天孫族考補遺42「出雲とは何か?」

天孫族考補遺42「出雲とは何か?何処のことか?

補遺41で黄牛族について考察した。今回はその延長で、黄牛族が東海列島へ渡来後に建てた出雲国について、再度考究してみた。

出雲については、天孫族考本文で何度も考察してきた。

従来の私説では、整理すると

1)出雲族とは、三韓時代の主に辰韓や弁韓などに居た月氏黄牛族の、同じ黄牛族の辰韓斯羅国が周囲の都邑国家を征服して新羅と成って行く過程で、戦闘に敗れた、もしくは戦闘を回避した伊西国や牛頭方などの王族や臣民が、北九州〜山陰などに渡来した部族の事である。

2)我が列島のほぼ最初の汎域的な王朝は、黄牛族がヤマトに建てた“三輪王朝”ではないか。これが倭族を併呑してできた大倭(オオヰ) 国である。

3)三輪王朝は、九州に併存した日下国(中国名は狗奴國)が、日之下建とその妃である息長帯日姫(神功皇后)の東征軍によって征服され、大和政権が樹立された。これが応神朝であり、河内王朝である。日下国は、月氏バラモンである日之下族(別名龢族=和族)が弁韓の大加羅から渡来して建てた国であり、九州の中部から東部を版図とした。そこには中心的な村邑として左日下(佐賀)、中日下(那珂)、右日下(遠賀)があった。左日下のある武雄に宮処を置いた景行天皇の時にほぼその版図の拡張が為された。伊都国も征服して北九州をほぼ統一したのは景行の子息である日之下建の時代である。

東征により大倭国を征服して大和国が成立した。倭族から和族の国となったのである。日之下族がいわゆる天孫族である。

4)ヤマトに居た出雲族は、一部は反抗を続けて東国に逃げて諏訪を(亡命政権の)拠点とした。建御名方族である。逃げたのは主に伊勢と紀伊の部族だった。

5) 天孫族に帰属した出雲族は、主に物部氏となった。

6)その他の出雲族は、一時山城国などに移されたが、山陰に「出雲」国が創設され大国主を祭祀する杵築大社(出雲大社)が創建されると、それに伴い畿内の多くの出雲族諸民は、出雲国やその周辺(伯耆や長門など)に移住させられた。この過程で、山城国出雲郷は、大和から移住してきた鴨族の住地となり賀茂郷となった。

---------というような内容であった。

しかし、従来の私説では、肝心の「出雲」なる地名や氏族名が一体如何なる所以でそういう名になったのかという考察が欠けていた。

以下では、この事を考究する。

出雲の地名は何処に残るのか?

出雲の地名の由来を考える前に、今のところ出雲と呼ばれるのはどういう所かを、整理してみる。

  A(令制分国の)国名である出雲(現島根県)

  Bヤマトの出雲(現奈良県桜井市)-----三輪山東方地域

  C山城国賀茂郷の旧名=出雲郷(現京都市)

  D山城〜丹波など山陰の出雲に至る道筋に点々として   ある出雲神社の周域

  E各地の大国主を祭祀する神社の周域の通称や渾名

一般に出雲というと、このAが連想される。

Bは従来、出雲国造が奈良の都に上京して来た時の宿館の所在地との説があった。

しかし、桜井の出雲は宿館とその周辺というには些か広過ぎる地域名である。

出雲の国造が特殊な地位だとしても、他の特殊な地位の地方の国造家が滞留する所とその周囲を、その氏族名で呼んで地名とする他例はない。

宗像君の在京の宿館があったとしてもそこを大和の宗像などとは言わない。

例外的には、弓月の君が封じられたという地域にある山に弓月ガ岳の名がある位である。(もっとも葛城氏や平群氏・巨瀬氏・紀氏など日之下建直系氏族と安倍臣の遷住した地域にはその氏族名が郷名となっている。それに準じるのは、春日氏の居地である春日野とか、多氏の大野とか、阿部氏の阿倍野であるが、これらは全て氏族居住地に付けられた地名である。これら以外の一般的な地名と居住氏族名の一致は、先に当該の地名が成立していて、そこに居住するようになった氏族がそこの地名をもって氏族の名にしたものである。氏族名があってそれによって地名が付くというのは古代に於いては少ないように思われる。中世には多い。武士の名などはほとんどそうだ。)

さりながら、地元桜井では、この出雲は、出雲氏の宿館ではなく、垂仁朝の相撲の起源伝承の当事者である野見宿禰の在所だとしている。野見宿禰は、当麻蹴速との相撲の相手として出雲から召喚された力自慢だという。しかし書紀に、垂仁の宮処のあった三輪西麓の地に即日呼び出されたというので、これまた複数の解釈が出されて来た。一つは、即日召喚というのは、二人に勝負させようという事になったのでその日の内に召喚の使者が出雲の国に送られたというもの。二つ目は、野見宿禰の居たのは後世に出雲と呼ばれた山陰の地ではなく、桜井の出雲だという説。この解釈では、出雲とはここ桜井こそ地名の発祥地だという事になる。だから即日御前に出頭できたというもの。別説では、一つ目の説通り、即日山陰の出雲に使者が立てられたが、呼ばれた野見宿禰が、ここ三輪山東麓に一時滞在したので、そこ辺りを出雲と呼ぶようになったというのだが。

--------------------------------------------

七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤、恆語衆中曰『於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者而不期死生、頓得爭力焉。』」天皇聞之、詔群卿曰「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」一臣進言「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。故、奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以、其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。

--------------------------------------------

実際に相撲の行われた伝承地は、三輪山の西方なので、宿館には遠過ぎるので、野見宿禰の滞在は相撲に勝ってからの事で、宿館ではなく勝利の褒美としての給地だったというものである。(もっとも褒美に給されたのは、蹴り倒された当麻蹴速の領地の当麻だったという話である。当麻は出雲とは三輪山の反対側になるのだが。???いや待てよ!という事は当麻も出雲に含まれていたのだろうか?

---------実は、ヤマトと三輪山周麓全体=つまり奈良盆地が出雲だったのではないか?)

また書紀の出来た時には、出雲の国が成立していたので、垂仁紀の表記も“出雲國”となっている。

とは言え、そも野見宿禰の存在は伝説でしかなく、後世建立された五輪塔がかつて桜井の出雲にあった以外に、墓石墓誌などの実在の客観的な証拠は無いのである。(だがこの時代は漢字到来前なので無論墓誌など残りようがないのだが。)

相手の当麻蹴速を祀る“相撲神社”が巻向あたりにあるようなので、何か相撲の起源となる事件が、三輪山近辺であったのであろうか。

しかしながら、そも出雲が国号として成立するのは令制前後であり、垂仁朝に既にあったとするなら、それは桜井の出雲の方の地名であろう。だからこそ桜井では、野見宿禰は山陰から来たのではなく、ここヤマトの出雲を在所にしていた人物としているのである。

一伝説では、野見宿禰は東出雲意宇郡の能見の出身とされ、ヤマトから一時帰国する途中に播磨の龍野で亡くなったとも言われ、龍野にもその伝説を示す石碑が建てられているそうだ。意宇郡は、その後出雲の国が建てられる時に西出雲の神門郡等と併せられて一国となり、その全体の国造には意宇郡を治めていた氏族が出雲氏の名を与えられて任じられた。

野見宿禰は、埴輪の考案者であるともいうので土師氏の先祖だとされたが、恐らく土師氏が自族の出自を高く見せようとして、そういう伝説を考案したのでは無いだろうか。

更に一方で、桜井の出雲はいわゆる国号地名の一つに過ぎない、という異説もあるようだ。国号地名は、同じ桜井に吉備・豊前の地名があり、また安倍には長門、桜井の近在の三宅町では但馬・三河、天理市には丹波・備前・上総が橿原市に飛騨・大隅、高取町に土佐・薩摩などがあり、奈良県下全体では大字・中字で55ほどの国号村名が数えられている。これを畿内の周囲まで拡大して見ると、国号村名は、京都府で10カ所、大阪府でも6カ所などがあるという。(古書にあるだけの名もあり、必ずしも現存しない。)

これらが、全て同じ由来を持つとは断言できないが、奈良県の地名は発生が古いこと、数が多いことから特別の意味合いがあると言われる。また国号地名は東国や畿内の別の国(山城とか河内とか摂津など)の名が無い;西日本の国名が多い事などが共通点である。加えて旧磯城郡・山辺郡・十市郡(これら多くは奈良盆地の南部に位置する)に多いことを特徴とする。

こういう事と、694年~710年の藤原京(奈良盆地の南部に当たる)造営の貢進国の国名と重なるものが多い事から、造営の資材の貢進のみならず建設要員の人的貢進も含めて、貢進奉仕各国の資材集積所とか飯場のような宿地が置かれ、これを契機にそれら各地が国号村名で呼ばれるようになったというのが通説である。

そして古文書に載りまた今もなお数多く残る旧国名地名の分布は大和平野の中央部と南部・藤原京跡周辺に集中しており、他は中ツ道・下ツ道・太子道・巨勢街道といった飛鳥〜奈良時代の交通の要路に点在していることがそれを裏付けている、と解されているようだ。

従って桜井の出雲も藤原京造営時の貢進国で、その人員や資材の集積地だったとの可能性を全くは否定はできない。

しかし垂仁朝には未だ出雲の国名が成立していないと思われる以上、野見宿禰伝説で登場する出雲は、山陰の出雲の地であるとは言い難いのである。

後世出雲の国号が成立した時に、意宇郡にある能見との語呂合わせで野見宿禰の出身地伝承に結びついたのでは無いか?また野見宿禰を祭祀する土師氏が、古墳造営や埴輪製作などの葬送に関わる事から、根の国とされた出雲に結び付けられて、出雲大社の創設に連動して(物部の一族が出雲周辺に移住させられた如く)伯耆などに土師氏も移住させられたという経緯があったのかも知れないと考える。

土師氏は出雲族ではあろうが俗説の如く出雲周辺に起源する氏族ではなく、河内や摂津などに根拠地を持っていた氏族では無いか。だから土師氏の直系たる菅原氏の道真が太宰府左遷に際して立ち寄ったのも河内の旧領だったのだ。そも畿内を本貫としてこそ古墳の造営にも関与できたのでは無いか?

私も、このBヤマトの出雲こそが、元来の出雲だと考えている。

私説では、B→C→Aという流れで、出雲の大神が山陰へと配流されたと考えて来た。

Dはその途中の滞在地(御旅所の如きもの)であろう。

Eの一部にもそういう所があったかも知れない。

しかしEの大部分は中世以降に出雲大社信仰の隆盛で(修験者などにより)勧請されたものであろう。

そこで、元来の出雲はAではなくBだとすると、その地名の由来はどう考えられるのであろうか?

ヰヅモ(出雲)の原名は何か?

出雲と聞くと、古事記にある「八雲立つ 出雲八重垣」というフレーズを想起する。そして、勇壮な雲立ち亘る所だと連想する。

しかし、出雲とは雅称であり、“雲立つ、雲出づる所”の意味ではあるまい。

考えられる地名の由来を列挙してみよう。

①五十猛に因むのか? 五十集(ヅメ)、五十ツ所。五十物などか。

 五十族の複数の氏族が集まったという意味合いだろう。

②倭(ヰ)端(ツマ)か?もしくは、倭東(ヰアヅマ)か?

三輪王朝が大倭連合国の南東端に当たるという認識から。

③三輪山=御諸山に関わる?

三輪山が太陽信仰に関わる事から、東(吾妻)=東(アガリ)+端(ツマ)。つまり桜井の出雲が、日昇の方向に当たるという説である。

東は吾妻のほか東間、上妻などの表記が考えられて来た。このアヅマがヰヅモに転訛したというもの。(三輪山信仰に関わるとしても、東→ ヰズモの転訛だとする考えには、一寸飛躍があり過ぎる、と私は思うのだが。)

④出邪馬=宇陀路〜長谷が邪馬地の出口=即ち山門だからという説。

邪馬は熊野山(ユヤマ)の事。コモリク(隠国)のヤマであり、熊野はコモノの転訛と考える説である。

⑤出づる+モ(方)か? 勿論、陽の出る方角(面=オモ、表)だとするもの。

  ※実は東にもイヅルの訓がある。

       →反対に、入るモ(西リ面=西表)である。

出雲族は黄牛族末裔だが、月氏でもあるので太陽信仰を持つ。黄牛族の新羅に迎日湾があるが如くにである。

こういう風に、出雲の地名の語源を考究してみると、いずれにせよ、先述のAに当たる令制国名の出雲(今の島根県)には、①〜⑤に該当するものが無い事に気づくであろう。だから、出雲の地名は、別の(元来の)出雲から転用されたものではあるまいか、と推理されるのである。

そして、令制出雲国は、後世に出雲国造となった氏族の元来治めていた(東出雲の)意宇地域が、江津間(宍道江の端=末江=松江)になる事から、出雲の(神の)配流先に、語呂合わせ的に選ばれたのだと考えるのである。

但しその西出雲(杵築)〜長門の地域が、出雲族の渡来の端緒の地域でもあったのだろう。杵築とは恐らく木築であり、五十猛が木の神とされる事に関わるのだろう。

天孫族考で述べたように、五十猛は木の国(紀伊)に行き、行く前の元の地を根の国という。

また宍道ノ江は、猪(宍)が泳いで渡ったという故事に因むという伝説があるが、私は、実は神道だったのでは無いかとも考えている。神門の湖から宍道湖〜中の海は根島によって外洋から隔てられた平穏な内水路であり、脆弱な舟しか無い古代にはまさしく神路であった。だから、杵築大社の築かれぬ前からその江の西の入り口は神門であり、神道の江を抜けて中の海への出口が末江(江端=江津間)なのだ。

先に見た野見宿禰の伝説と垂仁皇子の本牟智和気命が出雲大神の力で唖が治ったという伝説を併せて、垂仁朝には、あたかも既に出雲という国が、丹波の先の山陰の海の側に存在している事を強調している。これはそういう日本書紀のプロパガンダでは無いか?とさえ思えてくる。つまりヤマトに一系の天皇が存続していて、垂仁の後は景行でありそれが応神朝に繋がっている事を信じ込ませようとしているのだ!というのは穿ち過ぎだろうか。つまり応神朝以降の天皇家も三輪王朝を簒奪して成立しのでは無いとしたいのであろう。だから三輪王朝があった所が(ヤマトの)出雲でなく、あくまでも大国主の居た根の国が出雲なのだと。

つらつら思うに、古事記の「「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」の倭(やまと)とは実は出雲のことでは無いか?無論この出雲は倭(やまと)にある出雲なのだが。歌の作者は倭建命とする。日之下建に背乗りしたのである。

ヤマトの出雲に居た出雲族は、その主な氏族が物部となって、東征して来た天孫族に従属した。

出雲族の本来は月氏黄牛族であり、辰韓にいた時から、(馬韓にある)月支国に居る月氏王に臣下の礼を取っていた。辰韓中で、最も独立旺盛だった部族の斯羅が新羅となって周辺に覇権を唱えた時、これに反意を持って東海の列島へ亡命して来たのが出雲族なので、潜在的王権は月氏天孫族にある事を伝承していたのかも知れないと考えている。その同一民族観が、神武東征譚に投影されていて、神武と饒速日族とが、同じ天津神の派遣した部族同士だと認識し合う伝説になったのだろう。

また応神朝に於いて、弁辰加羅=任那の奪還戦役に出撃した葛城襲津彦傘下に、辰韓伊西国の亡命者=北九州の伊都国の旧民が参軍して新羅と戦ったという故事もこの推理を裏付ける。

物部とは大物主に因む名ではないか?

出雲が元来は三輪山の東方にあった出雲を指すのだとすると、三輪山信仰の祭神は大物主であり、大物主に従属した部曲なので物部の名になったのか?とも思える。

大物部と言わないのは、和族の多(大)氏に紛らわしいからかと推理される。

だから、神名では、大物主が先に成立した神格であり、大名持(大己貴)や大国主はその発展形?ではないだろうか?恐らく大国主の名は、物部を除く出雲族が、山陰に移住させられ、(そこでも物部の名を与えられたのだが)大物主も杵築大社へと配流されてから、国譲り神話の創造と共に大国主の名が与えられたものではないだろうか?

そして葦原醜男神や大山積・八千矛神・現国魂神などという別名なるものは、各地の産土神の主神=大国魂神とかが全て大国主に“名寄せ”されて行ったのである。つまり大国主の国譲りは、即ち各地の主神全ての国譲りでもある。

三輪の神も換骨奪胎されて大国主と変名されたのだ。

そこには、梅原猛氏が考察されたように、新たなる出雲に大物主を封じ込めて、大国主という;国譲りの神の名に相応しい神格にされたのだ。

なお物部氏が、ヤマトで斎く石上神宮は、実は“五十ノ神”を祭祀する神社だろう。

そう考えると出雲族とは、五十物族(五十集族;五十猛もイソモかも?)であろうという事になるので、地名の由来には上記①が相応しいような気がしてくるのである。

   

 

   

This blog post is actually just a Google Doc! Create your own blog with Google Docs, in less than a minute.