補遺42(続)「出雲の補筆〜大物主及び三輪山 」

天孫族考補遺42(続)「出雲についての補筆」

  〜〜大物主及び三輪山とは?〜〜

前回補遺42の最後に、以下の様に記述した。

《三輪の神は換骨奪胎されて大国主と変名されたのだ。

そこには、梅原猛氏が考察されたように、新たなる出雲に大物主を封じ込めて、大国主という;国譲りの神の名に相応しい神格にされたのだ。

なお物部氏が、ヤマトで斎く石上神宮は、実は“五十ノ神”を祭祀する神社だろう。そう考えると出雲族とは、五十物族(五十集族;五十猛もイソモかも?)であろうという事になるので、地名の由来には上記①が相応しい気がしてくるのである。》

※五十猛をイツモウと読めば、これも出雲の語源かとも思えてくる。

また《物部とは、大物主に奉仕する部民の意味合いではないか》とも述べた。

以上の様に考究して来たのだが、肝心の大物主の名称についての考察を欠いていた。

そも大物主とは、一般に“大者である神格”という事なので、三輪王朝の神々の主神には相応しい。

◯大物主を解題してみよう

この名称の肝は、無論“物”という字にある。

そも物という漢字は、牛偏に勿の旁で構成されている。

この勿は、日本語での(言い換えれば訓読みでは)ナカレなので、無い様になるとの意味だが、この意味が生じるのは、勿は刎ねるという字がある様に、“刃”物を表す字素である。そこで、物の字の旁の勿は単にブツという読みを表示する声符というだけでなく、会意形声文字なのだという説がある。

これには2通りの解釈説があり、まずその①は、勿の造りは勹(包み構え)+ノノとなっているが、実際にはノは一つで、この字素はスキ(棃)の事を言うのだとする。

つまり勹+ノは、スキの様な大型の農耕に用いる刃物だと言うのである。

この事から、「物とは大きな棃を牽く様な頑丈な牛」というのが原意だする。

日本の漢字表には無いが、中国での漢字簡体のㄉは、刎ねると同じ。ㄉと勿と刃は同根とされる。刎ねて無くなるから勿れなのだという。

ㄉも、棃の旁も共にスキ。鎌の様な大きな刃物。

これが“勹+ノ”。

棃は西アジアで考案され、中国には中央アジア経由で春秋戦国時代に伝来した。

本邦には奈良時代か平安初期までに遣唐使でもたらされた。

もう一つの②説は、勿は鉾に付けた旗印であるとし、物は牛族の旗、即ち翻って、牛族そのものを指す言葉だとするもの。

一見、この②説は、牽強付会に見えるが、こちらの方が正しいとする学者も多い。

普及版「字通」では以下の様に解説されている。

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普及版 字通 「物(漢字)」の読み・字形・画数・意味

物 8画

[字音] ブツ

[字訓] もの・しるし

[字形] 形声

[説文解字]

声符は勿(ぶつ)。

〔説文〕「物なり。牛を大物と爲す。天地の數は牽牛より起る。故に牛に從ひ、勿聲」とする。牽牛の星座を首として天地が左動するというような考えかたは、戦国期以後のものである。

勿を〔説文〕ㄉ下に三游(吹き流し)の象とし、物を勿声とするが、卜辞に牛と物とを対文として用いる例があり、物とは雑色の牛、その従うところは勿ではなくㄉ(り)(耒(すき)、犂(すき))である。物はもと物色の意に用い〔周礼、春官、人〕「其の物を辨ず」、〔春官、保章氏〕「五雲の物を以てす」は、みな色を以て区別することをいう。それで標識の意となり、〔左伝、定十年〕「叔孫氏の甲に物あり」、〔周礼、春官、司常〕「雜帛(ざつぱく)を物と爲す」、〔儀礼、郷射礼記〕「旌(はた)には各其の物を以てす」のようにいう。

物を氏族標識として用いることになって、それはやがて氏族霊を象徴するものとなった。〔周礼、秋官、司隷〕「其の物を辨ず」の〔注〕に、「物とは衣、兵の屬なり」とあり、それらに氏族霊を示す雑帛がつけられた。さらに拡大して万物の意となる。〔詩、大雅、烝民〕「物あれば則(のり)あり」とは、存在のうちに、存在を秩序づける原理があるとの意である。また特に霊的なもの、すなわち鬼をもいう。わが国の「もの」にも、無限定な一般の意と、「物の化」という霊的な、識られざるものの意とが含まれている。

[訓義]

1. 雑色の牛、いろいろのもの。

2. もののしるし、氏族のしるし、はた。

3. もの、すべてのもの、存在するもの。

4. 形のあるもの、財貨、物質、禽獣。

5. 鬼、鬼神。

[古辞書の訓]〔名義抄〕物 モノ・コトゴトク・シルシ・カタチ・タグヒ

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これらを斟酌すれば、何れにせよ「大物主とは、(直訳的には)“大きい牛の主”」の意味になるが、これは取りも直さず牛主天王=即ち記紀神話では須佐能男という事になる。

従って、三輪大神=大物主とは牛主天王=須佐能男であり、まさしく黄牛族である出雲族の尊崇する神々の主神なのである。

但し、如上の様に、三輪山に坐す神を“大物主”と書き表すというのは、この表記法は漢字渡来後の表現であり、“牛+勿”が黄牛族を示唆するという解釈もまた、漢字の存在が前提のものである。

それでは、漢字の渡来以前、大物主の元の神名は何だったのか?

これは、単に「三輪山に依り坐す大神」つまり“三輪大神”であったのだろうか。

大物主の様な漢字表記の神名は漢字渡来後に神統譜が整理されてからのものである筈だ。

漢字渡来後に、物(ブツ、モツ)が訓でモノと読むことになった。モノの訓を持つ漢字には別に「者」があるが、こちらの方は人に関する抽象名詞である。

一方「物」の方のモノは、英語で云うthing つまり物品に当たる。

しかしながら、漢字渡来以前にも、オホモノヌシの名が成立しないという事はない。大(オホ=great)+物(モノ=thing)+主(ヌシ=main)なのだから、大物主という語の構成要素は分解しても、それぞれ各個の概念を表している。だから識字以前にもオホモノヌシの神名が存在したとも考えられなくは無い。

だから、漢字が普及して大物主と表記されるに当たって、出雲族(黄牛族)を暗示する“物”という表記が使われたという事になろうか?

◯謎は「三輪山」と云う名の由来

三輪大神などと言ってしまったが、これが“三輪山に依り坐す大神”の意味だとすれば、それは三輪山という山名が先ずあった事が前提となる。

三輪山の命名の由来は、一応古事記に載っている。

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崇神天皇記には、「三輪」という地名の由来を語る話がある。

 活玉依毘売(イクタマヨリビメ)という大変美しい女のもとに、夜中、とても立派な男が訪れるようになった。互いに好きになって結婚すると、まもなくイクタマヨリビメは、妊娠をした。両親が相手の男のことを聞くと「名前も知らない立派な男性が夜訪れたのです」と答えるので、その両親は娘に「赤土を床の前に散らし、麻の糸を針に通して、男の着物の裾に刺しなさい」と教えた。

夜になって男が訪れたとき、娘はその通りにした。朝になって麻の糸をたどってみると、その糸は、戸の鍵穴から外に出て、山の社で途切れていた。そこで立派な男は神であるとわかった。糸巻きには、麻糸が三輪残っていたので、その山を三輪山と呼ぶことになった。

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しかしこの活玉依毘売とは、実は活玉(三輪大神の生霊)が憑依した姫子だという意味でしかなく、名前としては後付けだと考えられる。

この事からして、三つの糸輪=三輪という話は、後世の創作としか思えない。

しかも、この話がよく出来ていると思ったのは、糸輪は巻き物なので、三輪は三巻であり、三輪王朝の拠点である御巻(三輪山西麓の地)を含意するからだ。恐らく、三輪山を取り巻く土地という意味で巻なのだろう。

とは言え、この三輪山の三輪とは、どういう由来での命名なのか? 実はこの疑問に決定的に応えてくれる資料は乏しいのである。

(古事記の由来譚があった為に、あたかもそれが真説と誰しもが思い込んでいて、実は何なのかを追究した人が少ない。)

三輪山とは、古来から三輪山だと言わんばかりである。

この山名の追究にヒントを与えるとして、古来言われて来たのは、三輪山は別名が御諸山なので、御諸→三諸→三輪となったという説である。

※だが三諸は三輪となると云うのは、余りにも飛躍があると私には思える。

ではこの御諸というのは何の意味なのか?

これの参考になるのは、信州にある小諸である。

この小諸のある地域は信濃国佐久郡であるが、この地にはかつて諸の里があった。

これは古代の大室郷と小室郷とが一緒になった名である。この内の小室の名を取り近世に小諸としたという。

つまり諸とは室の事だとされる。室(ムロ)とは何か?

諸説あるが、有力な2説は、ムロは杜の事でであり小高い山もしくはそういう高地にある集落=村の事であるというのが第一。村は三韓古語の牟礼であり、群であるとされる。

※小諸には牛原とか耳取などの地名があり、牛の放牧に関わるという別説もある。

日本書紀にある髪長媛伝説では、この女性は日向国諸県君牛諸井の女(ムスメ)という事になっている。(もっとも古事記ではこれを泉媛としている。牛諸井が泉に因む名前なので、その嬢子だから泉媛なのか?)

諸県は牛に関わる土地らしい。さりながら、以前私も指摘した様に、応神朝には、未だ日向国では牛の成育は行われていなかったので、諸県は宗像を偽った名ではないかと考えられる。(諸県君ではなく宗像君だという事)

日向の方の諸県は、その郡名が明白に確認されるのは「続日本紀」だとされる。

「和名類聚抄」では諸県の古称は“牟良加多”だとされているとの事なので、和人の日向発祥を喧伝する目的があった記紀の編纂時に、牟良加多(村方)→諸県にされたのであろう。

もう一つの説は、ムロは単に山そのものを云う言葉だとするもの。大室山という名の山が、丹沢や伊豆・富士山麓など複数確認される。

この大室=大諸=御諸が御諸山の語源だとするもの。

紀州には牟婁郡の名があり、これは熊野の古名が邪馬(山)であることと符節が合うという。つまり牟婁→諸だとするもの。

一方、現地では、後世三輪大神が造酒の神とされた事で、御諸とは実醪(ミムロ)で酒の素だという言説がある。

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三輪山は古来から「三諸山(みむろやま)」と呼ばれ、「うま酒みむろの山」と称されるは「みむろ(実醪)」すなわち「酒のもと」の意味で、 酒の神様としての信仰からの呼び名でりあります。

そのため毎年11月14日は大神神社に全国中から蔵元・杜氏が集まり「醸造祈願祭」が行われます。

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勿論、実醪→御諸というのは、故事付けである。

さりながら、造酒は秦氏が関わる業なので、出雲族同様に辰韓から渡来した白馬族があったのだろう。

とは言え、この実醪→御諸などという話は、酒造と並ぶこの地域の特産“三輪素麺”に因んで「その年の初物の素麺を三束(三輪)、大神神社の神前に供えるので、その対象の神を三輪明神と呼ぶ」などという類の故事付けなのだ。

と、これまでで究明できた?事は、どうやら御諸山が古名で、それが三輪山になったらしい、と考えている人が多い様だという点である。

だが、もし“牟婁→諸”説にせよ、“牟礼→室→村”説にせよ、古代辰韓系の言辞なので、それらに由来するとすれば、少なくとも出雲族渡来後の名称だろうと推理されるのである。そうなると、出雲族がヤマトに入る前には、縄文族〜弥生時代の山名が何かあった筈なのだが、これを示唆するものを指摘した人は、今のところ全くない。(居るかもしれないが、寡聞にして知らない。)

また、御諸→三諸→三輪となったといっても、何故、三諸が三輪と言い換えられたのかを知る由も無いのである。

だから私は、逆に三輪の名が先にあって、御諸は後では無いかと考える。

三輪山が、カルデラ火山ででもあって、中央火口丘→周縁高地部→外輪山などという三重構造にでもなっていたのなら直ちに三輪とも言えなくは無いのだが。

三輪山を神体山とする大神(オオミワ)神社には周知の如く社殿が無い。拝殿から拝むのは山体なのである。

また三輪山の山頂には複数の磐座がある事が知られている。山内山麓も含め極めて多数の磐座があるといい、古代から中世にかけて増えて行ったのだという。

そこで、この磐座のある山というので、御磐山が三輪山に転訛したのだという説があるようだ。ミイワ→ミワだというのである。

しかし敬称としての御をミと読ませるのは、いつ頃からのものなのか?

ミは元来“神”(カミ)の事なので、御磐でなく神磐(ミイワ)なら古形を留めていると言えなくも無い。

もしこれを三磐だとするなら、三輪山磐座群の内、枢要な磐座が三つあったのではないかという推論になるだろう。

この場合、山頂の奥津(オキツ)磐座(これが大物主の依代だという)のほかに、太陽神を迎えるという高ノ宮の磐座。この二つが隣接してあり、共に極めて重要視されて来た。

上図は、「月の光」というブログを書かれている方がスケッチしたものである。

http://www.tukinohikari.jp/jinja-nara/topics-sa-miwa-okitsuiwakura/index.html

三輪山頂の奥津磐座

しかしこれらに匹敵するもう一つの磐座が、山頂近くには今は見つからない。(かつてあったのが、今は無くなったのか?初めから無いのか?)

もしあるべきは兵主神社の磐座(もしくは妙見の磐座)である。それが最適な組み合わせになるのだが、兵主神社は目下は穴師の大兵主神社しか見当たらない。穴師は三輪山麓とはいえ、穴師山との間である。(実は、三輪山と穴師山及び巻向山とで三輪三山とする説もある。)ここで何故兵主神社があれば理想的かといえば、黄牛族はクシャトリヤ(戦士階級)なので、兵主神社の神名が似つかわしいからだ。もっとも八千矛神(大国主)を兵主大神とするほか、実は御食津神だとする説もある。(兵糧の意味にでもなるのか?)

また妙見の磐座なら、妙見=北辰信仰も黄牛族のものであるからだ。

※見方を変えれば、大物主の属性の一つであったと思われる武神の神格が、応神東征後に兵主神社に分祠されたのかも知れない。

これらの代わりに、少彦名の磐座というものはあるようだが、他の二者に比して少し弱い気がする。

だから、三磐→御磐という説は成立しにくい。

だが、神蔵=神磐座→神磐→御磐→三輪という転訛なら何とか成立する様に思える。

今のところ、これら以外に三輪の地名由来の説明には遭遇しない。

そうすると、また、むしろ御諸→三諸→三輪の方がありそうな気もしてくる。

その場合、これらの山名は、いずれも出雲族の御巻入りの後のものかと考えられるので、弥生時代には、先住民の間での原名が何かあったのかも知れない。名も無き山ではなかった筈だ。

多くの学者が云って来た事だが、三輪山の神とは、ヤマト盆地の人々にとっては、日昇の方角に当たる山なので、原初的には太陽神であったと考えられる。

神名で云うなら、“天照国魂神”の様なものであろうか。

それが出雲族がヤマトを征圧して(三輪)王朝が成立した時に、祖神である牛主天王が三輪山の神に背乗りをした。それが大物主なのだろう。

更に天孫族が東征して来た時に、三輪の神は倭国魂神となり、牛主天王(須佐能男)はヤマト=出雲からヤマ奥の熊野大神として分置された。かつ大物主は大国主と置換され、島根の斐伊郡に分祀されたのである。

◯三輪山の由来は御巻もしくは三巻か?

今纏向といっているのは三輪山の西裾に当たる“巻”地域の、川を挟んだ対岸に当たる。巻とは三輪山の取巻き裾野と解され、また巻向はその巻の地域の方を向いているので巻向なのだとされて来た。巻向は三輪山の西麓の地域である。

ところが、巻向山は、その巻向地域にあるのではなく、三輪山の北東側に位置する。この山名は、やはり“巻を向いている山”という事であろう。

そうなると、巻というのが三輪山そのものではないだろうか。

現在の纏向などは、かなり宅地があって、古代とは地形が変わってしまっただろう。上古には、ヤマト川水系の諸河川が幾筋にも分かれて三輪山を取り巻いている様に見えていただろう。この様を三巻と言ったのではないだろうか?

纏向遺跡鳥瞰図

そして、五十猛族がそのヤマト川水系の治水整備をして御巻になった事で、素戔嗚の八岐大蛇退治の伝説が生まれたのではないか。そういえば、水系の水源地の一つに龍王山の名があり、また三輪山には稲田媛の磐座もある。

八岐大蛇伝説の発祥地は、出雲国の斐伊郡ではなく、ここヤマトの出雲の事だったのだろう。それが大国主を出雲国の杵築に封じ込める時に、大蛇伝説の地もまた出雲国の事にされたのではないか。

三巻(もしくは御巻)は、巻いたものは輪である事から、三輪と変容し、三輪牟婁→三諸→御諸と転じたのではないだろうか。

人麻呂が詠んだ歌によって超有名な弓月嶽は、実は色々な山が候補とされたが、現在では大略、巻向山の事だろうとされている。

  あしひきの山川の瀬の響(なる)なへに

       弓月(ゆつき)が嶽(たけ)に雲立ち渡る

何故、雲立ち渡るのは弓月嶽なのか?と高校時代には疑問だった。

しかし、今は巻向山のあるのがヤマト桜井の出雲である事から納得できた。人麻呂のこの歌からも元々巻向〜三輪山山麓が“元出雲”だった事が分かる。

さて、ここで再度整理しておこう。

①黄牛族が三輪山の西麓に入り、王朝を建てた。

崇神天皇に比定されるミマキイリヒコ(御間城入彦五十瓊殖尊)の名はこれに因む。

②三輪山を取り巻く地域が出雲であり、更に広域名がヤマト(山門)であろう。

 山とは奥山である隠り国=隠野即ち熊野である。

③三輪王朝が(恐らく垂仁朝時代に)、西日本と、同族の五十迹手の建てた北九州の伊都国などと大連合したのが大倭(オホヰ)であり、その内三輪山麓の出雲にあったヤマト国がヤマト大倭=邪馬臺であろう。

④黄牛族は、恐らくは山陰の須佐湾辺りに渡来して、東西に伸張し、瀬戸内に出て、紀ノ川沿いに遡上してヤマト盆地に侵入したのではないか?

だから和歌山に伊太祁曽神社があり、木の神であるとして五十猛が祀られているのであろう。

⑤この和歌山に居たのは開化天皇に比定される大王で、若倭根子日子大毘毘命の諡号は、実は(根子や日子は、後世応神系統と一系に見せる為に造作付加されたものであろうから) 若倭大毘毘命だが、その名は修飾され変形されているが和歌山に関わる事を暗示したものではないだろうか?

若倭大(曷)叱智などであったか?※曷は大と同じ。

(和歌山は後世、和歌之浦に因んでの名とされたのだが、これは歌枕であるだけではなかろう。和歌山の名は羽柴秀吉の命名などとされてはいるが、もっと古いのでは。)

→まあ、この⑤項はいささかならず故事付けの感もあると自戒している。

もしそうであるなら古事記作者=太安万侶?の洒落っ気を誉めるのだが。

⑥三輪神社を祭祀していた出雲族の内、和族に従臣した部族は物部となり、いつのまにか非出雲族である饒速日の後裔を僭称する事になった。この時、三輪大神の属性の内、物部の祖神は五上神社に移された。そして、石上にあった出雲族の武庫は大和朝廷の兵器庫だとされた。またそれは兵主神社とも切り離されたのである。

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