に少数ながらも馬が輸入されたのであろう。ただ乳を得る為には、山羊が同時渡来した。
黄牛族にとって牛は神聖なものだったから、恐らく三輪王朝時代にやはり少数は渡来したものと考えられる。北近江の息長氏支配域に、三輪王朝期と思われる牛の供犠の祭祀跡があるというから、最初はごく少数の祭祀用の牛が輸入されたのかも知れない。
出雲族系氏族の古墳の中に牛の存在を示す物的痕跡があるかは未詳である。
しかし、出雲族系と思われる津島神社の牛頭天王は、古代の地方豪族尾張氏の版図の内の物である。また菅原道真を祀る天満宮寺は牛の故事で知られるが、菅原氏=土師氏は出雲族系だとされる。
出雲族の直系と言われる物部氏には直接牛を連想させる伝承は聞かない。だが物部守屋滅亡後に、諏訪に合流したという新旧出雲族の諏訪文化圏には善光寺も含まれる。
また土佐の物部川上流地域には、役牛飼育の歴史がある。
ところが、肝心の物部氏の牛との関係は、未だ誰も究明したことが無かった。(出雲大社は、出雲族祖神の鎮魂の為に後世創出されたものなので、出雲に牛との関連が見つからないのは不思議では無い。)